ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その2)

「あらびき団」打ち切り。一番残念がっているのは沼津みなと新鮮館のおにいさんだと思う。




このオペラ、まだまだ一般には知られていないと思うので、ごく簡単にあらすじも紹介しながら、音楽のディティールを見てみます。
スコアを一部引用していますが、EUや日本ではパブリックドメインですので問題ないでしょう。逆に英訳リブレットは入手できませんでしたので、CDの対訳が怪しいところはあまり検証できていません。

第1幕の前奏曲は調号なしの変イ短調のメランコリックなAndanteで始まります。
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感傷とは全く無縁な音楽であるにも関わらず、何かこう、ひしひしと孤独さが募るような音楽です。第1幕では、登場する動物も人間も、皆孤独を抱えた存在であるとでも言うのでしょうか。
全曲が調号なしで書かれていますが、転調が激しく全音音階が頻出するこの作品では調号なしで臨時記号で逃げたほうが記譜しやすいという事情があるのでしょうね。変イ短調は通常の記譜であればフラット7つ、実に譜読みしにくい調性です。めったにお目にかからない調性ですが、アルベニスの「イベリア」第1曲「エボカシオン」が変イ短調で書かれていますね。通常なら幾分譜読みしやすい嬰ト短調での記譜が一般的ですが、臨時記号で逃げるのならむしろ変イ短調を想定してフラット中心の記譜のほうが書きやすく読みやすいと思います。ですがここで重要なのは、曲想が嬰ト短調ではなく変イ短調として聴かれるべきものに思われることです。実はこの作品、これに続く殆どの場面がフラット系(変ホ、変イ、変ニ、変トの各調)で書かれており、独特の音楽の色彩感の源となっています。逆にシャープ系で印象に残る箇所としては、第1幕の鶏殺戮の大騒動(ホ長調)、第2幕で森番が銃を撃つが狐が逃げていく場面(イ長調)、終幕の森番の自然への賛歌(イ長調)を挙げることができます。楽譜を見る習慣のない方には実に退屈な議論でしょうし、楽譜が読める方の中にも、嬰ト短調と変イ短調の違いなど(少なくとも平均律に慣れてしまった現代人には)無意味であると仰る方がいるだろうと思います。しかし譜例に見る「ためいき」の下降音形には、どうしても変イ短調でしかありえないと感じるのは私だけではないと思います。これぐらいにしておきますが、私はここで、ヤナーチェクが調性の扱い方について実に鋭敏な感覚を持っていたに違いないことをどうしても述べておきたかったのです。

前奏に続いて蠅やとんぼのパントマイム。森番が登場、森の中で独り銃に語りかけながら居眠りをします。こおろぎ、きりぎりす、蚊、蛙が登場。森番の血を吸って千鳥足の蚊はワルツを踊ります。蛙に興味津々の子狐が登場、驚いた蛙が飛び跳ねると、森番の顔に落ちます。森番が飛び起きるとそこには親とはぐれた子狐。森番は子供達への土産に狐を捕まえます。
続く間奏曲はまたしても変イ短調。これも孤独感、いやむしろ悲劇性を湛えた特異な音楽、本当に類まれな音楽だと思います。題材が特殊ということもあって、この作品をオペラとして舞台にかけ、群衆の一人として観たり聴いたり、ということがどうもそぐわない感じがします。この旋律の最期の4つの音(B-Des-As-Es)がそのまま狐の哀れっぽい泣き声になります。
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森番が狐(ビストロウシュカ)を持ちかえると、妻は蚤がいるんじゃないかと嫌がります。おかしいのはその後、つい先ほどの場面で「ママ、ママ」と泣いていた子狐が、いきなり口の達者な女狐になっています。まぁ原作が漫画ですからね(笑)。
飼い犬のラパークと恋をめぐる会話。そこに森番の子供たちが現れ、棒で狐を突っついていじめると、狐の逆襲に遭います。妻は怒り狂い、森番は狐をひもで縛ってしまいます。
この後、夜から夜明けにかけての時間の経過を変ロ短調から変ロ長調を経て変ト長調に移りゆく間奏曲が表しますが、この部分の美しさは譬え様もありません。ここまで夜明けの微妙な色彩の変化を描いた音楽というのは、おそらくラヴェルの「ダフニスとクロエ」ぐらいしかないんじゃないかと思う程です。
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鶏たちがやってきて、卵を産まないビストロウシュカをからかいます。彼女は雌鶏たちに、雄鶏の支配から逃れて立ち上がれとアジテーションを行いますが、盲目的な雌鶏には雄鶏なしの生活が考え付きません。怒ったビストロウシュカは次々と鶏たちを噛み殺します。喚き散らす森番の妻、森番に棒でぶちのめされそうになったビストロウシュカはひもを噛み切って逃げていきます。スケルツォのようなこの場面、ホ長調が主であることは先に書いたとおりですが、最後は変ホ長調の大混乱で幕を閉じます。

