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ドビュッシー 12のエチュード(全曲)

ロヒンギャについて議論するとき、気を付けないとついデロンギって言ってしまう。ちなみにデロンギのヒーターは小型でもよく暖まるからいいんだけど(いや、よくない)。





ドビュッシーの12のエチュード、私は大好きな曲ですがリサイタルで取り上げられる機会が少ないのがとても不思議。気を付けて調べればあちこちで弾かれているのかも知れませんが、私が生で聴くのは、かれこれ30年ほども昔、御茶ノ水にあったカザルスホールで岡田博美が弾いたのを聴いて以来。こんな調子だと生きてる内には次の機会はないかも。


  2018年1月20日@カフェ・モンタージュ
  ドビュッシー 12のエチュード
  Pf: 木川貴幸


さっき「大好きな曲」と書いたけれど、ドビュッシーの作品の中では第一次大戦前後に作曲されたこのエチュードとバレエ「遊戯」あたりが最も先鋭的かつ洗練されていて、文句なしの傑作という感じがします。
話をピアノ曲に限って私的なことを書くと、私はどうもドビュッシーの作品は、聴くのはいいとして自分で弾くのは苦手。「映像」とか「前奏曲集」とか、例えばミケランジェリの録音なんかを聴くと本当に凄い作品だと思うが、自分で弾くとなるとスッカスカの音になるような気がして、そこそこ難度の高い書法を克服しようという気には到底なりません。ただ、12のエチュードだけは、ごく一部でもいいからいつかは練習してみたいと思っています。中でも「対比音のための」、「組み合わされたアルペジオのための」あたり。本当に天才にのみ書き得る音楽だと思います。
エチュード繋がりでもう少し雑談を書くと、前にどこかでドビュッシーのエチュードの3年ほど前、1912年に書かれたスクリャービン「3つのエチュードOp.65」の面白さについて書いたことがあります。スクリャービンは今やアマチュア含めて猫も杓子も弾く状況になってますが、このOp.65はまだまだマイナーな部類でしょう(技巧的にかなり過酷なせいかも)。でも9度や7度のためのエチュードなんて、ちょっと他に思い当たらない。ドビュッシーと並んで、この時代のアヴァンギャルドと呼ぶに相応しいと思います。ドビュッシーの翌年1916年のシマノフスキー「12のエチュードOp.33」やバルトークが1918年に書いた「3つのエチュードOp.18」なんかも実に面白い。特にバルトークは彼の作品の中でも最も急進的・無調的、しかも10度の音程を楽に掴めなければ絶対に弾けない超絶技巧で書かれています。こうしてみると1912年から18年という比較的短い期間に、ピアノのエチュードという形でこれほど先鋭的な作品が次々に書かれたというのは、今から振り返るとものすごい時代だったと思います。

さて肝心の当日の演奏ですが、よく伸びる美しい音のピアニストで私は大変楽しく聴きました。ニューヨーク在住のまだまだ若手で、カフェ・モンタージュで3年ほど前にブーレーズの全ピアノ作品の演奏をしている(私は聴きそびれてしまいましたが)。ストレスなく楽器を鳴らすテクニックは十分、音色とアーティキュレーションはどちらかと言えば鋭角的で、作品の本質にはよく合っていると思いましたが、指回りというかメカニックは意外にもたつくところがあります(1905年製のアンティークなスタインウェイのコントロールの難しさがあるのかも知れませんが)。私は大昔に聴いた岡田博美の目の覚めるような演奏が未だに記憶にあるので、評価が辛めになってしまうのだが、例えば「5本の指のための」や「8本の指のための」にはもっとシャープな切れ味を求めてしまう。あるいは「和音のための」では、ミスタッチを少なくするために、音楽の勢いが若干削がれてしまったようにも思います(正確に弾くのがどんなに困難かは分かっているつもりだが)。最も物足りないのは「対比音のための」で、重層的・立体的なソノリティの構築という点では非常にもどかしい思いをしました。全曲の中でも白眉というべき楽曲で不満を感じさせたのは少々残念でした。とはいえ、この翌日にメシアンの大作「鳥のカタログ」が控えている中での意欲的な選曲のリサイタルだったわけで、機会があればまた聴いてみたいと思いました。
翌日のメシアンについては稿を改めます。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-25 01:01 | 演奏会レビュー

