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ヤナーチェク 「草陰の小径」

先だっての参院選で落選とはいえ26万票近くとった某候補者。ホメオパシーとか地震兵器とか寝言ほざくまえに「自分らしくあれる」とかいうヘンな日本語をなんとかしたほうがいいと思う。ちなみに髭は気にならない。





久しぶりに京都のカフェ・モンタージュに行ってきました。ヤナーチェクの「草陰の小径」のみで一夜のプログラムというのも、このサロンならではでしょう。


  2016年8月10日@カフェ・モンタージュ
  ヤナーチェク 「草陰の小径」全曲
  (アンコール)
  パデレフスキー メヌエット
  エドゥアルド・シュット J.シュトラウス「美しき青きドナウ」によるパラフレーズ

  Pf:マルティン・カルリーチェク



ヤナーチェクの「草陰の小径」については以前にこのブログで取り上げたことがあります。

http://nekolisten.exblog.jp/16944241/

そこで「本質的にオペラ作曲家であったムソルグスキーの「展覧会の絵」がまるでオーケストラのスケッチのように思えるのとよく似て、ピアノ曲としての評価にとても困るところがある。」と書いたのですが、今回改めて聴いてみた感想もほぼ同じものでした。およそピアニスティックという概念の正反対の音楽。とはいえ、素人臭いというのとも少し違って、実に不思議な書法という他ありません。カフェ・モンタージュの店主の高田氏のトークでも触れられていた通り、曲のあちこちにドビュッシーを思わせる響きがでてきますが、この作品の原型ができた1901年にはドビュッシーは「版画」すらまだ書いていなかったというのは実に驚くべきことだと思います。同じく店主のトークで、以前あるピアニストにヤナーチェク作品によるリサイタルを提案したところ拒否されたという話がありましたが、この「草陰の小径」に限らず、「霧の中で」にしろ「ピアノソナタ1.X.1905」にしろ、ピアニストにとってはフラストレーションの溜まる作品だろうと思います。

今回演奏したマルティン・カルリーチェクはチェコ在住のヴァイオリニスト白石茉奈の夫君とのこと。太く良く伸びる音の持ち主で、弱音のパレットの多さも十分だと思いましたが、技巧の切れの良さは今一つといったところ。もちろんヤナーチェクはロマン派風の複雑な技巧を要する曲ではないのだが、どうも大味な感じがして、ヤナーチェクの音楽のもつとてつもない悲劇性とか、行間から滲み出るような死の気配といったものはあまり感じられません。本当にピアニストにとっては一筋縄ではいかない作品だろうと思いますが、もう少し聴かせ様があったのではとちょっと残念。

アンコールでパデレフスキーのメヌエットを弾いて、コーダで少し事故があったせいか、もう一曲サービス。エドゥアルド・シュットEduard Schüttは私も初めて聴くものでしたが、1856年にロシアのサンクトペテルブルグで生れ、1933年に没したコンポーザー・ピアニストで、IMSLPに沢山のピアノ曲が登録されていました。このパラフレーズは、ゴドフスキーのそれほどは手が込んでなくて、ほどほどの技巧で最大限の演奏効果を出すことのみを眼目としているように思えました。毒にも薬にもならないサロン音楽と言ってしまえばそれまでですが、アマチュアがちょっと余興で弾けば拍手喝采間違いないといったところ。おかげでヤナーチェクの世界がぶち壊しになったのですが、最後に店主が「いったい皆さん何を聴きにいらしたんですかね」と皮肉とも嫌味とも取れる発言で聴衆の笑いを取ったのも、小さなサロンでのインティメートなリサイタルならではで、それもまた良し。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-08-13 17:26 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 ヤナーチェク 「イェヌーファ」 

大手企業で運動会など再評価 一体感醸成に効果「リアルな交流できる」
SankeiBiz 2月18日(木)8時15分配信
・・・・・
うそつけ。




新国立劇場初登場のヤナーチェク。正直なところ直前まで行くのを迷っていたのですが、友人の「一生後悔するよ」というメールで急遽楽日を観ることに。これは観ておいてよかった。

 2016年3月11日@新国立劇場
  ブリヤ家の女主人: ハンナ・シュヴァルツ
  ラツァ・クレメニュ: ヴィル・ハルトマン
  シュテヴァ・ブリヤ: ジャンルカ・ザンピエーリ
  コステルニチカ: ジェニファー・ラーモア
  イェヌーファ: ミヒャエラ・カウネ
  粉屋の親方: 萩原 潤
  村長: 志村文彦
  村長夫人: 与田朝子
  カロルカ: 針生美智子
  羊飼いの女: 鵜木絵里
  バレナ: 小泉詠子
  ヤノ: 吉原圭子

  指揮: トマーシュ・ハヌス
  演出: クリストフ・ロイ
  合唱指揮: 冨平恭平
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京交響楽団


