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Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その18)

昨年の紅白も家人が観るのでなんとなく目に入るだけだったんだけど、竹原ピストルの熱い声はやっぱり耳を惹き付ける。でもツイッターで感想を見てたら「うまいラーメン作りそう」ってのが一番なるほど、と思えました。





晩年の大作「彼方の閃光」を聴いていきます。

 CD25
 彼方の閃光(1991)

 チョン・ミュンフン指揮バスチーユ歌劇場管弦楽団
 1993年10月録音


この作品、ウィキペディアを始めとして、意外とネット上の情報も多いので作曲の経緯等は割愛。以前の私であれば、「若い頃の手癖で書いてる」だのなんだのと否定的な言辞を弄したかも知れませんが、「アッシジの聖フランチェスコ」と並べて何度も録音を聴き、「アッシジ」のびわ湖ホール公演に触れて圧倒的な感銘を受けた今では、大変な傑作ではなかろうかと思うようになりました。全体的な印象をまず記すと、
・晦渋なところの少ない、平明といってよいくらいの分かりやすさ。
・巨大編成にも関わらず、透明・静謐・簡素な書法。
・仰々しいサブタイトルがなくても切実に感じられる宗教性。
こんなところでしょうか。
それにしても、このところ何度も書いているように、メシアンの音楽は生演奏を聴くとかなり印象が変わる。晦渋に思えたところがすんなりと腹に入ってくる感じ。昨年のカンブルランと読響の「彼方の閃光」のコンサート、やはり行っておくべきだったと後悔頻りです。
先ほど、「平明といってよいくらいの分かりやすさ」と書いたけれど、そうはいってもメシアン独特のイディオムによる一時間を超える大作、そうすんなりと咀嚼できるものでもありませんので一曲一曲自分の備忘のためのメモを付けておきます。サブタイトルの定着した訳語は多分ないのでウィキを参照したが、明らかな誤訳など適宜修正しました。


第1曲「栄光のキリストの出現」
金管のパルジファル風のコラール。初期の「キリストの昇天」を思い出させる美しさ、途中何度か長いゲネラルパウゼが出てくる。それは生涯の終りの万感の思いを想起させる。
第2曲「射手座」
弦のカンティレーナをチューブラーベルやゴングといった打楽器、弦のハーモニクス、フルートの鳥の歌などが彩る。ここにも時折長いパウゼが・・・。この弦の旋律、どこかで聴いたことがあると思っていたが、「嬰児イエズスに注ぐ20のまなざし」の第11曲「聖母の初聖体拝受」の中間部(マニフィカト)に入る直前、左手に現れる「聖母と御子の想起」Rappel de《la Vierge et l'Enfant》と記されている旋律である。生涯の終りにこうして若き日の作品の自己引用を行っているのは面白い。
第3曲「コトドリと結婚の街」
おどけた感じのスケルツォ。愉悦に満ちた鳥の声。
第4曲「刻印された選ばれし者」
大小のゴングの鳴り響く中、木管による錯綜したアンサンブル。わずか2分強、晦渋という訳ではないが、複雑なリズムの重ね合わせは音によるスコラ神学と言いたくなる。若い頃からこの晩年まで、こういった複雑さもまたメシアンの神髄と思わせられる。
第5曲「愛にとどまる」
まどろみのように甘い官能的な音楽は「トゥーランガリラ」の「愛の眠りの園」を連想させるけれど、何かが決定的に違う。それは音楽の純度に関わる何かだが、まだ私の中で言語化していかない。何度か長い長いゲネラルパウゼ。
第6曲「7つのトランペットと7人の天使」
様々な打楽器とトロンボーンのユニゾン。大太鼓の三回ずつの連打が非常に特徴的。最近はほとんど使われないが御稜威(みいつ)という言葉を思い浮かべる。
第7曲「そして神はすべての涙をぬぐい去り給う」
高い弦のトリル、木管の優しい響きとホルン、鳥の歌。メシアンのたどり着いた癒やしの世界。
第8曲「星々と栄光」
タムタムと低音楽器の晦冥の響きに光が差すような金管のスケルツァンドなパッセージ。闇と光の絵画的表現。この作品、大半の楽章はとてもシンプルな作りをしていて、若い頃の(たとえばトゥーランガリラのような)過剰感はない。ただこの第8曲と第10曲はたくさんの素材がさまざまな楽器の組み合わせでめまぐるしく現れる。だが巨大オーケストラをトゥッティでならす箇所は随分少ない。前後の楽章にくらべるとごてごてと複雑な構成に聞こえるが全体の中にあって違和感がない。これと次の第9曲は、私には殆ど「アッシジの聖フランチェスコ」のスピンオフ作品であるかのように思えます。
第9曲「生命の樹の鳥たち」
木管群による様々な鳥たちが鳴き交わす。
第10曲「神の道」
弦の半音階上昇と金管による神の栄光。第8曲と同様、多彩な楽想が詰め込まれているにも関わらず、全体のシンプルで静謐な印象を壊さずに収まるところに収まっているという印象を受ける。
第11曲「キリスト、楽園の光」
優しく美しい弦楽合奏で、第1曲とのシンメトリーを成しながら穏やかに全曲を終わる。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2018-02-15 22:57 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

メシアン 「鳥のカタログ」全曲演奏会

早朝家を出るとき、「かえりはさむそうや」と呟いたら家人に「え?むかいおさむさん?」と言われたことある。一瞬アナグラムかなと思ったけど全然違う。





京都のカフェ・モンタージュで「鳥のカタログ」全曲演奏会。関西人はこの町なかのカフェを誇りに思っていいと思う(京都人からは「関西」で一括りにすんな、と言われるかも知れんが)。

 2018年2月21日@カフェ・モンタージュ
 メシアン 「鳥のカタログ」
  第1巻 
   1.キバシガラス
   2.ニシコウライウグイス
   3.イソヒヨドリ
  第2巻
   4.カオグロサバクヒタキ
  第3巻
   5.モリフクロウ
   6.モリヒバリ
  第4巻
   7.ヨーロッパヨシキリ
  (休憩・入替)
  第5巻
   8.ヒメコウテンシ
   9.ヨーロパウグイス
  第6巻
   10.コシジロイソヒヨドリ
  第7巻
   11.ノスリ
   12.クロサバクヒタキ
   13.ダイシャクシギ

入口で渡された曲目チラシにはフランス語によるタイトルのみで和名表記がなかったので一応挙げておきました。WikipediaもPTNAピアノ曲辞典も間違いだらけなのでご参考まで。
作品について思うところは以前このブログでも取り上げているので繰り返しませんが、(先日「アッシジの聖フランチェスコ」公演の備忘でも書いたように)メシアンの作品は舞台やリサイタルを実際に体験して初めて分かることがたくさんあるように思います。倍音の響きとか、私の低スペックな耳ではよく分かりませんが、意識的でなくともCDでは聴き取れないレベルの音を体験していたのだろうと思います。
細部に関しての個人的な思いとしては、「アッシジ」体験後にこれを聴くと、チョウゲンボウの鳴き声がとても懐かしく、昔の友人に出会ったような感じをうけたのが新鮮でした(第8曲の冒頭近く、Faucon crécerelleと書かれている部分)。あるいは後年主役級に成長した役者の、若い頃に端役でちょろっと舞台に出てる映像を観たときのような感じとでもいえばよいか(「アッシジ」のチョウゲンボウの声はとても重要な役回りですからね)。

