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日本センチュリー交響楽団定期 マーラー 交響曲第9番

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なんかカッコつけてスカしたブログなのに「ダイリキ」と書いてるのがあれこれ出てきて、もうコロッケしか頭に浮かばなくて腹痛い。





知人のお誘いでマーラー聴きました。マーラー、というよりプロのオーケストラで交響曲を聴くこと自体、実に久しぶり。

  2016年4月8日@ザ・シンフォニーホール
  マーラー 交響曲第9番ニ長調
   飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団


基本的にコンサートゴーアーでない私は、ネットなどで気になる公演を見つけてもなかなか腰があがらない。オペラとか現代モノとか、「これは行っとかないと一生後悔する」というものでなければ、なんだかんだで行かずじまいというケースが殆ど。でもこうやって実際行ってみると、やはり生でなければ得られない貴重な体験だと感じます。

それにしても、マーラーといえばこの何十年か、オーケストラにとって間違いなく客を呼べるレパートリーだと思っていましたが、この日は金曜・土曜二日公演の平日であるせいか、あるいは他のオケ公演とカブッたか、随分空席が多い。関西の地盤沈下を物語るものでなければいいけれど。
それはともかく、今回の9番、とても立派な演奏であったと思います。飯森範親の指揮は大変気魄のこもったもので、精密なスコアの再現もさることながら、やや情念の爆発のほうに軸足を置いているように感じました。ただ全曲を振り返ると、力技で押し切った感のある2・3楽章よりも、両端楽章のほうがこの指揮者の美点が現れていたように思います。第1楽章は、とりとめが無いというか、痙攣のように間歇的に沸き起こっては解けていく主題群の歌い方が難物だと思いますが、主題群を丁寧に追いかけていく演奏を聴いていると、見かけがどれほど違っていようとウェーベルンの世界と地続きであることがよく分かります。実際のところは、マーラーが9番を書いていた頃にはウェーベルンは既に「パッサカリア」など初期作品を幾つか書きあげていて、ひとかたならぬ相互影響があったのだと思いますが、ふとそんなことを考えさせてくれる演奏。そうなるともっと上を望みたくなるのが人情で、たとえば金管とハープの単音を重ねたりする独特のソノリティは、もっと磨き様があるはずだが、それは贅沢というもの。第4楽章もオーケストラからこれほどの緊張感を引き出せたならまずは大成功といったところでしょう。特に前段のプルト数の割に分厚く響く弦は秀逸で、後のR.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」をふと思い出したりする。ざらりとした音色とずっしりとした音圧がうまくバランスしている。終末部はもしかすると、単に音が小さい、あるいはオーケストレーションが薄いという以上の表現というものがあって、もっと意義深いピアニッシモが有りうるのかも知れませんが、それを望むのもまた贅沢というものでしょう。真ん中のレントラーとロンド・ブルレスケだが、マーラーが凝りに凝って書いた奇矯な和声やポリフォニーの網目を味わうにはほんの少しテンポが速すぎたように思います。物凄く大切な音楽の要素がすっ飛ばされてしまった感じ。狂気に満ちた音楽である程度のテンポは必要だし、微温的でも困るけれど、ショスタコーヴィチの10番のスケルツォみたいな速さでやられると、少なくとも私の耳では追いつかなくて残念な感じ。だが、最後が良かったので概ね良い演奏を聴いたという印象です。

どうでもいいことですが、第1楽章の終わりあたりから補聴器のハウリング音が鳴りだして、第2楽章の間ずっと気になりました。さすがにこれはまずいだろうと思っていたら、第3楽章の前にどうやらご本人に気付いてもらえたようでほっとしました。何年か前にもこの現象を経験しましたから、しばしば起こることのようです。この歳になると不快に思うよりもむしろ他人事ながら身につまされます。
by nekomatalistener | 2016-04-12 00:30 | 演奏会レビュー