ヤナーチェクの音楽を聴くと、その独自性にいつも驚いてしまいます。質実剛健というか無骨な手触り、洗練というのとは全く違うが恐るべき完成度。過去のどんな音楽にも似ていない(少なくともどんな先行者がいたのかよく分からない)という点で、ムソルグスキーと並び立つ天才であると思います(ムソルグスキーの場合はダルゴムイシスキーが一応先行者ということでいいのだろうか)。
この「イェヌーファ」にしても、耳で聴くだけでは垢抜けない感じがしなくもないのですが、舞台で観るとその音楽と演劇との緊密な結びつきに驚嘆することになります。特に第2幕終結部の身を突き刺すような金管の扱い方や、第3幕の終わりの、カメラがパンして大きく視界が拓けるような音楽は、舞台と合わさることで物凄い威力を放っていました。
それよりなにより、どうしようもない登場人物ばかり出てくるこのオペラを貫く、ヤナーチェクの慈愛としか言いようのない暖かな視線には殆どたじろぐ思いがします。屑の中の屑であるステヴァだけでなく、他の登場人物だって多かれ少なかれろくでもない連中ばかりなのだが、ヤナーチェクは彼らに些かも下卑た歌を歌わせない。その真摯な音楽はモラヴィアの田舎の愛憎劇を人間の根源的な悲劇にまで昇華する。ヒューマニズムという言葉は手垢が付き過ぎて普段まず使わない言葉だが、ヤナーチェクの音楽に底流するものこそ、真のヒューマニズムだと言っても過言ではないような気がします。

今回の公演、私は新国立劇場の過去の公演の中でもトップクラスだと思いますが、まず主役級の歌手達が本当に素晴らしかった。特に、ラツァを歌ったヴィル・ハルトマンとコステルニチカを歌ったジェニファー・ラーモアはこの作品の上演史に残るだろうと思います。とりわけハルトマンは、まさにラツァを歌うために生まれてきたのではないかとすら思う(こんな感想は2012年「ピーター・グライムズ」の時のスチュアート・スケルトン以来かもしれない)。ハンナ・シュヴァルツも凄い。1943年生まれで、今回の日本公演では同時に「サロメ」のヘロディアスも歌うというから正にバケモノ。もちろんイェヌーファのミヒャエラ・カウネ、シュテヴァのジャンルカ・ザンピエーリも言うことなし。脇役を固める日本勢は、難しいチェコ語(モラヴィア方言)のオペラということで大変だったと思うのだが、これといって穴がないのは大したものだと思いました。
トマーシュ・ハヌス指揮東京交響楽団の演奏も大変優れたものだったと思います。ツイッターやブログなどぱらぱらと見ていると、概ねこの公演に対しては高評価ながら、海外で幾度か舞台を観た方の中にはやや辛口のものもありました。余りにも演奏がきれいに整理されすぎて、ドラマの生々しさが犠牲になっているとの評価を見ましたが、そのような見方があることは当然のことだろうと思います。ヤナーチェクほどの天才の音楽であれば、演出や歌手の如何によってもっと高いレベルがあり得て当然、これが最高ということはないのでしょう。だが、今後の日本におけるヤナーチェクの受容を考えた場合に、これほど高い水準の好演が新国立劇場という大箱で、多くの人の目に触れたということは大きな意義をもつはず。
これは演出にも言えることであって、今回それが残念ながらレンタルであって再演が望みえないことを残念に思われる向きもあった。だがこれも、レンタルであれ何であれ、とにもかくにも新国立劇場で取り上げられたということが大切なのではないか。その演出はというと、第1幕、オーケストラの序奏の前に、白々とした光に満たされ、机と椅子以外は何の調度もない刑務所の取調室のような部屋に、刑務官がコステルニチカを連れてくるところから始まる。以下はすべてコステルニチカの回想という見立て。この殺風景な白い空間は、ストーリーの進展に連れて、横幅が広がり、奥の壁がスライドして麦畑が見えたり、雪景色が見えたりと変化するが、その高さと奥行はこの劇場のキャパのおそらく半分も使っておらず、それがそのままイェヌーファやコステルニチカをとりまく閉塞的な社会を表している(現代の日本だって、すこし田舎に行けばこのような生き辛い社会はいくらでもみつかるだろう)。人物の動かし方は極めて演劇的で、途中何度も現れるゲネラルパウゼではとてつもない緊張を強いられます。登場人物は、第1幕でラツァが吊りズボンにアンダーシャツ一枚という野良着姿であるほかは皆現代風のファッション、ラツァも2幕以降はスーツを着ている。イェヌーファは最初深紅のワンピースで出てくるが終幕はごく地味な黒の衣装。このあたり、それぞれに意味があるのだろうがよく分かっていないので割愛。決して伝統的とも言い切れない舞台であるのに、観終わると深い充足感を感じます。

今回の公演に関して、特にツイッターで絶賛の嵐になり、最初の内興行的には苦戦していたようだが、私が観た楽日はまずまずの客の入りであったように思います。新国立劇場の客層は比較的保守的だとしても、その内容次第でこうしてマイナーなレパートリーであっても客が入るということは実に心強いことだ。来シーズンの新国立劇場の目を覆うばかりの陳腐なラインナップには心底がっかりしたが、関係者には今回の成功事例をよく分析していただきたいものです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-14 22:29 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ヤナーチェク 「草かげの小径にて」他 アンドレア・ペスタロッツァ

部屋の照明の電球が切れて半日がかりで取り換え(電球を買いに行ったり付け換えたり以外に、やる気になるまで布団の中で気合いを入れる、とか雑誌読みながらやる気が起こるのをじっくり待つ時間を含む)。