木川貴幸の演奏については、前日のドビュッシーの演奏評とほぼ同様の感想を持ちました。良い点は、楽器がクリアによく鳴っていて、どんなに強音でも音が割れたりしないこと。物足りないところはところどころメカニックが不足していると思われること(楽器そのものによる音色のムラや、おそらく高音域のアクションに難があることは勘案すべきだろうと思うが)。例えば第2曲目の中に出てくるニワムシクイや第7曲のヨーロッパヨシキリなどの、気の遠くなるほど長い囀りには、もっとキレの良い指回りが必要なように思います。でもそれで退屈したとかいうことは全くなくて、これほどの大曲(この日は正味3時間15分ぐらいか?)を眠くもならず楽しく聴き通せたのは何と言ってもピアニストの力のおかげであろうと思います。こんなことを言うのはアレだが、大した儲けにもならないだろうに、どうしてこんな苦行にも似た演奏活動をするのか、訝しく思うと同時に感謝や尊敬の念も抱かざるを得ないのでした。
備忘として書いておくが、演奏はすべて楽譜を見ながら。第7曲のブレスなしで延々と囀りが続くところについては、楽譜とは別に何ページ分かをまとめて複写したと思われる大判の紙を適宜譜面台に置いて弾いておられました。

***

余計なことですが、リサイタルの後半に隣に座ったバカ女、演奏始まってまもなくスマホの操作。照明を落とした中ではとても気が散るし、あろうことかスマホにチリチリ鳴る鈴を付けとる。後期高齢者がよくやるけど、こいつはまだ30代後半くらいだろう。それが3回続いたのでちょいと睨んだら、今度はトートバックの中でごそごそ操作してました。鈴は鳴らんが光は漏れる。それを10分に一回くらい。これって躾の問題なのか、それとも一種の依存症なのか。正直音楽を聴く環境としては最悪でした。普通のコンサートホールと違って、このカフェは客層が良いので安心してましたが、一人バカがいるだけで台無しですわ。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-27 00:42 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その17)

崎谷明弘ってすごいピアニストだと思うけど見た目がタイムマシーン3号の関太君みたい。





このシリーズもそろそろ終盤に入ってようやくトゥーランガリラ交響曲にたどり着きました。


 CD20
 トゥーランガリラ交響曲

 イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ジャンヌ・ロリオ(ondes Martenot)
 チョン・ミュンフン指揮バスチーユ歌劇場管弦楽団
 1990年10月録音


前々回の投稿で、11月の初めから2週間ほど入院していたことを書きました。入院中はとにかく暇なもので、ヘッドフォンで「アッシジの聖フランチェスコ」と「トゥーランガリラ」を繰り返し聴いてましたが、おかげで「アッシジ」のほうはともかく、「トゥーランガリラ」のほうはすっかり食傷してしまいました。メシアンの代表作であることに異議を唱えるつもりは毛頭ありませんが、せいぜい「初期の最後を飾る大作である」くらいの見方が妥当ではないかと考えるに至りました。

*****

笹崎譲さんのツイッターにこんなのがありました。

笹崎・(T)・譲
@udupho
教えてもらったのだが、Messiaenトゥーランガリラ交響曲の「立像の主題」の立像って、おち○○んのことで、「花の主題」っ(ピーーーーーー)
18:13-2018年1月5日

どこまで信じていいのか分かりませんが、フィルハーモニア管弦楽団のHPにもこんな記載がありました。

These contrasting themes, both presented in the first movement, symbolise masculine and feminine elements ー the phallic 'statue' and the yielding 'flower' ー, which are transformed and intertwined in the third main cyclic theme,the 'theme of love'.
http://www.philharmonia.co.uk/paris/essays/50/turangalila-symphonie

まぁカトリック的な「愛」とは随分違うなぁと思っておりましたが、これなら「愛の主題」というより「性愛の主題」と訳した方が良さそうです。

*****

いくら入院中ヒマだったとは言え、全10楽章を聴き通すのはけっこうしんどいものです。そこで、邪道ではあるが、適当に抜粋して聴くことも多かったのですが、こんな聴き方をするとそれはそれで面白かったのでメモしておきます。
まず、よく知られている通り、第1・5・6・10楽章が全体のフレームを形作っており、その間に「愛の歌」と「トゥーランガリラ」のシリーズが交互に挟まっているという構造になっています。
そこでまず、フレームの第1・5・6・10楽章だけを抜粋して聴くと、序ースケルツォー緩徐楽章ーフィナーレ、という伝統的な交響曲という感じがする。仰々しくていかにもメシアン、なのだが、正直あんまり面白くない。
次に第2・4・8曲の愛の歌シリーズだけを聴くと互いによく似ていてちょっと面白い。スケルツァンドな部分と、ねっとりとした旋律の交代、後者はスクリャービンならさしずめestaticoとでも表記したであろう官能的な旋律ですが、どことなくハリウッド的と言いたくなるような通俗的な感じも。この作品を評価しないブーレーズは、こういうところを嫌ったのかもしれません。
最後に第3・7・9曲、「トゥーランガリラ」のシリーズを続けて聴くと、これが滅法面白い。全曲通しで聴くと何となく埋没しがちな楽章ですが、よく聴けばオーケストラ版「カンテヨージャーヤー」の趣もあって、これはちょっとした発見でした。

*****

チョン・ミュンフンとロリオの演奏、丁寧だし精緻でもあるが、ロリオのピアノは良く言えば中庸、悪く言えば若干の年齢的な衰えを感じさせ、チョンの指揮もロリオに気を遣ったのかピアノに寄り添うあまり勢いを犠牲にした感もある。ロリオといえばメシアン、それもやや歳とってからの録音しかご存じない方も多かろうと思いますが、若き日のブーレーズの第2ソナタの録音(1961年頃か。ブーレーズ&ドメーヌ・ミュジカルの10枚組CDに入っている)を聴くと、本当に凄いピアニストだと思う。もう少し若い頃に録音してほしかったな、というのが偽らざる感想です。

なんか今回は随分手抜きっぽいが、まぁいいか。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-08 00:13 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

メシアン 「アッシジの聖フランチェスコ」 びわ湖ホール公演

京阪のCMで、尻尾を落とし物と間違われた着ぐるみの狐さんが「しっぽですぅ~」ってやつ、なんか言い方がいけずそうで、あゝ京都やなぁと思います。





ブログって寿命みたいなのがあって、ある日突然更新が止まってそのまま休眠というブログがけっこうありますね。このブログも、なんとなく書くのが面倒といった理由で随分更新してませんでしたが、世の中の役には立たずとも、かつて行った演奏会の詳細を思い出すよすがとしてはそれなりに役立つということで、記憶が薄れてしまう前に少しでも記録しておきたいという気にようやくなった次第。実は11月の初めに大腸憩室出血で2週間ばかり入院し、楽しみにしていたカレッジ・オペラハウスの「偽の女庭師」公演を聞きそびれてしまいました。メシアンのほうは退院後1週間たらずの病み上がりながらも何とか間に合いました。これは本当に行けて良かった。私の鑑賞歴の中でも5本の指に入る素晴らしさでした。


 2017年11月23日@滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール
 メシアン 「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式)

