人気ブログランキング |

タグ:シェーンベルク ( 5 ) タグの人気記事

シュレーカーとコルンゴルトとシェーンベルク

東大の学食の改修時に宇佐美圭司の壁画を廃棄したらしいというニュース。無知無教養は時に犯罪的であるとか、いやいや単に総務部門の資産管理の問題だろうとか、どれもこれももっともだが、じいさんの遺品の中のピカソのエッチングを、遺族が「なんだこのエロい落書き」と思って処分、なんて例は世界中で起こってそうだな。





曲目につられてオケの演奏会。自発的に行くのは久しぶりのような気がする。


2018年4月27日(金)
大阪交響楽団第217回定期演奏会”ウィーン世紀末のルーツVOL.5”

 シュレーカー:弦楽のための間奏曲Op.8(1900)
 コルンゴルト:左手のためのピアノ協奏曲嬰ハ調Op.17(1923)
 (アンコール)
 ゴドフスキー:Alt Wien
 (休憩)
 シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」(シュタイン編)(1902-03)

 指揮:寺岡 清高
 ピアノ:クリストファー・ヒンターフーバー
 管弦楽:大阪交響楽団


本来なら予習してから行くべきプログラムなのに、このところ多忙で叶わず、前半は初めて聴く曲目でした。
シュレーカーは、いずれこのブログで「烙印を押された人々」を取り上げたいと思ってたところ、めずらしくシュレーカー作品を生で聴けるとあって思わずチケットを購入しました。この間奏曲はウィーン学友協会音楽院の卒業作品ということで、この若書き一作でシュレーカー作品を云々することは出来ないと思うが、9声部に分かれた書法(vn4・va2・vc2・cb1)、妙な引っ掛かりを残す半音階的和声進行は、わずか数分の小品といえどもすんなりと腹に入るものではなく、予習を怠ったのが悔やまれます。よって中途半端な感想をここに記すのはやめておこうと思います。

コルンゴルトは過去に「死の都」とアメリカ亡命後に書いたたくさんの映画音楽を取り上げたことがありました。神童ともてはやされ、ステージパパの導きのままにかいたオペラと、映画音楽というフォーマットですっかり見違えるほどの第一級の職人芸を揮った諸作品の違いを、「自己愛」と「社会的ディシプリン」をキーワードに分析したつもりですが、この20代半ばのコンチェルトは、まだ売れっ子だった頃とはいえ、それなりの悪戦苦闘の跡が伺えて想像以上に面白い作品でした。左手だけのピアノソロという制約がなにがしかプラスに働いたのだろうと思います。ぎくしゃくとした旋律、甘く流れると思わせるや否や中断されるカンティレーナ、どこか断片的なまま積み重ねられる展開と、この人ならではのゴージャスな管弦楽書法との奇妙な取り合わせ。「プラスに働いた」というのは、音楽の完成度というのではなくて、その溢れそうになる自律性とでも言ったレベルでのことです。コルンゴルトだからと舐めていた訳ではないけれど、やはりこちらも予習しておくべきだったと後悔頻りですが、おかげでコルンゴルトをもう少し聴きこんでみようと思ったのは大きな収穫でした。
ヒンターフーバーのソロは見事でした。地味な経歴だが、テクニックが強靭で、多数の打楽器を含むオーケストラに負けずにピアノが鳴っていました。アンコールにゴドフスキーの小品を選んだのは「ウィーン世紀末」というコンサートのテーマにも適っていて大正解だと思います。赤ワインと濃厚なフォンで煮崩れるほど煮込んだ頬肉のような退廃の味わいは格別。「トリアコンタメロン」の中の1曲で、PTNAピアノ曲辞典には「懐かしきウィーン」という名前で載ってます。

プログラム後半はシェーンベルクの大作。若書きだけれどプログラム前半とはやはり格が違うとしか言いようがない傑作だと思います。この日の演奏、たいへん聴きごたえがありましたが、もっとこう、叫びとか痙攣とか、いわゆるドイツ表現主義的な表現ができないものか、と少し物足りなく思いました。こういった作品、ライトモチーフをぎくしゃくと積み上げていく作風は、「浄められた夜」をムード音楽みたいに演るのと同じく、その継ぎ目にやすりを掛けて滑らかにしてしまうと実につまらなくなる側面があって、なかなか難しいものだと痛感しました。かれこれ40年ほども昔、私がシェーンベルクを聴き始めた頃はカラヤン盤くらいしかなくて、美しく磨き上げられた音響から抜け落ちた物を歯がゆく想像するしかなかったけれど、今も(アバド盤があるとは言え)あまり状況は変わっていないような気がします。ちなみにこの日の演奏はエルヴィン・シュタインによる改変版で、一言でいえば4管編成を3管編成に書きなおしたもの、といったところ。客の入りはまぁ7割程度、トラの確保も厳しいでしょうからやむを得ないとはいえ、どうせなら原典版で聴きたかった。尤も、シェーンベルクがパラノイアックに書きつけた対位法の網目をどの程度端折ったのか、スコアを見ないと分からないが、この編曲版でもかなり分厚い響きがしていたので、生演奏でこの大曲を聴けたという満足感はそれなりにあったわけだが・・・。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-04-29 16:30 | 演奏会レビュー