まずは音源の紹介から。

  ヤナーチェク
    草かげの小径にて
    霧の中で
    ピアノ・ソナタ「1905年10月1日街頭にて」

    アンドレア・ペスタロッツァ(Pf)
    1990.5.録音
    CD:DYNAMIC DM8010

以前このブログで「利口な女狐の物語」を取り上げたヤナーチェク。不明にして彼のピアノ曲は初めて聞きました。もうかれこれ10回も通して聴いたはずだが、ものすごく面白くて何か言葉にして書きたくてたまらない気持ちと、どうにも咀嚼しきれず澱のように心に沈んでいくもやもやした気持ちの両方があって、後者についてはなんとか言語化してみようとしましたが結局今の時点で無理に言葉にするのは諦めました。もう少し私自身が若い頃には恐らくこの非ピアニスティックな、洗練とは程遠い音楽は受け付けなかったと思います。だがその不器用な(ダサい、といったほうが適切かも)楽譜面から溢れてくる音楽には、濃密な死の気配のようなものがあって、時としてとてつもなく悲劇的なものとなります。実に不思議な魅力が確かにあり、この歳(今年50になりましたw)になってようやくこれらの作品と向かい合うのも何かのめぐり合わせ、決して遅すぎる出会いではなかったろう、と思います。ちなみに1854生れのヤナーチェクのオペラ「イェヌーファ」が初演されたのは1904年、彼の代表作とされる作品の殆どがそれ以降、つまり50歳以降に作曲されており、典型的な晩成型の作曲家と言えるでしょう。

「草かげの小径にて」は1901年から1911年に掛けて断続的に作曲された、全部で15の小曲からなる作品。その第8曲から第10曲は21歳で夭折した娘オルガへの哀悼の音楽と言われています。そこにあるのは不規則な拍節の構造(例えば第1曲の5拍+6拍からなる旋律はムソルグスキーの「展覧会の絵」のプロムナードと同様の構造だ)、ヤナーチェクのトレードマークのような「8分の1拍子」や「4分の1拍子」といった不思議な拍子の頻出(第6・10・11曲)、調性が曖昧になりだした頃のスクリャービンを野暮ったくしたような書法(第8曲)、まるでシューマンのようにロマンティックな曲想が出てくると思えば(第13曲目)、およそピアノ音楽に似つかわしくない身振りのおおきな旋律と洗練さの欠片もないトレモロ(第15曲、本CDでは第14曲と曲順を入れ替えて演奏している)等々、本質的にオペラ作曲家であったムソルグスキーの「展覧会の絵」がまるでオーケストラのスケッチのように思えるのとよく似て、ピアノ曲としての評価にとても困るところがある。一曲一曲の面白さについて語りだせばきりがない一方で、何を語っても音楽の本質とは無関係な言説を弄ぶだけに終りそうな気もする。ヤナーチェクの音楽とディレッタンティズムほど相容れないものはないとでも言おうか。だが、第7曲目「おやすみ」の、聴くたびに孤独のなかで神の恩寵の光をあびるような気がすることだけはどうしても書いておきたい。楽曲を分析しようにも、ピアノ弾きなら間違いなく初見で弾ける様な単純な、しかし音楽的に弾くにはこれ以上難しいものもあるまい、と思わせるような書法(譜例)。あえて近いものといえば、ドビュッシーの「雪の上の足跡」くらいなものだと思うが、ここから立ち上る感動は一体何なのか。こういう作品を聴くと、音楽の分析とか言語化の努力といったものの無力さを思わざるを得ない。この曲集全体について、どうしても好きと言い切れない「判らなさ」が伴うのだが、この「おやすみ」だけは別格でした。
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「霧」も「1.X.1905」も、技巧的には容易くは無いがおよそピアニスティックな書法とは隔絶している。いや、指回りのレベルのメカニックという点でロマン派のそれと程遠いというのは確かだが、エクリチュールとしては結構面白い点もあって、例えば「霧」の出だしは調性が曖昧ながらもフラット5つ(変二長調)の記譜で実質は変二短調で書かれていたりする(普通なら嬰ハ短調で書くところ)。アカデミズムの欠片も感じさせない一方で、単に稚拙と言いきれない不思議な記譜法。それはともかく、「霧」も「1.X.1905」も、どちらもヤナーチェクのピアノ曲の代表作と云えるのだろうが、この悲劇的な、あるいは演劇的といってもよい音楽を心から楽しみ、その面白さを言語化してここに書き連ねようという気分にはどうしてもなれない。気になって仕方がないがその狷介な性格ゆえになかなか友達になれない人を見ているような気分だ。それと、正直なところ、オペラでなら許せるがピアノでやられると辟易するような泥臭さに身を委ねきれない、という気持ちも僅かながらある。まぁいい。このままCDを仕舞い込んで、また何年かして気が向いたら取り出して聴くことにしよう。

ピアノを弾いているアンドレア・ペスタロッツァについては何の予備知識もなく聴きましたが、その深い打鍵から生み出される美しい音色は、若き日のアシュケナージが弾いたスクリャービンの初期ソナタ(第4番以前の)を思わせる秀逸な演奏(ついでながらアシュケナージは出来不出来の激しい人だがこれだけは文句なしに優れている)。特にリズムの処理が巧く、「草かげの小径」の単純な楽譜からよくもこれほどの深い音楽を引き出してくるものだと感心します。しかもそれはノーテーションに対して決して恣意的という訳ではない。録音も瑞々しく濡れたような音がしていて大変魅力的でした。ただ、「小径」と「1.X.1905」の演奏は、IMSLPからダウンロードした出版譜を見ながら聴いていると細かい異同がたくさんあります。版の問題については全く情報がありませんでしたのでこれ以上のことは書けませんが・・・。
by nekomatalistener | 2012-12-09 12:40 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その3)