  天使: エメーケ・バラート
  聖フランチェスコ: ヴァンサン・ル・テクシエ
  レプラ患者: ペーター・ブロンダー
  兄弟レオーネ: フィリップ・アディス
  兄弟マッセオ: エド・ライオン
  兄弟エリア: ジャン=ノエル・ブリアン
  兄弟ベルナルド: 妻屋秀和
  兄弟シルヴェストロ: ジョン・ハオ
  兄弟ルフィーノ: 畠山茂
  合唱: 新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル
  合唱指揮: 冨平恭平
  オンド・マルトノ: ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー、大矢素子、小川遥
  管弦楽: 読売日本交響楽団
  指揮: シルヴァン・カンブルラン


東京での2公演も含め、今回のカンブルラン/読響の素晴らしさについては、夥しいツイッターやブログなどで感想も書き尽くされたと思うので、私のほうはあくまでも個人的な備忘録としての記録にとどめたい。
メシアンのこの異形のオペラについては、昨年夏にケント・ナガノのCDを聴いた感想をアップしましたが、その時の感想を一言でいえば「聖痕の場はようわからん」というものでした。だが、演奏会形式とはいえ簡単な所作を伴った舞台で体験すると、もう理屈を超えて心を揺さぶられた、としか言いようがない。どなたかがツイッターで仰っていたが(誰のものだったか、今となっては探しようがない)、メシアンはホールに満ちる倍音の響きまで計算してスコアを書いている、といった指摘をされていました。そんなに高性能な耳の持ち主ではない私には、真偽のほどは判りかねるけれど、CDのような音源で聴くだけでは絶対に判らないことがあるということだけは確かだと思います。かつてあれほど晦渋に思えた聖痕の場の合唱だというのに、これこそメシアンが已むに已まれず書いた凄絶な音楽であって、この場を経て本当の意味でフランチェスコは聖人となったのだろうと心から納得させられる思いでした。これはもう、メシアンのメチエとか音楽語法のレベルではおそらく解析できず、ただただ虚心に音楽に向き合うことでしか体感できないものかも知れません。さっき、つい筆がすべって「私の鑑賞歴の中でも5本の指に入る」と書いたけれど、実際ここまで対象となる音楽に対して「理屈はともかく、今私はこの音楽を体得した」と思えた演奏会はそうそうあるものではありません。これまで何度も、メシアンの「傑作の森」は1960年代それも前半、「クロノクロミー」から「天の都市の色彩」あたりの諸作であり、「アッシジ」を含む晩年の作品はどちらかといえば過去の回想と手癖だけで書かれたかの如く否定的なことばを書いてきました。だが、今回の「アッシジ」を体験した今、全面的にこの評価は改めなければならないだろうと思います。少なくとも「アッシジ」と「彼方の閃光」はメシアンの辿り着いた極北ともいうべき音楽だと考え始めています。

カンブルランと読響の素晴らしさについて、コンサートゴーアーでもなければ、もしかしたらクラオタですらない私が何を書くことがあろうか。だが、マッシブな響きにおける音圧の物凄さもさることながら、響きがどんなに薄くなっても張り詰めたような緊張感が持続することは書きとめておきたい。「彼方の閃光」もそうだけれど、とんでもなく大きな編成のオーケストラを用いながらも、作品の大半はとても薄い響きで書かれているのがメシアン晩年の特色といえると思いますが、こうして「アッシジ」の演奏でそれを目の当たりにすると、それこそフランチェスコとその兄弟の生活さながら、清貧の果ての豊かさといったものを感じないわけにはいきません。
歌手の中では、フランチェスコを歌ったテクシエが素晴らしい。その声を「慈愛に満ちた」と表現するのは如何にも紋切り型という気がするが、実際そうだから仕方がない。それに加えて、実に生身の人間らしい弱さまで兼ね備えて大変な当たり役だと思います。鳥たちへの説教の場面、フランチェスコと兄弟マッセオとの対話は、この生真面目なオペラの中にあっては一種のスケルツァンドな面白ささえ感じたが、よくよく考えるとこの音楽でそういった面白さを感じるというのは実は大変なことだろう。テクシエの声のもつ人間臭さのなせる技だろうと思います。
天使を歌ったエメーケ・バラートも良かったと思います。正に天上の声。傷、というのが言い過ぎなら一瞬の危うさ、みたいなものが無くはなかったが、それがまったく気にならないほど美しい声でした。レプラ患者役のペーター・ブロンダーも張りのある声で、世を呪う場面から奇跡を経て歓喜の絶頂へという振幅の大きな役を表現し尽くしていました。レオーネ役のフィリップ・アディスはこれら3人と比べると、やや見劣りがします。声量もそうだが、最初の場面の特徴ある増4度が今ひとつ決まらず、音程がぶら下がり気味となるところなど。だが、続くテクシエとのゆったりとした対話は、いかにも師と弟子との対話のように聞こえて、暫く経つとこれはこれでいいのかなと思いました。他の兄弟達も過不足なし。
全曲のなかで重要な位置を占める合唱の素晴らしさも、実際に聴いた多くの方が指摘していることだが、やはり書き留めておきたい。例の聖痕の場での神の声の合唱は、本当に作品の真価を知らしめるほどのパフォーマンスであったと思う。私は、冨平さんの指導下の新国立劇場合唱団ということで、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」の時のパフォーマンスの素晴らしさを思い出したが、「アッシジ」の幕切れの合唱の凄さは、それをも凌いでいたかも知れません。全曲が終わってカーテンコールの間、私、すこし腰が抜けてました。

ほとんど完璧といってもよい今回の公演で、唯一水を差したのが字幕の拙さ。あれはなんでしょうね、グーグル翻訳のほうがマシなくらい。細かいことだが、「チョウゲンボウ」をなんでわざわざ一般的とはいえない「マクソ鷹」と訳すのか。後で調べてみたら、昔(江戸時代以前)、ノスリやチョウゲンボウなど、鷹狩りに使えない猛禽を馬糞鷹と呼んだらしいのだが、このオペラでGheppioをマクソ鷹と訳す理由は私にはまったく理解できない。また、聖痕の場での神の御言葉、確かに日本語にするには大変難解な歌詞ではあるが、今回の字幕はほとんど日本語としての体を成してませんでした。普通、こういった台詞を訳すのなら、せめてヨハネの黙示録くらいは目を通すはずだし、そうしていれば多少生硬ではあってももうちょっとマシな日本語になっていたと思うのだが。あまりこういった指摘は書きたくはないのだが、今回は酷すぎたので備忘として書いておきます。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-04 23:44 | 演奏会レビュー | Comments(5)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その16)

いつか自分が死ぬ直前には、たとえばバッハのコラールなんかが頭の中で鳴っているだろうか。よりによって「有馬兵衛の向陽閣へ~♪」みたいなんだったらやだな。





落穂拾いみたいな雑多な曲を集めた1枚。

CD31
①主題と変奏(ヴァイオリンとピアノのための)(1932)
②キリストの昇天(1935)
③ミのための詩(1937)
④ステンドグラスと鳥たち(1988)
⑤ヴォカリーズ・エチュード(1935)

