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メシアン 「アッシジの聖フランチェスコ」 びわ湖ホール公演

京阪のCMで、尻尾を落とし物と間違われた着ぐるみの狐さんが「しっぽですぅ~」ってやつ、なんか言い方がいけずそうで、あゝ京都やなぁと思います。





ブログって寿命みたいなのがあって、ある日突然更新が止まってそのまま休眠というブログがけっこうありますね。このブログも、なんとなく書くのが面倒といった理由で随分更新してませんでしたが、世の中の役には立たずとも、かつて行った演奏会の詳細を思い出すよすがとしてはそれなりに役立つということで、記憶が薄れてしまう前に少しでも記録しておきたいという気にようやくなった次第。実は11月の初めに大腸憩室出血で2週間ばかり入院し、楽しみにしていたカレッジ・オペラハウスの「偽の女庭師」公演を聞きそびれてしまいました。メシアンのほうは退院後1週間たらずの病み上がりながらも何とか間に合いました。これは本当に行けて良かった。私の鑑賞歴の中でも5本の指に入る素晴らしさでした。


 2017年11月23日@滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール
 メシアン 「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式)

  天使: エメーケ・バラート
  聖フランチェスコ: ヴァンサン・ル・テクシエ
  レプラ患者: ペーター・ブロンダー
  兄弟レオーネ: フィリップ・アディス
  兄弟マッセオ: エド・ライオン
  兄弟エリア: ジャン=ノエル・ブリアン
  兄弟ベルナルド: 妻屋秀和
  兄弟シルヴェストロ: ジョン・ハオ
  兄弟ルフィーノ: 畠山茂
  合唱: 新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル
  合唱指揮: 冨平恭平
  オンド・マルトノ: ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー、大矢素子、小川遥
  管弦楽: 読売日本交響楽団
  指揮: シルヴァン・カンブルラン


東京での2公演も含め、今回のカンブルラン/読響の素晴らしさについては、夥しいツイッターやブログなどで感想も書き尽くされたと思うので、私のほうはあくまでも個人的な備忘録としての記録にとどめたい。
メシアンのこの異形のオペラについては、昨年夏にケント・ナガノのCDを聴いた感想をアップしましたが、その時の感想を一言でいえば「聖痕の場はようわからん」というものでした。だが、演奏会形式とはいえ簡単な所作を伴った舞台で体験すると、もう理屈を超えて心を揺さぶられた、としか言いようがない。どなたかがツイッターで仰っていたが(誰のものだったか、今となっては探しようがない)、メシアンはホールに満ちる倍音の響きまで計算してスコアを書いている、といった指摘をされていました。そんなに高性能な耳の持ち主ではない私には、真偽のほどは判りかねるけれど、CDのような音源で聴くだけでは絶対に判らないことがあるということだけは確かだと思います。かつてあれほど晦渋に思えた聖痕の場の合唱だというのに、これこそメシアンが已むに已まれず書いた凄絶な音楽であって、この場を経て本当の意味でフランチェスコは聖人となったのだろうと心から納得させられる思いでした。これはもう、メシアンのメチエとか音楽語法のレベルではおそらく解析できず、ただただ虚心に音楽に向き合うことでしか体感できないものかも知れません。さっき、つい筆がすべって「私の鑑賞歴の中でも5本の指に入る」と書いたけれど、実際ここまで対象となる音楽に対して「理屈はともかく、今私はこの音楽を体得した」と思えた演奏会はそうそうあるものではありません。これまで何度も、メシアンの「傑作の森」は1960年代それも前半、「クロノクロミー」から「天の都市の色彩」あたりの諸作であり、「アッシジ」を含む晩年の作品はどちらかといえば過去の回想と手癖だけで書かれたかの如く否定的なことばを書いてきました。だが、今回の「アッシジ」を体験した今、全面的にこの評価は改めなければならないだろうと思います。少なくとも「アッシジ」と「彼方の閃光」はメシアンの辿り着いた極北ともいうべき音楽だと考え始めています。