サザエさんに出てくるタイコーバさんってどこの国から出稼ぎにきた人なの?って某ブログを見て吹いたが、実は私もこの歳(49歳)になるまで「妙子おばさん」だと思ってました。正しくは「タイ子おばさん」なんですね~。よく考えたら一人だけ海と関係ないってのもヘンな話だわなぁ。知らんかった。





第2幕、次の場面は夏の夜。なんという自由な、何物にも囚われない音楽でしょうか。癖のある拍節とペンタトニックなヴォカリーズによる森の動物達の合唱。突拍子もない連想ですが、物心付いた頃、テレビの前で「ジャングル大帝」が始まるのをわくわくして待っていたことをふと思い出しました。大人の為の童心の音楽という感じがします。
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ビストロウシュカの様子を一匹の雄狐(ズラトフシュビーテク)が伺っています。女狐の気を惹こうと雄狐の語る「あなたは理想的な現代女性だ。煙草はお吸いになるのですか」とか、「僕はあなたのことを小説やオペラに書くからね」といったセリフが笑わせてくれます。雄狐は彼女のご機嫌を取るため兎を採りに駆けていくと、ビストロウシュカは「あたしってそんなにきれいかしら」とつぶやき、兎を捕まえて戻ってきたズラトフシュビーテクとの二重唱が始まります。
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ほとんど語りだけで出来ているようなこの作品の中で、この場面はいわゆる「愛の二重唱」というべきもの。ここぞとばかり狐たちは大きなアーチを描く旋律を歌いあげ、オーケストラは官能的な音楽を奏でます。官能的というと何とかの一つ覚えみたいに「トリスタンとイゾルデ」を引合いに出すのは気が引けますが、本当にトリスタンや、いやむしろ、この場面に相応しいのは「ヴァルキューレ」のジークムントとジークリンデの二重唱の方かも知れませんが、それらに匹敵する狂おしいばかりの濃密な音楽です。色彩的な変二長調を中心とするフラット系の調性が支配している所為で、ふとプッチーニの一節が頭をよぎったりもしますが、もちろん他のどんな音楽にも似ていないのは再三申し上げてきた通りです。次の譜例は二重唱のクライマックス、ロ長調に転調してしばらくすると同じ旋律が変ハ長調の記譜になります。ロ長調も変ハ長調も一緒じゃないのか、と言うなかれ。可能な限りヤナーチェクの耳にはそう聞こえていたであろう調性で、我々も耳を研ぎ澄ませて聴かねばなりません。
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巣穴にもぐり込んだニ匹を覗き見したお堅いふくろうが、「私達のあのビストロウシュカが、あんなにお行儀の悪いことを!」と嘆きますが、リス達やハリネズミは大喜びで哄笑します。なんともおおらかな性の賛歌。
きつつきの司祭が二匹の結婚式を執り行い、森の動物たちのアポテーズが始まります。この部分もちょっと他に例を見ない独特の音楽です。凶暴なリズムでいやが上にも聴き手の興奮を誘うところは、ストラヴィンスキーの「結婚」を連想させなくもありませんが、実は私はストラヴィンスキーの春の祭典や結婚をバーバリズムの音楽とは考えておりません。あれはプーレーズが喝破した通り、「制御された混乱」なのであって、実態は極めて知的な音楽だと思っています。それと比べると、この森の動物達のほうがよほどバーバリックな音楽だと思います。(ストラヴィンスキーについてはいずれ項を改めて書きまくりたいと思っています)。

第3幕は変二短調(嬰ハ短調ではなく)の前奏曲で始まります。変ニ短調の平行調は変ヘ長調となり、理論的にはあり得ない調性なのですが、ヤナーチェクはEの音がほしい時はわざわざFのフラットで記譜しています。行商人ハラシュタが現れ民謡調の歌を歌いますが、ここはシャープだらけの嬰ハ短調の記譜になっており、どんなにヤナーチェクが調性に対する感覚を重視しているかがここでも見て取れます。
続いて森番が登場し、ハラシュタを密猟者ではないかと疑います。ハラシュタは言い逃れをしますが、森番が死んだ野兎を餌に狐の罠を仕掛けると、先回りして狐を捉え恋人に贈るマフにしようと思い立ちます。
狐の夫婦と沢山の子狐たちが登場、子狐の合唱はバルトークが採集したルーマニアやハンガリーの農村の民謡を思わせます。ころころとじゃれている犬や猫の子を見ていると、どこからこんなエネルギーが湧いて出てくるのか、と思う時がありますが、この合唱は正にそんな感じの活気に溢れたものです。
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狐の夫婦は、また来年の5月になったら子供を作ろうと、幸せに溢れた二重唱を歌います。ホ長調でハラシュタが機嫌よく現れますが、罠に気付いたビストロウシュカはハラシュタを翻弄し、その隙に雄狐と子狐達は野兎をまんまと食べてしまいます。きりきり舞いのハラシュタ(3/4拍子と1/2拍子!が激しく交替します)が、よろめいて鼻の頭に怪我をすると、音楽は変イ短調に転じて、いよいよ悲劇が始まる、ただならぬ様相を呈し始めます。三連譜と四連譜のぶつかり合い、5小節単位のフレージング、森の中に突如深淵が現れたかのような恐るべき音楽。逆上したハラシュタが発砲し、ビストロウシュカは死んでしまいます。ここは敢えてミクロな分析は止めておきますが、発砲と狐の死のくだり、天才の筆致としか言いようがありません。万感の思いを込めたゲネラルパウゼの後に続く、わずか18小節のポストリュード。これ見よがしの悲しみは一切無いのに胸に迫ってくる素晴らしい挽歌であると思います。