①ギドン・クレーメル(vn)、マルタ・アルヘリチ(pf)
②チョン・ミュンフン指揮バスチーユ歌劇場管弦楽団
③ノエル・バーカー(Sp)、ロバート・シャーロウ・ジョンソン(pf)
④イヴォンヌ・ロリオ(pf)、カール・アントン・リッケンバッハー指揮ベルリン放送交響楽団
⑤ナタリー・マンフリーノ(Sp)、マリ・ヴェルムーラン(pf)

①1985年4月②1990年10月③1971年5月4-7日④?⑤2008年7月4日録音

「キリストの昇天」(1932/33)はオルガンのためのバージョンを先日紹介しましたが、このオーケストラ版が先に書かれており、後から第3曲を差し替えてオルガン用に編曲したとのこと。オーケストラ版は、良くも悪くも先人達からメシアンが得たものが露わに示されているけれども、オーケストラ・ピースとしての完成度の高さはもっと喧伝されて然るべきだろう。その穏やかな曲調と相俟って、もっとコンサート等で取り上げられないものかと思います。「先人達から得たもの」と書きましたが、特に第1曲における「パルジファル」の影響、第3曲のオリエンタリズムにおけるサンサーンス、そしてもちろんドビュッシーの影響は歴然としています。メシアンとサンサーンスの比較に異を唱える方も多かろうと思いますが、日本におけるサンサーンスの評価というのは不当に低いのではないかと思う(文士崩れの評論家の酷評はともかく、プロの音楽家の評価は概ね高いと聞く)。メシアン自身、後にサンサーンスを批判しているようだが、前衛音楽家として守旧派の代表たるサンサーンスを批判するのは当然として、少なくともこの時期のメシアンのオーケストラ書法にはサンサーンスの刻印が刻まれているような気がします。
チョン・ミュンフンの演奏はその精緻さで際立っていると思います。初期作がこれほどのレベルでレコーディングされるというのは本当に素晴らしいことだと思う。

以前このメシアンのシリーズその6で、甲斐貴也氏の論評を紹介したが、それによると「主題と変奏」(1932)と「ミのための詩」(1937)はどちらも最初の妻クレール・デルボスとの結婚が直接の契機となってかかれたものらしい。そう思って聴くからかも知れませんが、確かにこの2曲、かたやヴァイオリンとピアノのデュオ、かたや連作歌曲集と形態は違えど双子の兄弟のように似ています。それは作曲技法としては移調の限られた旋法による明確な調性作品、聴いた印象としては穏やかで幸せに満ちた曲調が支配的。いまだ習作の域を出ない初期作とは言え、不思議な魅力を持つ佳作だと思います。
「主題と変奏」はクレーメルとアルヘリチのデュオで、こんな落穂拾いみたいなディスクにはもったいないくらい素晴らしい演奏。「ミのための詩」はもっと透明な、天上的な声で聴いてみたいという気もするけれど、曲を知るには何の問題もないと思います。

ブーレーズとアンサンブル・アンテルコンタンポランの委嘱で書かれた「ステンドグラスと鳥たち」は一曲の大半が鳥の歌から成り立っている音楽としては最後のものだろうと思います。ブーレーズの委嘱だから、という訳ではないのでしょうが、晩年の作としては辛口の部類。スコアがどうなっているのか分かりませんが、途中で「クロノクロミー」のEpodeの箇所を思わせるようなカオスが出現するのが非常に印象的。10分に満たない小品ながらも重要な作品であると思います。シュレーカーなどちょっとマニアックな作品を取り上げることで知る人ぞ知る指揮者、カール・アントン・リッケンバッハーの指揮も見事。

1935年の「ヴォカリーズ・エチュード」は未だ習作の域を出ていない小品。そもそもこのアルバム、”Complete Edition”と言いながら結構遺漏が多いのだが、この手の初期作品はもう十分、といったところ。きれいな曲だし、もし好きな方がおられたら申し訳ないのだが・・・。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-26 00:18 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その15)

久々の映画鑑賞でポール・バーホーベンの「エルElle」を観る。イザベラ・ユペール扮するヒロインがレイプ犯を追い詰めるサイコサスペンスかと思ったら、中ほどで犯人があっさり分かってからの全く先が読めない展開が凄い。フェミニストが発狂しそうな描写が山ほどあるけど、多分何を言われても歯牙にもかけなさそうなのが潔い感じ。登場人物でマトモな人間が一人もいないのも笑っちゃうが、特に敬虔なクリスチャンへの悪意がハンパじゃない。おそろしく病んだ物語なのに後味が悪くないのも不思議といや不思議。でも、映画が終わって館内が明るくなった時の、観客のなんともいえない残尿感みたいなもやもやが最も面白かったかも。





メシアンがオルガンのために書いた二つの大作を聴いていきます。かたや戦後の前衛の旗手であった頃の作品、もう一つは晩年の作品です。


 CD12/13
 オルガンの書(1950)
 聖体秘蹟の書(1984)

 オリヴィエ・ラトリー(org)
 2000年7月パリ・ノートルダムで録音


私はどうもメシアンのオルガン作品が苦手だということは再三書いてきました。1950年に作曲された7曲からなる「オルガンの書」についてもなかなか手強い印象ですが、これまで聴いてきたオルガン曲のなかでは最も面白い作品でした。手元にスコアがないので解説の受売りですが、構成原理としてはヒンドゥーのリズムとセリエリズムと鳥の歌の混合、それがカトリックの教義(楽譜にはコリント人への第一の手紙13:12や、ローマ人への手紙11:36が記されているらしい)と結び付けられているといったところ。確かに、この前後の作品と比べても、というよりメシアンの全ての作品の中でも最も前衛的な作風で、1948~49年あたりの「カンテヨージャーヤー」や「4つのリズムのエチュード」に通じるものがあります。ただ、ピアノと違ってオルガン作品の場合、めくるめくようなヴィルトゥオジテはあまりなく、また人がオルガン作品に期待するような分厚くマッシブな響きはとても少なくて、(激烈な無窮動の第6曲を別とすると)上記の構成原理がむき出しになっているかのような、あるいは点と線だけで書かれたような薄い響きが殊更実験的な印象を強めています。終曲は静謐な印象ながらも複雑なリズムカノンの技法が用いられていて、「音価と強度のモード」でやったことをオルガンで展開しようとしたのかも知れません。数回耳で聴いた程度ではなかなか腹に入らない作品ですが、これは今後何度も聴いてみたいと思います。

1984年の「聖体秘蹟の書」はメシアンの最後のオルガン作品であり、全18曲からなる大曲。その大半はパリのサント・トリニテ教会でのメシアン自身の即興演奏を基にしているといいます。私の苦手意識を横に置いておくと、これはまさにメシアンの生涯に亘るオルガン作曲技法の集大成と呼ぶに相応しいもので、そこには鈍い色彩の油絵のような分厚い和音から、晩年の特色である薄い和声、点と線で書かれたようなテクスチュアまで、さまざまなグラデーションが見られる。また禍々しい不協和な響きからメシアン初期の、あの快楽とも苦痛ともつかない美しくも歪んだ和声、また第16曲のように殆どイージーリスニングと見紛うばかりの甘い和声まで、調性と無調の間のグラデーション、さらにグレゴリオ聖歌風のモノディとホモフォニーの教義問答、徹頭徹尾鳥の歌で構成された楽曲(第15曲)、激烈なトッカータに甘いカンティレーナと、本当に様々な技法が次々と立ち現れるのは壮観という他ありません。しかし、その野放図に伸び広がるゴシック建築みたいな悪趣味ぶりというのは、やはり私にはなかなか素直に受け入れがたい側面もあるのでした。おまけに、18曲それぞれに例によって宗教的な表題がついており、最後まで徹底した宗教オタクであったメシアンは、その点でも私には遠い音楽家であったと言わざるを得ません。もう少し聴き込めば印象も変わるだろうか、と思いながら、なかなか聴き通すのが困難な作品でした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-08 14:33 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

