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二期会公演に先立ってライマンの「リア王」を予習中

ハロウィンの日の●神電車、仮装したDQNがいっぱい。もういや~。





11月10日の二期会公演@日生劇場、ライマンの「リア王」観劇に向けて予習中です。無理やり出張も作って準備万端(笑)。音源は2種類。

 アリベルト・ライマン「リア王」全曲

  ①リア王: ヴォルフガング・コッホ(Br)
   フランス王: マグヌス・バルトヴィンソン(Bs-Br)
   オールバニ公爵: ディートリッヒ・フォッレ(Br)
   コーンウォル公爵: マイケル・マッカウン(T)
   ケント伯爵: ハンス=ユルゲン・ラザール(T)
   グロスター伯爵: ヨハネス・マルティン・クレンツレ(Bs-Br)
   エドガー: マルティン・ヴェルフェル(C-T)
   エドマンド: フランク・ファン・アーケン(T)
   ゴネリル: ジャンヌ=ミシェル・シャルボネ(Sp)
   リーガン: キャロライン・ウィスナント(Sp)
   コーディリア: ブリッタ・シュタルマイスター(Sp)
   道化: グレアム・クラーク(語り)
   侍者: チャッド・グレアム(T)
   騎士: ニコライ・クラワ(語り)
   セバスティアン・ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場管弦楽団
   フランクフルト歌劇場合唱団(合唱指揮:マティアス・ケーラー)
   2008年9月28日・10月2,12,25日ライブ録音
   CD:OEHMS OC921

  ②リア王: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)
   フランス王: カール・ヘルム(Bs-Br)
   オールバニ公爵: ハンス・ヴィルブリンク(Br)
   コーンウォル公爵: ゲオルク・パスクーダ(T)
   ケント伯爵: リヒャルト・ホルム(T)
   グロスター伯爵: ハンス・ギュンター・ネッカー(Bs-Br)
   エドガー: デイヴィッド・クナトスン(C-T)
   エドマンド: ヴェルナー・ゲッツ(T)
   ゴネリル: ヘルガ・デルネシュ(Sp)
   リーガン: コレット・ローランド(Sp)
   コーディリア: ユリア・ヴァラディ(Sp)
   道化: ロルフ・ボイゼン(語り)
   侍者: マルクス・ゴリツキ(T)
   騎士: ゲルハルト・アウアー(語り)
   ゲルト・アルブレヒト指揮バイエルン国立管弦楽団
   バイエルン国立歌劇場合唱団(合唱指揮:ヨーゼフ・バイシャー)
   1978年10月バイエルン国立歌劇場でのライブ録音
   CD:DG UCCG3013/4