第2幕、穴熊の住む巣穴が欲しくなったビストロウシュカは、森の獣達を味方につけて穴熊に言いがかりをつけ、最後は巣穴に放尿して穴熊を追い出してしまいます。まるで一昔前の地上げ屋のようなあくどさです。もうお気づきでしょうが、この物語では確かに動物は擬人化されていますが、人間の道徳律とはまるで無縁の存在です。とてもじゃないがメルヘンとは言えません。また、動物達は種を超えて自由に会話をしていますが、人間との意思の疎通は全くありません。
この場では全音音階がブリッジの役割をして、調性は変二長調からロ長調に至るまで自在に変化します。変イ長調に転じて、居酒屋の喧騒を表す場面転換のバーバリスティックな間奏曲。

次の居酒屋の場は、酔っ払ってぐだぐだの人間の男達ばかり登場します。狐の一件でくさっている森番は牧師や校長に執拗に絡みます。牧師はラテン語の警句を呟き、校長はある女のことが忘れられず湿っぽい酒を飲んでいます。まったくぱっとしない連中ですが、彼らに向けるヤナーチェクの眼差しは暖かく、音楽としては不思議に味わい深いものがあります。しかしこの音楽を語るにはもう少し繰り返し聴き、私自身ももっと年をとらねばならないという気がします。べろべろになった校長は道を踏み外してひまわり畑に落ち、ひまわり相手に口説き始める始末。牧師は昔手痛い目に遭った恋を思いだしモノローグを歌います。銃をもって現れた森番がビストロウシュカを見つけ発砲しますが、弾が逸れ、狐は逃げていきます。この後、突然音楽はイ長調になりますが、映画でいうならカメラがズームアウトして突然視界が開け、大草原が目の前に現れたかのような効果があります。ヤナーチェクの独特の調性感覚を感じるとともに、まるで映画かアニメーションを観ているような気分にもなります。実際、舞台で動物の着ぐるみを見せられるよりはアニメにしてみたい感じがします。ジブリさん、どうですか?(笑)。
CDはここまでが一枚目に収められています。第2幕の後半は次回に。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2011-10-12 19:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

新国立劇場公演 ヴェルディ 「イル・トロヴァトーレ」

多分その名を知らない人はいない大会社の重役さんと、メールで「薬師丸ひろ子」ネタで笑い興じる。
ふと思い立って、yahoo検索で"薬師丸ひろ子顔負けの演技"という言葉でサーチしたら何と1件ヒット、しかも「ミイラの作り方」について書いたサイト。めまいがする。




8日に新国立劇場に「イル・トロヴァトーレ」を観に行って来ました。

  指揮 ピエトロ・リッツォ
  演出 ウルリッヒ・ペータース
  レオノーラ・・・タマール・イヴェーリ
  マンリーコ・・・ヴァルテル・フラッカーロ
  ルーナ伯爵・・・ヴィットリオ・ヴィテッリ
  アズチェーナ・・・アンドレア・ウルブリッヒ
  フェルランド・・・妻屋秀和
  合唱 新国立劇場合唱団(合唱指揮 三澤洋史)
  東京フィルハーモニー交響楽団