ドビュッシー 前奏曲集Ⅰ&Ⅱ 大井浩明

HMVのつもりでHIVってこれまで絶対3回くらいは言ってると思う。




東京に行ってたせいでちょっと気が抜けてしまいましたが、京都のカフェ・モンタージュで大井浩明のドビュッシーを聴いてきたので一応備忘を書いておきます。

  2014年8月27日@カフェ・モンタージュ
  ドビュッシー
   前奏曲集第1巻全曲
   (休憩)
   前奏曲集第2巻全曲
   (アンコール)
   牧神の午後への前奏曲(レナード・ボーウィック編)


最初に断わっておくと、今回のリサイタル、私は感心しませんでした。一言で言えばドビュッシーの世界の表現にはあまりにも準備不足。2曲目の「帆」の長三度の下降がそもそも弾けてない、から始まって、技巧の粗が目立ち過ぎ。ぺダリングは不用意に切れたり濁ったり。極端なフォルテは音が割れて耳が痛い。音が少ない曲、たとえば「雪の上の足跡」なんかは音楽としての持続がなく、すかすかの譜面が露呈する。誤解のないように申し添えると、私が思う良いドビュッシーの演奏というのは、別に雰囲気満点にぼんやりとペダルを踏みまくる演奏でもないし、たっぷりとルバートをかけた「亜麻色の髪の乙女」が聴きたいわけでもない。あくまでも明晰な演奏を期待していたのだし、その結果「雪の上の足跡」だの「霧」だのといった作品のテクスチュアの薄さが仮借なく露わになっても構わないと思います。しかし、そのような演奏であっても音楽としての最低限の詩情が残るのがドビュッシーの音楽であるはずであり、それがないのであれば単に雑な演奏だろうと思ったわけです。
大井氏のケージやシュトックハウゼンの演奏、あるいはティンパニ・レーベルから出ているクセナキスの「エリフソン」や「シナファイ」のCD録音は本当に素晴らしいと思いますが、4年ほど前に渋谷の公園通りクラシックスで聴いたシェーンベルク・ベルク・ウェーベルンの時も甚だ感心しない演奏だったのを思い出しました。これは、シュトックハウゼンやクセナキスに対するシンパシーの深さに対して、新ウィーン楽派やドビュッシーへのシンパシーの欠如の所為なのだろうか。あるいは、ある一人の作曲家の大規模な個展といった趣で、長大な時間をかけて膨大なレパートリーを弾き、一曲一曲は多少荒っぽくはあってもその作曲家の全貌を俯瞰するといったスタイルが得意な反面、個別の作品を磨き上げる(暗譜も含め)というのが不得手なのかも知れません。そもそも彼の場合、その作品が好きだから、あるいは傑作だからレパートリーに入れるだけでなく、好きでもなければ傑作だとも思っていないが、同時代や後世への影響を示すという「教育的プログラム」の一環としてのプログラムビルディングも多いように思います。その意味では、彼自身がツイッターで書いているように、後のメシアン・ブーレーズ・武満・リゲティ・フェルドマンらの音楽の「ネタ帳」としての面白さを示すことがこのリサイタルの最大の目的であって、それ以上の愛情をドビュッシーには注いでいなかったのかも知れません。それはそれで致し方のないこととして非難するには当たらないと思いますが、せめてもう少し技巧的な穴をしっかり埋めてからリサイタルに掛けてほしかったと思いました。
ちなみにアンコールの「牧神の午後」はとてもよく出来た編曲で、IMSLPで楽譜のダウンロードが可能です。こちらは大井氏の演奏も本編よりよほどノリがよく良い演奏だったように思います。これまた、4年前の新ウィーン楽派のリサイタルで、オリジナルのピアノ作品よりも川島素晴が編曲した「モーゼとアロン」のなかの「黄金の仔牛の踊り」のほうがなんぼかマシだったことを思い出しました。こうした「ゲテモノ」は本当にお好きそうだし得意なのでしょうね(褒め言葉)。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-09-02 22:38 | 演奏会レビュー