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ヘンツェ 「午後の曳航」 二期会公演

会社のおっさんからVIO脱毛のVIOって何の略?と聞かれたので、「例の部分のカタチからそない言うんやで、ホレ、アレはVやし、ナニはIでソレはOで」という話を身振り手振り交えてしたら、「それ飲み屋で言うたら絶対に嗤われるやつや、ほれアンタ目が笑とるがな」と信じてくれませんでした。ウソやないのに(涙。






ようやく日本にいながらヘンツェのオペラを舞台で観る日が来た、とちょっとした感慨があります。私が観たのは奇しくも三島由紀夫の命日でした。


 2023年11月25日@日生劇場

 《二期会創立70周年記念公演/日生劇場開場60周年記念公演》

 ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ「午後の曳航」(2005年改訂ドイツ語版 日本初演)

  黒田房子: 林 正子

  登/3号: 山本耕平

  塚崎竜二: 与那城 敬

  1号: 友清 崇

  2号:久保法之

  4号: 菅原洋平

  5号: 北川辰彦

  航海士: 市川浩平

  管弦楽: 新日本フィルハーモニー交響楽団

  指揮:アレホ・ペレス

  演出:宮本亞門


「午後の曳航」と言えば、私の場合まずは1976年公開の映画。サラ・マイルズとクリス・クリストファーソン主演、原作の横浜をイギリスのデボンの美しい港町に置き換えたものでした。1976年、当時R指定の制度が始まった頃だと記憶するが、あまり一般に認知されていなかったのか、当時中学2年生の私は何の邪気もなく映画館に観に行ったような気がする(笑)。確かにエロかったけれど、それよりなにより、子供たちがいかにもマセた、頭だけは良さそうな連中で、ある意味原作に忠実な感じではありました。実はこの後、私、しばらく三島に嵌ってしまって、当時文庫本で出ていた作品は高校の初めごろまでにほぼ全て読んでしまったばかりでなく、午後の曳航のドナルド・キーンの英訳本まで読んだという黒歴史も(笑)。未だにprophylacticsなんて単語を記憶しているのもそのおかげです。


三島の膨大な作品の中で、これは、と思うのは「奔馬」(「豊饒の海」第二巻)と短編「憂国」あたりでしょうか。作品全体の中での位置付けという意味で最重要とは言えないが個人的に好き、というのであれば「午後の曳航」と「沈める滝」、短編なら「百万円煎餅」なんか良く出来た落語のオチみたいで好き。戯曲はなんといっても「サド侯爵夫人」。この駄文を書きながら今更ながら気が付いたのは、(女性しか出てこないサド侯爵夫人はともかく)、奔馬の勲、憂国の中尉、午後の曳航の竜二と沈める滝の昇、もしかしたら百万円煎餅の健造も、すべて実質的な文壇デビュー作である「仮面の告白」に登場する近江のバリエーションなのかも知れない、ということ。近江こそは三島の創作の原点、英雄とこの世の美とマスキュリニティと悲劇的なるものとの収斂点であろうと思います。存在自体が栄光であり、後の大義にも通じているのだろう。今は三島論を開陳する場ではないのでこれぐらいにしますが、要は、この午後の曳航を舞台作品に翻案するなら近江の末裔たる竜二の造形が全て、という感じがする。

そういった視点でこのオペラを見ると、竜二の造形にはあまり不満はありません。登の眼前に突如英雄として現れ、それが次第に卑俗な小市民として、あるいは物分かりの良い継父として堕落していくが、最後は少年たちの手によって(死によって)英雄として救済され栄光を取り戻す(栄光に向かって曳航される)、という大筋は外していない。問題は登であって、オペラというフォーマットに無理やり詰め込まれた結果、観念の怪物ではなくて、単にマザコンを拗らせたような少年像になっていると思います。これは1号以下の少年たちも同様。しかもリブレットを書いたハンス=ウルリッヒ・トライヒェルと演出宮本亞門のどちらに非があるか微妙なところだが、登の同性愛的傾向をことさら強調するやり方というのも少し違うような気がする。