もともとレオノーラを歌うことになっていたタケシャ・メシェ・キザールが体調不良で降板し、タマール・イヴェーリが代役。この人、以前新国立の「オテロ」でデズデモナを歌ってた人です。ソプラノ・リリコとしてはすごく良い歌手です。「オテロ」のデズデモナの舞台は本当に素晴らしくて、私は最後のアヴェ・マリアを歌うところで涙を禁じ得ませんでした。でもレオノーラはただのリリコではなく、リリコ・スピントの役柄。第1部のアリアのアジリタが全然歌えていないのはちょっと厳しいですね。その部分以外は、声もよく出ていて良いソプラノだと思いましたが、少しお疲れ気味なのか後半音程が下がり気味(ほんの僅かですが)。いずれにしても、レオノーラ(に限らず初期から中期にかけてのヴェルディ・ソプラノ)の役柄の難しさ、苛酷なアジリタの要求を満たしつつ、あくまでリリコでなければならない、という困難を痛感します。
マンリーコのヴァルテル・フラッカーロ、久々にイタリアオペラらしいテノールを聴きました(脳天気という側面も含めて)。ただ、音程が上振れしすぎ。声質はとてもいいので惜しいと思います。第2部のアズチェーナとの二重唱のカデンツァ、音程が狂うってなレベルじゃない。ほとんど事故レベル。もうこれは無かったことにしよう、と思いました(笑)。残念なのは、後半になって声はどんどん良くなっていき、音程はどんどん上がり気味、という法華の太鼓暴走バージョン。第3部のお約束のハイCは、合唱のストレッタを突き抜けてくるほどの力はなくてちょっと不発気味。貴重なイタリアオペラのテノールですから、これから精進して再来日してほしいですね。
アズチェーナのアンドレア・ウルブリッヒはとても良かったです。ヴェルディのメゾソプラノに絶対必要な邪悪さも十分。マンリーコに引っ張られて音程の悪いところもありましたが概ね立派な歌唱。
ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリは、声も見た目も良くて、過不足のない役作り。
主役4人については、以上のとおり、惜しいところもありますが、特段スター歌手を集めた訳でもなくてこのレベル、というのは実は物凄いことなのではないか、と思います。だって、メトやスカラでさえ、脇役のすみずみまで歌手を揃えて、というのは最近ではもうありえないのでしょう?オペラの外来公演は国家の威信を掛けてオールスターで、という時代はもう過去のもの、そんな時代に極東の島国でこのレベルの公演が日常的に行なわれているというのは大変なことなのだろうと思います。たまたまというのでなく、新国立は基本こうですから。欲を言えばキリが無いけど、とんでもなく酷い歌手は一人もいない、というのは凄いんだなきっと。
脇役とはいえ、フェルランド役の妻屋秀和、毎度思いますが日本人としては抜群の方じゃないでしょうか。その立派な体躯から出てくる声はまさに日本人離れしています。以前聴いた「ヴォツェック」の医者や「アラベラ」の父親の役など本当に素晴らしいものでした。今回も立派過ぎるくらいのフェルランドを聴きながら、この人ドイツものでもイタリアものでもこうして便利使いされてるけれど、一度新国立でこの人に誰か主役を歌わせてくれないか、と思いました。この人の声に合う主役ってすぐには思いつかないけれどきっと何かあるでしょう?ボーイトの「メフィストーフェレ」とかムソルグスキーの「ホヴァンシチナ」とか何でもいいけど。プロフィールを見ると物凄い数のオペラをやってますね、その大半は脇役なのでしょう。何をやっても上手いから却ってもったいないといつも思ってしまいます。ほんと新国立さん考えてあげてよ。

三澤洋史率いる合唱団はいつものことながら本当に上手い、プロらしい集団です。安心して聴けますし、今回の第3部の兵士の合唱など男声ばかりでも全然素人っぽさがないのはさすがです。
最後に東フィルを振ったピエトロ・リッツォですが、アゴーギクがところどころおかしい、というか、ソステヌートのつもりが単にがくっとテンポが落ちただけみたいに聞こえる箇所が数箇所ありました。この辺は経験の多寡は関係ないはず。厳しい言い方をすると、様式に対する理解度の問題だと思います。でも東フィルはオペラのオケとしては本当に上手いです。このあたりのクオリティの高さ、さすが日本ですね、という感じ。それが音楽的な感動に繋がるかというとえてして直結しないもんなんだが、今回は言うことないです。大したもんです。

さて今回最大の議論の的は演出、それも死の擬人化をどう考えるかということでしょう。私は、第4部で死神が魂の抜け殻のようなレオノーラを抱いてワルツを踊るところ、演出家はこれをやりたくて死神をでずっぱりにしたのだろうか、と考えましたが、それにしても死の舞踏というイメージそのものが陳腐、結局のところ死神は不要だったのでは、と思わせられました。それでも死神を舞台に上げるというのなら、もう少し通俗に堕さないビジュアルがあったような気がします。今回の劇画調の死神と例えばベルイマンの「第七の封印」の死神では、やはり格が違うような気がする。死の擬人化、死の舞踏、これはヨーロッパの14世紀に遡る美学上の大テーマなのですから、これを引用するというのは中世以降のヨーロッパの歴史を背負って、演出家が彼の全存在を賭して行なうというぐらいの覚悟が必要です。また、音楽上の死の舞踏の系譜というのもあって、リストとサン=サーンスが有名ですが、トロヴァトーレにそれへの連想を掻き立てる要素があるかと言えばNoですね。つまり演出家がお話を頭で考えてこねくり回した結果を見せられているのだと思うのです。音楽に死の舞踏のモチーフとリンクする点があって、そこに照準をあてて死神を登場させているのであれば納得もしますが、なんとなくのべつ幕なしに登場というんじゃ、ちょっと安直というか、チープな感じがしました。
死神が出てくること以外は概ねオーソドックスな舞台で、誰にも受け入れられ易いものではないでしょうか。私は変な読み替えとか勘弁してほしいほうなので見易かったと思います。
舞台は青を基調とした照明が美しく、改めて夜の場面の多いオペラだと認識しました。特に修道院の場の、ロマネスク風の交差ヴォールトを背景とした装置は息を呑む美しさです。ここにはさすがに死神も現れまいと思いきや堂々と出てきたのには、演出家の意図を疑ってしまう結果となりました。
これもつまらない指摘かも知れませんが、舞台転換がもたもたし過ぎ。舞台裏でゴトゴトやってる間、なくもがなの解説を字幕で見せるのも興醒め。
繰返しになりますが、なんだかんだ不満を書きながら、殊更特別でもなんでもない公演で、これだけのクオリティというのは本当に新国立劇場が歴史を積み重ね、お客の拍手やらブーイングやらに育てられてここまできたのかなぁという感慨がありました。文句をつけるのも実は楽しみのうち。実際、大いにヴェルディの歌を堪能した一日でした。
# by nekomatalistener | 2011-10-10 21:37 | 演奏会レビュー | Comments(16)

