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ライマン 「リア王」 二期会公演

ガングリオンって擬態語?(なんかぐりぐりしてるし)





アリベルト・ライマンの「リア王」、その舞台を観て圧倒的な感銘を受けました。昨年の同じくライマンの「メデア」公演について、「これから先、オペラを観てこれほどまでに感動することが幾度あろうか」と絶賛したのですが、今回の公演もその時に勝るとも劣らないものでした。

   2013年11月10日 日生劇場
    リア王: 小森輝彦
    ゴネリル: 小山由美
    リーガン: 腰越満美
    コーディリア: 臼木あい
    フランス王: 小田川哲也
    オールバニ公: 宮本益光
    コーンウォル公: 高橋淳
    ケント伯: 大間知 覚
    グロスター伯: 峰茂樹
    エドマンド: 小原啓楼
    エドガー: 藤木大地
    道化: 三枝宏次
    合唱: 二期会合唱団
    管弦楽: 読売日本交響楽団
    指揮: 下野竜也
    演出: 栗山民也

タイトルロールの小森輝彦が圧倒的。私は事前にフィッシャー=ディースカウを聴いたりしたせいもあって、その呪縛に捕らわれて楽しめないのでは、という心配があったのだが、結果は想像をはるかに超えるものでした。第1幕の嵐の場の、王としての矜持と威厳に満ちた歌唱もさることながら、第2幕の狂気の場、人間としての弱さ、情けなさが痛切な痛みを伴って歌われるのが圧巻。頭には王冠の代わりに野辺の草花を飾り、チックの発作で首を不自然に曲げて脈絡のないうわごとを歌う場面はちょっと怖いぐらいでした。コーディリアの遺体をひきずって歌う幕切れ、この芝居の最大の悲劇は、リアが最後の最後に正気に戻ってしまうことだと言うが、正にその悲劇を実感させる歌唱であり演技であったと思います。
エドマンドの小原啓楼は以前「沈黙」のロドリゴ役を聴いて感心した歌手だが、今回も渾身の力を込めた素晴らしい歌でした。オペラに限りませんが、悪役が輝いてこその舞台というものがあるものです。シェイクスピアでいえば、たとえばリチャード三世とか「オセロ」のイアーゴがそうだが、小原のエドマンドは正に舞台上で悪の喜びと不安に輝いていました。
エドガーを歌った藤木大地も素晴らしい。グロスターとの断崖の場は、オペラ全体の中でも特に優れたページだと思いますが、実際の舞台に接すると体が震えるほどの感動を覚えます。グロスター役の峰茂樹も優れています。ケント伯の大間知覚は、聴き手を熱くさせる歌唱。その他オールバニ公爵の宮本益光、コーンウォル公爵の高橋淳等、脇役に至るまで全く隙のない布陣。ほんの少ししか出てこない脇役だが、第1幕序盤のフランス王の小田川哲也を聴いただけで、もうこれは大変な舞台になるぞと思いました。
女声陣ではリーガン役の腰越満美が頭一つ抜けている感じがしましたが、ゴネリルの小山由美も大したものです。コーディリアの臼木あいもリリックな役柄に沿った過不足のない歌だとは思いますが、ないものねだりを承知で言うと、もっと上を狙えるような気がしました。ほんの少し、コロラトゥーラが空回りして歌と役柄との間に隙間があるように思われます。あと、忘れてならないのが語り役の道化。今回はダンサーの三枝宏次が好演していました。
下野竜也指揮の読売日本交響楽団についても文句のつけようがありません。舞台前に弦楽器と二台のハープ、舞台の両袖に膨大な管と打楽器。耳を聾せんばかりの咆哮から楽団員の息遣いがきこえそうな静寂まで、まったく息もつかせぬ名演ではなかったでしょうか。下野の指揮はいつもの通り、なにも変わったことはせず、小手先に走る要素は皆無だが、音楽が大きくうねって聴衆に襲い掛かり、また包み込む。前回の投稿で1978年録音のバイエルン盤と2008年フランクフルト盤のレポートを書いたが、どちらかといえばバイエルン盤のように前衛的なテクスチュアを強調しながらも、響きの美しさをないがしろにしない今回の演奏を聴いていると、時間の経過が音楽としての円熟をもたらしたかのように聞こえます。これも以前書いたことだが、松村禎三の「沈黙」において、初演まもなく録音された若杉弘指揮のCDに聴く昂揚感と、下野竜也が指揮した2012年新国立劇場公演の、いかにもエスタブリッシュメントといった感のある実演との差異と同様のものが感じられました。
栗山民也の演出は、オーケストラに半ば埋め尽くされた制約の多い舞台を逆手にとって、シンプルで力強く、観るものの想像力を激しく刺激するものでした。大道具といえば不安定に傾いだ角形の舞台と、天井から舞台に向かって鉛筆のように先端が突き刺さった細い柱のみ。登場人物は舞台の周囲から、あるいは時に後方の壁が開いたところから現れる。小道具の類も最小限に抑えられているが、 まったく不足感はありません。照明の効果も的確で、二つの場面が同時進行するところも判りやすく描かれています。
それにしてもこのような優れた舞台を観ると、現代音楽だから、という理由で食わず嫌いな人が数多くいるのだろうということがとても残念に思われます。このライマンという作曲家、人口に膾炙しているとはとてもじゃないが言えない。だが、昨年の「メデア」も含めて、本当に人間の声に対する全幅の信頼を感じさせる点、稀有な作曲家だと思います。