以前このブログにも書いたが、昨年の宮本亞門のパルジファルの演出は本当に酷いものだったと思っています。一言で言えば厨二病みたいな演出。今回も演出に関してはあまり期待するところはなかったのだが、さすがに三島の原作をひねくり回すのは気が引けたのか、ややおとなしめ。主役3人の衣装はいずれも昭和30年代風だが、他の少年達はいまどきの不良少年みたいで違和感あり。房子と竜二のベッドシーンはなかなか攻めていて、黒のブラとショーツの房子とパンイチ竜二がくんずほぐれつ、あの腰使いじゃグリグリ当たってそうだ笑。とはいえ登の所作のあれこれの減点でやっぱり駄目か、といったところでした。

大道具は外航船の停泊する埠頭、隣り合わせの登と房子の寝室、居間、港に近い公園、少年たちのアジト、ラストの乾ドックのセットが回り舞台で次々と現れる。セットを回す黒子たちがダンサーとしても登場人物の心理をあれこれと表現するのだが、十何人もいるとさすがに見た目が煩くて私の趣味には合いません。背景に墨で横一直線に描かれた線が次第に海の情景になっていく映像は大変よかったと思う。

肝心の音楽ですが、どうも私はヘンツェの音楽は苦手。「エル・シマロン」のような情念がドロドロと溢れ出すような音楽は好きだが、器楽はどこか悪い意味でのアカデミズムのようなものを感じてしまいます。アルブレヒトの日本語版のCDを予習で聴いていたが、その段階ではみっちりかっちりヘンツェらしいなぁ、という以上の感想は持てませんでした。舞台の実演に接して、その感想は大きく変わることはなかったのですが、ピアノや多数の打楽器を含む大編成のオーケストラは意外に余白というか、書き込み過ぎない節度が劇場的センスを感じさせ、演劇と音楽のコラボとしては悪くない。SNSを眺めても、現代的な書法なのに殆ど抵抗感なく最後まで聴けたという感想が多かった。ヘンツェがオペラ作曲家としてヨーロッパでそれなりに重宝されてきた理由の一端を見た思いがします。

主役3人と1号(領袖の少年)、いずれも熱演だと思うが、基本的にアンサンブルオペラなので良くも悪くも誰かが突出している印象はありません。オケについてもヘンツェをヘンツェらしく手堅く聴かせてくれたと思いますが、もちろんそれがどれほど大変なことかは十分理解しているつもりです。多分この先、ヘンツェのオペラを舞台で観る機会はそうそう無いでしょうし、これだけ高品質な演奏で聴けたこともありがたい限りですが、こうして備忘を書いていても今一つ筆が踊らないのは、畢竟三島の世界観をオペラで表現するのは土台無理があった、ということなのでしょう。オペラってそんなもんだろう、という意見には与しません。同じ二期会でかつてライマンの「メデア」や「リア王」を観て聴いて、現代音楽の手法で魂が揺さぶられるようなオペラが書けるのだと腹の底から分かっているつもりでもある。しかし、三島の、言葉の力だけで構築された堅牢な大伽藍は、やはりオペラの世界とは馴染みが悪かったとしか言いようがありません。

(この項終り)


# by nekomatalistener | 2023-11-29 13:56 | 演奏会レビュー | Comments(0)

湯浅譲二 作曲家のポートレート  -アンテグラルから軌跡へ-

ミャクミャク様、だいぶ見慣れてきて見ようによってはかわいいやん、と思わなくもない。せんとくんは未だにアカン。





2023年8月25日@サントリーホール
 ヴァレーズ:『アンテグラル』小オーケストラと打楽器のための
 クセナキス:『ジョンシェ』大オーケストラのための
 (休憩)
 湯浅譲二:『哀歌(エレジイ)』オーケストラのための[編曲世界初演]
 湯浅譲二:『オーケストラの時の時』オーケストラのための
 湯浅譲二:『オーケストラの軌跡』[全曲世界初演 サントリー芸術財団委嘱作品]
 指揮:杉山洋一
 東京都交響楽団 