①は昨年11月の投稿で取り上げたライマン「メデア」全曲盤と同じくOEHMSレーベル。「メデア」のCD同様、カラー写真入りのきれいなリーフレットが添付されているが、リブレットはドイツ語のみってのが残念。②は渡辺護氏による歌詞対訳とライマン自身による詳細な作曲経緯が添付されているが現在は廃盤で、amazonではかなりの高値がついているようです(私は大阪府立中央図書館で借りました)。
今回はこの二つの音源の聴き比べという訳ですが、まず②のほうからいくと、いかにも今さっき生まれたばかりの生々しい現代音楽という感じがします(実際に初演と同時進行で録音されたのですから当然といや当然)。スコアを調べたわけではないので、あくまで印象批評の域を出ませんが、四分音やクラスターの音響効果が先鋭極まりない。これは相当現代モノを聴きなれた人にとっても手ごわいハードコアな前衛音楽というふうに聞こえます。歌手は豪華な顔ぶれですが、歌唱というよりも語りの要素の強いフィッシャー=ディースカウについては好き嫌いのレベルはともかく、正当な評価というのはちょっと難しそうだ。もちろん作曲者はFDのためにこのオペラを書いたのだから、この歌唱がどこまでスコアに忠実なのかといった問いは意味を為さない訳だが、王の威厳よりも人間としての弱さや醜さを前面にだしたFDの朗唱はある意味凄まじい。長女ゴネリルに蔑ろにされたリアが、次女リーガンに泣きつく場面など、実際の人間の老いというものが如何に惨めで醜いものか思い知らされるほど。第2幕で、完全に狂気に陥ったリアが譫言を話す場面はFDの独擅場でしょう。二人の姉娘役のヘルガ・デルネシュとコレット・ローランドの激しいコロラトゥーラ風の技巧的な歌唱も寒気がするほどだが、コーディリアを歌うユリア・ヴァラディがいつになく抒情的な歌い方で、女声三人の性格が明確。個々の歌手について書き出すときりがないが、グロスターとエドガーの断崖の場は感動的。シェークスピアが「リア王」において「神無き世界」を描こうとしたのか否かは私には分らないが、ここでのエドガーはまるで神性を帯びているように思われます。ライマンがこの役をカウンターテナーの為に書いた理由もそこにあるのでしょう。グロスター役のハンス・ギュンター・ネッカーとエドガー役のデイヴィッド・クナトソンは素晴らしい歌唱だと思います。
これを聴いて①を聴き比べると、同じスコアとは思えないほど響きが美しく音楽的に聞こえます。音楽的に、というのは誤解を招く表現かも知れませんが、要は新ウィーン楽派の延長線上にある音楽、という風に聞こえるということ。特に印象深いのは道化が語る場面が弦楽四重奏できわめて室内楽的な書法で書かれ、前後の大オーケストラの咆哮や金管打楽器群の炸裂と明確な対比がなされていることに改めて気づかされるところでしょう(道化だけが終始狂気から免れているということか)。ただ、①と②のどちらが正しい音楽のありようなのかは私には判断がつきません。どちらがよりスコアに忠実か(どのみちこれほど複雑で前衛的な書法で書かれている以上、オーケストラや生身の歌手による完璧な再現というのは困難だろう)というレベルではなく、どちらが作曲者自身が考えていた音響に近いか、というのは興味深い問題だと思います。①のほとんど官能的なまでのオーケストラの美しさ、道化の場の、ウェーベルンの「弦楽四重奏のためのバガテル」を思わせるような透明なテクスチュアは素晴らしいと思うけれど、1978年に生まれたこのオペラの、非常に大切な本質の幾分かは失われているのではないか、という疑念を感じざるを得ません。といって、この①の録音が角の取れた、中庸の音楽かといえば決してそうではなく、第2幕グロスターが両目を抉られる場の戦慄すべき表現、第1幕で狂人のふりをして辛くも逃げおおせたエドガーの長い独白とその前の間奏曲の、夜明け近く白々とあたりが闇に慣れた目に映りだす景色のような荒廃の美の表現など、これはこれで端倪すべからざる演奏だと思いました。指揮をしているセバスティアン・ヴァイグレについては、今年4月の東京・春・音楽祭のマイスタージンガーを振っていた人、という他には私はあまり知識がありません。以前この人がリセウ歌劇場で「ヴォツェック」を振ったDVDがあって、東日本大震災の直後に東京で「ばらの騎士」のオックス男爵を歌ったフランツ・ハヴラタがタイトルロールを歌っているというので思わず買ったのだが、エログロの極致のようなエグイ演出にげんなりしてほとんど観ていないのです(一昔前なら間違いなくボカシがはいるようなシロモノ)。リア王を聴いて、改めてこの指揮者をすこし注視していきたいと思った次第。歌手はいずれもこの「音楽的な表現」というコンセプトに沿った歌唱というところで、歌うべきところは朗々と歌い、シュプレッヒシュティンメで書かれたところはここぞとばかり演劇的な表現をしているという感じを受けます。個々の歌手で突出した人は良くも悪くも見当たらないが、リーガンを歌っているキャロライン・ウィスナントは歌も素晴らしいけれどヒステリックな嗤いの表現が実に演劇的で面白いものでした。
この①と②の表現の違いについてですが、これは単に指揮者の解釈の違いというより、この二つの録音の間に経過した30年という時間そのものという気がします。オーケストラの各メンバーや個々の歌手の技巧、前衛的なスコアに対する慣れといったものはこの期間に格段の進歩を遂げたのは間違いありません。しかしその反面、なんというか、この業界全体が反前衛的な、一種の懐古趣味のようなものに覆われつつあるのではないかという気もします。作曲者ライマン自身にしても、この二つの録音に現役の作曲者がなんらかの形でコミットしているのでしょうから、それはライマン自身の心境の変化とも関係しているような気がします。個々のプレーヤーの前衛的書法に対するおどろくべき順応と、それをとりまくある種の退嬰的な潮流。この一見相反する事象がこの先10年後、20年後どうなっていくのか、作品そのものの評価とは別に気になるところだ。
シェークスピアの「リア王」そのものについても書きたいことはあるが、これは10日の公演を聴いてからにしようと思います。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-11-07 22:18 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ヒンデミット 「カルディヤック」 カイルベルト指揮D.フィッシャー=ディースカウ他