シェーンベルク 歌劇「今日から明日へ」 ストローブ=ユイレ

テレビは土建屋よしゆきさん死去のニュースのあと、「不適切な発言」をお詫びしなくていいのだろうか。





このブログでDVDを紹介するのは初めて。今回はシェーンベルクのめったに上演されないオペラを、ストローブ=ユイレが映像化したもの。
a0240098_2372821.jpg


  シェーンベルク 「今日から明日へ」 Von heute auf morgen

    夫: リチャード・ソルター
    妻: クリスティーン・ウィトルジー
    子供: アナベル・ハーン
    女友達: クラウディア・バラインスキー
    歌手: リシャード・カルチコフスキ

    監督: ダニエル・ユイレ&ジャン=マリー・ストローブ
    指揮: ミヒャエル・ギーレン
    演奏: フランクフルト放送交響楽団
    ドイツ=フランス/1996年

  (併録)
  アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門
    監督・出演: ジャン=マリー・ストローブ
    出演: ギュンター・ペーター・シュトラシェク
       ダニエル・ユイレ
       ペーター・ネストラー
    指揮: エルネスト・ブール
    演奏: バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団
    ドイツ/1972年
    DVD: 紀伊國屋書店KKDS-227

ストローブ=ユイレ(ジャン=マリー・ストローブJean-Marie Straubとダニエル・ユイレDanièle Huilletの合作)による映像作品を初めて観ました。孤高の映像作家という評価、コアなファンの存在(叱られるかも知れないが「カルト」という言葉を思い起こさせる)、ゴダールやブレッソンとの対比、前衛的あるいは難解という世評、どれをとっても素人があれこれ論評めいた言説を述べるのを躊躇わせるには十分すぎるほどでしょう。だがこの「映画」と呼べるかどうかも微妙な、しかし映像における「作家」の存在を強烈に照射する二つの作品に触れて、何かを書かずにはいられない。たとえそれが幼稚な感想文レベルのものであっても。

このDVDを購入したきっかけは、amazonを散策していて珍しいオペラを見つけた、という理由以上のものはありません。どちらかと言えば私は初めて聴くオペラ、たとえばオペラの公演の予習をするといった場合、DVDではなくCDで聴きたいと思うタイプであって、実際の舞台に接する前に映像での刷り込みを避けたい、音楽だけを無心に聴きたいと思ってきました。にもかかわらずこのDVDを購入したのは単にCDがほとんど見当たらないからやむを得ず、といったところでした。実際、オペラのDVDといえば、単に舞台公演を録画したものか、あるいは例えばゼッフィレッリによる「オテロ」や「椿姫」のようなオペラを題材にした「映画」のいずれかということになるのでしょう。前者であれば、あくまでも主役は歌手であり、指揮者であって、クレジットロールに記された監督名やテクニカルスタッフの名前など大半の人は気にもしないでしょうし、後者の場合であればゼッフィレッリという監督名が前面に出てくることから判る通り、映画としての(あるいは映画的な意味での)「リアリティ」の追及が何より重視されていて、歌手はいわゆる口パク、極端な場合吹き替え(実際の歌手より美男美女が起用される等)も辞せず、ということになる。いずれにしても音楽を聴く、という立場からすればあまり食指が動かない、というのが正直なところです。
だが、この「今日から明日へ」では、カメラは人払いした放送局のスタジオでオーケストラがチューニングをしている光景から始まり、舞台の上の室内のセットを映し出す。オペラが始まると実際の歌手が歌いだし、計算され尽くしたアングルでカメラが彼らの表情を克明に追う。リアルというのでもない、演劇的というのとも違う、もちろんテレビや通常の映画とは全く異なる特異な演出。それに、冒頭の一編の詩のような映像、美しいモノクロの画面。先に挙げた二つのタイプの「オペラDVD」とは全く異なる種類の映像がそこにはありました。「映画」とは何か、という根源的な問いを投げかける、ストローブ=ユイレという映像作家の存在感の巨大さに圧倒される思いですが、私はこの特異としか言いようのない映像美に完全に魅せられたのでした。シェーンベルクの音楽も異形といえば異形ですが、ここでは音楽が主張するよりは映像にひれ伏しているようにも感じられます。ストローブ=ユイレは他にもシェーンベルクの「モーゼとアロン」を映像化しているそうだが、彼らの映像の強靭な美しさに堪えうる音楽が偶々シェーンベルクだったということだろうか。