カンブルランと読響の素晴らしさについて、コンサートゴーアーでもなければ、もしかしたらクラオタですらない私が何を書くことがあろうか。だが、マッシブな響きにおける音圧の物凄さもさることながら、響きがどんなに薄くなっても張り詰めたような緊張感が持続することは書きとめておきたい。「彼方の閃光」もそうだけれど、とんでもなく大きな編成のオーケストラを用いながらも、作品の大半はとても薄い響きで書かれているのがメシアン晩年の特色といえると思いますが、こうして「アッシジ」の演奏でそれを目の当たりにすると、それこそフランチェスコとその兄弟の生活さながら、清貧の果ての豊かさといったものを感じないわけにはいきません。
歌手の中では、フランチェスコを歌ったテクシエが素晴らしい。その声を「慈愛に満ちた」と表現するのは如何にも紋切り型という気がするが、実際そうだから仕方がない。それに加えて、実に生身の人間らしい弱さまで兼ね備えて大変な当たり役だと思います。鳥たちへの説教の場面、フランチェスコと兄弟マッセオとの対話は、この生真面目なオペラの中にあっては一種のスケルツァンドな面白ささえ感じたが、よくよく考えるとこの音楽でそういった面白さを感じるというのは実は大変なことだろう。テクシエの声のもつ人間臭さのなせる技だろうと思います。
天使を歌ったエメーケ・バラートも良かったと思います。正に天上の声。傷、というのが言い過ぎなら一瞬の危うさ、みたいなものが無くはなかったが、それがまったく気にならないほど美しい声でした。レプラ患者役のペーター・ブロンダーも張りのある声で、世を呪う場面から奇跡を経て歓喜の絶頂へという振幅の大きな役を表現し尽くしていました。レオーネ役のフィリップ・アディスはこれら3人と比べると、やや見劣りがします。声量もそうだが、最初の場面の特徴ある増4度が今ひとつ決まらず、音程がぶら下がり気味となるところなど。だが、続くテクシエとのゆったりとした対話は、いかにも師と弟子との対話のように聞こえて、暫く経つとこれはこれでいいのかなと思いました。他の兄弟達も過不足なし。
全曲のなかで重要な位置を占める合唱の素晴らしさも、実際に聴いた多くの方が指摘していることだが、やはり書き留めておきたい。例の聖痕の場での神の声の合唱は、本当に作品の真価を知らしめるほどのパフォーマンスであったと思う。私は、冨平さんの指導下の新国立劇場合唱団ということで、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」の時のパフォーマンスの素晴らしさを思い出したが、「アッシジ」の幕切れの合唱の凄さは、それをも凌いでいたかも知れません。全曲が終わってカーテンコールの間、私、すこし腰が抜けてました。

ほとんど完璧といってもよい今回の公演で、唯一水を差したのが字幕の拙さ。あれはなんでしょうね、グーグル翻訳のほうがマシなくらい。細かいことだが、「チョウゲンボウ」をなんでわざわざ一般的とはいえない「マクソ鷹」と訳すのか。後で調べてみたら、昔(江戸時代以前)、ノスリやチョウゲンボウなど、鷹狩りに使えない猛禽を馬糞鷹と呼んだらしいのだが、このオペラでGheppioをマクソ鷹と訳す理由は私にはまったく理解できない。また、聖痕の場での神の御言葉、確かに日本語にするには大変難解な歌詞ではあるが、今回の字幕はほとんど日本語としての体を成してませんでした。普通、こういった台詞を訳すのなら、せめてヨハネの黙示録くらいは目を通すはずだし、そうしていれば多少生硬ではあってももうちょっとマシな日本語になっていたと思うのだが。あまりこういった指摘は書きたくはないのだが、今回は酷すぎたので備忘として書いておきます。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-04 23:44 | 演奏会レビュー | Comments(5)

ドニゼッティ 「連隊の娘」 びわ湖ホール公演

ブログのアクセスレポートの検索キーワードを見てちょっと笑ったやつ2件。
「ポゴレリチ 客席を見る」
「フロリアン フォークト 嫌い」
これで私のブログを訪れた方がどうかがっかりしてませんように。





昨年の「ドン・パスクァーレ」に続いてまたもドニゼッティ。今回は中ホールでの公演でしたが、ベルカント好きのファンに支えられてそれなりの盛況でした。

 2017年2月12日@びわ湖ホール中ホール
 ドニゼッティ 「連隊の娘」
  マリー: 飯嶋幸子
  トニオ: 小堀勇介
  ベルケンフィールド侯爵夫人: 鈴木 望
  スュルピス: 五島真澄
  オルテンシウス: 林 隆史