ヤナーチェク 「利口な女狐の物語」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その1)

前回の投稿で何度かミスタイプして「エフゲニー・オネーギン」が「おねー議員」になった。
そんなのいたらちょっとやだな~。「あたし前原たんのほうがよかったのに~もうっ復興法案賛成してあげないっ」・・・とか言いそうで。




ここ数日、ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」を聴きながら、その超弩級の天才に心底驚いています。「シンフォニエッタ」なら中学生の頃からですから、かれこれ30数年前から知ってるといやぁ知ってる(別に「1Q84」を読んで初めて聴いた訳ではない・・・)。グラゴル・ミサも聴いたことがある、でもなかなかそれ以外に食指が動かなくてこの歳になりました。いやぁもっと早く知っておれば良かったのに、とも思うし、このオペラの幕切れを聴いていると、いやこの歳で初めて聴く意味もあるのだ、とも思います。そう、これはR.シュトラウスの「薔薇の騎士」と同じく、恐らく若いときに聴いてももちろん良いけれども歳をとってから聴くのはまた格別、という種類のオペラでもあるのですね。
それにしてもこの音楽、どの部分をとっても借り物という感じがなく、体臭と言ってもいいような強烈な個性に満ち満ちています。寡聞にして、ヤナーチェクの作風の先行者やエピゴーネンが誰だったのか、いや、そもそもいたのかどうか知りませんが、少なくとも私には今まで聞いたことのない類の音楽でした。強いて言えば一部に初期のバルトーク風のところがあったり、ドビュッシーの遠いこだまが聞こえたり、あるいはストラヴィンスキーのある種の作品、例えば「プリバウトキ」とか「マヴラ」に少し似た感じの部分がなくもないですが、かといってストラヴィンスキーを彼の後継者もしくはエピゴーネンと呼ぶのは無理があると思います。本当に何者にも似ていないし何者も真似できない、感傷は微塵もないのに豊穣極まりない音楽。それを理論的に分析すれば、全音音階や教会旋法、あるいはペンタトニックの多用、などということになるのでしょうが、それだけでは何も説明したことにならないような気がします。音のパレットとしてはその通りであるが、そのパレットからなぜあの音ではなくこの音を選び出したのか、という点に関しては説明がつかないのです。それほど独特の音の選択です。それよりもむしろ、オーケストラに関して偏執的なまでに細部までびっしり書き込まれた部分と、眼前遥かに開けた大草原を駿馬に乗って疾走するような荒削りで胸のすく様な部分の交代の妙であるとか、殆ど全編まるで話すように書かれている(伝統的なレチタティーヴォとはかなり様相が異なる)にも拘わらず、ここぞというところで一瞬だけ感情が迸るように歌われる部分(雄狐を待つ間にビストロウシュカが歌うところとか)の対比、自由に伸縮する変リズムの連続と、たまに現れる執拗なりズムオスティナートの交代とか・・・そんなところにもこの独自性の秘密があるような気がします。ただ誤解のないように言えば、これらの手法は、先日プッチーニの「外套」で書いたようなレベルでの職人的メチエではなく、もっと直感的・生理的なもの、あるいは音楽的修練・訓練とは無縁なもの、アカデミズムの対極にあるもの、という点、あえて言えばムソルグスキーに近いものがあると言えそうです。この手法の本質をさらに圧縮して一言で言うなら、「自由」ということになるのではないかと思っています。

冒頭から思わず熱くなってしまいました。まずは音源のデータを記しておきます。

  猟場番・・・・・・リハルト・ノヴァーク(Bs)
  猟場番の妻、ふくろう・・・・・ヘレナ・ブルトロヴァー(A)
  校長、蚊・・・・・ミロスラフ・フリドレヴィチ(T)
  牧師、あなぐま・・・・・カレル・プルーシャ(Bs)
  行商人ハラシタ・・・・・ヤロスラフ・ソウチェク(Bs)
  女狐ビストロウシュカ・・・マグダレーナ・ハヨーショヴァー(S)
  雄狐ズラトフシュビーテク・・・ガブリエラ・ベニャチコヴァー(S)
  ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
  (1979年12月7~22日、80年6月25~27日録音)
  CD:SUPRAPHON COCQ84519-20

