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ブログのアクセスレポートの検索キーワードを見てちょっと笑ったやつ2件。
「ポゴレリチ 客席を見る」 「フロリアン フォークト 嫌い」 これで私のブログを訪れた方がどうかがっかりしてませんように。 昨年の「ドン・パスクァーレ」に続いてまたもドニゼッティ。今回は中ホールでの公演でしたが、ベルカント好きのファンに支えられてそれなりの盛況でした。 2017年2月12日@びわ湖ホール中ホール ドニゼッティ 「連隊の娘」 マリー: 飯嶋幸子 トニオ: 小堀勇介 ベルケンフィールド侯爵夫人: 鈴木 望 スュルピス: 五島真澄 オルテンシウス: 林 隆史 園田隆一郎指揮 大阪交響楽団 びわ湖ホール声楽アンサンブル 演出: 中村敬一 演出の中村敬一氏によるプレトークがあって、ヴェルディの「ナブッコ」の少し前に書かれたことから、オペラというものが貴族やブルジョア階級の嗜みから市民の愉しみに変わりゆく時代の推移について触れられていましたが、実際の楽しい舞台を観ているとまぁそんなことはどうでもよくて、ひたすら音楽を楽しむというのが正しい享受のあり方という気がします。 実際、吉本新喜劇みたいなお話に、ドニゼッティの中でも極め付けの脳天気な音楽。このブログで何度か書いてきたように、ドニゼッティには「ロベルト・デヴェリュー」や「マリア・ストゥアルダ」のような天才的な作品があるのだが、こちらはお世辞にも傑作という感じはなくて、せいぜい手練れのオペラ職人のやっつけ仕事といったところ。だが、トニオの有名なハイCが頻出するアリアを聴くとどうしようもなく胸が高鳴るし、マリーのロマンスには思わず涙腺が緩んでしまう。この快楽と無縁の人のほうが寧ろ世間のクラシック好きやコンサートゴーアーの中ではマジョリティかも知れないというのは寂しくもあるけれど、冬枯れの琵琶湖畔でこういった密やかな愉しみを味わうにはその寂しささえ一種のスパイスになるような気もします。 今回の公演は何より主役の二人の歌唱が素晴らしかったと思います。トニオの小堀勇介は初々しい歌いぶりで大変好ましく思いました。見た目と声と純朴な役柄が寸分のずれもなく一致している感じ。例の9連続ハイCは、あまりにも軽やかなので拍子抜けしそうになります。これならCisでもDでも大丈夫そうと思うが、これは大変なことに違いありません。パヴァロッティのレコードで聴いてきたような興奮とは違いますが、どちらかと言えばバカでおっちょこちょいなトニオのアリアには背筋に電流が走るみたいな興奮は不要なのだと気付きました。それでもびわ湖の客は皆さん耳が肥えてらっしゃるのか割れんばかりの拍手。小堀さんも本当にうれしそう。いいもの聴いたなと思います。 マリーの飯嶋幸子も策を弄せず愚直に役柄に取り組んでとてもよかったと思います。コロラトゥーラも危なげなく、ロマンスもしんみりと聴かせます。もっと手練手管の限りを尽くすみたいなやり方もあるんじゃないか、と思いながらも、この素朴な人たちばかりのオペラにはこれで十二分じゃないか、とも思います。 その他ではスュルピスの五島真澄が美声のバリトンで思いのほか良かったと思います。最後にちょこっとだけ出てくるクラーケントルプ公爵夫人を増田貴寛が演じていましたが、まるでマツコ・デラックスみたいな衣装で存在感を発揮。侯爵夫人の鈴木望も最後に悲しみと威厳をちらっと垣間見せて後味よく大団円を迎えました。 あと忘れてはならないのが兵隊や農夫や小間使い達といった役柄の合唱。この軽いオペラにはもったいないほどの立派な合唱で、贅沢な気分を味わえました。 園田隆一郎の指揮も秀逸。なんの引っ掛かりもない脳天気な音楽だからこそセンスがまともに出てしまう怖さがある音楽ですが、本当になんの引っ掛かりもなく楽しめたのは実は凄いことだと思います。初演当時のパリの当世風なのか、些か軽佻浮薄な音楽と、ベルカントの神髄たるロマンスが何の矛盾もなく同居するこの音楽で指揮者のセンスの良さを感じたのは意外な喜びでした。 