いつもの散髪屋で、充電式のバリカンで襟足から後頭部にかけて刈り込んでるときに、いきなり「ジャッ!」と音がして髪の毛大量に噛み込んだままバリカンが止まってしまった。おもわず「イデデデ・・・」と叫んだのが私も散髪屋の兄ちゃんもツボにはまってしまい、しばらく双方笑いがとまらず悶絶(涙)。





新国立劇場のオペラ研修所公演が今年もまた3月に行なわれます。昨年はツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」とラヴェルの「スペインの時」の二本立てでしたが、今年はヒンデミットの「カルディヤック」。演目が渋すぎます。今まで食わず嫌いで、ベレゾフスキーの弾いた「ルードゥス・トナリス」と「1922年」の組合せのCD以外ほとんどまともに聴いてこなかったヒンデミットですが、まずはCDで予習と相成った次第。


  カルディヤック: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ
  その娘: レオノーレ・キルシュタイン
  士官: ドナルド・グローブ
  金商人: カール・クリスティアン・コーン
  騎士: エーベルハルト・カッツ
  貴婦人: エリーザベト・ゼーデルシュトレーム
  憲兵隊長: ヴィリ・ネット
  ヨーゼフ・カイルベルト指揮ケルン放送交響楽団・合唱団
  1968年ラジオ放送録音
  CD:ALLEGRO OPD-1427


このCD、シノプシスは附いてますが対訳なし。ドイツ語のリブレットはネットで入手しましたが英訳は見つからず(なぜかイタリア語とスペイン語の対訳は見つかりました)。珍しいオペラだが、それにしても手掛かりが少なくて閉口します。
まずは原作を読んでみました。E.T.A.ホフマンの『スキュデリ嬢』(吉田六郎訳、岩波文庫)、これがめっぽう面白い。ゴシックホラー風でもあり、推理小説風でもある。一説には推理小説はポーの1841年の小説『モルグ街の殺人』に始まると言いますが、1819年に発表されたこちらの小説も十分にミステリとしての面白さを備えています。謎を解決するのは73歳になる老嬢スキュデリで、17世紀のパリに実在した人物。ルイ14世の知遇を得て大活躍をしますが、もう一人の主人公と言ってよいのが金細工職人のカルディヤック(邦訳ではカルディラックと表記されています)。スキュデリを主人公と見るか、カルディヤックを主人公と見るかで作品観も大きく変わってくる訳だが、後者の見方については訳者のあとがきでヴァルター・ハーリヒのホフマン論を引用して「カルディラックは生まれながら「生(ダス・レーベン)」即ち人の世、と相容れぬ悖徳の芸術家魂を賦与された名匠である。芸術家魂とは、市民の掟では律し切れぬ悪魔的な執心である。芸術家とは、心理的には、人間の皮をかぶった兇悪な犯罪人である。」と書かれている通りだろう。
ネタばれを承知で少し詳しく書くと、カルディヤックは精巧を極めた金細工でパリ中の貴族たちを夢中にさせていたが、自らの作品に惚れ込むあまり、カルディヤックから金細工を買った人々を次々に殺し、細工を密かに取り戻しては秘密の小部屋に蒐集していたというのがここで扱われている犯罪の中身である。これすなわち、芸術家とその作品との関係性の一つの在り方について書かれた作品という訳だが、オペラのリブレットは大胆にも原作からスキュデリや重要な役回りの火刑裁判所長官、弁護士等々の人物をそっくり取り除き、推理小説ないし犯罪小説としての要素を削ぎ落としてこの芸術の本質というものに特化しているように見えます。リブレットではカルディヤック以外の登場人物がいずれも名前を持たないこともその現われでしょう。そして、ヒンデミットがオペラの題材としてこれをえらび、カルディヤックと名づけた理由もそこにある。