まだまだ書ききれません。以下は蛇足みたいなものだが・・・。
私がシェイクスピアの全戯曲37編を小田島雄志訳で読んだのは結婚前の20台後半のころでしたが、実はその時、「リア王」に関しては全くピンときませんでした。リア王にしてもグロスター伯にしても、なんと愚かな、と思っただけで、それ以上の感想はそのころには持ちえなかったのでした。今回の公演を機に久しぶりに「リア王」を読み返したのですが、その間に私も長いサラリーマン生活を送ってきて、面従腹背やら阿諛追従やらを目にし、ケント伯じゃないが上に直言したことが怒りを買ったり、僻み嫉みの類で身に覚えのない誹謗を受けたりしてきました。自分を正当化するつもりはありません。自分を曲げてまで人に阿るような芸当こそ不得手な人間ですが、自分自身気づかぬうちに、いや、それとなく気づいていながら人を貶め傷つけてきたことも多分山のようにあるはず。親子の問題だってそうだ。恥を晒すようだが、実母が若くで死んだ後、父との関係がぎくしゃくして、今では絶縁に近いまま今日に至ります。そうして馬齢を重ねて「リア王」を読むというのは実に辛い体験でした。幸い、未だ嵐の夜に寝床もなくさまようことはせずに暮らしてはいますが、リアとグロスターの悲劇というのは荒唐無稽なお話とか、愚かで特殊な人間のお話でもなんでもなく、実に身につまされるものであったのだと実感しています。そして原作のリアの台詞、

  人間、生まれてくるとき泣くのはな、この
  阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ。(小田島雄志訳)

この台詞がようやくこの年になって実感を伴うものになったのだと、少なからず驚きに似た感慨を持ちました。それにしても、シェイクスピアの原作は最後にエドガー、ケント伯とオールバニ公の短い対話が置かれていて、悲劇的結末の中にも一抹の希望が見えるのだが、オペラのほうはリアの嘆きのあと、弦のフラジョレットによる静かな後奏が続いて一かけらの救いもなく幕が降ります。この違いは非常に大きく、重苦しい塊を飲み込んだまま劇場を後にするはめになってしまいます。
ライマンのリア王が、一つの作品として非常に優れていると思うことの一つは、シェイクスピアの原作をオペラという制約ゆえに相当切り詰めてはいるけれども、この重層的なストーリーに基づくダイナミズムを些かも失うことなく見事に二時間半ほどにまとめあげた点だろうと思います。リブレットだけ読むと若干原作とくらべて舌足らずなところがないとは言えませんが、そういった箇所では音楽が雄弁にことばを補い、ことなる場面が舞台で同時進行したり、オペラならではの重唱という手段を取ったりしながら、芝居とはまた違った充実した時間を作り上げています。しかも単に限られた時間内で物語が効率的に進むというだけではなくて、エドマンドの独白や、エドガーとグロスターの断崖の場、リアとコーディリアの再会など、ここぞというところでオーケストラが濃密な書法はそのままに息を潜めるようにたっぷりと時間を取って演奏し、歌手たちが言葉は少なくてもじっくりと心の内を歌い上げる、そのオペラ作品としての完成度の高さが凄いのだと思います。ヴェルディに限らず、19世紀のオペラ作家達が「リア王」のオペラ化を断念してきたのは、プリマドンナが3人必要、という興行上の難点もさることながら、リアと娘たち、グロスターと息子たちという2つのドラマがねじれ、からみあいながら進むのを、オペラ向きに簡略化するのがいかにも困難であったというのが最大の理由であったと想像できますが、クラウス・ヘンネベルクのリブレットはその点を見事にクリアしていると思います。
またライマンの音楽的書法そのものだが、昨年の「メデア」でも感じたことだが、オペラにおけるリアリズムとはなにか、という問題意識が非常に明確であるように思います。たとえば憎しみとか悲しみを表現するのに、時として生々しい叫びや語りを使うことはあっても、基本はコロラトゥーラといっても良いような技巧的な歌唱を用いています。ヘンデルのバロックオペラやロッシーニの古典派セリアの全てとは言わないが、その極度に装飾的・技巧的なアリアが時として聴くものの肺腑をえぐるような瞬間がありますが、ライマンの狙っているものは(どんなにうわべが前衛的に見えても)それほど遠いものではないように思います。喩えが適切かどうか判りませんが、歌舞伎や人形浄瑠璃のような日本の古典芸能でも、およそリアリズムと対極的な様式的な表現でありながら、人間の真実としか言いようのない何ものかを現前させる瞬間がありますよね。ライマンのオペラというのは、そんな連想をとめどなく呼び寄せるような魅力があるのだと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-11-14 00:13 | 演奏会レビュー