演出もまた妙なひねりの一切ないもの。衣装も身のこなしも兵隊さんは兵隊さんらしく、貴族は貴族らしく、といった感じ。下手にはしゃがれると辟易すること必至のお話だけにこれはありがたい。よくも悪くも素直、という言い方があるけれど、今回はその素直さがすべて良い方向にいったんじゃないかな。フランス風のオペラ・コミークなので地の台詞による学芸会みたいな芝居が音楽を繋いでいくのですが、これが全てフランス語。まぁ若干尻がもぞもぞする感じもあるものの、フランス語と日本語のまぜこぜよりはマシかなといったところ。難しいものです。 (この項終り)
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by nekomatalistener
| 2017-02-15 00:43
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毎朝ラジオで、 モノタロウ~、モノタロウ~、こうばでつかう~しょーもーひんを、ネットでちゅーもんモ~ノタロウ~ というCMが流れるのが頭にこびりついて離れないのでなんとかしてください。 びわ湖ホールで「ドン・パスクァーレ」を観てきました。 2016年10月23日@びわ湖ホール ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」 ドン・パスクァーレ: 牧野正人 マラテスタ: 須藤慎吾 エルネスト: アントニーノ・シラグーザ ノリーナ: 砂川涼子 公証人: 柴山秀明 合唱: びわ湖ホール声楽アンサンブル、藤原歌劇団合唱部 管弦楽: 日本センチュリー交響楽団 指揮: 沼尻竜典 演出: フランチェスコ・ベッロット ドニゼッティ晩年の喜劇ということで、日本での上演は何かと難しいだろうと思ってましたが、全体としては大健闘といった感じがしました。だが同時にコンメディア・デラルテの末裔たるドタバタ劇で観客を笑わせるのは、日本ではまず不可能ということもよく分かりました。今回の公演では演出にフランチェスコ・ベッロットを招いて、いろいろと工夫の跡も伺えるのだけれど笑いに繋がらない。この7月にブリテンの「真夏の夜の夢」を見て、ルーシー・バージの振付に大笑いしたことを思うと、演出次第でもうちょっと何とかなるような気もするが、イタリアの気候風土の中で生まれたこういった喜劇は、温暖で湿度の高い国では無理なのでしょう。 もちろんドニゼッティの音楽が素晴らしいので、かならずしも笑いは必要ではないという意見もあると思いますが、感傷はほどほどで切り上げてさっさと乾いた音楽に戻っていくこの音楽のスタイルは、やはり舞台で観るなら笑いとセットであってほしいというのが私の無いものねだり。 話のついでで演出から備忘を記すと、舞台はドン・パスクァーレの豪邸の居間。壁にはちょっとくすんだ色合いの巨大な絵画がびっしりと飾られ、ギリシャ風の彫刻やソファなどの調度が設えられている。ノリーナがこれらを売り払ってしまうと、それまで重厚な邸宅の居間であった舞台が白々となにもない壁だけのセットになる。最初は正装の執事と召使がうやうやしく出入りしていたのが、後半は何やらいかがわしい連中も交じって賑やかにドタバタを演じる。演出家がドン・パスクァーレの孤独に着目した創意工夫はよく分かるのだが、肝心の笑いの要素がなければ些末な演出意図だけが独り歩きする感じもする。 歌手では売れっ子のシラグーザを招いたのが何よりの目玉だと思いますが、なにか突き抜けてくるような歌の力というものが少し物足りない。シラグーザをもってしてもアンサンブルとなると全体にこじんまりとした感じがつきまといます。それを承知の上でいうと、ノリーナの砂川涼子が素晴らしいと思いました。リリコが身上の歌手だと思うけれど抜群のアジリタのテクニックを持っているので今回の役まわりはぴったりだと思います。アジリタだけでなく、声に強い芯がある歌い手なので、しおらしい修道女から蓮っ葉な女に豹変してからの声質が更に役柄との一体感を感じさせます。