  園田隆一郎指揮 大阪交響楽団
  びわ湖ホール声楽アンサンブル
  演出: 中村敬一

演出の中村敬一氏によるプレトークがあって、ヴェルディの「ナブッコ」の少し前に書かれたことから、オペラというものが貴族やブルジョア階級の嗜みから市民の愉しみに変わりゆく時代の推移について触れられていましたが、実際の楽しい舞台を観ているとまぁそんなことはどうでもよくて、ひたすら音楽を楽しむというのが正しい享受のあり方という気がします。
実際、吉本新喜劇みたいなお話に、ドニゼッティの中でも極め付けの脳天気な音楽。このブログで何度か書いてきたように、ドニゼッティには「ロベルト・デヴェリュー」や「マリア・ストゥアルダ」のような天才的な作品があるのだが、こちらはお世辞にも傑作という感じはなくて、せいぜい手練れのオペラ職人のやっつけ仕事といったところ。だが、トニオの有名なハイCが頻出するアリアを聴くとどうしようもなく胸が高鳴るし、マリーのロマンスには思わず涙腺が緩んでしまう。この快楽と無縁の人のほうが寧ろ世間のクラシック好きやコンサートゴーアーの中ではマジョリティかも知れないというのは寂しくもあるけれど、冬枯れの琵琶湖畔でこういった密やかな愉しみを味わうにはその寂しささえ一種のスパイスになるような気もします。

今回の公演は何より主役の二人の歌唱が素晴らしかったと思います。トニオの小堀勇介は初々しい歌いぶりで大変好ましく思いました。見た目と声と純朴な役柄が寸分のずれもなく一致している感じ。例の9連続ハイCは、あまりにも軽やかなので拍子抜けしそうになります。これならCisでもDでも大丈夫そうと思うが、これは大変なことに違いありません。パヴァロッティのレコードで聴いてきたような興奮とは違いますが、どちらかと言えばバカでおっちょこちょいなトニオのアリアには背筋に電流が走るみたいな興奮は不要なのだと気付きました。それでもびわ湖の客は皆さん耳が肥えてらっしゃるのか割れんばかりの拍手。小堀さんも本当にうれしそう。いいもの聴いたなと思います。
マリーの飯嶋幸子も策を弄せず愚直に役柄に取り組んでとてもよかったと思います。コロラトゥーラも危なげなく、ロマンスもしんみりと聴かせます。もっと手練手管の限りを尽くすみたいなやり方もあるんじゃないか、と思いながらも、この素朴な人たちばかりのオペラにはこれで十二分じゃないか、とも思います。
その他ではスュルピスの五島真澄が美声のバリトンで思いのほか良かったと思います。最後にちょこっとだけ出てくるクラーケントルプ公爵夫人を増田貴寛が演じていましたが、まるでマツコ・デラックスみたいな衣装で存在感を発揮。侯爵夫人の鈴木望も最後に悲しみと威厳をちらっと垣間見せて後味よく大団円を迎えました。
あと忘れてはならないのが兵隊や農夫や小間使い達といった役柄の合唱。この軽いオペラにはもったいないほどの立派な合唱で、贅沢な気分を味わえました。

園田隆一郎の指揮も秀逸。なんの引っ掛かりもない脳天気な音楽だからこそセンスがまともに出てしまう怖さがある音楽ですが、本当になんの引っ掛かりもなく楽しめたのは実は凄いことだと思います。初演当時のパリの当世風なのか、些か軽佻浮薄な音楽と、ベルカントの神髄たるロマンスが何の矛盾もなく同居するこの音楽で指揮者のセンスの良さを感じたのは意外な喜びでした。
演出もまた妙なひねりの一切ないもの。衣装も身のこなしも兵隊さんは兵隊さんらしく、貴族は貴族らしく、といった感じ。下手にはしゃがれると辟易すること必至のお話だけにこれはありがたい。よくも悪くも素直、という言い方があるけれど、今回はその素直さがすべて良い方向にいったんじゃないかな。フランス風のオペラ・コミークなので地の台詞による学芸会みたいな芝居が音楽を繋いでいくのですが、これが全てフランス語。まぁ若干尻がもぞもぞする感じもあるものの、フランス語と日本語のまぜこぜよりはマシかなといったところ。難しいものです。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-02-15 00:43 | 演奏会レビュー | Comments(0)