二期会公演に先立ってライマンの「リア王」を予習中

ハロウィンの日の●神電車、仮装したDQNがいっぱい。もういや~。





11月10日の二期会公演@日生劇場、ライマンの「リア王」観劇に向けて予習中です。無理やり出張も作って準備万端(笑)。音源は2種類。

 アリベルト・ライマン「リア王」全曲

  ①リア王: ヴォルフガング・コッホ(Br)
   フランス王: マグヌス・バルトヴィンソン(Bs-Br)
   オールバニ公爵: ディートリッヒ・フォッレ(Br)
   コーンウォル公爵: マイケル・マッカウン(T)
   ケント伯爵: ハンス=ユルゲン・ラザール(T)
   グロスター伯爵: ヨハネス・マルティン・クレンツレ(Bs-Br)
   エドガー: マルティン・ヴェルフェル(C-T)
   エドマンド: フランク・ファン・アーケン(T)
   ゴネリル: ジャンヌ=ミシェル・シャルボネ(Sp)
   リーガン: キャロライン・ウィスナント(Sp)
   コーディリア: ブリッタ・シュタルマイスター(Sp)
   道化: グレアム・クラーク(語り)
   侍者: チャッド・グレアム(T)
   騎士: ニコライ・クラワ(語り)
   セバスティアン・ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場管弦楽団
   フランクフルト歌劇場合唱団(合唱指揮:マティアス・ケーラー)
   2008年9月28日・10月2,12,25日ライブ録音
   CD:OEHMS OC921

  ②リア王: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)
   フランス王: カール・ヘルム(Bs-Br)
   オールバニ公爵: ハンス・ヴィルブリンク(Br)
   コーンウォル公爵: ゲオルク・パスクーダ(T)
   ケント伯爵: リヒャルト・ホルム(T)
   グロスター伯爵: ハンス・ギュンター・ネッカー(Bs-Br)
   エドガー: デイヴィッド・クナトスン(C-T)
   エドマンド: ヴェルナー・ゲッツ(T)
   ゴネリル: ヘルガ・デルネシュ(Sp)
   リーガン: コレット・ローランド(Sp)
   コーディリア: ユリア・ヴァラディ(Sp)
   道化: ロルフ・ボイゼン(語り)
   侍者: マルクス・ゴリツキ(T)
   騎士: ゲルハルト・アウアー(語り)
   ゲルト・アルブレヒト指揮バイエルン国立管弦楽団
   バイエルン国立歌劇場合唱団(合唱指揮:ヨーゼフ・バイシャー)
   1978年10月バイエルン国立歌劇場でのライブ録音
   CD:DG UCCG3013/4