終幕のロッシーニ風のロンドはお見事の一言。 シラグーザは、ロッシーニならいざ知らず、どうもドニゼッティでは声が脳天気すぎて殊更薄っぺらい男に聞こえてしまうのがどうも好きになれません。以前聴いたネモリーノ(愛の妙薬)なら、それでも観客の涙を絞る美しいカヴァティーナを堪能できて多少のことはどうでもよくなるのですが、ドン・パスクァーレではカヴァティーナもセレナーデも随分あっさりとしているので(それが晩年のドニゼッティの様式なのでしょうが)、物足りなさだけが残るといったところ。それでもこの人がアンサンブルに入ると俄然音楽が引き締まるのはさすがだと思いました。 マラテスタの須藤慎吾、脇役ですがバリトン歌手としてはアジリタがきちんと歌えていて気持ちが良い。ロッシーニのブッフォ歌手でもなかなかこうは歌えないのじゃなかろうか。タイトル・ロールの牧野正人はオーケストラより一歩飛び出す癖があって、ソロもアンサンブルもちょっとハラハラする。まぁイタリアの歌劇場のライブなどを聴いても、ブッフォのバス・バリトン歌手なんかこんなもん、という気もするが、せっかくのアンサンブルなのにもったいないと思う瞬間が多々ありました。マラテスタと聴き比べると、やはりなんだかんだ言っても技術があってこそ、と思います。 合同編成の合唱もなかなかのレベル。お話としてはあってもなくても一向に構わない役回りだが、だからこそ高レベルの演奏で聴くと尚更贅沢感が出るというもの。 今回の公演の立役者は実は沼尻の指揮だと考えています。プッチーニやコルンゴルトだと、泣かせてほしいところでサクサクと進んでいくので物足りない思いをしてきたのですが、こういう喜劇に思いのほか適性があったのかと驚きました。序曲からして、カラッとして粘らないのに絶妙なアゴーギグが効いていて、これぞドニゼッティ、と嬉しくなります。アンサンブルの推進力も見事。例によってカヴァティーナは良くも悪くも情に流されないものですが、この作品の性格にはむしろ向いている。エルネストのカヴァティーナなど、さあこれから、と思った瞬間にぷいっと喜劇の音楽に戻る瞬間が堪りません。大げさに言えば、こういった書法というのはヴェルディの「ファルスタッフ」第3幕のフェントンのカヴァティーナ、あの涙腺が緩みそうになる瞬間にもう終わってしまう変わり身の早さと共通するところがあるようにも思えます。ドニゼッティとヴェルディの格の差こそあれど、一生をオペラに捧げた人生の果てにたどり着いた境地といえなくもない。私はドニゼッティについて、世間で思われているよりずっと偉大なオペラ作曲家だと思っているけれど、改めてそんなことに気づかせてくれたのは今回の指揮の大きな成果じゃなかろうかと思っています。センチュリーも実に結構。多少のデコボコはあっても来て良かったと思える公演でした。 (この項終り) ▲
by nekomatalistener
| 2016-10-26 00:06
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友達とシュラスコ食いに行ったのだが、最初に鶏とかソーセージとか原価安そうなもので腹いっぱいになってしまい、ピカーニャという牛の一番美味いところがちょびっとしか食えなかった。悔しい。
新国立劇場の「愛の妙薬」公演に行って参りました。 2013年2月3日 アディーナ: ニコル・キャベル ネモリーノ: アントニーノ・シラグーザ ベルコーレ: 成田博之 ドゥルカマーラ: レナート・ジローラミ ジャンネッタ: 九嶋香奈枝 指揮: ジュリアン・サレムクール 演出: チェーザレ・リエヴィ 合唱: 新国立劇場合唱団(三澤洋史指揮) 管弦楽: 東京交響楽団 今回公演の一番の目玉はシラグーザがネモリーノを歌うこと。私はこのシラグーザという歌手について何の予備知識もなく初めて聴いたのですが、なんだろうね、このヤンキーの兄ちゃんが歌ってるみたいな感じは?いや、今回の公演に限っていえばネモリーノという役柄に合わないことも無い。適度にバカっぽくて適度に脳天気。