私はさきほど「魅せられた」と書きましたが、どこにどう魅せられたかを言葉にするのは非常に難しく感じます。その困難さが、世評に聞くストローブ=ユイレの難解さに通じるのだろうか。映画に限らず、ある作品が難解と感じられるのは、そのテーマが形而上学的であるか、もしくは過度に詩的であるかのいずれかに思いますが、前者については他の作品を観ていないので何とも言いようがない。「映画とはなにか」という問題意識の峻烈さはありありと感じ取れるが、この映画に何らかの答えを見出すだけの理解力は私にはない。そもそも芸術における形而上学的主題を理解し、咀嚼する能力がどうも私には備わっていないようです。一方、詩的という側面についていえば、この映画の冒頭、「お前たちの微笑みはどこに葬られたのか?」という言葉とダビデの星のマークが落書きされた戸外の漆喰を塗った壁を延々と2分間もただひたすら見せるところがある。あかるい日差し、風にそよぐ樹々の葉、遠くに聞こえる街の物音。これはなんだろうか。メッセージなのか詩なのか。もしかしたら1968年の革命の季節から現代のパレスチナ問題にまで広がるコノテーションを読み取るべきなのかも知れませんが、私はただひたすら思考停止して画面を観ている。だがこの2分という時間の長さが大切なのだということだけは痛切さを伴って判るような気がする。

「特異な演出」と書いたけれども、もう少し具体的に記しておきましょう。まず登場人物の視線。基本的に子役を入れて5人の登場人物は視線を交わさない。いくら夫婦喧嘩のお話だといっても、客席のほうに向かって夫と妻が完全に横並びで対話するという不自然さ。この、オペラではしばしば見かけるスタイルが改めて不自然と感じられる事自体、凡百のオペラ映像とは次元を異にしている。たまに夫婦の視線が絡み合うこともあるが、粘りつく視線を剥がすようにまた離れてしまいます。オペラの終盤、女友達と歌手の男が登場してからはさらにこの不自然さが強調され、4人ともまったく視線を交わさない。しかも同じ室内での出来事なのに、夫婦と友人二人は決して同じ画面に登場しない。更には、妻が歌っているときに黙っている夫だけを写し、夫が歌うときには妻だけが写っている、あるいは二人が歌っているのに画面にはブラインドの掛かった窓と椅子だけが延々と写っている等々。そのくせ、夫婦の表情は、怒り、憎しみ、失望、懐疑、満足、放心、実にうるさいぐらい変化し、それをカメラがアップで克明に追うのも異常さを感じさせます。その一方で居間の調度品や衣装など、ごくありきたりの20世紀前半の中産階級の設えであって、何ら常軌を逸したものはない。本物の歌手がぶっつけ本番で録画と録音を同時にやっているので当然というか、ちょっと書くのを憚られるが誰一人美男美女がいない。よくて十人並み。映像自体はとんでもなく美しいにも関わらず、どう贔屓目に見ても、この特異なオペラを広く世の中に紹介したいといった善意を感じることが出来ない。繰り返すが、これはなんだろうか。さしあたってのありきたりな結論は、もっとストローブ=ユイレの映像作品を観てみたい、ということ。

シェーンベルクのオペラ自体は難解でもなんでもなくて、物語はむしろコメディと言ってもよいくらいの夫婦喧嘩と仲直りのお話(ちなみに台本はシェーンベルクの奥さんのゲルトルートが1929年にマックス・ブロンダというペンネームで書いたもの)。いや、もしかしたらもう少し含むところがあるのかも知れませんが今は深入りしません。またシェーンベルクの音楽そのものも、十二音技法云々に怖気づく人もいるかもしれませんが、その根底にムジツィーレンとしての愉楽が横たわっていることは以前このブログでOp.29の組曲を紹介した際にも書いた通りであると思います。特に終盤の見事な四重唱、歌手と女友達のパートはカノンで書かれていて、対位法の大家たるシェーンベルクの面目躍如といったところ。ですが、この映像を最初観て感じる「突き放されたような」「取りつく島の無い」感じにも関わることだが、シェーンベルクが「十二音技法でもコメディが書ける」と本当に思っていたのなら、すくなくともこの作品に限っては目論見は失敗していると言わざるを得ません。十二音技法が悪い訳では多分ないでしょう。あまりユーモアとかコメディと結び付けられることはないかも知れませんが、「ルル」の中で学生やロドリーゴの乱痴気騒ぎを書いたベルクなら、もっとそれらしい音楽を書いたに違いありません。だがここにはそのかわりに、シェーンベルクが想定していたかどうかは別として、本来共存することがありえない二つのもの(十二音技法とコメディ)を無理やり結びつけたことによる異化効果、それによってもたらされる聴き手の不安感や落ち着かなさが感じられて、おそらくシェーンベルクは難解であるという世評の原因にもなっているのだと思います。また、この時期のシェーンベルクの音楽には、知的かつフィジカルなムジツィーレンの面白さはあってもエロスに通ずる要素は乏しいような気がします。これが人によっては無味乾燥といった印象に繋がるのかも知れません。
演奏そのものについては大変レベルが高いもので、4人の歌手、ミヒャエル・ギーレンの指揮ともども完全に手の内に入った演奏を聞かせてくれます。精緻かつ自在。純粋に音楽を聴くという意味でも価値のあるものだと思います。