①は昨年11月の投稿で取り上げたライマン「メデア」全曲盤と同じくOEHMSレーベル。「メデア」のCD同様、カラー写真入りのきれいなリーフレットが添付されているが、リブレットはドイツ語のみってのが残念。②は渡辺護氏による歌詞対訳とライマン自身による詳細な作曲経緯が添付されているが現在は廃盤で、amazonではかなりの高値がついているようです(私は大阪府立中央図書館で借りました)。
今回はこの二つの音源の聴き比べという訳ですが、まず②のほうからいくと、いかにも今さっき生まれたばかりの生々しい現代音楽という感じがします(実際に初演と同時進行で録音されたのですから当然といや当然)。スコアを調べたわけではないので、あくまで印象批評の域を出ませんが、四分音やクラスターの音響効果が先鋭極まりない。これは相当現代モノを聴きなれた人にとっても手ごわいハードコアな前衛音楽というふうに聞こえます。歌手は豪華な顔ぶれですが、歌唱というよりも語りの要素の強いフィッシャー=ディースカウについては好き嫌いのレベルはともかく、正当な評価というのはちょっと難しそうだ。もちろん作曲者はFDのためにこのオペラを書いたのだから、この歌唱がどこまでスコアに忠実なのかといった問いは意味を為さない訳だが、王の威厳よりも人間としての弱さや醜さを前面にだしたFDの朗唱はある意味凄まじい。長女ゴネリルに蔑ろにされたリアが、次女リーガンに泣きつく場面など、実際の人間の老いというものが如何に惨めで醜いものか思い知らされるほど。第2幕で、完全に狂気に陥ったリアが譫言を話す場面はFDの独擅場でしょう。二人の姉娘役のヘルガ・デルネシュとコレット・ローランドの激しいコロラトゥーラ風の技巧的な歌唱も寒気がするほどだが、コーディリアを歌うユリア・ヴァラディがいつになく抒情的な歌い方で、女声三人の性格が明確。個々の歌手について書き出すときりがないが、グロスターとエドガーの断崖の場は感動的。シェークスピアが「リア王」において「神無き世界」を描こうとしたのか否かは私には分らないが、ここでのエドガーはまるで神性を帯びているように思われます。ライマンがこの役をカウンターテナーの為に書いた理由もそこにあるのでしょう。グロスター役のハンス・ギュンター・ネッカーとエドガー役のデイヴィッド・クナトソンは素晴らしい歌唱だと思います。
これを聴いて①を聴き比べると、同じスコアとは思えないほど響きが美しく音楽的に聞こえます。音楽的に、というのは誤解を招く表現かも知れませんが、要は新ウィーン楽派の延長線上にある音楽、という風に聞こえるということ。特に印象深いのは道化が語る場面が弦楽四重奏できわめて室内楽的な書法で書かれ、前後の大オーケストラの咆哮や金管打楽器群の炸裂と明確な対比がなされていることに改めて気づかされるところでしょう(道化だけが終始狂気から免れているということか)。ただ、①と②のどちらが正しい音楽のありようなのかは私には判断がつきません。どちらがよりスコアに忠実か(どのみちこれほど複雑で前衛的な書法で書かれている以上、オーケストラや生身の歌手による完璧な再現というのは困難だろう)というレベルではなく、どちらが作曲者自身が考えていた音響に近いか、というのは興味深い問題だと思います。①のほとんど官能的なまでのオーケストラの美しさ、道化の場の、ウェーベルンの「弦楽四重奏のためのバガテル」を思わせるような透明なテクスチュアは素晴らしいと思うけれど、1978年に生まれたこのオペラの、非常に大切な本質の幾分かは失われているのではないか、という疑念を感じざるを得ません。といって、この①の録音が角の取れた、中庸の音楽かといえば決してそうではなく、第2幕グロスターが両目を抉られる場の戦慄すべき表現、第1幕で狂人のふりをして辛くも逃げおおせたエドガーの長い独白とその前の間奏曲の、夜明け近く白々とあたりが闇に慣れた目に映りだす景色のような荒廃の美の表現など、これはこれで端倪すべからざる演奏だと思いました。指揮をしているセバスティアン・ヴァイグレについては、今年4月の東京・春・音楽祭のマイスタージンガーを振っていた人、という他には私はあまり知識がありません。以前この人がリセウ歌劇場で「ヴォツェック」を振ったDVDがあって、東日本大震災の直後に東京で「ばらの騎士」のオックス男爵を歌ったフランツ・ハヴラタがタイトルロールを歌っているというので思わず買ったのだが、エログロの極致のようなエグイ演出にげんなりしてほとんど観ていないのです(一昔前なら間違いなくボカシがはいるようなシロモノ)。リア王を聴いて、改めてこの指揮者をすこし注視していきたいと思った次第。歌手はいずれもこの「音楽的な表現」というコンセプトに沿った歌唱というところで、歌うべきところは朗々と歌い、シュプレッヒシュティンメで書かれたところはここぞとばかり演劇的な表現をしているという感じを受けます。個々の歌手で突出した人は良くも悪くも見当たらないが、リーガンを歌っているキャロライン・ウィスナントは歌も素晴らしいけれどヒステリックな嗤いの表現が実に演劇的で面白いものでした。
この①と②の表現の違いについてですが、これは単に指揮者の解釈の違いというより、この二つの録音の間に経過した30年という時間そのものという気がします。オーケストラの各メンバーや個々の歌手の技巧、前衛的なスコアに対する慣れといったものはこの期間に格段の進歩を遂げたのは間違いありません。しかしその反面、なんというか、この業界全体が反前衛的な、一種の懐古趣味のようなものに覆われつつあるのではないかという気もします。作曲者ライマン自身にしても、この二つの録音に現役の作曲者がなんらかの形でコミットしているのでしょうから、それはライマン自身の心境の変化とも関係しているような気がします。個々のプレーヤーの前衛的書法に対するおどろくべき順応と、それをとりまくある種の退嬰的な潮流。この一見相反する事象がこの先10年後、20年後どうなっていくのか、作品そのものの評価とは別に気になるところだ。
シェークスピアの「リア王」そのものについても書きたいことはあるが、これは10日の公演を聴いてからにしようと思います。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-11-07 22:18 | CD・DVD試聴記