佐渡裕のトゥーランガリラ交響曲

「バーニラ、バニラ、バーニラ求人、バーニラバニラで高収入~♪」って大音量で流してるフーゾク系アドトラック、ふとしたはずみに頭の中でエンドレスで鳴り出すのでやめてほしい。





随分日が経過したので備忘のみ簡単に。


 兵庫芸術文化センター管弦楽団 第99回定期演奏会
 2017年9月17日@兵庫県立芸術文化センター
  メシアン トゥーランガリラ交響曲
  (アンコール)
  ピアノとオンド・マルトノのための未刊の4つの小品より 第1曲

  指揮: 佐渡裕
  ピアノ: ロジェ・ムラロ
  オンド・マルトノ: 原田節
  管弦楽: 兵庫芸術文化センター管弦楽団


昨年の京響に引き続いて今年もトゥーランガリラを聴くことができました。
佐渡裕の指揮というのは、意外に先入観を覆すような読めないところがあって、どういった演奏になるのか楽しみでしたが、今回の演奏は一言でいえばエンタメ志向の強いとても分かりやすい演奏。それがこの人の強みであり、また弱みでもあるといったところ。
昨年聴いた高関健氏の指揮を思い出すと、その違いは歴然としています。高関の演奏は(どこがどうと具体的に言葉にするのは難しいが)分析志向といっていいものでしたが、佐渡のほうは早い楽章は異様なほど早く、遅い楽章もあまり粘らない。退屈しがちな聴き手にはちょうど頃合いなのかも知れません。「星の血の喜び」など、猛烈なテンポで金管が派手に雄叫びをあげるのが刺激的で、これをかっこよく感じる聴き手も多いのでしょうが、私は本当はこの作品、オーケストラの技量自慢のダシではなくて、もっとスコラ哲学がめんどくさいという意味合いで「めんどくさい」作品だと思うので、なんだかメシアンの「レスピーギ化」といった感じがしました。「愛の眠りの園」はとてもきれいで、素晴らしい弱音が聴けたのだが、やはり緩徐楽章全体の印象はあっさりしてる、というもの。昨年のブリテンの舞台、ボトムとタイターニアの濡れ場でねっとりとエロい音楽をやった人にしてはちょっとなぁ、という感じ。
現実問題として、関西(京都はちょっと違うが)でトゥーランガリラをやろうと思えば、こういうエンタメ路線しかないのかも知れません。実際、今回の演奏でも(でさえ)途中で辛抱堪らず席を外す客がかなりいたので、仕方ないのかなとも思います。でもそれではこぼれ落ちていく要素がこの曲にはたくさんあって、それをこそ実演で聴きたいという客もいるはず。例えばオンド・マルトノと木管の絡み合いはCDで聴くだけでは絶対に分からない面白さがあると思うのですが、それを味わう環境ではなかったということ。関西(しつこいようだが京都を除く)で20世紀作品をやる意義は大きいはずだが、結果は残念という他ない。
良し悪し、好き嫌いは別として、ちょっと面白かったのは、ガムラン隊(ピアノ、オンド・マルトノ、チェレスタ、ジュ・ドゥ・タンブル、ビブラフォン)と、金管とそれ以外の楽器が、マッスとしても溶け合わずにバラバラに聞こえたこと。猛烈なテンポでも、3群の各々の縦の線はよく合っていて、技量の高さが分かるのだが、3群がそれ以上溶け合わないのは不思議。たぶん、メシアンのスコア自体にそう聞こえがちな要素があって、あまりテンポを煽るとそれが露わになるということでしょうか。主役ともいうべきムラロのピアノは見事だが、本当はもっと表現したいことがあるだろうに、と気の毒に思える瞬間もありました。アンコールの初期の小品のほうが寧ろ表現者としてはカタルシスがあったのでは、と思ったほど、これは意外な聴きものでした。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-01 23:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その14)

東京五輪音頭のお披露目のニュース、どうでもいいんだけど井手茂太が浴衣着て踊ってると「ここ芝プー?」って思ってしまう。なんかね。なんでだろ。





いよいよ超大作「アッシジの聖フランチェスコ」に辿り着きました。


CD16~19
アッシジの聖フランチェスコ
 天使: ドーン・アップショウ
 聖フランチェスコ: ジョゼ・ヴァン・ダム
 レプラ患者: クリス・メリット
 兄弟レオーネ: ウルバン・マルムベルク
 兄弟マッセオ: ジョン・アレール
 兄弟エリア: ギー・ルナール
 兄弟ベルナルド: トム・クラウゼ
 兄弟ジルヴェストロ: アコス・バンラキー
 兄弟ルフィーノ: ダーク・ダーズ
 アーノルド・シェーンベルク合唱団
 ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団
 1998年8月ザルツブルク音楽祭のライヴ録音