見た目も(かわいい+かっこいい+バカっぽい)÷3ってな感じで、ちょっとインテリのアディーナがころっと参るのも判らなくもない。でもちょっと騒ぎすぎというか、ベルカントテノールの救世主みたいに持ち上げるのはどうかと思います。恐らくロッシーニなどを聴いてみないと真価が判らない歌手なのかも知れませんが、ネモリーノだけ聴いて絶賛する気分にはなりませんでした。 アディーナを歌ったニコル・キャベルについては、以前「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィーラを聴いたときにこんな感想を記しています。「 ドンナ・エルヴィーラのニコル・キャベルもなかなかの出来ではありましたが、先程の4人と比べると少し精彩を欠く感じ。この人も発声に少し無理があるのか、あまり声が伸びない感じがします。でも第8曲のアリアの最後のアジリタはびしっと決まっていました。第2幕の方のアリアは少し苦しい、が、この至難なアリアを楽そうに歌う歌手を私は未だ知らない。」 (2012.4.30.投稿) 今回彼女のアディーナを聴いた感想もほぼ似たような感じです。声がちょっと拡散してしまう性質なんでしょうか、客席に声が届く前に散るような、ちょっともどかしい感じがするのに加え、前半は音程も甘くアジリタも今ひとつでした。しかし、終わり近くになってあの「受け取ってPrendi」の大アリアになってようやく調子が出てきたのか、これは素晴らしい歌唱でした。聴衆の反応はネモリーノの「人知れぬ涙」には熱狂するくせに、こちらのアリアに対しては冷淡。ま、でも、そんなもんでしょう。 ドゥルカマーラのレナート・ジローラミはベテランの味わいがあってたいへん結構。ベルコーレの成田博之はちょっと荒っぽくて興ざめでした。もう少し、精密さと奔放さが両立するような歌い手っていないですかね。 演出は派手な原色使いのキッチュかつポップ路線。といっても読み替えと言えるほどの逸脱は無し。他愛もないコメディーに対して野暮なことを言うつもりはないが、こういったおふざけでない田舎風恋愛劇仕立てを観てみたい気もします。アディーナがぼくを愛してくれるなら、神様、ぼくは死んでもかまいません、と歌うネモリーノの心情は、演出によってはもっと感動的なものになるでしょうから。 ジュリアン・サレムクールの指揮は推進力はあるものの、カバレッタの繰り返しはほとんどカットされ、各ナンバーのコーダはことごとく短縮されています。私は素直に、もっと聴きたいのにもう終わりかよ、と思ってとても残念。音楽的にも変な段差が出来てしまうところもあって、単に冗長だからカットした、では済まないところがあります。カットなしで多少尺が延びても大したことはなかろうに。 東京交響楽団は、最初の前奏曲の薄っぺらい音を聴いて、ああやっぱり、と思いました。ベルカント・オペラに対する適性だか理解だかに、どうも致命的な問題があるのではと思う。プルト増やしても駄目でしょうね。音の大きさの問題ではないから。でも出だしこそがっかりしたものの、あとは音が薄いながらもそれなりに心弾む音楽でした。輝かしいとまでは言いませんが。日本の聴衆は、ワーグナーだとやれ音が薄いの小さいの、ぐだぐだと文句垂れるくせに、イタリアもの(ヴェルディとプッチーニは別として)だとあまり文句言わないのね。やはりベルカントものを舐めてるのか。 せっかく楽しいオペラで、文句ばっかりいうのは我ながら自己嫌悪気味なのですが、私自身の備忘のために敢えて書かざるをえませんでした。繰り返しになるが、ベルカント・オペラって本当に難しいと思います。登場人物がすくなくてオーケストラも小規模、なんとなくコスパも悪い感じです。でも、私は幸か不幸か、以前ミラノ・スカラ座の引越し公演で、ムーティが指揮してバルツァが歌ったベッリーニの「カプレーティとモンテッキ」の舞台を観て、身震いするほど感動したことがある。ベルカント・オペラの真髄というものを、一応は身体で理解しているつもりだ。今回のごくごく日常的なレパートリー公演に対して多くを求めすぎてはいけないと思うが、新国立劇場のその他(つまりベルカントもの以外)の公演のレベルの高さから言って、もう少し何とかならんものか、と思いました。 ▲