ピアノによるマーラー交響曲集を聴く

2chまとめサイトで、「今週のコナンで毛利のおっちゃんがヤバイ」というのを「毛剃のおっちゃん」と空目。そりゃたしかにヤバイ。





日曜の昼下がり、法貴彩子と大井浩明のジョイント・リサイタルに行ってきました。法貴さんについては昨年の11月にも本ブログで取り上げましたが、何ともあっぱれな雑食ぶり。いや、肉食と言ったほうがいいか、あるいはゲテモノ食いなのか(いずれも褒め言葉)。


   2014年3月2日 芦屋山村サロン
   マーラー 交響曲第4番ト長調
    (ヨゼフ・フェナンティウス・フォン・ヴェス(1863-1943)によるピアノ連弾版)
     *
   (休憩)
     *
   マーラー 交響曲第6番イ短調《悲劇的》
    (アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(1871-1942)によるピアノ連弾版)
     *
   (アンコール)
   ショスタコーヴィチ 交響曲第5番からフィナーレ(L.アトフミアン編曲)
   大野雄二 ルパン三世のテーマ’79(神内敏之編曲)


通常のリサイタルで、このようなオーケストラ曲のピアノ・リダクションが演奏されることは極めて珍しいことだろうと思います。日本語にするとarrangementもtranscriptionもreductionも、みんな「編曲」になってしまいますが、今回のプログラムはまぎれもなくreductionに該当します。その原義は、(オーケストラ曲をピアノ・ソロあるいは4手連弾で弾けるように)音を間引いて少なくする、ということですから、そこにはどうしても「学習用」「間に合わせ」「代用品」といったマイナスイメージが付きまといます。実際、このリサイタルを聴きに来た人は余程の物好きだとは思うけれど、耳にしたのは極めて刺激的な面白い音楽でした。
気づいたことはたくさんありますが、まずマーラーの交響曲から、その大規模なオーケストラによる迫力とか、精緻なオーケストレーションによる華麗な音色といった魅力を捨て去ってもなお音楽として魅力あるものであった、という発見が何より大きいと思います。マーラーが第4交響曲で描こうとしたモーツァルト的世界、あるいは第6番におけるユーゲントシュティルの追及といった要素は、オーケストラで聴くよりリダクションのほうが寧ろ鮮明に聞こえるくらい。特に第6番の第1楽章の展開部で、原曲ではカウベルがごろんごろん鳴るところとか、フィナーレのハンマーの一撃に至る展開とかが如何に天才的かつ異常な音楽かということがありありと判りました。
4番と6番の聴き比べということに関しては、一聴した限りでは断然6番のほうが面白いと思いました。ただ、それが編曲者の違いによるものか、原作自体に起因するものか、あるいは演奏者の問題なのかは俄かに判断がつきません。編曲者の力量については、作曲もしていたとはいうものの一介の楽譜編集者であるヴェスと、作曲家としてそれなりの人であるツェムリンスキーでは格差は歴然としていそうだが、耳で聴いた感じとしてはそれほど明確な差があるとも思えません。4番のほうが演奏者二人の手が頻繁にぶつかって弾きにくそうな感じはしましたが、一般的な意味で言えば6番の方が技巧的には難しいだろう。結局は演奏者二人が、6番のほうがノリが良かった、ということだろうか。
会場で配られたチラシには、こういったリダクションの存在意義について、録音メディアが無かった初演当時、鑑賞用・普及用・学究用として使われた云々と書かれていますが、それってどうだろうか。連弾とはいえ、その演奏の難しさはハウスムジークの域を遥かに超えていると思われるので、これはあくまでもプロあるいはプロを目指す作曲家や指揮者のためのものだという気がします。ピアノ・リダクションにおけるハウスムジークからプロの為の研究ツールへの変遷について、詳細に歴史を紐解けば実に面白いテーマになりそうだが、それはともかく、このマーラーのリダクションに用いられているピアノ技巧というものが、従来の19世紀ロマン派的なそれとはかなり相貌を異にしていて、それがそのままマックス・レーガーの複雑極まりないピアノ書法に通じているように思われました。