ライマン 「メデア」 二期会創立60周年記念公演

ツイッターやらないのでリツイート代わりに引用。
「糖類の上‏@tinouye
テレビ向け発言だろうが、三枝氏がいうように20世紀の音楽はつまらないものばかりで、21世紀の音楽が作られるべきだのメロディーの復活だのいうなら、それ以前に振り返るべきメロディー豊かな20世紀の日本の曲が山ほどあるのを演奏せず見捨てる罪はどうなるんや。20世紀音楽をバカにすな!」
・・・・いや、まぁ文化人気どりで馬鹿な発言する輩はどこにでもいるから、そのこと自体は構わない。だが仮にも国営放送ともあろうものがそんな言説を垂れ流し、それを何百万という大衆が鵜呑みにする。そこにこの国の文化的状況の苛酷さが集約されていると思う。





二期会によるアリベルト・ライマンのオペラ「メデア」公演。これから先、オペラを観てこれほどまでに感動することが幾度あろうか、と思いました。

  2012年11月10日 於日生劇場
    アリベルト・ライマン 「メデア」
    メデア: 大隅智佳子
    ゴラ: 清水華澄
    イアソン: 与那城敬
    クレオン: 大野徹也
    クレウサ: 山下牧子
    伝令: 彌勒忠史
    指揮: 下野竜也
    管弦楽: 読売日本交響楽団
    演出: 飯塚励生

正直なところ、CDで予習していたとはいうものの、実際の舞台に掛けられた時に、こんな凄まじいものになろうとは想像もしていませんでした。前回の投稿で、ライマンの音楽について「人間の声の表出力に対する全幅の信頼といったものを感じさせ」ると書きましたが、この直感は実に正しいものであったと思います。今日私が観て聴いたものは本当に根源的な人間の悲劇というものだろう。ライマンがエウリピデスのギリシャ悲劇ではなく、敢えてグリルパルツァーの翻案をテキストに用いたのは、コロスによる状況説明を省いた上で、クレオンの娘クレウサの人物像を膨らませ、メデアが我が子にまで背かれた挙句それをイアソンのみならずクレウサにまで嘲笑されるという場面を一つの山場にしようとしたのではないか、と思われます。その結果、メデアが我が子を殺すという結末が多少なりとも心理的に正当なものとして、現代に生きる我々にも納得しやすいものになったのは事実だが、その一方でライマンはグリルパルツァーの戯曲をかなり刈り込み、物語がより直截なものとなるよう取り計らったようにも思えます。いわば、ヨーロッパ古典演劇を迂路としながら、結果としてはソポクレスやエウリピデスの悲劇の世界に立ち還ったようにも思われます。私のいう根源的な悲劇とは、それこそ20世紀の初頭にフロイトが無意識の底から見つけ出したような、人を人たらしめる様々な欲望と現実との衝突、そのようなものと言ってもよいかも知れません。その表現のためには近代的な心理劇や現代のリアリズム演劇の手法ではなく、まさにギリシャ悲劇の読み換えが必要だったのだと思いますが、これは音楽にも言えることであって、ライマンの音楽的イディオムがこれほどの威力を発揮した理由もそこにあるのだろう。私はこのライマンの音楽を、掛け値なしの「現代音楽」と見做します。「現代音楽」というタームには、使う人によって幾分揶揄や皮肉が込められたりするが、この「メデア」のような舞台を観れば、なぜ作曲家が大衆的な人気やビジネスとしての成功を顧みることなくこういった語法で書かねばならなかったか、いやという程に判ります。これも前回の投稿で、ライマンの音楽をベルクの「ルル」と比較して「官能的でない」と言った風に書きましたが、それもそのはず、ベルクが題材としたヴェデキントの演劇はリアリズム演劇の対蹠としての表現主義的な演劇であって、そのどちらも詰まる所20世紀という時代と無縁ではなかったのだと思います。それと比べるとライマンの取り上げた悲劇はより時代を超越しており、音楽の技法というレベルでベルクを参照したことがあったにせよ、その表現主義と表裏一体の官能性については排除したのだろうと納得しました。一つだけ具体的な例で言えば、「メデア」の伝令の歌の後半に出てくるバスフルートのフラッターツンゲの箇所、この肉感的な楽器を用いながら官能を一切くすぐらない厳しい音楽と、「ルル」に出てくるサキソフォーンのエロティックな音楽との目の眩む落差に、80年の時間が経過したことを実感せざるを得ません。現代、というより、同時代の音楽を聴く面白さの一端はこういうところにあるのだと思います。