私の手元に一冊の奇妙な書物がある。
ピエール・ジャネ著『症例マドレーヌ 苦悶から恍惚へ』(松本雅彦訳・みすず書房)。1926年の『苦悶から恍惚へ 信念と感情に関する覚書』という膨大浩瀚な著作の冒頭部分だけの訳出であり、これだけでフロイトとほぼ同時代の精神科医であったジャネの業績を云々することは不可能というしかない。
北フランスの裕福な工場主の家庭に生まれたマドレーヌは、10代の終わりに清貧の生活に憧れて家を出奔、24年の間行方不明となり、42歳の時にパリのサルペトリエール病院に入院し、入退院を繰り返しながら64歳に死ぬまで実に22年もの間ジャネの患者として膨大な私信を交わした。彼女の症例の代表的なものは、宗教妄想とそれに伴う苦悶発作や恍惚発作、つま先立ちの歩行(下肢の拘縮)、それと繰り返し手と足にあらわれるキリストの聖痕(スティグマ)である。後に出奔の理由に関して彼女はこう記している。「そのころ、この聖者(アッシジの聖フランチェスコ)の徳と聖からはほど遠いながらも、私は自分を聖フランチェスコのようだと思っていたし、子どものころから聖フランチェスコの情熱に強い影響を受けていました。」(22~23ページ)
しかしここで言及したいのは、フランチェスコのことではなくて、彼女の症例の一つとして記されている聖痕のことである。
「いま一つ興味ある身体症状が私の研究を刺激した。入院した病棟でマドレーヌに小さな傷跡が目撃されたことである。彼女は、この傷跡は右足の甲に自然にでき、ずーっと続いてきたようだ、と言っている。その小さな掠り傷はほとんど表皮にとどまる浅いもので、ちょうど足の甲の中央にあり、卵形をして、縦10ミリ幅7ミリほどのものであった。彼女は、幸福感に包まれた深い眠りに引きつづいて足に激しい痛みを覚え、その後足の甲に小さな水泡ができてきたこと、そしてその水泡が数時間後につぶれ小さな潰瘍のようなものになった、と言っている(中略)しかししばらくすると、この水泡はさまざまな影響下であちこちに再び現れ、しかも正確に足の甲、掌、左胸と以前と同じ場所に出現してくるのである。これら小さな傷の現れるのが足、掌、左胸であることを考えれば、またそれらの現れるのはマドレーヌが十字架の姿勢をとりながら恍惚の眠りにある宗教儀式のときであることを付け加えれば、躊躇なくこの皮膚の傷がキリストの五つの傷痕に関係があると思いいたるであろう。それは、恍惚状態にあって神秘的な考えを抱く人たちによく認められた聖痕(スティグマ)という現象を表している。」(44~45ページ)
「私はこの研究を注意深く進めることができた。というのも、マドレーヌのサルペトリエール滞在中に、聖痕は頻繁に出現したからである。1896年に二回、1897年に五回、1898年に五回、1899年には一〇回を数えている。このテーマの研究結果はあらためて述べるが、いずれ聖痕現象に類似したものを区別吟味してゆく難しさに気づくことになる。」(46ページ)
「月経に関して特筆すべき所見はほとんどない。おおむね順調で、ただ二十歳の遁走のとき二ヶ月から四ヶ月ほど中断している程度である。ただ、聖痕の出現と月経の出現とに関連があることはすでに指摘しておいた。聖痕はほとんど月経に先立つ数日前に現れている点である。」(269ページ)
残念ながらこの邦訳ではこれ以上の記述はなく、この「聖痕」がマドレーヌの自傷なのかどうかは分からない。未邦訳の部分に更なる分析があるようだが、それについて触れられた日本語の文献も見当たらない。一つだけ言えることは、日本語で聖痕について調べようとすると、ほとんどが宗教かオカルトか、というありさまであって、多少とも科学的な裏付けのある文献というのはほとんどないと思われること。上記の著作にしても、精神医学の黎明期に書かれたものであって、オカルトとどこが違うのか、という意見もあるだろう。だが、宗教にもオカルトにも逃げずに、ジャネ自身が見た事実を淡々と記述していく姿勢には何か好ましいものを感じたということだけは確かだ。

最初に長々と「聖痕」についてのジャネの引用をしたのは、カトリックの信仰を持たない私にとって、このオペラを理解しようとする上で最も障碍となるのが、第三幕第7景の、フランチェスコの聖痕拝受の場面であるから。
このほとんど舞台作品としてのスペクタクルな愉しみを欠くオペラの中で、それでも見せ場であると思われるのは、第3景のレプラ患者への接吻と治癒、第6景の小鳥への説教、そしてこの聖痕拝受の場面だろう(いずれも演出家泣かせだとは思うが)。だが、最初の二つが、フランチェスコの慈愛に満ちた精神によって無宗教者にもそれなりの納得が得られるのに対し、聖痕については理解の外にあるとしか言いようがない。私はこのブログでメシアンについて書きながら、何度もカトリックの教義を知らずしてメシアンの理解はあり得ないのではないか、と記してきた。この長大なオペラでも、やはりこの第7景の音楽は他の場面の音楽(それなりに美しく、繰り返し聴けば腹に入ってくるという感触が得られる)に比べて晦渋の度合いが高いように思う。それは敬虔なカトリック教徒であるとともにインテリでもあったであろうメシアンその人の、聖痕拝受を教義として受容するにあたっての苦悩の反映であるような気がする(それは単に私のメシアンへの無理解を証するだけのことかも知れないが)。

もう一つ、この第三幕第7景で理解の妨げとなるのが、次の箇所。聖フランチェスコが神に「この卑しむべき魂、このつまらぬ肉体をあなたに捧げてもよいのか」と問うたのに対して合唱(神)が応える場面。

Choeur
C’est Moi, c’est Moi, c’est Moi, je suis l’Alpha et l’Oméga.
Je suis cet après qui était avant. Je suis cet avant qui sera après.
Par Moi tout a été fait. C’est Moi, c’est Moi qui ai pensé le temps et l’espace.
C’est Moi,c’est Moi qui ai pensé toutes les étoiles.
C’est Moi qui ai pensé le visible et l’invisible, les anges et les hommes,
toutes les créatures vivantes. Je suis la Vérité d’où part tout ce qui est vrai,
la première Parole, le Verbe du Père,celui qui donne l’Esprit, est mort et
ressuscité, Grand-Prêtre éternellement:
l’Homme-Dieu! Qui vient de l’envers du temps, va du futur au passé, et
s’avance pour juger, juger le monde. . .

合唱
私、私こそ、この私こそが、アルファにしてオメガである。
私はかつては始めにいた者であるが、今ここに後から来た者としてある。
私はやがては後から来た者となるが、今ここに始めにいた者としてある。
この私によって全てのことは成された。
私、この私こそが、時空を構想した。
私、この私こそが、すべての星々を構想した。
この私こそが、目に見えるものと目に見えないもの、天使と人間、
あらゆる命ある被造物を構想した。
私は真理である、全ての真なるもの―
 最初のことば、
 父の「み言葉」[注:イエスのこと]、すなわち精霊を降らせ死後の復活を果たした者、
 永遠なる偉大な司祭であり、人の姿をとった神!
 時間の向こう側からやって来て、未来から過去に歩み、
 世界を裁く日のために、前に進む者...
それら全ての真なるものは真理である私がその源である。

(訳は本邦初訳の『インカ帝国の滅亡』(マルモンテル作、岩波文庫)の訳者である湟野ゆり子さんにお願いしました。この場をお借りして感謝申し上げます。)
「私はアルファでありオメガである」はヨハネの黙示録に何度か出てくるが、その後はメシアンのオリジナルの台詞のようだ。だがこれは、聖句によくあるレトリックではなくて、メシアンが生涯の終わりに辿り着いた神の定義のように私には思える。このオペラ全体の頂点は、終幕のフルオーケストラと合唱の数十秒も続く協和音の爆発もさることながら、この晦渋な第7景の合唱こそ真の頂点という感じを受ける。明晰であるのに何かしら理解を拒むようなこの重要な台詞をどう理解したらよいのか。大文字のMoi、父のみ言葉、真理・・・これはまるでラカンのセミネールを読んでいるみたいだと思いながら、案外と無宗教者がカトリックの教義に(帰依という正門から入るのではなく)近づくには、ラカンのシェーマの理解が不可欠ではないかと思った。それは今の私には手が届かないものであるが、音楽だけを聴いていたのでは、また歌詞の上辺だけを読んだだけではどこまでも浅はかな理解しか得られないのであるなら、いつかは手を出さないわけにはいかないだろうと思う。いや、メシアンの音楽を楽しむのに、そこまで思い詰める必要はないだろう、と言われるかも知れないが、それは違う。少なくともメシアンはこのオペラで聴いて楽しいだけの音楽を書こうとは一瞬たりとも思っていなかったはずだ。この神の言葉を単に詩的なレトリックとして捉えていたのでは決して辿り着けないものがあるように思う。