関西に住んでいても周りの2025大阪万博への関心はとても薄いように感じる。たまに話題に出ても、間に合うんかいな?失敗するんとちゃうか?今からでもやめられへんのかいな、といった話ばかり。比べるのもアレだけど、1970年の万博は(私は小学校2年生だったが)凄かった。なんというか、あの頃は大人も子供も皆が未来というものを信頼していたような気がする。
親にねだって何度も行ったその1970年の万博で、一際子供心に強烈な印象を残したのがせんい館。真っ赤な部屋の中に林立する四谷シモンの不気味な人形、それと館内で流されている(子供には恐怖でしかない)現代音楽。音楽はうっすらとしか覚えていないが、これが湯浅譲二が作曲したものだと知ったのはもちろん随分後年になってから。
私には湯浅譲二の音楽を体系だって語る資格はないけれども、万博の時から、と考えればもう50年以上のお付き合い(笑)。細々とではあるが、あれこれ聴いてきて思うのは、「ヴォイセス・カミング」と「ホワイトノイズのためのイコン」は日本の前衛芸術の金字塔として歴史に残るのだろうな、ということ。

そんな由無し事はともかく、演奏順に備忘を記しておきたい。
ヴァレーズの「アンテグラル」。1925年初演と聞いて改めて驚くほど古びていない。いま聴いてもなかなかの衝撃だと感じた。杉山洋一の指揮はしっかりと拍を刻んでいくタイプで、カオティックになりがちな作品が非常に明晰に聞こえる。
クセナキスの「ジョンシェ」。アルトゥーロ・タマヨ指揮ルクセンブルク・フィルの録音を聴いて以来大好きな曲の一つになった。これを聴くといつも昔見たサム・ペキンパーの映画「コンボイ」に出てくる大型トラックのド迫力の大群を思い出すのだけれど、杉山の指揮が裏目に出たのか、少しおとなしい感じがする。微妙なレベルの話ではあるが、パルスが少しずつずれていくところなど、カオスと明晰さの折り合いの付け方が作品の面白さを少し減殺するのだろうか。
「哀歌(エレジイ)」は長い作品ではないが心に残る。奥様の逝去が作曲のきっかけと知らずとも、哀感に満ちた響き。「オーケストラの時の時」はさすが日本の前衛をリードしてきた人の作品だと思う。ただ、先に上げたヴォイセス・カミングやイコンに比べると、私が同時代の種々のオーケストラ作品に疎いため、体系的にアレとくらべてどうだコレとくらべてどうだと言えない、よって感想を巧く言語化できないという感じがする。改めて自分の勉強不足を反省した次第。最後の「軌跡」。作曲者の御年を考えれば最後の大規模オケの作品になるかも、と思うと長い前衛の歩みに頭の下がる思いがする。途中、ベルクの抒情組曲を想起させるような、大股なアルペジオの昇り降りが大変印象的、だからといってネオロマンティシズムとはどこまでも無縁な厳しい音楽。
軌跡の後、湯浅譲二が舞台に呼び出され、万雷の拍手を受けておられた。関西ではこういった企画も少ないし、これだけの集客は見込めないだろうと少し寂しく思った。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2023-09-07 15:15 | 演奏会レビュー | Comments(0)