6人の歌手については文句のつけようがありません。いずれも鬼気迫る歌唱であり、長く語り継がれるべきパフォーマンスでした。「名演」といった言葉ではとてもじゃないが追いつかない。超弩級の凄演とでも言っておこう。中でもメデアを歌った大隅智佳子の歌唱は凄まじいの一言でした。ゴラの清水華澄は以前から大ファンでこのブログでも取り上げてきた歌手(「オテロ」のエミーリア、「カヴァレリア・ルスティカーナ」のサントゥッツァ)だが、やはり素晴らしい。イアソンの与那城敬も以前新国立の「沈黙」でフェレイラ役を歌ったときにこのブログで絶賛したのですが、その時を更に上回る歌唱でした。他の3人も、よくもまぁここまで、と唖然としました。そのとてつもない努力と才能に惜しみない拍手を送りたいと思う。
ちなみに伝令役の彌勒忠史を除く5人は3日間の公演のダブルキャストで今日一日だけの出番。一期一会とは言うけれど、おそらくこの数ヶ月、明けても暮れてもこの至難な諸役の為に全てを捧げてきたに違いないというのに、たった一日だけとは。その儚さ、報われなさにこちらまで涙が出そうになるが、彼らが歌い演じた今日の公演を終世忘れないだろうと思う。備忘以上のものではないが、こうしてブログに記録を残せて良かったと思って自分の慰めとしよう。
下野竜也指揮の読売日本交響楽団のメンバーにとっても記念碑的な公演となるだろうと思います。見事な演奏でした。日生劇場は多分私は初めてだと思うのですが、PAを使ってるんでしょうか。私は2階席で聴いていたのだが歌手もオーケストラも異様によく聞えます。断わっておくと私はPAが怪しからんとは必ずしも思わない。特に今回のような巨大なオーケストラ(弦はおそらく14型、管や打楽器はピットに入りきらず舞台の両脇に所狭しと乗っている)の精緻極まりない再現の為にはやむを得ないどころか寧ろ必要な措置かもしれないと思います。いずれにしても錯綜する大音響から夜のしじまのような密やかな響きまで、ちょっと例を見ない出来だったような気がします。
演出については簡素な舞台で、これも音楽同様、時代を超越したギリシャ悲劇に相応しいものだったと思います。最小限の大道具に、小道具と言えばメデアが金羊毛皮や魔術の秘薬を収めた小箱くらいなもの。メデアの内心を表すと思しい6人の仮面のダンサーはなくもがなかも知れませんが邪魔という訳ではない。衣裳の他は特に古代ギリシャを思わせるものは何もないのだが、物語と音楽を邪魔しない適度な抽象化が好ましい舞台でした。言葉と音楽と舞台の全てが、人類の根源的悲劇の表現の為に近代から古代ギリシャ世界に向かっての「読み換え」を施されていた、と言えるかも知れません。
カーテンコールは盛大な拍手で、来日していたライマンも舞台に招きあげられて盛んな拍手を浴びていました。以前何度か観た二期会公演に比べると今回は若い聴衆も多くて、ロビーで彼らが「なんか凄かったね」と口々に話しているのを聴きながら、こうした現代の作品が今後とも数多く演奏され続けることを祈らずにはいられませんでした。

以下は蛇足。
開演の1時間くらい前に劇場につくと、予約制のプレトークに若干空席があるのでどうぞ、と係の方に招かれてライマン自身がメデアについて語る場に(途中からではありましたが)参加することが出来ました。ライマン曰く、リブレットはグリルパルツァーの「金羊毛皮」第3部の「メデア」から大半を借りたが、一部原作で言葉足らずのところがあるので、第1部「賓客」と第2部「アルゴーの船びと」から台詞を借用したとのこと。実は予習の際、グリルパルツァーの原文とリブレットの突き合わせ作業は余りにも面倒で途中で止めてしまったので気がつきませんでした。役柄と声種については、イアソンをバリトンのために書いたのは日和見で権力のためならメデアを棄ててしまう男の心変わりに相応しいから、また王クレオンのテノールは、単純で直線的な王の思考に相応しいから、と言った話があり、ただ王クレオンと雖もギリシャ世界を統合する隣保同盟(アンピクティオニア)だけは権力の及ぶ所ではない、よってその同盟の使者たる伝令をテノールのさらに1オクターブ上のカウンターテナーの為に書いたという話にはなるほどと思いました。ヘンデルオペラのパロディという訳ではなかった訳です。またメデアについては、コロラトゥーラ・ドラマティコがあらゆる人間の感情を描くに相応しいとも。イアソンは自分の過去を自分の出世のために捨てようとして失敗しますが、メデアもまた過去を捨ててギリシャ世界に同化しようとする。だが彼女も結局それに失敗してギリシャから見れば蛮族でしかなかったコルキスの人間に戻ろうとする。登場人物の中で実はクレウサだけが自己を変革していく、すなわち王女として無邪気に我儘に育てられた娘がメデアと触れあい、様々な複雑な人間の感情を経験していく(その結果彼女もまたメデアに滅ぼされるのだが)云々。思い出すままに書きとめているのだが他にも随分興味深い話をされていました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-11-11 00:04 | 演奏会レビュー