変二長調の前奏に続いて、例の居酒屋の場面。まだ時刻は早く、愛想のない女将と校長、そして森番のみの寂しい光景です。前の場面からどれだけの時が経過したのかはっきりしませんが、森番は飼い犬のラパークが歳を取って動けないことを校長に話し、同時に自らの老いを感じています。悲劇の後の、しみじみとするような場面です。

深いブラス合奏の間奏曲の後、全曲の白眉というべき森番のモノローグが始まります。森番は明るい森の中で、妻との若かった日々を思い出しながらうとうとします。森の美しさを讃えながら感動的なモデラートA přece su rádを歌います。
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森番の夢の中で、これまで登場した全ての動物達が現れます。その中に女狐を見つけた彼は、今度は大切にしてやるから、と捕まえようとしますが、夢から目覚めるとそれは一匹の蛙でした。かつての狐との出会いを思いだし、森番は蛙に語りかけますが、蛙は「あれは僕じゃなくておじいさんだよ」と話します(森番が蛙のセリフを理解したのかどうかは不明ですが)。繋がっていく生命に感動した彼は銃を地面に落します。森番らしく、何と言って深遠なことを言う訳ではないのに、自然を越えた超越的な存在すら感じさせる深いモノローグです。森番の歌の最後はイ長調に転じて、あたかも自然への賛歌のように滔々と流れていきます。もうここで終わっても十分に感動的だと思うのですが、ここからブラスの咆哮に続いて奇跡のような変二長調のフィナーレが置かれています。例のシンフォニエッタに似た、荒削りでおおらかな音楽。気の利いた言い回しが浮かびませんが、ヤナーチェク以外の誰にも書けない素晴らしい音楽です。ここでも、小さな生き物たちとの親密な情景からいきなりカメラがズームアウトして広大な森や草原の映像に切り替わるような、一種の視覚的な喜び、軽い目眩すら覚えるような快楽を感じます。一体、ヤナーチェクは本気でこのオペラを舞台にかけるつもりがあったのでしょうか?もしかすると彼の頭の中にはアニメ映画のようなものがあったのではないか、と思われます。この作品が作曲されたのは1922年から翌23年に掛けてですから、既に映画は人々の娯楽としての地位を確立し始めた頃です。ただ、アニメーションが登場するのはあと20年ほど後のことですが、あながち無理な想像とは言えないと考えています。ちょっと真剣にスタジオ・ジブリさんにお願いしてみようかな、と(笑)。全曲通しても1時間35分、尺としても手頃ですし。あるいは、どうしても舞台で、ということであれば、あの「ライオン・キング」を演出した天才ジュリー・テイモアに演出してもらいたいですね。きっと今まで誰も見たことのない、大人も子供もわくわくするような舞台を作ってくれそうな気がします。

音源のCDで森番を歌っているリハルト・ノヴァークが素晴らしいと思いました。ちょっと癖というのか、時々皮肉な、あるいは意地悪そうな歌い方になる時もありますが、粗野でいて実は限りない優しさを持ち、同時に孤独な魂を抱えた森番のキャラクターを見事に演じています。女狐、雄狐、校長、ハラシュタ、いずれも優れた歌手達ですし、小さな動物や虫達を歌う子役も含めて誰ひとりとして穴のないキャスティングでした。「ルサルカ」で「はじけない指揮ぶり」と悪口を書いたノイマンも(比較の対象がないのでちょっとアレですが)、この演奏に関しては何の不満もありません。基本的には中庸を旨とする人なのでしょうが、ヤナーチェクを世に紹介したいという熱意と使命感が底に感じられる名演だと思いました。
私は基本的にはあまり自分の趣味を人に押し付けようと思わないほうですが、この作品に関しては本当に音楽を愛する全ての人に聴いてほしいと、声を大にして言いたいと思います。絶対に損はしませんよ。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2011-10-20 22:50 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その2)

「あらびき団」打ち切り。一番残念がっているのは沼津みなと新鮮館のおにいさんだと思う。




このオペラ、まだまだ一般には知られていないと思うので、ごく簡単にあらすじも紹介しながら、音楽のディティールを見てみます。
スコアを一部引用していますが、EUや日本ではパブリックドメインですので問題ないでしょう。逆に英訳リブレットは入手できませんでしたので、CDの対訳が怪しいところはあまり検証できていません。