映画”TAR”を観る

TARのケイト・ブランシェットは凄い女優さんだと思うけど、メリル・ストリープ以来久々にキャリアブスという言葉が頭をよぎった・・・





トッド・フィールド監督、ケイト・ブランシェット主演の映画“TAR”を観た。圧巻の2時間40分。
前半は女性でありレズビアンでもある指揮者リディア・ターがベルリンフィルの首席指揮者に上り詰める成功譚、後半は自身のパワハラや悪意あるSNSによる転落の物語。音楽にまつわるトリビアに満ち満ちた膨大な台詞や昨今のキャンセルカルチャーへの批判的視点(劇中ではレヴァインやデュトワの名前が出てくる)、LGBTの当事者によるハラスメント等々、観る人がどこに力点を置くかによって印象も解釈も分かれる映画だと思うが、その最たるものはラストシーン。ネタバレになるから詳細は書かないが(ヒントはモンスターハンター・・・)、これを転落の果てと見るか再生ないし救済と見るかで大きく二分されると思う(私自身はどちらかと言えば転落の果てのショッキングな結末、と思いながらも、その直前の、若き日のバーンスタインのビデオをターが観る場面があったせいで微かな再生への希望をも感じた)。
説明過剰な今時の映画には珍しく、張り巡らされた伏線は必ずしも回収されないし、謎は謎のまま敢えて語り尽くされないが、それが快い。あとは観た人が考えること、と言わんばかりの余白が、映画ならではの芸術性だと思う。
素晴らしいシーンは山ほどあるが、冒頭近く、ターがバッハのプレリュードを弾きながら指揮を学ぶ学生マックスに語り掛ける長いワンカットのシーンは秀逸。それが後半、悪意のある切り取りでSNSにアップされるのは皮肉どころの話ではなく、現代のアクチュアルな悪夢である。全体に言えることだが、ワンカットの長い短いは実に意識的に、というか戦略的に配置されていると感じる。もっと言えば、成功への登頂に相当する前半は異様なほど長く、台詞も饒舌で丁寧に語られるのに、転落からラストシーンまでは畳みかけるように長い台詞も殆ど無くあっという間に過ぎ去る。音楽のトリビアに関して言えば、マックスとターの会話に出てくる、ジェリー・ゴールドスミスが映画「猿の惑星」の為に書いた音楽はエドガー・ヴァレーズのパクリというのが実に面白い(ホントかな?)。あるいはチェロのソリストに抜擢したオルガとターのレストランでの会話。オルガがターにジャクリーヌ・デュプレのエルガーを聴いてチェロを真面目にやろうと思った、という話をするとターは「バレンボイムがロンドンフィルを振ったやつね?」と聞くが、オルガはすげなく「知らない」と返事をする。指揮者と若手ソリストの会話あるある、かもしれないが、トリックスターとしてのオルガの立ち位置がちょっとした会話から鮮明に立ち昇る。オルガは無意識に、あるいは悪意なく、ターを音楽家としても性的な意味でも翻弄し、実際、オルガが現れてからターの転落が急速に加速していく。あと蛇足ながらエルガーのチェロコンチェルト、映画の中では断片しか出てこないが生れてはじめて素晴らしい曲だと思った(笑)。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2023-06-08 09:23 | その他 | Comments(2)

ケルビーニ 「メデア」公演

浮気したら嫁から手痛い目に会いましたとさ、って芝居に夫婦連れで来るヤツの気が知れん(笑)





ケルビーニのメデア、最近はメトの公演のライブビューイングで観た、という方も多いようだが、私らの世代は何と言ってもカラスの刷り込みが大きすぎて、楽しめるだろうかと不安だったのだが、実際に見ると度肝を抜かれました。

 5月27日 NISSAY OPERA@日生劇場
 ケルビーニ「メデア」
  メデア: 岡田昌子
  ジャゾーネ: 清水徹太郎
  グラウチェ: 小川栞奈
  ネリス: 中島郁子
  クレオンテ: 伊藤貴之
  第一の侍女: 相原里美
  第二の侍女: 金澤桃子
  衛兵隊長: 山田大智
  園田隆一郎指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
  合唱 C.ヴィレッジシンガーズ