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| 2013-02-05 20:44
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会社で嫌いなヤツがいて、そいつがプラスチックのことを「プラッチック」って言うのが癇に障る(関西のおばちゃんとかがプラッチック言う分にはちっとも気にならんのに)。
今月の新国立劇場「愛の妙薬」公演に先立って、随分久しぶりにこのオペラを聴いています。本当に文句なしに楽しく、しかも「これぞイタリアの歌」と言いたくなるような美しい旋律に満ち溢れた作品です。お話は他愛も無いものですが、女たらしの軍曹や詐欺師まがいの薬売りも含めて、本当の悪人が一人も登場せず、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎えるこんなオペラもたまには良いものです。今聴いている音源は次の通り。 アディーナ: カティア・リッチャレッリ ネモリーノ: ホセ・カレラス ベルコーレ: レオ・ヌッチ ドゥルカマーラ: ドメニコ・トリマルキ ジャンネッタ: スザンナ・リガッチ クラウディオ・シモーネ指揮トリノ放送交響楽団・合唱団 1984年7月録音 CD:DECCA480 4790 私がレコードで初めてドニゼッティを聴いたのはもう三十数年前、高校の頃に名盤の誉れ高いカラスとディ・ステファノの「ルチア」に接したのが初めてでした。最後の「狂乱の場」のみならず、第1幕のルチアのカバレッタ”Quando rapito in estasi”の天空を駆け昇り、駆け降りるようなカラスの歌に魅せられたのは言うまでもありませんが、その時私が魅了されていたのはあくまでもカラスの歌であって、ドニゼッティの音楽そのものであったかどうかは疑わしいと言わざるを得ません。カラスの演奏に限らず、その頃手に入るドニゼッティのオペラの録音といえば、プリマドンナの魅力を引き出すのが最大かつ唯一の目的であって、そのためには大幅なトラディショナル・カットや、オリジナルの旋律の原型をとどめないほどのヴァリアンテの附加や移調が当たり前、ドニゼッティの音楽というのは歌手の芸を盛り付ける器以上でも以下でもない扱いを受けていた、という事実に気がついたのはもう少し後、社会人になった昭和の終りごろ、珍しいオペラの輸入版CDが容易に入手できるようになってから、たまたま買った「ヴェルジィのジェンマ」を聴いた時でした。それは私にとっては小さな衝撃とも言うべきもので、そこで改めてドニゼッティの音楽そのものの力強さというものを発見し、それから「ポリウート」「ロベルト・デヴェリュー」「マリア・ストゥアルダ」といったセリアの数々を聴き、ようやくドニゼッティという巨人の全体像がほんの少し判ったような気になったものです。日本の音楽愛好家の中では、どうも軽量級の作曲家と捉えられている向きも多いようだが(そこにはかの吉田秀和氏の偏見に満ちた言説の悪しき影響もあるのだろう)、私はヴェルディ・プッチーニ・ロッシーニ・ベッリーニと並んで、イタリア・オペラを代表する5人の天才の一人であると思っております。 話を表題の録音に戻しましょう。このCD、数ある「妙薬」の中では決して目立つものではないと思いますが、音楽にこびりついた様々な手垢を洗い落とすという意味ではとても意義のある録音だと思います。シモーネの指揮は、ことさら策を弄さず、ドニゼッティの書いた音符をありのままに音にしたという感じが大変好ましい。但し、リコルディ社のヴォーカル・スコアを見ながら聴いていると、第1幕は繰り返しも全て行なっておりほぼカットなしなのに対して、第2幕になると幾つかカバレッタのコーダがほんの少しカットされていたり、「人知れぬ涙」に続くレチタティーヴォ・セッコの一部がカットされている。