第1幕の前奏曲は調号なしの変イ短調のメランコリックなAndanteで始まります。
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感傷とは全く無縁な音楽であるにも関わらず、何かこう、ひしひしと孤独さが募るような音楽です。第1幕では、登場する動物も人間も、皆孤独を抱えた存在であるとでも言うのでしょうか。
全曲が調号なしで書かれていますが、転調が激しく全音音階が頻出するこの作品では調号なしで臨時記号で逃げたほうが記譜しやすいという事情があるのでしょうね。変イ短調は通常の記譜であればフラット7つ、実に譜読みしにくい調性です。めったにお目にかからない調性ですが、アルベニスの「イベリア」第1曲「エボカシオン」が変イ短調で書かれていますね。通常なら幾分譜読みしやすい嬰ト短調での記譜が一般的ですが、臨時記号で逃げるのならむしろ変イ短調を想定してフラット中心の記譜のほうが書きやすく読みやすいと思います。ですがここで重要なのは、曲想が嬰ト短調ではなく変イ短調として聴かれるべきものに思われることです。実はこの作品、これに続く殆どの場面がフラット系(変ホ、変イ、変ニ、変トの各調)で書かれており、独特の音楽の色彩感の源となっています。逆にシャープ系で印象に残る箇所としては、第1幕の鶏殺戮の大騒動(ホ長調)、第2幕で森番が銃を撃つが狐が逃げていく場面(イ長調)、終幕の森番の自然への賛歌(イ長調)を挙げることができます。楽譜を見る習慣のない方には実に退屈な議論でしょうし、楽譜が読める方の中にも、嬰ト短調と変イ短調の違いなど(少なくとも平均律に慣れてしまった現代人には)無意味であると仰る方がいるだろうと思います。しかし譜例に見る「ためいき」の下降音形には、どうしても変イ短調でしかありえないと感じるのは私だけではないと思います。これぐらいにしておきますが、私はここで、ヤナーチェクが調性の扱い方について実に鋭敏な感覚を持っていたに違いないことをどうしても述べておきたかったのです。

前奏に続いて蠅やとんぼのパントマイム。森番が登場、森の中で独り銃に語りかけながら居眠りをします。こおろぎ、きりぎりす、蚊、蛙が登場。森番の血を吸って千鳥足の蚊はワルツを踊ります。蛙に興味津々の子狐が登場、驚いた蛙が飛び跳ねると、森番の顔に落ちます。森番が飛び起きるとそこには親とはぐれた子狐。森番は子供達への土産に狐を捕まえます。
続く間奏曲はまたしても変イ短調。これも孤独感、いやむしろ悲劇性を湛えた特異な音楽、本当に類まれな音楽だと思います。題材が特殊ということもあって、この作品をオペラとして舞台にかけ、群衆の一人として観たり聴いたり、ということがどうもそぐわない感じがします。この旋律の最期の4つの音(B-Des-As-Es)がそのまま狐の哀れっぽい泣き声になります。
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森番が狐(ビストロウシュカ)を持ちかえると、妻は蚤がいるんじゃないかと嫌がります。おかしいのはその後、つい先ほどの場面で「ママ、ママ」と泣いていた子狐が、いきなり口の達者な女狐になっています。まぁ原作が漫画ですからね(笑)。
飼い犬のラパークと恋をめぐる会話。そこに森番の子供たちが現れ、棒で狐を突っついていじめると、狐の逆襲に遭います。妻は怒り狂い、森番は狐をひもで縛ってしまいます。
この後、夜から夜明けにかけての時間の経過を変ロ短調から変ロ長調を経て変ト長調に移りゆく間奏曲が表しますが、この部分の美しさは譬え様もありません。ここまで夜明けの微妙な色彩の変化を描いた音楽というのは、おそらくラヴェルの「ダフニスとクロエ」ぐらいしかないんじゃないかと思う程です。
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鶏たちがやってきて、卵を産まないビストロウシュカをからかいます。彼女は雌鶏たちに、雄鶏の支配から逃れて立ち上がれとアジテーションを行いますが、盲目的な雌鶏には雄鶏なしの生活が考え付きません。怒ったビストロウシュカは次々と鶏たちを噛み殺します。喚き散らす森番の妻、森番に棒でぶちのめされそうになったビストロウシュカはひもを噛み切って逃げていきます。スケルツォのようなこの場面、ホ長調が主であることは先に書いたとおりですが、最後は変ホ長調の大混乱で幕を閉じます。

第2幕、穴熊の住む巣穴が欲しくなったビストロウシュカは、森の獣達を味方につけて穴熊に言いがかりをつけ、最後は巣穴に放尿して穴熊を追い出してしまいます。まるで一昔前の地上げ屋のようなあくどさです。もうお気づきでしょうが、この物語では確かに動物は擬人化されていますが、人間の道徳律とはまるで無縁の存在です。とてもじゃないがメルヘンとは言えません。また、動物達は種を超えて自由に会話をしていますが、人間との意思の疎通は全くありません。
この場では全音音階がブリッジの役割をして、調性は変二長調からロ長調に至るまで自在に変化します。変イ長調に転じて、居酒屋の喧騒を表す場面転換のバーバリスティックな間奏曲。

次の居酒屋の場は、酔っ払ってぐだぐだの人間の男達ばかり登場します。狐の一件でくさっている森番は牧師や校長に執拗に絡みます。牧師はラテン語の警句を呟き、校長はある女のことが忘れられず湿っぽい酒を飲んでいます。まったくぱっとしない連中ですが、彼らに向けるヤナーチェクの眼差しは暖かく、音楽としては不思議に味わい深いものがあります。しかしこの音楽を語るにはもう少し繰り返し聴き、私自身ももっと年をとらねばならないという気がします。べろべろになった校長は道を踏み外してひまわり畑に落ち、ひまわり相手に口説き始める始末。牧師は昔手痛い目に遭った恋を思いだしモノローグを歌います。銃をもって現れた森番がビストロウシュカを見つけ発砲しますが、弾が逸れ、狐は逃げていきます。この後、突然音楽はイ長調になりますが、映画でいうならカメラがズームアウトして突然視界が開け、大草原が目の前に現れたかのような効果があります。ヤナーチェクの独特の調性感覚を感じるとともに、まるで映画かアニメーションを観ているような気分にもなります。実際、舞台で動物の着ぐるみを見せられるよりはアニメにしてみたい感じがします。ジブリさん、どうですか?(笑)。
CDはここまでが一枚目に収められています。第2幕の後半は次回に。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-10-12 19:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その1)