併録のショートフィルム「アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための伴奏音楽》入門」についてはもう少しストローブ=ユイレ体験を積むまで詳細なコメントは差し控えたいと思います。ほとんど動きの無い画面は「反・映画」と呼びたくなるほど。終盤、パリ・コミューンの犠牲者の遺体映像を見せられても正直なんのことやら途方に暮れてしまいます。シェーンベルクが架空の映画のために書いたこの音楽については、学生の頃にブーレーズのLPで聴いて以来で大変懐かしい思いをしましたが、この映画においてはあくまで映像が主であって、音楽を聴くという目的にはそぐわないと言わざるを得ません。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-08-07 00:24 | CD・DVD試聴記

大阪交響楽団 第182回定期演奏会 シェーンベルク&スッペ

”ドモホルンリンクル”でGoogle検索  781,000件
”ホモホルンリンクル”でGoogle検索    2,000件
”イモホルンリンクル”でGoogle検索   1,200件
あほなこと考えてるやつ多過ぎ(←人の事言えない)。





久しぶりに行った大阪交響楽団の定期。今回は「捻ったウィーンプログラム」ということで、確かに曲目の面白さに惹かれて行くことにしたのでした。


  シェーンベルク ヴァイオリン協奏曲Op.36
   (アンコール)
  パガニーニ カンタービレ
   (休憩)
  スッペ
   序曲「ウィーンの朝・昼・晩」
   喜歌劇「快盗団」序曲
   喜歌劇「美しいガラテア」序曲
   喜歌劇「スペードの女王」序曲
   (アンコール)
  スッペ 喜歌劇「軽騎兵」序曲

  指揮:下野竜也
  ヴァイオリン:川久保賜紀
  管弦楽:大阪交響楽団


ま、「ウィーン」というのなら、シェーンベルクがアメリカ亡命後に書いた本作品よりもっと相応しいものがあるのではないか、とか、シェーンベルクに合わせるのならスッペよりカールマンじゃないのか、とかいった声もあるかも知れませんが、実際のところはヴァイオリン協奏曲をやろう、という企画がまずあって、それの付け合わせをちょっと捻ってみたというのが実情かなと思います。それにしても、料理に喩えるなら、前菜もスープもなしにいきなり熟成したジビエをクラシックなソースで頂くメインが出され、その後にデザートが5皿続くといった趣、しかもデザートはいずれも甘さ控えめで見た目も地味な焼き菓子なんだがカロリーは恐ろしく高め、みたいな、実にユニークかつ楽しいものでした。私は今回の「ちょっと捻ったウィーンプログラム」というタイトルに偽りなし、と思いました。

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲、ヒラリー・ハーンの最近の録音は評判が良いみたいですが私は未聴。私はアモワイヤルがソロを弾いてブーレーズがLSOを振った録音を聴いてきましたが、シェーンベルクの諸作の中でも辛口の部類。これを聴いてウィーンに思いを馳せるというのは難しかろうと思っていましたが、驚くことに今回の演奏、なるほどこれならウィーンというシェーンベルクの「根っこ」の部分が感じ取れる、と思いました。特に第2楽章、スコアは2/4拍子で書かれていますが実質は紛う方なきレントラーということが実によく判りました。これは偏に下野竜也の指揮の威力でしょう。この指揮者、過去の私のブログでは松村禎三の「沈黙」、ライマンの「メデア」「リア王」の三回にわたって触れてきましたが、シェーンベルクの複雑なスコアを精密に音にしていく技には本当に感服しました。それと、先程のレントラーもそうですが、アーティキュレーションとそれを団員に伝えるテクニックが非常に適確。おそらく物凄く判りやすい指揮なのだと思う。シンプルでもったいぶったところがない。よくピアニストに関して、豊かで恰幅がよく神経質なところのない演奏をグランドマナーと表現することがありますが、下野の指揮についても似たような感じを受けます。それが細密画みたいに精緻なスコアから音楽の本質を掴みだすのでしょう。そしてシェーンベルクの場合、その「本質」というのはとりもなおさずウィーンの音楽に特徴的な「伝統」ということになるのだと思います。
川久保賜紀のソロも素敵でした。ヴァイオリンの技巧については素人ながら、どんなに困難な技巧が使われているかは想像に難くありませんが、見た目には易々と弾いているように思われます。すさまじい重音の連続のカデンツァも、幾分リズムをくずしてラプソディックな表現を取り入れて自由に弾いています。その分、何か本質的なところで失われたものがあるかも知れませんが、今回のプログラムの中に置かれたシェーンベルクの表現としては言う事がないと思います。
アンコールのパガニーニは技巧よりもカンティレーナの美しさに徹した作品。彼女がなぜこれを取り上げたのか判らないけれど、そこここに現れる甘いポルタメントがウィーン風と言えなくもないのがお洒落だと思いました。

後半のスッペはさっき甘さ控えめな焼き菓子に喩えた通り、質実剛健な音楽。楽しいだけでなく、ずっしりとした手ごたえのある音楽でした。下野の指揮も外連味はないものの、至る所で上手さに唸りそうになります。スッペで長々書くというのも野暮なのでこれぐらいにしておきますが、こうしてまとめて聴くと思いのほか良い音楽です。
アンコールは「軽騎兵」はまぁお約束ですね。時間的にややコンパクトなプログラムだったので他に「こうもり」序曲くらいやってくれないかな、と思ってましたがさすがにそれは無し。でもちょっと物足らないくらいがちょうど良いのかも。満ち足りた気持ちで家路につきました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-01-25 17:19 | 演奏会レビュー