今回の公演に備えて、カラスの録音(セラフィン/スカラ座1957年録音)を聴いていたのだが、実際の舞台を観るまで、正直なところこのオペラがこれほど優れたものであるとは考えていなかった。確かに古典オペラとしての格調の高さは感じるものの、カラスという不世出の歌手による附加価値のようなものを除去したらどれほどの価値が残るのか、という疑問も感じていた。華やかなフィオリトゥーラがある訳でもなく、ひたすら剛直とでもいいたくなるようなメデアのアリア、凄惨な悲劇であるのに必ずしも短調の音楽が続くわけでもない古典期ならではの書法も、どちらかと言えば享楽とは無縁な、知に訴えかける種類の音楽だという先入観もあった。少なくとも万人受けはしないだろうし、かつての私自身にしても、ベートーヴェン理解を深める為のいわば教養として、とりあえずケルビーニは避けて通れない、といった動機でこのオペラを聴いていた、というのも否定できない。もっと端的に言って、ケルビーニというのは所詮は歴史的な淘汰を免れ得なかった二流どころの作曲家という、よくある世評に(普段は日本の文人評論家諸氏によく見受けられる独墺至上主義をあれほど毛嫌いしているにも関わらず)私自身が捉われていたのかも知れない。
だが、実際の凄絶な舞台を観て深く心を動かされ、演劇と音楽との緊密な結びつきに驚き、音楽そのものの激しさ、力強さに感銘を受けると、これはオペラとしても類まれな傑作ではないかと思うようになった。しかも、SNSでの好評ぶりをみていると、決してマニアックというか、敷居の高い高踏的なものではなくて、もっと広く上演され普及しても少しもおかしくない作品であると思った。今回が日本初演というのは驚くべき事だが(カラスの名声が大きすぎて後世の歌手がやりにくい、という側面はあるだろうが)、おかげで指揮も歌手も実に時宜を得た取り合わせが実現できて良かった、とも言える。

メデアを歌った岡田昌子は凄まじい歌唱だったと思う。メデアの役柄は普通に考えればエキセントリック過ぎて観客が感情移入するにはハードルが高いと思うのだが、彼女が歌っている間、私はほとんど金縛りにあったようになっていた。憑依型といってよいだろう。凄い歌手である。劇中の拍手が一番大きかったのは侍女ネリスの中島郁子だったが、地味ながらも心に沁みる歌唱だったと思う。このオペラの中では唯一まともな人間、というある意味おいしい役ではある。今回の舞台は皆健闘していて、清楚なグラウチェ、尊大なクレオンテ、英雄なのにクズ男というジャゾーネ、いずれもそれらしく何の不満もない。序曲のあと最初に歌う第一の侍女を歌った相原里美は、チョイ役ながら美声に陶然とした。
園田隆一郎の指揮も素晴らしい。このブログで、ドニゼッティ(連帯の娘)やロッシーニ(チェネレントラ、泥棒かささぎ)という軽めのオペラの指揮について絶賛してきたが、こういった古典オペラへの適性も大したものだと思う。日本人としてはちょっと他に比較する人がいないのではないだろうか。今回の演奏でもナンバーによってはセラフィン盤より速いテンポで、颯爽と厳しく、しかもオペラとしての享楽に満ちた演奏だと思った。ちなみに今回の演奏はトラディショナル・カットを全て復活していたようで、ところどころカラスの録音にない箇所があった。
栗山民也の演出はごくオーソドックスなもので、あまり知られていないオペラの初演に相応しい。基本的に室内劇だが、第一幕の舞台後方が開けるとアルゴー船の船乗り達が歌う船着き場になったり、同じ大道具が照明一つでクレオンテの王宮にもメデアの住まいにもなる。経済的でしかもよく練られた舞台だと思う。舞台前方に小さな椅子がひとつポツンと置かれているのは「妻の座」の象徴だろうか。子殺しという側面ばかり強調されるが、糟糠の妻を捨てて若い女に走る男の話はいつの世にもあるのはご承知の通り。やりようによっては演出家の読み替え欲をそそる題材だろう。

最後に蛇足。先程ベートーヴェンの名前を少し出したけれど、メデアのフランス語版初演は1797年。ベートーヴェンはまだピアノソナタ4番を書いていた頃だが、メデアの序曲を聴いているとベートーヴェンに与えた影響の大きさに改めて気付く。今回公演のパンフレットにも、メデアのフランス語初演版のフルスコアをベートーヴェンが所蔵していたと書かれていた。日本では(欧米でも似たようなものかも知れないが)ベートーヴェンの音楽はハイドンの延長線上にぽっと生まれたみたいに思われがちだが、とんでもない誤解だろう。ケルビーニはもっと広く聴かれるべき音楽だろうと思う。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2023-05-31 14:04 | 演奏会レビュー | Comments(0)

マーラーの7番を聴く

ジャックダニエルとダックジャニエル、どっちやったっけー?ってことないですか?