前回まで、「ルサルカ」を聴きながら、二つの限界を感じると書きました。すなわち、一つは物語にエロティックな要素がなく、ただの他愛ないお伽話に思えてしまうこと(物語だけでなく音楽としても同様であることにも言及しました)、もう一つは言葉と音楽の結びつきが今ひとつ強固でなく、借り物の旋律にチェコ語の歌詞がむりやり嵌め込まれた感があることですが、この「女狐」には「ルサルカ」に欠けていたこの二つの要素がふんだんに盛り込まれています。
物語という点では、虫や鳥や森の獣がたくさん出てくるこのオペラの方がはるかに子供向けか、といえば実は少々微妙です。原作は新聞の連載漫画だと言いますが、終幕の森番のモノローグと蛙の歌は哲学的とも言えそうな代物。ほろ苦い後悔や諦念、そして自然への畏怖の念に溢れており、ある程度聴き手も年齢を重ねないと判らない味わいがあるのは冒頭で「薔薇の騎士」に喩えたとおりです。また、ここには妙にあけすけな性にまつわる挿話もあり、物語に奥行きをもたらしています。

性と言えば(ちょっと脱線しますが)、例えば第一幕で、まだ恋を知らないと嘆く犬のラパークに向かって、知ったかぶりのビストロウシュカ(女狐)は椋鳥の騒がしい交尾の様子をまくしたてます。添付の歌詞の邦訳は低レベルで日本語になってない感じがしますが、、椋鳥の話を聞いて変な気を起した犬のラパークがビストロウシュカにけしからぬことをしようとする場面のト書きで、「ラパークはしっぽでビストロウシカをつかまえる」とあるのは如何なものか。ボルネオかどっかの猿じゃあるまいし、単に対訳として日本語が熟していないという以前の問題です。「オペラ対訳プロジェクト」という日本語サイトには「ビストロウシュカの尻尾を手でにぎる」とあって、これも変。犬が手で握る?(笑)ボーカルスコアのドイツ語のト書きは"Dackel nähert sich der Füchsin in verliebter Absicht, sie stößt ihn um.”(愛を感じて近づくが撥ねつけられる)とありますが、簡略過ぎる感じ。英訳のリブレットが入手できず元々どう書かれているのかは謎のままです。

もう一つの言葉と音楽の関係についてはどうでしょうか。試しに第一幕の冒頭近く、こおろぎときりぎりすの会話の部分を見てみましょう。
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こおろぎもきりぎりすも、「子供の声」と指定されています。自由奔放さと精密さの同居するこの譜割を子供が精確に歌うことは多分期待できないでしょうから、これは「語り」のための一種の目安と考えてよいと思います。いや、大人が歌って教えてあげれば子供でも簡単に歌えるかも知れませんが、実はこの作品のほとんどのページがこれに類した書法で書かれており、歌手たちは大人も子供も譜割の精密さよりは語りの自由さに重きを置いて、例えばチェコ語(モラヴィア方言)の長母音は心持ち長く歌う、といった事が暗黙の了解として前提されていると見るべきでしょう。こういった暗黙の了解事項はロッシーニ以前のイタリアオペラのレチタティーヴォ・セッコにも見られることですが、ここでより大切なことはごくわずかな部分を除いてほとんど全曲がこの朗唱風の書法で書かれていることと、音楽のリズムや拍子などアーティキュレーションが言葉の抑揚に完全に従属していること、音楽の一切が語りの流れを邪魔することなく、しかも驚くべき雄弁さで書かれているということだと思います。
さらに、もっと大切だと思われることは、このリブレットはすべて散文で書かれているという点です。対比として「ルサルカ」ばかり持ち出すのも気の毒ですが、あの「ルサルカ」のリブレットはアリアのみならずレチタティーヴォに至るまで全て完全な韻文で書かれていました。格変化が激しく語順の制約が少ないチェコ語ならではかも知れませんが、韻文であるということは、言葉がより音楽に従属しやすい、ということです。音楽がまずありき、と思われてならないのもそこに原因があると思います。逆に、「女狐」は全くの散文ですから、当然伝統的な拍節法をもつ旋律であれば云わば字余りや字足らずが頻出し、大変困った結果になるはずです。どれだけ語りが中心であっても音楽である以上、旋律の自律的なまとまりが必要であり、台詞と音楽が衝突する事態は避けられません。この困難を、ヤナーチェクは二つのレベルで解決しています。一つは、この譜例からも判るとおり、5連譜や7連譜といった自由度の高い譜割、そしてもう一つは、伝統的なフレージングからの逸脱とその結果としての変拍子の多用です。実際には歌唱部分の多くは2/4や3/8といった短い拍子で書かれていることが多く、一見したところ拍子の頻繁な変化は少ないのですが、例えば4小節で一単位となるフレーズがa-a-b-aと続いて16小節で一節の旋律が生まれるという、ヨーロッパの伝統的な音楽語法というものがここでは完全に無効となっているのです。それは伝統の破壊に他なりませんが、しかもそれは、ウィーン楽派やバルトーク、ストラヴィンスキーら20世紀音楽の使徒らが等しく通った伝統的語法への反逆という道筋を全く通らずに、アカデミズムとは無縁な辺境の作曲家が日常会話のような台詞を携えて自然に行き着いた結果のように見えます。なおかつその破壊力はバルトークの弦楽四重奏曲第3番や、ストラヴィンスキーの春の祭典に決して引けを取っていないと言っても過言ではありません。