「創世記組曲」を聴く

スギちゃん、番組収録中に事故で3カ月の重傷。もし会社の慰安会に呼んでたら大変だったわ(実際には2700に変更)。




珍品中の珍品、「創世記組曲」を聴きました。

  1.シェーンベルク:「前奏曲」
  2.シルクレット:「天地創造」
  3.タンスマン:「アダムとイヴ」
  4.ミヨー:「カインとアベル」
  5.カステルヌオーヴォ=テデスコ:「洪水」
  6.トッホ:「契約(虹)」
  7.ストラヴィンスキー:「バベル」

  トヴァー・フェルトシュー、バーバラ・フェルドン、デイヴィッド・マーギュリス、
  フリッツ・ウィーヴァー、イザヤ・シェッファー(語り)
  エルンスト・ゼンフ合唱団
  ジェラード・シュウォーツ指揮ベルリン放送交響楽団
  2000年12月録音
  CD:NAXOS8.559442

多分、大半の読者(クラシック音楽の愛好家)はシェーンベルク、ミヨー、ストラヴィンスキー以外の作曲者は名前すら知らないのではないか、と思います。私自身も殆ど知らなかったので、Wikipediaの受け売りですが少しだけ紹介しておきましょう。ナサニエル・シルクレット(1889-1982)はニューヨークでユダヤ系オーストリア人の家庭に生まれ、クラシックだけでなくポピュラー音楽も手掛け、盛んに映画音楽を書いたと言います。アレクサンデル・タンスマン(1897-1986)はユダヤ系ポーランド人で、若い頃にパリに亘り、それ以降フランスで活躍した作曲家。多くの作品を書いたようだが今では(少なくとも日本では)セゴヴィアのために書いたギター曲などが知られているだけのようです。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968)はユダヤ系イタリア人で1939年アメリカに亡命、以降200本もの映画音楽を書いたそうです。エルンスト・トッホ(1887-1964)はオーストリア人だがその進歩的作品がナチスに睨まれアメリカに亡命。戦後マンハイムに戻りましたが、アメリカ時代には映画音楽も手掛けているとのこと。CDのブックレットには各作曲家についての非常に詳細な英文の解説が附いているが、活字が小さすぎて老眼の身には辛くて読むのを断念しました(笑)。
シルクレットの発案によるこのコラボレーション、創世記の前半、天地創造からバベルの塔の逸話までを音楽に合わせてナレーターが語るという趣向。テキストはほぼ聖書の通りですが若干の短縮が見られます。1945年に初演された後は殆ど知られることも無く埋もれていた作品ですが、これを聴くと、シェーンベルク、ミヨー、ストラヴィンスキーの3人は妥協が無い、というかKYというか、まるで前後のコラボレーター達と(曲想とかを)合わせようという気がないみたいだ。以前ストラヴィンスキーの「バベル」紹介の際にも書いたが、シルクレットはスペクタクルな音楽を期待していたようだがストラヴィンスキーはこれを拒否、出来あがった代物はもうストラヴィンスキー以外の何物でもない、といった結果となった訳ですが、このことはシェーンベルクの「前奏曲」にも言えます。ここでシェーンベルクは十二音技法による辛口の音楽を書いており、これはこれで実に立派な音楽。最後のほうにちょろっと歌詞の無い合唱が出てくるので、演奏の機会がぐっと減ってしまったように思います。
一番好き勝手に書いてるKYは4曲目のミヨーかな。彼が書いた音楽はいかにもミヨーらしいもので、旧約聖書というよりは西部劇の映画音楽みたいな趣。ちょっと能天気な緩さもミヨーらしくて思わず微笑んでしまいます。それに比べて他の人達はとてもよく似ていて、良くも悪くも甘口の映画音楽みたいな感じ。ところが全体を通して聴くと、ちょうど3枚のパンで2層の具を挟み込んだサンドイッチみたいな不思議な統一感があって、ある意味1945年当時のアメリカ西海岸のハイブラウな音楽が如何なるものであったかという見取り図のようにも思えてくるところが実に面白い。
サンドイッチの具についてもう少し詳しく見てみると、シルクレットとタンスマン、カステルヌオーヴォ=テデスコの3人が特に甘く描写的な音楽で、亡命ユダヤ人達の「血の濃さ」のようなものを感じます。その中でもシルクレットとタンスマンは双子の兄弟のように似通った音楽で、ナレーションの言葉の一々に音楽が反応するのが少々煩わしいくらい。例えば”And the Spirit of God moved upon the waters.”の部分ではオーケストラが水の波紋のような音形で応えたり、”And God said, "Let there be light"; and there was light.”の部分ではオーケストラと女声合唱が天から降り注ぐ眩しい光のような響きを奏で、それまでの調性のはっきりしない混沌から明朗な3和音に移りゆく、といった具合。これって正に昔のディズニー映画(「白雪姫」とかの頃の)みたいです。ちなみにクラシック音楽の世界では「映画音楽みたい」というのは大抵悪口として使われる訳ですが、私自身は(このブログに長くお付き合い頂いている方は何となくお判りだと思うが)映画音楽をいわゆるクラシック音楽より劣るものとは考えていません。まぁ「映画音楽」という括りも大雑把に過ぎるとは思うけれど、このジャンルが無ければ20世紀の音楽は随分寂しいものになったはずだし、それより何より映画音楽を貶めるというのはラフマニノフもショスタコーヴィチもニ流どころだ、というに等しいものだと思います。それはともかく、音楽に甘口と辛口があるとすれば、パンが激辛で具が激甘なのは間違いないところ。
タンスマンの音楽は所々ラヴェルの「ダフニスとクロエ」風になるのも楽しい(例えば”This is now bone of my bone and flesh of my flesh; she shall be called Woman.”のところ。殆どパクリ)。
カステルヌオーヴォ=テデスコは同じ甘口でも最も通俗的なものかも知れません。なかなかキレのいい音楽を書いているのだが、先の二人がディズニーなら、こちらの方舟に乗り込む番の動物達の行進は「ジャングル大帝」といったところ。洪水の場面はスペクタクルなものですが、ストラヴィンスキーがテレビ番組のために書いた「洪水」に比べるとかなり見劣りします。ストラヴィンスキー自身はエンタテイメントを書くつもりは毛頭なかったでしょうが、結果として抜群に面白い音楽が書けてしまうのでしょうね。
トッホも甘口ながら、この具のなかではいかにも独墺系の趣があって、こんな企画モノの作曲にあたっても中ほどにオーケストラによるフーガが出てきたりと全力投球。5分半ほどの短い音楽ですが、亡命者の悲しみを偲ばせるみたいな抒情性に思わず聴き惚れてしまいました。
具の4人とも、それなりに光るものがあり、オーケストレーションも見事で決して(これを聴く限り)ニ流とは思いませんが、最後のストラヴィンスキーを聴くとやはり格が違うと思わざるを得ない。終盤、”So the Lord scattered them abroad from thence upon the face of all the earth ,and they left off to build the city.” というナレーションをきっかけに始まるオーケストラのフガートは実に見事。他の楽章では殆ど歌詞らしい歌詞を持たなかった合唱がここでは神の御言葉を歌う。ただしストラヴィンスキーは女声を排して男声だけを用いており、いつものことながら音楽の官能性といったものを排除しています。禁欲的な音楽ですが、全体の中に置くと甘ったるい具の部分が俄然引き締まるような気がして、シルクレットの想定外の音楽だったのでしょうが結果オーライといったところです。他の作曲家も皆そうなのだが、こんな作品でも、というかこんな作品だからこそ持てる限りのメチエを投入してみました、と言わんばかりの入魂の作です。