基本的にコンサートゴーアーでない私は、あまりオケの演奏会というものに行かないのだが、大野和士の大阪公演、しかも演奏頻度の少ないマーラーの7番となれば話は別。随分楽しみにしていたのだが、実際に聴いて想像の遥か上を行くレベルの演奏に心底驚いた。


2023年4月16日 東京都交響楽団 大阪特別公演@フェスティバルホール
 マーラー 交響曲第7番ホ短調
 大野和士指揮 東京都交響楽団


マーラーの交響曲(大地の歌と未完の10番入れて11曲)の内、誰が何と言おうと私は7番が一番好き。ただ、この「好き」というのは幾分屈折した思いが含まれていて、有名な作品よりも埋もれた作品、世評で傑作とされているものよりも、完成度という点で多少の傷がある(しかし内実の伴った)作品への私の偏愛、という側面がある。出来の悪い子ほど可愛い、というのと近い。実際、私がマーラーを聴き始めた四十数年前、あまり記憶もアテにならないのだが、7番は失敗作、というぼんやりとした共通認識というのがあって、実際に当時LPで入手できるものと言えばバーンスタインとノイマンくらいのもの(ショルティはあったかも)、テンシュテットやアバド盤はもう少し経ってからリリースされたと思うが、まぁ暴論めくがマトモな指揮者は手を出さない、みたいな時代があったのは確かだと思う(繰り返しになるが時系列に関してはかなり記憶がイイカゲン。だが昔は「巨人」や「復活」と比べたら7番は本当に入手できるLPの種類が少なかったのは事実)。幸いなことに、私は(これも記憶が曖昧で申し訳ないが)諸井誠が『レコ芸』だか『音楽現代』だかで不合理極まりない記譜を譜例を引きながら説明されているのを読んで、そこに紛うことなき作品への愛を感じ取ったおかげで、いわゆる世評というものに惑わされることなく7番にアプローチできたと思っている。まぁそれにしても、フィナーレはいくら何でもドンガラドンガラやり過ぎだろう、とは感じていて、そういう意味では今回の演奏会のプログラムに「支離滅裂」と書かれているのと似たり寄ったりの認識。要するに「マーラーでは7番が一番好き」と公言するにはいつも一抹の後ろめたさ、恥ずかしさ、それと他人からヘンタイだのアタオカだの呼ばわりされるリスク(笑)を伴うものであった。

今回の演奏で何より凄いと思ったのは、あの「支離滅裂」と言われていたフィナーレが始まると同時に、あ、これは「マイスタージンガー」のパロディでありオマージュである、と直感的に感じられ、最後まで確固たるロジックに裏打ちされた楽曲と言う風に聞こえたこと。これは都響の優れた技術・統率力というのもあるが、やはり大野和士が「根っからのオペラの人」であることによるマジックと言わざるを得ない。それで思い出したが、私、2013年7月にこの人のブルックナーを聴いて、このブログに「やはりオペラの人の指揮」、「およそ求道的でないブルックナー」と感想を書いていた。ブルックナーでさえそう思うのだからマーラーなら尚更。他の楽章も恐るべき完成度だと思った。あれやこれや例示したいところをぐっと堪えて一ヶ所だけ、第1楽章の練習番号37あたりからの深い息遣いには胸を締め付けられ、少し涙腺が緩みそうになったほど。魂が震えるとはこういうことか、と感じた。
都響の並外れた技量については多くの人がSNSで発信しているから割愛。終盤のグロッケン(鐘)とカウベルのドンガラドンガラは視覚的にも面白く、やはり生を聴くことは大切と思った次第。コロナ明けで久々にブラヴォーの声を聞いたが、聴衆も概ね熱狂的な反応。ただ私の隣にいた爺さん、だいぶ持て余していたのか最初から終りまでパンフを開いたりもぞもぞとケツを動かしたり、まぁ無理もないか、とは思う。というより、やはりマーラーの7番で熱狂するのって少しオカシイのだろうか笑。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2023-04-19 12:00 | 演奏会レビュー | Comments(0)