前回の投稿で何度かミスタイプして「エフゲニー・オネーギン」が「おねー議員」になった。
そんなのいたらちょっとやだな~。「あたし前原たんのほうがよかったのに~もうっ復興法案賛成してあげないっ」・・・とか言いそうで。




ここ数日、ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」を聴きながら、その超弩級の天才に心底驚いています。「シンフォニエッタ」なら中学生の頃からですから、かれこれ30数年前から知ってるといやぁ知ってる(別に「1Q84」を読んで初めて聴いた訳ではない・・・)。グラゴル・ミサも聴いたことがある、でもなかなかそれ以外に食指が動かなくてこの歳になりました。いやぁもっと早く知っておれば良かったのに、とも思うし、このオペラの幕切れを聴いていると、いやこの歳で初めて聴く意味もあるのだ、とも思います。そう、これはR.シュトラウスの「薔薇の騎士」と同じく、恐らく若いときに聴いてももちろん良いけれども歳をとってから聴くのはまた格別、という種類のオペラでもあるのですね。
それにしてもこの音楽、どの部分をとっても借り物という感じがなく、体臭と言ってもいいような強烈な個性に満ち満ちています。寡聞にして、ヤナーチェクの作風の先行者やエピゴーネンが誰だったのか、いや、そもそもいたのかどうか知りませんが、少なくとも私には今まで聞いたことのない類の音楽でした。強いて言えば一部に初期のバルトーク風のところがあったり、ドビュッシーの遠いこだまが聞こえたり、あるいはストラヴィンスキーのある種の作品、例えば「プリバウトキ」とか「マヴラ」に少し似た感じの部分がなくもないですが、かといってストラヴィンスキーを彼の後継者もしくはエピゴーネンと呼ぶのは無理があると思います。本当に何者にも似ていないし何者も真似できない、感傷は微塵もないのに豊穣極まりない音楽。それを理論的に分析すれば、全音音階や教会旋法、あるいはペンタトニックの多用、などということになるのでしょうが、それだけでは何も説明したことにならないような気がします。音のパレットとしてはその通りであるが、そのパレットからなぜあの音ではなくこの音を選び出したのか、という点に関しては説明がつかないのです。それほど独特の音の選択です。それよりもむしろ、オーケストラに関して偏執的なまでに細部までびっしり書き込まれた部分と、眼前遥かに開けた大草原を駿馬に乗って疾走するような荒削りで胸のすく様な部分の交代の妙であるとか、殆ど全編まるで話すように書かれている(伝統的なレチタティーヴォとはかなり様相が異なる)にも拘わらず、ここぞというところで一瞬だけ感情が迸るように歌われる部分(雄狐を待つ間にビストロウシュカが歌うところとか)の対比、自由に伸縮する変リズムの連続と、たまに現れる執拗なりズムオスティナートの交代とか・・・そんなところにもこの独自性の秘密があるような気がします。ただ誤解のないように言えば、これらの手法は、先日プッチーニの「外套」で書いたようなレベルでの職人的メチエではなく、もっと直感的・生理的なもの、あるいは音楽的修練・訓練とは無縁なもの、アカデミズムの対極にあるもの、という点、あえて言えばムソルグスキーに近いものがあると言えそうです。この手法の本質をさらに圧縮して一言で言うなら、「自由」ということになるのではないかと思っています。

冒頭から思わず熱くなってしまいました。まずは音源のデータを記しておきます。

  猟場番・・・・・・リハルト・ノヴァーク(Bs)
  猟場番の妻、ふくろう・・・・・ヘレナ・ブルトロヴァー(A)
  校長、蚊・・・・・ミロスラフ・フリドレヴィチ(T)
  牧師、あなぐま・・・・・カレル・プルーシャ(Bs)
  行商人ハラシタ・・・・・ヤロスラフ・ソウチェク(Bs)
  女狐ビストロウシュカ・・・マグダレーナ・ハヨーショヴァー(S)
  雄狐ズラトフシュビーテク・・・ガブリエラ・ベニャチコヴァー(S)
  ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
  (1979年12月7~22日、80年6月25~27日録音)
  CD:SUPRAPHON COCQ84519-20

前回まで、「ルサルカ」を聴きながら、二つの限界を感じると書きました。すなわち、一つは物語にエロティックな要素がなく、ただの他愛ないお伽話に思えてしまうこと(物語だけでなく音楽としても同様であることにも言及しました)、もう一つは言葉と音楽の結びつきが今ひとつ強固でなく、借り物の旋律にチェコ語の歌詞がむりやり嵌め込まれた感があることですが、この「女狐」には「ルサルカ」に欠けていたこの二つの要素がふんだんに盛り込まれています。
物語という点では、虫や鳥や森の獣がたくさん出てくるこのオペラの方がはるかに子供向けか、といえば実は少々微妙です。原作は新聞の連載漫画だと言いますが、終幕の森番のモノローグと蛙の歌は哲学的とも言えそうな代物。ほろ苦い後悔や諦念、そして自然への畏怖の念に溢れており、ある程度聴き手も年齢を重ねないと判らない味わいがあるのは冒頭で「薔薇の騎士」に喩えたとおりです。また、ここには妙にあけすけな性にまつわる挿話もあり、物語に奥行きをもたらしています。