メシアンがこの大作で用いている音楽語法についてくどくど述べるつもりはないが、それに関連することとして、メシアンは第5景で、天使の奏でるヴィオールを聴いて失神したフランチェスコにこのような台詞を歌わせている。
Si l’Ange avait joué de la viole un peu plus longtemps,
par intolérable douceur mon âme aurait quitté mon corps. . .
(もう少し長く天使がヴィオールを奏でていたら、その耐え難い甘美さゆえに私の魂はこの肉体を離れていただろう)
メシアンが理想として思い描いていた音楽はこのような音楽ではなかったか。このブログで、私の仮説として、メシアンの絶頂期は50年代の終わりから60年代あたりであって、70年以降は随分と隙間の多い、手癖で書いているような音楽が多くなること、また40年代以前の作品によくある甘美な和声が70年代以降に再度現れ、ある種の退嬰を感じさせることを書いてきた。天使の音楽を書くには遅すぎた。メシアン老いたりと思わざるを得ないのだが、生の演奏でこの場面を聴けばどのように感じるだろうか。私は今秋の11月23日にびわ湖ホールでの公演を聴きに行く予定なのだが、ここしばらく(かれこれ30年近く前に小澤征爾の録音を聴いて以来だが)このオペラを聴きながら、ちょっと予習のつもりがあちこちに仕掛けれられた躓きの石に躓いて、少しも先に進めないのである。

演奏については何の不満もない。先に書いた小澤征爾の演奏のことは殆ど記憶になく、当時もよく分からないまま持て余してCDも手放してしまい、比較することは困難だが、レプラ患者が奇跡によって治癒する場面など実に美しく、終幕の壮麗さも見事。同時に、この上なく空虚さも感じ、以前に「クロノクロミー」について書いたときのような、興奮を抑えきれないほどの感動は感じることができない。これはもう演奏の所為ではなくメシアンの晩年の作品の限界といっていいのだろう。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-08-26 22:06 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その13)

辛子明太子とプチトマトを一緒に食うと、口の中がめっちゃ生臭くなることを発見。最凶の食い合わせかも。一度お試しあれ。





前々回「異国の鳥たち」を取り上げたので、今回はそれより少し前の「クロウタドリ」を中心に聴いていきます。

 CD27
 ①美しき水の祭典(1937)
 ②ピアノとオンド・マルトノのための4つの未刊の小品(?)
 ③モーツァルトの様式による歌(1986)
 ④クロウタドリ(1951)
 ⑤5つのルシャン(1948)
 ⑥抑留者の歌(1945)

 ①ジャンヌ・ロリオ六重奏団
 ②イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
 ③ギィ・ドゥプリュ(cl)・イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ④クリスチャン・ラルデ(fl)、イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ⑤ジャン=ポール・クルデール指揮ル・マドリガル・アンサンブル
 ⑥サー・アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団、BBC合唱団

 ①1980年②~④1999年1月3・4日⑤1966年⑥1995年3月22日録音


「クロウタドリ」(「クロツグミ」と表記する文献もある)は1952年、パリ・コンセルヴァトワールのフルートの試験のために書かれたとのこと。技巧的なフルートに比べて、ピアノパートが(メシアンの楽曲にしては)随分平易に書かれているのも納得がいきます。作品の素材の大半が鳥の歌から成る作品としては最初期のものと言えそうです。
全体は大まかに言って5つの部分から成り立っています。
①ピアノの短い序奏の後、フルートのソロによる鳥の歌
②音列技法風のピアノとフルートの応答
③ピアノのトリルに始まるフルートソロの鳥の歌の再現
④音列によるピアノとフルートのカノン
⑤Vifに転じてからの目くるめくような鳥の歌とコーダ
音列技法風と書きましたが、例えば②は、まずピアノのFis-des-c-g-as-des-h-e-b-g-fisの音列をフルートが模倣します。ピアノの左手の伴奏にd,es,aが現れるものの、fは出てきません。同様に次のフレーズはピアノのf-g-as-ges-des-h-f-c-g-fisをフルートが模倣、左手の和声でb.eは出てきますがd,es,aがありません。Fisは何度も出てくるので、微妙に調性感があるような無いような、宙吊りにされたような不安を感じます。要は、彼自身の「音価と強度のモード」がきっかけとなって同時代に猖獗を極めたトータルセリエリスムとは似て非なる音楽であるということ。短い曲でピアノパートもシンプル、スコアも容易に入手できるので、もっと詳細に分析すれば面白かろうと思いますが、ここでは、鳥の歌が単なる作品の彩りとかエピソードのレベルを超えて、作品の中心原理となったこと、戦後の前衛音楽の旗頭から一転して孤高の道を歩むことになるメシアンの、いわば中期の始まり、メルクマールとなる重要な作品であるということだけ押さえておきたいと思います。
ラルデとロリオの演奏はもっと精密な演奏もあり得るだろうと思いながらも、その雰囲気というか、まさにメシアンの音と思わせる独特な味わいがあって、規範とするに足る演奏だと思いました。

1948年の「5つのルシャン」は大変重要な作品だと思いますが、作品の詳細に触れた文献は(日本語であれ英語であれ)ネットではなかなか見つかりません。「ハラウィ」、「トゥーランガリラ」と並んで「トリスタン三部作」と言われていることはよく知られていますし、16世紀フランドル楽派のクロード・ル・ジュヌClaude Le Jeuneの音楽にインスパイアされたらしいことも今回初めて知りましたが、歌詞の難解さ(シュルレアリスム風の詩と奇妙なオノマトペや造語の混合)も相俟って、この音楽へのアプローチとしてはあまり役立つ情報とは言えません。12人の歌手のための無伴奏合唱というスタイルや、ハーモニーの美しさもさることながら、専らリズムと特異なオノマトペ(t-k-t-k-t-k・・・のような)の面白さが追求されていることなど、メシアンの作品の中でも異色ですが、ある種の愉悦感(歌詞に相応しい言葉かどうか別として)は、シュトックハウゼンが1965年に書いた「ミクロフォニーⅡ」(12人の合唱、ハモンドオルガン、4リング・モジュレーターのための)を想起させるものがありました。どちらも男女それぞれ6人ずつの合唱ということで、シュトックハウゼンはメシアンへのオマージュとしてこれを書いたのではないかと思った次第。
演奏については、録音年代がいくぶん古いせいもあって、透明感とか精密さとは若干違うところが寧ろ作品の求めるものに合致している感じです。Youtubeでいろんな演奏を聴くと、リズム感の希薄な緩い演奏も散見されますが、このCDの演奏は早めのテンポでリズムもエッジが効いている感じが良いと思います。地声もあらわに吼えたり唸ったり、夜中にヘッドフォンで聴いているとちょっとアレな感じが堪りません。

「抑留者たちの歌」は1944年8月のパリ解放を祝うため、翌45年ラジオ・フランスの音楽監督であったアンリ・バローの委嘱で書かれた大オーケストラと合唱のための作品。初演後スコアが紛失したと思われていたところ、1991年になって放送局のライブラリーから再発見されたらしい。こういった珍無類の作品が聴けるのもコンプリート盤ならでは、ですが、どことなくソヴィエトのプロパガンダ音楽のような様相ながらも、メシアン流の和声とグロッケンシュピールやチャイニーズシンバルのギラギラした音色、それと異様なほどの高揚感があって、落ち穂拾いのつもりが思わぬ収穫でした。演奏も文句なし。