ライマン 「メデア」 エリック・ニールセン指揮フランクフルト歌劇場公演ライブ

先日紹介した六地蔵駅の駅員「ニ度寝」の記事のURLを友人にメールする。「汝らの中でニ度寝の誘惑を知らぬ者のみこの駅員に石を投げよ(ヨハネ福音書8:7)」と書いて送ったらこんな返信が・・・。
「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲、二度寝。あ、八つの大罪になっちゃった。」座布団一枚あげて。




次の週末の二期会公演、アリベルト・ライマンの「メデア」の予習をしています。音源は次の通り。

  アリベルト・ライマン 「メデア」
   メデア: Claudia Barainsky(Sp)
   ゴラ: Tanja Ariane Baumgartner(Ms)
   イアソン: Michael Nagy(Br)
   クレオン: Michael Baba(T)
   クレウサ: Paula Murrihy(Ms)
   伝令: Tim Severloh(C-T)
   Erik Nielsen指揮Frankfurter Opern-und Museumsorchester
   2010年9-10月録音
   CD:OEHMS CLASSICS OC955

2010年2月28日に初演されたばかりの、いわゆる「現代音楽」的なイディオムで書かれたオペラであるにもかかわらず、このような素晴らしい音源が入手できるということはどれだけ感謝しても足りないほどです。しかし、このCDに添付されているブックレットには、ドイツ語のリブレットは載っているものの、英語の対訳が附いていません。なかなか充実した解説や、美しいカラーの舞台写真数葉まで載っているというのに残念としか言いようがない。少なくとも一般的な日本人リスナーとしては、英語の対訳がなければお手上げです。とりあえずはシノプシスだけを頼りに、とにかく公演まで耳を慣らしておこう、という程度で、とてもじゃないが物語の詳細や、歌詞と音楽がどのように結び付けられているか、といったあれこれは全て諦めざるを得ないと思っていましたが、ついこの間、例の「プロジェクト・グーテンベルク」で、グリルパルツァーの原作「金羊毛皮Das Goldene Vliess」のドイツ語原文と、その英訳が入手可能であること、しかもオペラのリブレットはグリルパルツァーの原文を大幅にカットしたり台詞の順序を入れ替えたりしているものの、引用されている台詞はほぼ原作に忠実であることが判りました。
原文 http://www.gutenberg.org/cache/epub/7945/pg7945.html
英訳 http://www.gutenberg.org/cache/epub/12473/pg12473.html
例えて言えば、R.シュトラウスの「サロメ」や、ツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」がワイルドの原作をほぼ忠実にそのままリブレットとしたのに近いケースです。もっとも、例に挙げた2作が、原作の膨大な台詞を敢えて削ったりすることなく、その饒舌さをそのまま音楽的にも活かしきったのとは異なり、「メデア」の場合、基本的に物語の大意が伝われば良し、といった感じで、脇役の奴隷や農夫との対話がばっさりカットされたり、主役達の対話も相当刈り込まれているのが特徴。エウリピデスの原典を下敷きに、グリルパルツァーが何を附け加え、何を削ったのか、更には、グリルパルツァーの戯曲から作曲者がどの台詞を残し、どれほどのものを犠牲としたのか、大変興味深い問題ですが、私の拙い英語力では公演日までに大意を掴むのが精いっぱい。不本意ながら今回はそのあたりの探究は諦めて、ごく表面的に、音楽を聴いた感想のみ簡単に備忘として記しておきたい。
それにしても、先日「ピーター・グライムズ」について書いた時に、ジョージ・クラブの原作の邦訳が無いと言うことに対しても思ったことだが、これほど翻訳書が溢れかえっているこの国で、グリルパルツァーのような、有名とは言えないまでも重要な作家の作品の邦訳が入手困難(正確にいえば昭和5年に邦訳が出て以来絶版になったまま)というのはある意味驚くべきことかも知れません。日本語版プロジェクト・グーテンベルクの設立が急務ではないかと思う次第。また、少なくともオペラの普及ということについて言えば、著作権の問題を措いても、リブレット(とその英訳、できれば邦訳)がもう少し容易に入手できればよいのに、と思います。