本稿の冒頭近くで、ヤナーチェクの語法の本質は「自由」というものだと書きました。ミクロな分析でそれが立証できたかどうか心許ありませんが、自由は時に反逆と同様の結果をもたらす、とまとめることが出来そうです。でも、これでは「女狐」の魅力を語ったことには全然なりませんね。次回はもう少し、全く聴いたことのない人にも聴いてみたいと思ってもらえるような分析を続けてみたいと思います。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2011-10-09 19:30 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その4)

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さて第2幕ですが、ここが一番このオペラの中で様式の混乱を呈しているところだと思います。殆ど全編チャイコフスキー風の音楽で書かれており、時折登場する水の精だけがかろうじて第一幕のワーグナー風の世界をひきずっています。
好意的に解釈すれば、この二幕はもののけの世界ではなく人間(王子・侯爵夫人・森番・皿洗い)の世界を描いているから様式も違うのだ、と言えなくもありませんが、ルサルカまでが一幕とは同じ人物と思えないほど異なった楽想を与えられています。やはり、様式というものに対するドヴォルザークの無自覚性、無頓着さというべきでしょう。

Allegro giusto へ長調の軽快な音楽に乗って森番と皿洗いの歌が歌われます。なんとも素朴過ぎて却って居心地の悪い感じです。変ロ短調Larghettoの森番のアリオーゾ U nás v lesích straší はどことなくチャイコフスキーのメランコリーが感じられます。甘い甘い変イ長調の前奏に乗って王子登場。この甘さは砂糖の塊みたいなウィーンのお菓子の甘さみたいです(私は決して嫌いじゃないけど)。喩えて言えばレハールのオペレッタの甘さ。続く変イ長調Andante の王子のアリア Již týden dlíš mi po boku は流麗な、これもチャイコフスキー流のもので甘く美しい旋律ですが、あまり言葉に寄り添って書かれている感じはしません。旋律が上滑りしていくような物足りなさを覚えます。
テンポを落として侯爵夫人との対話。イ短調Vivace の王子のアリオーゾ Ach, výčitka to vĕru včasná も心にすり寄ってくるような甘い旋律。聴いていると脳がとろけて、ちょっと痴呆状態になりそう(こういうのも嫌いじゃない)。
Moderato maestoso で突然ポロネーズの一節が鳴り渡り、侯爵夫人のレチタティーヴォの後、今まで現れた様々なライトモチーフが回想されます。変ホ長調のファンファーレに続いて舞踏会のポロネーズが始まります(この辺りの展開、殆どチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」のパクリ)。オーケストラのアンコールピースにも使えそうな派手な曲ですが、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」にしてもチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」にしても、なぜ舞踏会というとポロネーズなのか?田舎貴族にはポロネーズ、という決まり事でもあるんでしょうか?
水の精が現れ第一幕の音楽を回想した後、アリア Celý svĕt nedá ti, nedá (ホ短調Moderato)を歌います。短い間奏は感傷的でドヴォルザーク好きならメロメロになりそうですが、アリアそのものはあまりチェコ語の抑揚とは関係なく書かれています。ロ長調の舞踏会のゲストの合唱も同様。やがてルサルカが現れ水の精との対話が始まりますが、第一幕と違ってワーグナーの影は薄められています。ト短調Allegro appassionato のルサルカのアリア Ó marno, marno, marno to je はカバレッタ風のもの。チャイコフスキーがイタリアオペラのパロディを書いたらこんな風になるのでは、と思わせます。
再び侯爵夫人と王子が現れ、ルサルカの姿が見えないのをいいことに今度はあからさまに愛を語り始めます。フォルテッシモのイ長調の和音で絶頂に上り詰めますが、突然現れたルサルカに王子は死ぬほど驚き(と、ト書きに書かれている)、Fisの減7の和音が鳴り響きます。このあたりの凡庸さ、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の、愛の二重唱の頂点でマルケ王に踏み込まれた時のあの身の毛もよだつカタストロフを知る者には、まるでぬるま湯のように聞こえます。ワーグナーから一体何を学んだのかと、こっちが驚いてしまいます。エピゴーネンの悲しさ。この後、水の精の嘆き、王子の懇願、冷酷な侯爵夫人の一声とともに畳みかけるように幕が降ります。

