シューベルト 「美しき水車小屋の娘」D795

取引先の合田(ごうだ)さんという方からメールが来るたびに、頭の中で「太陽光だゴーダ♪」というCMがエンドレスで鳴りだして困っています。それに、業務で団体積立保険の振込承認をするたびに、「純金積み立てコツコツ♪」というCMがこれまたエンドレスで鳴りだします。もういや。





久しぶりのカフェ・モンタージュで、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」を聴きました。

 2017年4月2日@カフェ・モンタージュ
 シューベルト 「美しき水車小屋の娘」D795
  ペーター・シェーネ(Br)
  武田牧子・ヘルムス(Pf)

40人ほどのキャパのカフェでシューベルトを聴く。考えただけでわくわくするようなリサイタル。さぞかしインティメートな一時間だろうと予想していたのだが、ピアニストが野太い音で序奏を弾きだした瞬間「あれっ?」と思いました。数秒遅れてバリトンが歌いだした瞬間、ああ、この声も身振りも大柄な歌にはこの伴奏しかないのか、と納得するものがありました。物理的に声がデカいという訳ではないが、もう少し大きなホールのほうが聴き映えがするだろうと思わせる声。ドラマティックというより、演劇的と言ったほうがしっくりくる感じがしました。
シューベルトの作品の中でも最も抒情的と思われがちなこのツィクルスが本当に凄いのは、こういった演劇的な歌唱であっても何の違和感もないところでしょう。この作品の白眉は、第17曲「いやな色」と第18曲「しぼめる花」の落差にこそあったのだと気付かされる。この二曲の間にはほとんど深淵といってよいぐらいの虚無が広がっているようにも思います。それ以前にも、あちこちに現れる長調と短調の交代、あのシューベルトの音楽のトレードマークのように言われながらも、どちらかといえば垢抜けない、素人臭くさえ思われたメチエが、シェーネの歌唱では千々に乱れる心そのものの表現として聞こえるのにも驚きました。
ただ、この日の歌唱の全てを肯定するつもりはありません。本当に息もつかせない演奏ではありましたが、心を揺さぶられるような思いはありませんでした。CDなどで聴いてきて、下らない三文詩人の詩がどうしてここまで昇華されるのか、なぜ涙を禁じ得ないのか、と不思議に思う経験もしてきたのですが、この日の演奏にそこまで思わせるものはなかったという他ありません。では、何が足りなかったのか。
これは本当に言語化するのが困難ですが、一つは歌い過ぎ、ピアノも鳴らし過ぎ、会場が狭すぎ、といった身も蓋もない言い方になるのでしょう。だがもう一つは(私の信条としてあまり形而上学的な言説は弄したくないのだが)、なぜシューベルトがこのツィクルスにおいて、有節歌曲の形式と、より自由度の高い形式を対比させながら書いたのか、という考察の有る無しに関わるような気がします。心の欲するところに従い則を超えず、ではないが、最初の「さすらい」からして、歌手もピアニストも、どうもこの則を超えて奔放に走ってしまった感がある。有節歌曲の頸木とシューベルトのイマジネーションのせめぎあいがあればこそ、「しぼめる花」の後半、形式を大きく逸脱して、長調に転じてからの音楽の広がりが聴き手の涙を絞るのだろうと思うのですが、終にそのレベルには至らなかった、それどころか、最後の2曲が付け足しのように聞こえてしまった、ということでしょう。これは芸術家の円熟といったことではなくて、分析的アプローチの有無の問題という気がします。
だが、つらつら思うところはあっても本当に良い歌唱だったと思います。声質も容姿も気持ちよく、まだまだ伸び代のある歌手と思いました。
武田牧子・ヘルムスの伴奏、冒頭にも書いた通り野太く歌手に負けないピアノ。終了後のトークによれば、ずいぶんと久しぶりの合わせで、シェーネが前日に日本に着いたためリハもほとんど取れなかったようですが、歌にぴったりと寄り添ってどんなに劇的であっても破綻しないのはさすがです。ペダルが少な目なのは良いとして、もう少し余韻のようなものがあれば、というのは私の悪い癖の無い物ねだり。

最後にどうでもいい話。今回のチラシには「水車屋の娘」とあって、店主のトークによれば、彼女は粉屋の親方のお嬢さんであるので、水車「小屋」の娘ではなく「水車屋」という呼び名がよかろう、とのこと。私は以前ブリテンの「真夏の夜の夢」に関して書いた通り、作品の表題で逐語訳をしても仕方がないし、長く親しまれ、日本語としてのリズムが良い呼び名でいいと思っているので、断然「水車小屋の娘」派です。そんなに原義が大切なら「美しき製粉業者の娘」と呼んだらいいんじゃないか。ま、どうでもいいんですが(笑)。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-04-07 01:01 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ワーグナー 「ラインの黄金」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

マクドのポテトの端っことか切れ端がカリカリに揚がってるのがたまに混じってるのって、けっこう幸せ。





仕事の忙しさにかまけてたらあっという間に3週間以上も経過。いろんな方の感想も出尽くした頃に間の抜けたブログ更新ですが、自分の為の備忘として、あれやこれやの記憶が薄まらないうちにメモを書いておこう。