演奏については期待以上の素晴らしさでした。普通ならこういった「ゲテモノ」は二流どころのオーケストラがそれらしく演奏してくれれば御の字だと思いますが、ベルリン放送交響楽団の演奏はもったいないぐらいの出来栄え。合唱もまずまずだが、最後の「バベル」の男声合唱はテノールにくらべてバスが幾分オフに録られているのでちょっと素人っぽく聞こえる。神の声としては少し座りが悪い感じがするが、まぁ大きな瑕ではあるまい。これをきっかけにこの珍品が復活するとはいくら何でも思えないけれど、ふと興味が湧いた時に何時でも実際の音として聴くことができるというのはとても有難いことだと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-09-01 23:48 | CD・DVD試聴記

シェーンベルク 「組曲」Op.29&「浄められた夜」Op.4 ブーレーズ/Ens.アンテルコンタンポラン

「フィガロの結婚」第3幕フィナーレの手前のレチタティーヴォ・セッコで、伯爵がいきなり日本語で「助かりました」というところ、何度聴いてもびっくりする(本当はtasca rimastaと言ってる)。




現在少しずつ書き進めている「ストラヴィンスキー自作自演集」のシリーズ(その12)の回で「七重奏曲」(1952年)を取り上げた際に、この作品がシェーンベルクの「七重奏の為の組曲」Op.29と深い関係があると書きました。しかしながら、それはロバート・クラフトの言葉を引いただけであって、私自身はその元ネタというべきシェーンベルクのOp.29について実は良く判っていなかった事を告白せねばなりません。正確に言うと、若い頃にLPで聴くには聴いたが全く面白さが判らず、それ以来多分30年以上聴く機会がありませんでした。たとえ駄文を書き散らしたブログであっても、自分の書いたことには責任を持ちたいとの思いから、CDを取り寄せてちょっと真面目に聴いてみた次第です。

 「組曲」Op.29
  P.ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン*
 弦楽六重奏曲「浄められた夜」Op.4
  P.ブーレーズ監修アンサンブル・アンテルコンタンポラン**