私はなんとアンビヴァレントな記述を長々としているのでしょうか。嫌なら聴かなきゃいいのに、という声も聞こえてきそうです。結局私はこのチープな、しかし絡め取られそうな甘さに今全身で抗っているのでしょうか。好き、でも嫌い。愛の反対語は憎しみではなく無関心、というのはマザー・テレサの言葉だそうですが、その意味では、私はドヴォルザークの凡庸さを憎んでも無関心ではいられないのでしょうね。

ワーグナー風の第1幕、チャイコフスキー風第2幕に比べると、第3幕はドヴォルザークの地が比較的素直に出ていると言えそうです。泥臭いけれどもある種の魅力に溢れています。今まで世間でなぜこれほどドヴォルザークが好まれるのかよく分かりませんでしたが、今は少し分かるような気がしています。
第3幕は調性のはっきりしないAllegroの前奏曲から始まります。ルサルカが登場し、レチタティーヴォが続いた後、へ長調Larghettoのたゆたうような美しいアリア Mladosti své pozbavena を歌います。「たゆたう」ように聞こえるのも当然、F-durからf-moll・As-dur・as-moll・Ces-dur・h-moll・cis-moll・Des-dur・cis-moll・as-mollと転調に転調を重ねてようやくF-durに戻ります。
続いてホ短調Allegro moderatoイェジババとルサルカの対話。民謡調あり葬送行進曲ありと、様々に曲想を変えながら二人の緊迫した対話が続きます。ルサルカのアリオーゾも美しく、誰のまねでもない素晴らしい音楽が聴かれます。
ハ長調Moderatoに転じて水底の精たちの合唱。単純極まりない始まり方をしながらハ短調になってからは泥臭さと紙一重の凄愴な美しさを湛えています。Allegro moltoで森番と皿洗い、イェジババの民謡調の対話。洗練とは程遠い楽想に正直かなわんなぁと思ってしまう。
ホ長調Larghettoでしばらく森の精たちの民謡調の歌が続きます。「千と千尋の神隠し」みたいな懐かしい感じの部分もあって悪くはないけれど、結構長くて行進曲を経てハ長調の狂騒に至ってはさすがにげんなり。
水の精の嘆きの後、Allegro con fuocoで王子が登場。ヘ短調の王子のアリア Ode dne ke dni touhou štván は一言で言うなら「ダサカッコイイ」という感じ。だんだんと泥臭さが美点に感じてきます。
変ホ長調のハープのカデンツァをきっかけにルサルカ登場、王子との最後の二重唱が始まります。ルサルカのアリオーゾも死を決心した王子の歌も本当に美しく感動的なのですが、なんというかエロス的要素が全く感じられないのですね。よくもまぁこんなに次から次へと美しい旋律が湧いて出てくるものだと感心しますが、このエロスの欠如が真の感動を妨げているような感じがします。
王子の歌の最期にDesの和音とGの和音が交互に二回ずつ鳴らされます。あの「新世界より」でお馴染みの和声進行。思わず遠くを見てしまうような、懐かしさに溢れた和声。
王子の死、水の精の嘆き。ルサルカが王子の魂を祝福し、変二長調で静かに幕が降ります。

私はこのオペラが本当に好きなんだろうか、と自問しつつもう何回聴いたことでしょう。完結した芸術作品としては瑕だらけであっても、どこかに真実が潜んでいるような作品を私は愛して已まないはずではなかったか?でも何かが「好き」と言うのを阻んでいます。ドヴォルザークを例えばムソルグスキーと比べてみると、前者は生まれるのが遅すぎた秀才、後者は生まれるのが早すぎた天才、と(むごいようですが)はっきりと違いが分かります。作曲のスキルという意味ではドヴォルザークの方が多分数倍優っていますが、後者の天才はどんなに稚拙なスコアからも隠れようがありません。ですが、気まぐれなミューズは、そんなドヴォルザークのスコアにも降り立ち、幾つかの頁に小さい花を咲かせ、「月に寄せる歌」には思いの外大きな花を咲かせました。もうこれは理論や分析では解明できないことだと思わざるを得ません。
本当は全3幕の音楽のアウトラインをなぞりながら、もう少し言葉と音楽の問題について掘り下げてみるつもりでしたが、ちょっと力尽きてしまいました。この項はとりあえず終わりとし、12月のオルガ・グリャコヴァの公演を楽しみにしたいと思います。
# by nekomatalistener | 2011-10-01 16:25 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)

ドヴォルザーク 「ルサルカ」 ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(その3)