この本質、芸術家とその作品との関係性について、これを読み解くキーワードは肛門性格に由来する蒐集癖と強迫性人格障害ということになろうか。カルディヤックの蒐集癖の対象が金細工というのは象徴的である。ここでは糞便から金銭、そして黄金へといった象徴交換のメカニズムが見て取れます。
「実際、太古的な考え方が支配的であったところ、あるいは残っているところではどこでも、古代文化においても、神話、童話、迷信においても、無意識的な思考においても、夢においても、また神経症においても、金銭は糞便ともっとも深い関係をもたされている。悪魔がその情婦に贈る黄金が、彼の立ち去ったのちには、糞に変わってしまうという話はよく知られているが、この悪魔はしかし、抑圧された無意識の本能生活が擬人化されたものにほかならないのである。」(フロイト『性格と肛門愛』人文書院フロイト著作集5)
少なくともここに現れる金細工はフェティシズムの対象(それはフロイトによれば男根期に由来するものと考えられる)とは異なるものということになる。そして、殺人にまで至る「物」への執着は肛門サディズム体制に因るものということになるだろう。
これはこのオペラの物語のことだけを論じているのではありません。ヒンデミットの音楽自体にみられる顕著な強迫的性格、かならずしも大規模な編成ではないにせよ、スコアにびっしりと書かれていると思しい息苦しいまでの過剰な音の洪水、せっつかれるような、まえのめりに息つく暇も与えないリズムと、極度に無調的で激烈な作風、そのすべてがオペラの題材(あるいはヒンデミットその人)の肛門性格を物語っていると思います。肛門性格と強迫神経症との強い関連についてはフロイトの「鼠男の症例」を読んだ方にはほとんど自明のことでしょうが、いま私の手元にありませんのでかわりに次の一節を参考までに引用しておきましょう。
「私がさしあたり強迫型というなじみのない名前をあたえた第二の類型は高度の緊張のもとに自我から分離してゆく、超自我の優勢ということで際立っている。この類型は愛の喪失に対する不安のかわりに良心の不安によって支配され、外への依存性のかわりにいわば内への依存性をしめしており、高度の独立性を展開して、社会的には、文化のどちらかといえば保守的な真の担い手となるのである。(中略)最後に、ナルシシズム的強迫型は、外的な自律性と良心の要請への顧慮にさらに強力な活動への能力を付加し、こうして自我を超自我に対して強化することによって、文化的にもっとも価値の高い変種を生みだす。」(フロイト『リビドー的類型について』同前)
先にも書いたとおり、私の貧弱なヒンデミット体験ではその音楽の全体像は判りません。だが、このオペラが書かれた1926年といえば、リヒャルト・シュトラウスは「エジプトのヘレナ」第一稿を書いていた頃、ベルクは「叙情組曲」、シェーンベルクもいつぞやこのブログでも取り上げたOp.29の「組曲」で十二音技法の確立に向けて苦心していたころ。そう考えるとヒンデミットの先進性というものに驚かざるを得ません。しかしその一方で、同時代の作曲家達から当然与えられる様々な影響というものも感じられ、例えばシュトラウスの「影のない女」といった作品、あるいは「カルディヤック」よりもう少し後に書かれたベルクの「ルル」の、あの幕間に映画を上映しながら演奏される間奏曲などを連想させる部分があったり・・・。「カルディヤック」の音楽的特性について、さきほど再三にわたり「強迫的」という言葉を使いましたが、いくつか抒情的な箇所もあって、たとえば第一幕の貴婦人のLiedと題された第5曲 "Die Zeit vergeht"や第二幕カルディヤックのArioso "Mag Mondlicht leuchten!"(第13曲)など、ひんやりとした抒情性に溢れています(ちなみに全三幕の音楽は全部で18曲のナンバーから成るものの、基本的には切れ目なくぶっ通しで演奏されます)。もっとも官能性はあまりなくて、いわば「砂糖抜きのリヒャルト・シュトラウス」といった感じ。いずれにしてもものすごく知的で刺激的な音楽でした。下手すりゃ一生聴くことが無かったかも、と思うと、やはり食わず嫌いはよろしくないなぁと思った次第です。

演奏については、カイルベルトの指揮にとてつもない燃焼度を感じるけれど、録音が悪くてやや聞きづらい。歌手はとびきりの名手を揃えているが、対訳がなく、こまかいニュアンスが判らないので論評しかねるところがある。フィッシャー=ディースカウなどきっと素晴らしい歌唱なんでしょうが・・・。このCD、商品としては若干問題はあるものの、もちろん舞台に接する前の予習としては十分すぎるほど素晴らしい演奏だと言ってよいと思います。
by nekomatalistener | 2013-02-21 21:04 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)