   *Michel Arrignon, Alain Damiens :cl
   Guy Arnaud :bs-cl
   Marryvonne Le Dizés-Richard :vn
   Jean Sulem :va
   Pierre Strauch :vc
   Cristian Petrescu :pf

   **Charles-André Linale, Marryvonne Le Dizés-Richard :vn
   Jean Sulem, Garth Knox :va
   Philippe Muller, Pierre Strauch :vc

   Op.29:1982.6.14/Op.4:1983.11.6録音
   CD:CBS/SONY32DC543

個人的な話で恐縮ですが、私が初めてシェーンベルクの音楽に触れたのは中学生の頃だったか、高校生になっていたのか記憶も定かでありませんが、NHK-FMでラサール・カルテットによる弦楽四重奏曲全4曲の連続演奏会を放送したことがあり、カセット(古~w)に録って繰り返し繰り返し聴いたのが最初でした。もうショックでしたね。こんな音楽が世の中にあるのかと思いました。4つの楽器が鋼鉄の針金のように絡み合い延々と40分以上も続く第1番、調性があるような無いような、不安な夢の中でソプラノがシュテファン・ゲオルゲの詩を歌う第2番、十二音技法という言葉くらいは知っていたものの、それまで全く知らなかったシステムに拠る流麗な第3番と確信に満ちた第4番。この時以来、私の音楽との接し方はそれまでとは全く違ったものになってしまったと思います。今となっては、というより、今も尚、この4つの弦楽四重奏曲がなぜそれほどまで私を夢中にさせたのか、上手く説明できませんが、私が無意識に待ち望み、心の中にそれが嵌め込まれるべき鋳型を密かに彫っていたところにぴったりと嵌り込んだとしか云い様がありません。それから数年の間に当時LPで入手可能な目ぼしい作品はたいてい聴いたと思いますが、結局はこの弦楽四重奏曲、「ピエロ・リュネール」、「期待」、「モーゼとアロン」、ポリーニの弾いたピアノ曲集、これぐらいが今も時折聴くことがあるぐらいで、他はもう滅多に聴くことがなくなりました。爛熟と言いたくなるようなロマンティックな「浄められた夜」や「グレの歌」にどれだけ青春の孤独を慰められたか判りませんが、それもある時期、憑きものが落ちたみたいに聴かなくなりました。不思議なものです。

その中で、当時何がどう面白いのかさっぱり分からなかった一連の作品群がありました。いずれも無調から一歩進んで十二音技法を確立した初期の作、「セレナードOp.24」「ピアノ組曲Op.25」「木管五重奏曲Op.26」そしてこの「組曲Op.29」(Op.27と28は合唱曲で未聴)。Op.25はその後、大学生の頃と、結婚前にちょこっと実家にいた頃、自分でもすこし練習したこともあってむしろ今ではかなり好きな曲の部類ですが、Op.24、26、29はそのまま封印したきりになりました。ブログの効用というのか、ストラヴィンスキーのことを深く考える機会がもしなければこのシェーンベルクのOp.29は一生聴く機会が無かったかも知れません。

さて、こうしてほぼ30年ぶりに聴いたOp.29。なかなか心の中に入ってこない。4楽章通すと結構時間も長くて(約30分)、意識が途中で何度も途切れる。それでも何回か聴いていると、まるでカンディンスキーの絵画のように、あちこちで饒舌なお喋りが聞こえてくる。7つの楽器に「ねぇ君たち一体何を喋ってるの?」と訊きたい気分。毎晩寝る前に聴いて、1週間もすると、不思議なことにこの音楽にはシェーンベルクの精髄のようなものが含まれているような気がしてくる。そしてまるで啓示が降りてきたように、これはmusizierenそのものじゃないか、という思いが起こりました。ドイツ語以外でこういう動詞があるのか知りませんが、無理やり日本語にするなら「楽しみながら楽器を弾く」とか、「楽器を弾いて身も心も弾む思いがする」といったところでしょうか。ポイントは「自ら演奏する」ということと、概念ではなくて極めて身体的な言葉である、ということ。啓示がどのようなものか、回り道しながら書きます。その昔、決して好きではなかった「ピアノ組曲Op.25」をなぜか弾きたくなって、終曲のジーグを練習していた時のこと、少しばかり弾けるようになってくると突如面白くなる音楽でした。その時はそれ以上深く考えることもありませんでしたが、このジーグが面白く弾けるというその身体反応が、今思えば正にmusizierenという動詞の実体なのでした。英会話を例に挙げると、英語に堪能な人は例外なく、喋れるようになる時は突然やってくると仰います(私は英会話はさっぱりですが)。海外転勤などでも、最初の2ヶ月かそこらは片言で相手の言う事も半分くらいしか聴き取れていなかったのが、次第に、というのではなくていきなり判るように、喋れるようになった、と。私自身のジーグの例もちょうどそんな感じで、本当に突然面白さに目覚める時があった訳です。ですが、今言いたいことは突然云々ではなくて、それがmusizierenの悦びであったということです。