さきほど「現代音楽」的イディオムと書きましたが、少なくとも調性のある音楽語法には完全に背を向けている点に関して一切の妥協がない。決して耳で聴く分には聴き易いとは言い難いが、どこかそのイディオムには新ウィーン楽派風の伝統が見え隠れし、耳が慣れてくると寧ろ若干の古臭ささえ感じます。時折激しく打ち鳴らされる銅板Bronzeplattenやゴング、タムタムといった多彩な打楽器の使用は紛れもなく現代に書かれたオペラと言えるけれども、(比較するのもどうかとは思うが)クセナキスの「オレステイア」やリゲティの「グラン・マカブル」のノイジーな前衛音楽と比べると実にクラシカルで、なんともドイツ的な趣。これまた多彩な管楽器は、特に低音木管楽器群の扱い方が独特。コールアングレやバス・フルート、コントラバスファゴットやヘッケルフォンなどの響きが不穏で禍々しい雰囲気を醸し出します。弦楽器は時に楔を打ち込むようなコルレーニョや軋むようなハーモニックスが出てくるが、総体的には無調であることを除けば極めて伝統的なカンティレーナが続く。
歌手については、メデアの歌はほとんど全曲に亘って激烈なコロラトゥーラで書かれており、歌手が喉を壊さないか心配になるほど。無調のオペラで主人公がコロラトゥーラを歌うと言えば、いやでも「ルル」を想起せざるを得ない。冒頭のメデアの登場に続いて乳母のゴラが歌い出すと、こちらはさしずめ「ルル」に登場するゲシュヴィッツ伯爵令嬢か、というところ。但し、「ルル」のような音楽そのものの官能性といったものはライマンの音楽にはあまり感じられません。コリントス王クレオンの娘クレウサも同じくコロラトゥーラのメゾソプラノのために書かれており、第2部冒頭、クレウサとメデアの、竪琴を巡る二重唱は、どこかバロック期のナポリ派のオペラやカンタータを彷彿とさせます。しかもこのクレウサの歌う部分は、まるでライトモチーフのように、フルートやチェレスタの煌めくフィギュールが歌を取り巻いており、そのきらきらした響きはほとんど「薔薇の騎士」の銀の薔薇献呈の場みたいだ。男声のイアソンやクレオンの歌も技巧的なパッセージが頻出し、あまつさえ伝令役はカウンターテナーが歌うという、まさにヘンデルのバロックオペラのパロディ。そう、これは現代的なイディオムによって書かれたバロック・オペラであり、メデアやクレウサの歌は「ルル」よりも(如何に見かけが隔たっていようと)はるかにヘンデルに近く、乳母のゴラはもしかしたらグルックの古雅な表現を念頭において書かれたのでは、という気がしました。
このライマンという人、もとはといえばF=ディースカウらの伴奏ピアニストとしてキャリアをスタートした人だそうだが、人間の声の表出力に対する全幅の信頼といったものを感じさせます。しかもその音楽の枠組みはロマン派あるいは近現代的な語法というよりはあきらかにバロック風であり、そのデコラティヴな歌唱からアルカイックで根源的な人間の悲しみが伝わってくるような気がします。だからこそ、子供を引き渡すよう嘆願するメデアの叫びや、彼女に向けられたイアソンやクレウサの嘲笑が胸を抉ります。このあたりは(時間があれば)エウリピデスの直截的な悲劇に近代的な心理劇の手法を持ち込んだグリルパルツァーの功罪について是非とも分析してみたいところ。こういう作品こそ、舞台で観ないことにはその全体像を掴めないと思います。来る二期会公演に期待が高まります。
このCDの演奏について巧拙を云々する力は私には無いけれど、異様に密度の高い音響に乗せて各の歌手が激烈かつ至難な歌唱を繰り広げる様は壮観です。特にタイトルロールのクラウディア・バラインスキーの歌は凄まじい表現。ほぼ2時間に及ぶ息苦しいまでの音楽に翻弄され、聴き終えてしばし呆然とならざるを得ない。万人受けする音楽ではないが、現代音楽に興味のある方の一聴をお勧めしたい。
by nekomatalistener | 2012-11-07 23:15 | CD・DVD試聴記