性と言えば(ちょっと脱線しますが)、例えば第一幕で、まだ恋を知らないと嘆く犬のラパークに向かって、知ったかぶりのビストロウシュカ(女狐)は椋鳥の騒がしい交尾の様子をまくしたてます。添付の歌詞の邦訳は低レベルで日本語になってない感じがしますが、、椋鳥の話を聞いて変な気を起した犬のラパークがビストロウシュカにけしからぬことをしようとする場面のト書きで、「ラパークはしっぽでビストロウシカをつかまえる」とあるのは如何なものか。ボルネオかどっかの猿じゃあるまいし、単に対訳として日本語が熟していないという以前の問題です。「オペラ対訳プロジェクト」という日本語サイトには「ビストロウシュカの尻尾を手でにぎる」とあって、これも変。犬が手で握る?(笑)ボーカルスコアのドイツ語のト書きは"Dackel nähert sich der Füchsin in verliebter Absicht, sie stößt ihn um.”(愛を感じて近づくが撥ねつけられる)とありますが、簡略過ぎる感じ。英訳のリブレットが入手できず元々どう書かれているのかは謎のままです。

もう一つの言葉と音楽の関係についてはどうでしょうか。試しに第一幕の冒頭近く、こおろぎときりぎりすの会話の部分を見てみましょう。
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こおろぎもきりぎりすも、「子供の声」と指定されています。自由奔放さと精密さの同居するこの譜割を子供が精確に歌うことは多分期待できないでしょうから、これは「語り」のための一種の目安と考えてよいと思います。いや、大人が歌って教えてあげれば子供でも簡単に歌えるかも知れませんが、実はこの作品のほとんどのページがこれに類した書法で書かれており、歌手たちは大人も子供も譜割の精密さよりは語りの自由さに重きを置いて、例えばチェコ語(モラヴィア方言)の長母音は心持ち長く歌う、といった事が暗黙の了解として前提されていると見るべきでしょう。こういった暗黙の了解事項はロッシーニ以前のイタリアオペラのレチタティーヴォ・セッコにも見られることですが、ここでより大切なことはごくわずかな部分を除いてほとんど全曲がこの朗唱風の書法で書かれていることと、音楽のリズムや拍子などアーティキュレーションが言葉の抑揚に完全に従属していること、音楽の一切が語りの流れを邪魔することなく、しかも驚くべき雄弁さで書かれているということだと思います。
さらに、もっと大切だと思われることは、このリブレットはすべて散文で書かれているという点です。対比として「ルサルカ」ばかり持ち出すのも気の毒ですが、あの「ルサルカ」のリブレットはアリアのみならずレチタティーヴォに至るまで全て完全な韻文で書かれていました。格変化が激しく語順の制約が少ないチェコ語ならではかも知れませんが、韻文であるということは、言葉がより音楽に従属しやすい、ということです。音楽がまずありき、と思われてならないのもそこに原因があると思います。逆に、「女狐」は全くの散文ですから、当然伝統的な拍節法をもつ旋律であれば云わば字余りや字足らずが頻出し、大変困った結果になるはずです。どれだけ語りが中心であっても音楽である以上、旋律の自律的なまとまりが必要であり、台詞と音楽が衝突する事態は避けられません。この困難を、ヤナーチェクは二つのレベルで解決しています。一つは、この譜例からも判るとおり、5連譜や7連譜といった自由度の高い譜割、そしてもう一つは、伝統的なフレージングからの逸脱とその結果としての変拍子の多用です。実際には歌唱部分の多くは2/4や3/8といった短い拍子で書かれていることが多く、一見したところ拍子の頻繁な変化は少ないのですが、例えば4小節で一単位となるフレーズがa-a-b-aと続いて16小節で一節の旋律が生まれるという、ヨーロッパの伝統的な音楽語法というものがここでは完全に無効となっているのです。それは伝統の破壊に他なりませんが、しかもそれは、ウィーン楽派やバルトーク、ストラヴィンスキーら20世紀音楽の使徒らが等しく通った伝統的語法への反逆という道筋を全く通らずに、アカデミズムとは無縁な辺境の作曲家が日常会話のような台詞を携えて自然に行き着いた結果のように見えます。なおかつその破壊力はバルトークの弦楽四重奏曲第3番や、ストラヴィンスキーの春の祭典に決して引けを取っていないと言っても過言ではありません。

本稿の冒頭近くで、ヤナーチェクの語法の本質は「自由」というものだと書きました。ミクロな分析でそれが立証できたかどうか心許ありませんが、自由は時に反逆と同様の結果をもたらす、とまとめることが出来そうです。でも、これでは「女狐」の魅力を語ったことには全然なりませんね。次回はもう少し、全く聴いたことのない人にも聴いてみたいと思ってもらえるような分析を続けてみたいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2011-10-09 19:30 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)