シェーンベルクの、特に十二音技法以降の作品を頭で考えたシロモノであると見做す言説は、完全に誤りであると断言しますが、その根拠はこのmusizieren体験にあります。シェーンベルクは作曲家としてはプロ中のプロですから、耳で聴いて美しく、快楽をもたらす音楽は易々と書けたはずですが、さすがの彼も十二音技法を採用した初期には、その技法がmusizierenの快楽をもたらすかどうか、まず自らピアノに指を置き、友人や作曲の弟子たちとの試演を通じて試行錯誤を繰り返したのではないか、その結果、広く聴衆に聴かれるべき音楽としては随分内向きというか、インティメイトではあるが耳だけで理解しようとすると思いの他高い障壁を持つ音楽が生まれたのではないか。やがて自信を得てからの作品、私は30数年前にLPで容易に入手できたものしか知らず、知らない作品は沢山あるけれど、「モーゼとアロン」や有名な「ワルシャワの生き残り」など、大変な傑作で、関心を持って真摯に向き合えば必ずや聴き手に感動で報いてくれると思いますが、そこに至るまでにはそれなりの苦心惨澹があったのだろう、ということに私自身ようやく気付きました。

ちょっと脱線しますが、こういった種類の音楽は、楽器が弾けなければ判らないとは言えないか。あるいは、楽器が弾けたりスコアが読めたりしなければ判らないシロモノなど、そもそも音楽と言えるのか、という問いについて。あまりこういった事を書くと、鼻持ちならないと思われかねない。そうでなくとも罵詈雑言が飛び交うネット世界に対しての正しいリテラシーというのは、多分今回のブログみたいなことを書かない、ということに尽きるのでしょうが、それでは私は何も発信できなくなる。だから敢えて先ほどの仮想質問に答えると、まず当たり障りのないレベルでは「楽器が弾けなくとも何度も繰り返し聴けばきっと弾く人たちと同様の愉しみが得られる」、しかし本当のところは、「楽器を弾いたり楽譜を読んだり出来なければ厳しい音楽ってのは確かに存在する」。だいたいmusizierenという言葉自体、何度もいうが能動的身体的な言葉であって、ドイツ古典派からシェーンベルクに至る音楽というのは嫌味なほどこの身体感覚にこだわった音楽という気がします。そんなものは音楽ではない、というのは、「そう思う人にとっては」音楽ではない、というだけで、この「 」の言葉抜きでこういった言説を振りまわすのは逆に傲慢以外の何物でもないと思う。私はちょっと事情があってスポーツ全般が大の苦手。だからテレビでスポーツ観戦することにも全く何の興味もない。下手でもなんでも自らスポーツしなければ野球でもサッカーでも見て面白いわけがないと思う。だからと言って、スポーツの楽しさを熱く語る人に「苦手と言ってる俺にそんなことを言うとは鼻持ちならない」などとバカなことはもちろん言わない。でも世間ではスポーツに対するコンプレックスを持つ人間はひっそりと黙っているが、こと音楽とか文化的な事になるとコンプレックスを持つ側が逆に噛みついて来たりするのが面白い。何か文化におけるねじれのようなものを感じます。

まだ終わりませんよ(笑)。1952年のストラヴィンスキーにとっての「シェーンベルク・ショック」とは何だったのか。それまでシェーンベルクが大嫌いだったストラヴィンスキー、ドイツの音楽よりは断然ラヴェルの音楽に近い、知的な音楽を書いてきたストラヴィンスキーが、突如シェーンベルクの、いやドイツ音楽の本質は、ソナタ形式だのライトモチーフだのではなくてmusizierenという身体感覚にあったことに気付いたことではなかったか。それまで徹底的にリズムにこだわった、即ち身体的な音楽を書いてきたつもりで、シェーンベルク一派を”the gentlemen who work with formulas instead of ideas”(Joseph N.Straus”Stravinsky's Late Music”)と攻撃してきたのに、突如実はシェーンベルクのほうがより身体的で、自分こそideasのかわりにformulasで音楽を書いてきたと気付いた衝撃。しかしストラヴィンスキーが真に偉大だったのは、すかさずシェーンベルクに倣ったピアノを含む編成の七重奏曲で、音列技法と二重フーガを用いて、湧きたつようなmusizierenの悦びに溢れた音楽を書いたこと。70にもなってこの謙虚さと柔軟さ。世の年寄り達は頼むから見習ってほしい。ここまでくればもうどちらが偉大か、などという議論は意味をなしませんが、ものすごく大雑把に言えば、シェーンベルクは過去を閉じた音楽でストラヴィンスキーは未来を開いた音楽、ということは言えそうです。

「浄められた夜」について少しだけ。この演奏、ブーレーズ監修の弦楽六重奏によるものですが、それまでのブーレーズにはあり得ないほど表現の振幅が大きく、まさに表現主義的。自らの美意識のみを頼りとし、それにそぐわなければ作品の本質を踏みにじることも厭わないブーレーズですが、この録音の頃ようやくシェーンベルクの本質を尊重した音楽をやりだしたということでしょうか。ココシュカやエゴン・シーレにごく近いところにある音楽。これをムード音楽のように聴いては絶対にいけない。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-02-06 00:23 | CD・DVD試聴記