「美しき水の祭典」は1937年パリ万博の、噴水と花火のエキジビションのために委嘱されたとのこと。だからという訳でもないのでしょうが、メシアンにしてはどこかポップな味わいもあって、6台のオンド・マルトノという特殊な編成、第4曲と第6曲が後の「世の終わりのための四重奏曲」に転用されていること共々、人目を惹きやすいのか、意外によく知られている部類なのかも知れません。個人的には、印象派として見てもアヴァンギャルドとして見ても中途半端でちょっと苦手です。第4曲と第6曲は確かに美しいのですが、オンド・マルトノの人工的な音色で聞くと、なんだか斎場のお通夜や告別式で、開式を待つ間に流れているBGMみたいな感じ。

オンド・マルトノとピアノのための「未刊のページ(4つの小品)」はメシアンの死後に出版された作品で作曲年は不明。ドビュッシー風の和声は初期作らしいものですが、鳥の歌が後の作品に比べると非常に素朴な書法ながらもピアノに現れることから、年代の特定はなかなか難しいのかも知れません。BGMとして聞くならともかく、何度も繰り返し聴こうとすると少しもて余してしまいました。

クラリネットとピアノのための「モーツァルトの様式による歌」は作曲者晩年の1986年に、パリ・コンセルヴァトワールの学生のコンペ用に書かれたそうだが、メシアンを思わせる要素は皆無、微妙な違和感はあるものの、ほぼモーツァルト様式に忠実な小品。私にはどうも、作品目録を埋めていく以上の面白さは感じられませんでした。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-06-24 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その12)

私がまだ小学生の頃だと思うのだが、コロッケ屋さんを舞台にしたテレビドラマで、じゃがいもを皮ごと刻みながら「こうすると挽き肉みたいにみえるでしょ」とかなんとか、新入りの女性に教える場面があった。その時は「へーそうなんや」と思って観てたが、これ今なら食材偽装で炎上しそうだな。





今回は70年代の冒頭に書かれた大作「ニワムシクイ」を中心に聴いていきます。

 CD1
 ①8つの前奏曲(1928-1929)
 ②ニワムシクイ(1970)

 ロジェ・ムラロ(pf)
 ①2001.2.15②2001.2.22録音

50年代後半に書かれた「鳥のカタログ」の番外編、あるいは新「鳥のカタログ」の一篇として書かれ、結局単体で残った「ニワムシクイ」ですが、その規模の大きさ(このディスクの演奏は32分ほど)と絢爛たるピアノ技巧によって、メシアンの作品の中でも大変重要な作品であると思います。果てしなく鳴き続けるニワムシクイの歌を聴いていると、「鳥のカタログ」にこの鳥の名を冠した曲がないのが不思議に思えてきます。あるいはメシアンは、かつてこの鳥を取り上げるには自分自身の作曲のメチエ、あるいは妻イヴォンヌ・ロリオのピアノ技巧について何かしら満足できず、ようやく満を持して作品を世に問うたのが偶々この時期になったのかも知れません(あくまでも想像ですが)。いずれにしても素晴らしい作品で、もう少し時が経てばメシアンのピアノ曲の最高峰と言われるようになるのでは、と思います。
実はこの作品について書かれた素晴らしいブログがあり、私が附け加えることもあまりないかなと思います。


本当に作品への愛が溢れていますね。ですが、これを紹介するだけではやはり物足りないので、ここであまり触れられていないニワムシクイ以外の鳥たちの声を自分の勉強も兼ねて挙げておきましょう。「鳥のカタログ」同様、タイトル以外の鳥たちも沢山現われるので、その名称を知っておくことは無駄ではないはず。
まず現われるのはヨーロッパウズラ(仏Caille;羅Coturnix coturnix)とサヨナキドリ(Rossignol;Luscinia megarhynchos)。

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この2種類の鳥の歌が何度か繰り返された後に、主人公のニワムシクイ(Fauvette des jardins;Sylvia borin)が啼き始めます。

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お次はミソサザイ(Troglodyte;Troglodytes troglodytes)。

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ニワムシクイの歌がひとしきり続いた後、ヨーロッパアオゲラ(Pic vert;Picus viridis)とヒバリ(Alouette des champs:Alauda arvensis)、次いでズアオトリ(Pinson;Fringilla coelebs)。

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ニワムシクイの歌や自然描写がしばらく続いた後、様々な鳥たちが姿を現します。まずはオオヨシキリ(Rousserolle Turdoïde;Acrocephalus arundinace)。

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次にニシコウライウグイス(Loriot;Oriolus oriolus)。フランス語のLoriotは、綴りが少し違うが奥さんのロリオLoriodと発音が一緒なので、メシアンにとっては特別な鳥のようです。

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ハシボソガラス(Corneille noir;Corvus corone)、セアカモズ(Pie-grièche écorcheur;Lanius collurio)、トビ(Milan noir;Milvus migrans)が次々と一瞬だけ姿を見せます。

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ツバメ(Hirondelle de cheminée;Hirundo rustica)は鳴き声ではなくて飛翔する姿が描かれています。

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長大なニワムシクイの歌のあと、長い長い沈黙。クロウタドリ(Merle noire;Turdus merula)が現われます。
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ヒバリの歌がやがて目覚ましいピアノの難技巧のカデンツァに発展し、次第にテンポを落としていくといよいよ夜が近づいてきます。
そこで現われるのがキアオジ(Bruant jaune;Emeriza citrinella)。

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ゴシキヒワ(Chardonneret;Carduelis carduelis).

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ズグロムシクイ(Fauvette à tête noire;Sylvia atricapilla)。

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最後にモリフクロウ(Chouette Hulotte;Strix aluco)。

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鳴かないツバメも入れると実に18種類の鳥たちが現われるのでした。それにしてもメシアンの楽譜は本当に綺麗。楽譜の見た目の美しさと音楽の本質は、関係ないようでいて実は深い所で繋がっているような気がします。



メシアンがまだパリ国立高等音楽院の学生であった頃の「8つの前奏曲」は、最近のピアノ弾きには随分人気のある作品であるように見受けられます。確かに第1曲「鳩」や終曲「風のなかの反映」などはドビュッシーの「映像」や「前奏曲集」の延長線上にあるとても判りやすい音楽。もちろん、ドビュッシーを何とか乗り越えようとする試行錯誤の跡はいたるところにあって、単なる初期作にとどまらない面白さがあります。ですが、やはり後のメシアンの音楽と比べると習作の域を出ない、というのが冷静な評価だろうと思います。それにしても、この作品を聴くたびに、ドビュッシーの「12のエチュード」(1915)やスクリャービンの「3つのエチュードOp.65」(1912)が如何にとんでもない音楽であったかを逆に痛感します(特に後者は9度や7度のエチュードという斬新なもので、メシアンが知っていた可能性は高いと想像しています)。それと比べればメシアンの初期作は概してとても穏健な音楽というべきでしょう。


ムラロの演奏については、以前「鳥のカタログ」でウゴルスキーを引合いにしながら、精密だがモノクロームな感じだと書きましたが、今回も概ね同様の感想を持ちました。「ニワムシクイ」はライブ録音ですが、その精度はかなり驚異的。「8つの前奏曲」のほうは、綻びというほどではないものの、意外にもたついている箇所があって、まぁ基本的に指は回るはずの人ですから、向き不向き、あるいは作品の好き嫌いのレベルで少し差がついたのか、といった印象。この前奏曲については、昔のミシェル・べロフの録音が色彩的でとてもよかった記憶があります。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2017-05-10 23:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(4)