「大魔神怒る」を「だいまじんおこる」と読むとなぜか脱力する。




今回と次回、全3幕の音楽を一通りなぞりながら、もう少し「ルサルカ」を構成する音楽的要素について考えてみます。
第1幕。序曲Andante sostenuto(ハ短調)は和声の半音階的な移ろいが美しい名曲だと思います。ここには彼がこれまで学んできたドイツ流の手堅いオーケストレーションと、独特と言ってよい抒情が結合されています。変ホ長調に転調すると、ホルンとイングリッシュホルンによる狩人の歌が現れます。ワーグナー風の森の情景描写、鳥の声、円熟した書法ですが、ボヘミアの森から何時の間にかドイツの森に来たような気がするのがご愛敬。
イ短調Allegro moltoの導入の後、イ長調に転じて森の精と木霊の合唱が始まります。イ短調の間奏はドヴォルザーク独特の泥臭いもので、太鼓にシンバル、トライアングルも入って派手に繰り広げられますが、交響曲の一節なら恥ずかしくていたたまれないような音楽も、オペラであれば辟易はするがなんとか我慢できるというもの。合唱と間奏が繰り返され、嬰ハ長調に転じた後、もう一度合唱と間奏。全体に後期ロマン派というにはあまりに素朴でおとぎ話的というよりは子供っぽい感じがします。
次いでへ長調に転調し、水の精登場。ここからしばらく森の精との対話が続きます。変ホ長調のハープのカデンツァと共にルサルカが登場し、転調の多いワーグナー風の水の精とのやりとりの後、へ長調Moderato ma un poco più mosso のルサルカの美しいアリオーゾ Sem často příchází a v objetí mé stoupá。ここにはワーグナーの影はなく、これが真正なドヴォルザークの持ち味ではないかと思わせられます。さらに水の精とのやり取りの後、変ト長調の例の月に寄せる歌、水の精の嘆き、ルサルカの魔法使いイェジババへの呼びかけと続いていきます。
イェジババ登場の後のルサルカとの対話はまたもやワーグナー風の調性の不安定なものですが、嬰へ短調AndanteのルサルカのアリオーゾStaletá moudrost tvá všechno ví は音楽と言葉が一体となって、オリジナリティに裏打ちされた感動的な頁で素晴らしい。それに続くルサルカのレチタティーヴォ風のRusalky za noci hrozbou svou strašíš も素晴らしい。このような朗唱風の部分だけで全曲が構成されていたとしたら、このオペラ、20世紀の偉大な作品達の先駆的存在、例えばドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のような存在になり得ていたのではないかとさえ思わせられます。それがあっという間に終わってしまうのがなんとも惜しいのですが。
イェジババとの対話の後、二短調の間奏となりますが、序曲冒頭の旋律が若干モディファイされると、マーラーの6番交響曲の一節が突如鳴りだしたような錯覚を覚えます。いや、これ錯覚ではなくマーラが引用したのではないのか?ドヴォルザークが1904年5月に死んだ正にその年の夏に、この「悲劇的」というタイトルの付いた交響曲が書かれています。偶然というには符徴が合いすぎますね。
この間奏の後、イェジババの呪文の歌Čury mury fuk(Allegro vivo ロ短調)が歌われます。前半は子供っぽくてあまり面白いとも思いませんが、後半のレントラーは狩のホルンが遠くで鳴り響き、まるでマーラーの「子供の不思議な角笛」を思わせます。ルサルカを書いていた1900年当時、ドヴォルザークは1886年作曲の「角笛」を知っていたのでしょうか?マーラーがルサルカの存在を知っていたのははっきりしているようですが。引用したりされたり、が本当であれば実に興味深い話です。
水の精の嘆きが繰り返された後、Andante変ホ長調の狩人の歌、Meno mossoの王子の口上。二長調Andante con moto の王子のアリアVidino divná, přesladká から独自の抒情の世界に入っていきます。水の精の娘たちの叫び、水の精の嘆き、そして最後変イ長調Andante sostenutoで王子のアリアVím, že jsi kouzlo, které mine、もはや誰のエピゴーネンでもない、ドヴォルザークの真実の音楽が高らかに歌われ、幕を閉じます。

結論めいた事を書くと、全曲の中でもこの第1幕がもっとも音楽として充実しているように思いますが、いままで詳細に見てきたとおり、ここにはワーグナーの顕著な影響、メルヘンオペラとしても些か素朴すぎる音楽、仮説レベルではありますがマーラーの角笛の遠いこだま、かつてのトレードマークであった泥臭い旋律、そして私が円熟期のドヴォルザークの本当にオーセンティックな音楽と考えているもの、これらの様々な要素が今一つ溶け合わずに並置されているような感じがします。私はルサルカを聞き始めた当初、この様式の不統一感はこの作品の弱点であって、一言でいえば「惜しい作品」だと思いましたが、何度も聴いているうちにこれはこれでひとつの魅力ではないか、と思うようになってきています。
(この項続く)
# by nekomatalistener | 2011-09-29 23:39 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)