やや冗長なのは判るが、聴衆が退屈しないように配慮する必要のあるライブと異なって、資料としての意味を持つCD録音でこのようなカットが必要とは思えませんが、モーツァルトのオペラ録音ですらトラディショナル・カットが当然のように行われていることに比べれば、この程度のカットで済んでいることは喜ぶべきことかも知れません。また、歌い手の恣意的なヴァリアンテもほとんど行なっておらず、あくまでもオーセンティックな演奏を狙ったことが明白です。正確に言えば、ネモリーノが兵役志願する場面後半のカバレッタ、”Qua la mano, giovinotto”のコーダでカレラスが原譜にはないお約束のハイCを歌っているのと、「人知れぬ涙」のカデンツァにほんの少し控えめな加音をしているくらいなものだと思います。ベルカント・オペラで歌手にヴァリアンテを許さない、といえばムーティを思い出す訳だが、ムーティがその分指揮者としての個性を強烈に発揮するのに対してシモーネのほうは良くも悪くも中庸を得た指揮。ただし、この「妙薬」の音楽には、それはそれで相応しいといった感じがします。ほんの少し出てくるレチタティーヴォ・セッコの伴奏には古雅な音色のフォルテピアノが使われており、これもたいへん結構。それはさておき、こうして現れた「妙薬」を聴くと、改めてドニゼッティの音楽が如何に優れたものか、よく判ります。 このオーセンティックなアプローチは、歌手の選定にも現れていて、カレラスのネモリーノを聴いていると、そんなに頭が悪くなさそうな、ごく普通の青年に聞こえるのが面白い。ネモリーノといえば第2幕のロマンツァ「人知れぬ涙」”Una furtiva lacrima”が有名だが、本当にこれはイタリアオペラ屈指の名旋律でしょうね。こういった旋律を一つの様式美にまで高めたドニゼッティとベッリーニの影に、どれほどの名も無い作曲家たちがいたか知りませんが、この様式は20世紀のニーノ・ロータやエンニオ・モリコーネの映画音楽にまでまっすぐ続いているのでしょう。カレラスのあざとさの無い端正な歌い方はとても好ましいと思いますが、むしろ彼には第1幕冒頭の雲ひとつ無い青空のようにのびやかな”Quanto è bella, quanto è cara!”のほうがより適しているようにも思います。 リッチャレッリのアディーナは多少好き嫌いが分かれるところかも知れません。私がリッチャレッリの声をどんなに愛しているかは、以前コリン・デイヴィス指揮の「ラ・ボエーム」を取り上げた際に書いたことがありますが、その少し憂いを帯びたほの暗い声質がアディーナに合っているかは確かに微妙なところではあります。が、アディーナは農村の村娘たちとは一線を画した存在であり、ろくに字も読めない登場人物のなかにあって、「トリスターノとイゾッタ(トリスタンとイゾルデ)の物語」を皆に読んで聞かせるという、ある意味周りから浮いたお嬢様の役柄。コケットよりアンニュイを感じさせる違和感は認めつつ、これはこれで「あり」だと思う。リッチャレッリの声質を未だにリリコ・スピントだと言う人たちがいるのは私には不思議で、彼女こそ真正リリコというべきだと思います。その分、ベルカント・オペラに必要なアジリタは苦手そう。ロッシーニなどを聴くとたとえ録音であっても、いつもちゃんと歌えるかハラハラしてしまうのですが、アディーナもご多聞にもれず、けっこう至難なフィオリトゥーラを歌わなければならない。たとえば第1幕の”Della crudele Isotta”のコーダ(譜例)。 ![]() 「あばたもえくぼ」か、と言われるのを承知で言えば、リッチャレッリのいかにも頼りなさそうな、音程もわずかに揺れるこの箇所は、実はとても素敵な聴きどころの一つ。わずかにネジがゆるんだようなところのあるアディーナという役柄には、あまり完璧なコロラトゥーラ歌手は却って合わないかも、と思ってしまうのはリッチャレッリの贔屓の引き倒しでしょう。しかし、アディーナの最後のアリア”Prendi; per me sei libero”はこの役の最大の聴かせどころなのに、ここ一番というところで音があがりきらずとても残念(譜例の高いC)。 ![]() 花の命は短くてとは云うものの、もうこの録音の頃はかなり衰えが出てきているのだろうか。その後のコーダのフィオリトゥーラは意外とよく歌えているので本当に残念。 ヌッチのベルコーレ、一昔前のロッシーニやベルカントもののバリトン役を一手に引き受けていた感のあるヌッチですが、今ならこういった役柄はより精密に歌われるべきものでしょう。次のような箇所を誤魔化して歌っているのがどうしても私には許しがたいものに思えます(譜例)。 ![]() ドゥルカマーロのトリマルキは歌手陣の中ではもっともトラディショナルなブッファの歌い方。さすがにシモーネも彼には楽譜通り歌え、とは言わなかった模様(笑)。たしかにこの歌を楽譜通りうたっても面白くもなんとも無いと思います。 話は戻りますが、「妙薬」におけるドニゼッティの音楽の魅力の本質とはなんだろうか。まず一つ目は、もちろん流麗極まりない旋律の魅力。まぁ確かにどのひとふしを取っても、安直といえば安直、脳天気な旋律とステロタイプな伴奏、こまかい工夫はいろいろあれど、基本的には因習そのものの形式。劇場の都合でわずか2週間でこのオペラを作曲したという逸話も、さもありなんと思う。だが、この悲しみも喜びも南欧の日差しのようにくっきりとして、抜けるような青空を思わせる歌の魅力をどう言葉にしたらよいのか。 二つ目は、意外に言及されないことだと思うが、ドニゼッティの音楽というのは単に流麗であるだけでなく、アリアの後半で時にヴェルディを先取りしているかのような白熱のカバレッタが現われること。それは特にセリアで顕著なのだが、この喜劇においても、例えば第1幕ベルコーレ登場のアリアの後半、”Più tempo, oh Dio, non perdere: ”はアディーナやネモリーノ、合唱も入って白熱のカバレッタとなる。この血沸き肉躍るカバレッタがあってこそ、と思います。他にも、悦びが湧きたつネモリーノとドゥルカマーラの二重唱”Obbligato, ah! sì, obbligato! ”、酔っぱらったネモリーノとアディーナの二重唱の後半、”Esulti pur la barbara ”、第2幕アディーナとドゥルカマーラの二重唱の後半”Una tenera occhiatina”も燃えるようなカバレッタ。 三つめの要素は、壮大なコンチェルタート様式によるアンサンブルの素晴らしさ。この種の作品ではルチアの六重唱が何と言っても有名だが、この「妙薬」にも素晴らしいアンサンブルが出てくる。この作品で一番の聴きどころは実はこの第1幕終盤のアンサンブル。登場人物たちの四重唱がヘ短調、Larghettoになってから”Adina, credimi, te ne scongiuro”の部分、独立して歌える体裁を取っていないのであまり注目されないが本当に天才が溢れていると思う。ひとしきりカルテットが歌われた後、合唱も入って壮大なコンチェルタートとなる。粗製乱造、などという先入観を捨てて虚心坦懐に聴いてみてほしい。 ![]() 以上、ドニゼッティの音楽の魅力の源泉を分析してみましたが、それを更に圧縮して言うならば「享楽」と言えるような気がします。すべての音楽ではないにせよ、ある種の音楽の本質と隣り合わせの「享楽」が、これほどシンプルな形をとって現れていることに、大げさでなく感動を覚えます。そして、ある種の音楽愛好家がドニゼッティを蔑ろにしがちであることの理由もそのあたりにあることは容易に想像がつきますが、逆に私には享楽と無縁な音楽というものが想像もつかない。新国立劇場の公演が楽しみですが、享楽といえるほどの愉楽に満ちた世界というものは(昨年の「セビリア」公演でも感じたことだが)生半可なレベルの演奏からは決して得られないものであるので、ちょっと不安も感じるところだ。 (この項終り) ▲
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| 2013-02-03 00:56
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