実際、レーガーのあの書法というのは、19世紀末から20世紀初頭に出版された、一連の複雑なピアノ・リダクションの学習と切り離せないのではないか。あるいはR.シュトラウス、シェーンベルク、ベルク、ツェムリンスキー等々、20世紀前半を飾るオーケストラの大家達の作風、書法すべて、このマーラーの交響曲のリダクションとその学習の成果といっても過言ではないのではないか、というのが今回得た仮説。そして、それを遡れば、19世紀後半に出版されたタウジッヒのような大ピアニストによるワーグナーのボーカルスコアが、それまでの「オペラ練習用のピアノ伴奏」とはレベルの違うものとして書かれていることに思い至りますし、その起源というのはおそらくリストによるベートーヴェンやベルリオーズの交響曲のリダクションに違いなかろう、と思います。オペラの裏方におけるコレペティトゥールの専門職化なんかとも関係がありそうな事象ですね。
ちょっと脱線しますが、ピアノ技巧というものが、ピアノそれ自体の制約の中でリストが開拓したものを超えて発展していく可能性は低かったのではないかと思います。基本的にピアノで物を考えるのではなく、直接オーケストラのスコアに音楽を書きつけることの出来た人の作品をreduceすることで、ピアノという楽器は既存の技巧になかったイディオムを発見し、さらに発展してきたのではないか。それはたとえばリストがベートーヴェンやベルリオーズのリダクションから得た書法であり、このマーラーのリダクションを通じてレーガーに至るイディオムもそのような一つであったように思います。
もう一つ脱線。ネットで拾ったコメントに、これらのリダクションとシェーンベルクらのいわゆる「私的演奏協会」との関わりについて示唆するものがありました。確かに新ウィーン楽派の人たちが自分たちの実質的な師であったマーラーの音楽を連弾で弾いて学ぶという機会は多かったに違いありませんが、私的演奏協会の旗揚げが1918年、ヴェス版の出版年は判りませんでしたが、ツェムリンスキー版の出版は1906年。直接的関連を云々するのは少し無理がありそうです。
脱線が尽きませんが(笑)、マーラーの演奏については大井氏がプリモで法貴氏がセコンド。ペダルは大井氏担当、ということで明らかに彼の意向が表にでた演奏。4番ではアンサンブルにいくぶん危なっかしいところもあり、この交響曲独特のカンティレーナの表現という点でも若干問題はありましたが、後半の6番は文句なしの凄演。80分に及ぶ演奏が全く弛緩することなく、あっという間に終わったという印象。フィナーレの大ハンマーを振り下ろす個所は是非とも大井君の足ドン!が見たかったなぁ・・・。
アンコールがあるというだけでも驚きだが、一曲目はショスタコーヴィチの5番のフィナーレ。大井氏はショスタコ嫌いだと思ってましたので、これはリダクション版でマーラーの劣化コピーぶりを満天下に晒そうという悪意の籠った所業だろうかと思いきや、意外に4手連弾の身もふたもない響きが曲想に合っていて、まるで元から連弾用に書かれていたみたいに聞こえる。ちなみにアンコールは法貴氏がプリモに回り、彼女の意志の強さみたいなものがビシビシと伝わってくるのも痛快。会場でお会いしたショスタコーヴィチ・フリークのK氏にだれの編曲か訊きましたが、どうもショスタコ本人の作ではない、ということ以外その時点では判りませんでした。つい先程、大井氏ご本人のツイッターに編曲者の名前が出てましたから上記で間違いないと思います。
そして最後に大井氏の「70年代の現代曲をやります」との前口上があって始まったのが超絶技巧版ルパン三世のテーマ。これ実際に聴かなければ想像もつかないでしょうが、腰抜かしそうな名編曲の名演でした。もうやんややんやの大拍手。法貴さんもノリノリ。いや~楽しかったです。
by nekomatalistener | 2014-03-03 23:01 | 演奏会レビュー