 2017年3月5日@びわ湖ホール
 ワーグナー 「ラインの黄金」
  ヴォータン: 青山貴
  ドンナー: 黒田博
  フロー: 福井敬
  ローゲ: 清水徹太郎
  ファゾルト: 片桐直樹
  ファフナー: ジョン・ハオ
  アルベリヒ: 志村文彦
  ミーメ: 高橋淳
  フリッカ: 谷口睦美
  フライア: 森谷真理
  エルダ: 池田香織
  ヴォークリンデ: 小川里美
  ヴェルグンデ: 森季子
  フロスヒルデ: 中島郁子
  管弦楽: 京都市交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: ミヒャエル・ハンペ


「ラインの黄金」をまともに通して聴くのって久しぶりのような気がします。高校生の頃に「トリスタンとイゾルデ」の毒にあてられてしまい、大学に入った記念に、「ニーベルングの指輪」全曲のベームのバイロイト盤(当時LPレコードで16枚組だったと思う)を買って、浴びるように聴いたのも今は遠い昔。その頃も、「ワルキューレ」以降の3作に比べて、「ラインの黄金」は音楽的に今一つのような気がして、それほど真面目に聴いた記憶がありません。
しかし、今回の公演を聴いて、やはり抜群に面白い音楽であると改めて認識しました。以前このブログで「マイスタージンガー」のいくつかの動機を細かく分析したことがありましたが、この「ラインの黄金」についても一度はそういった作業をしてみたいという気になっています。そんな誘惑に駆られるのも、偏に沼尻の指揮のおかげといえそうです。
沼尻さんの指揮といえば、このブログでは過去プッチーニやコルンゴルト、そして「オランダ人」などを取り上げてきて、いずれもサクサクと進む音楽に何かしら不満めいたものを書いてきました。その指揮の真価に気付いたのは昨年のドニゼッティの時でしたが、今回の「ラインの黄金」の指揮は素晴らしいものであったと思います。冒頭の変ホ長調のコードが延々と続く序曲といえば、混沌から次第になにか形のあるものが浮かび上がってくる、といった演奏が多いと思いますが、沼尻の音楽は常に明晰で混沌の対極にある音楽といった感じ。こまかく動く弦の内声を克明に聴かせて、これほどの大曲の演奏としてはあり得ないほどの精緻な印象を受けました。こういったアプローチは敢えて言えばブーレーズのそれに近いと思いますが、沼尻のほうがより劇場的なセンスがあるというのか、醒めているようでいて、燃焼度が高いというのか、要は長時間飽きずに聴かせるオペラ職人としての技を備えているということでしょう。この人が昔からこうなのか、ここ最近進化を遂げてこうなったのか、数えるほどしか聞いていない私には俄かに判断がつかないけれど、今回の公演に限って言えば、情におぼれない音楽はそのままでありながら、四つの場をつなぐ間奏が文字通り白熱の演奏で、全体として大変メリハリのある強靭な音楽となっていたというのが真相かと思います(それにこたえる京響も素晴らしいものでした)。これから毎年一作ずつ行われる指輪の公演、とても期待できるものになりそうです。

オーケストラはこんなに素晴らしかったのに、全体としての印象がそれほどでもないのは、演出によるところが大きいと思います。ミヒャエル・ハンペのプロジェクションマッピングを駆使した演出については、以前に「さまよえるオランダ人」で絶賛したところですが、今回の場合、ト書き通りになんでもできてしまうが故のPMの限界というものをまざまざと感じたような気がします。確かに冒頭のライン河の水底の場面は大変美しく、水中を舞うラインの乙女の映像と、舞台上で歌う歌手が自然に入れ替わるのも見事というほかなかったのですが、ワルハラ城を望む天上界やアルベリヒとミーメの住む地下世界の描写は、あまりにも表現がト書き通りに過ぎて、どうにも興醒めのする思いでした。少なくとも聴き手の想像力の一切を封じ込めてしまうのは、やはり舞台芸術としてどこか違うのではないかとの疑念をぬぐうことができません。PMの威力を否定するつもりは毛頭ありませんが、この技術の凄さに、観客の想像の余地を残す工夫のようなものが加われば、というのは無い物ねだりでしょうか?

歌手勢は大変充実しており、特に私の観た二日目の公演、ほぼオール日本人キャストでよくぞここまで隙のない布陣を組めたものだと感心した次第。ここまで粒がそろっていると、個別の歌手について云々するのも、技術的にどうこういうよりは個人の好き嫌いの話になってしまいますが、それでも特に印象深い歌い手を記すと、まずはローゲの清水徹太郎。「ジークフリート」のミーメ同様、大変重要な役回りだと思いますが、十分に重責を果たしたといえるのではないでしょうか。そのドイツ語のデクラメーションについて云々する力は私にはないが、とにかく膨大な台詞を伝えるだけで流麗な旋律がまったくないと思われがちなローゲの歌が、音楽としても自律的で魅力あるものとして聞こえたことは強調しておきたい。アルベリヒの志村文彦も、性格的なバリトンとしての表現力が凄いと思いました。楽譜に書かれた音との乖離がどこまで許容できるかという問題はあるのかも知れませんが、オペラが一方で演劇でもあることを改めて感じました。
出番は少ないが、去年「トリスタンとイゾルデ」を聴いた福井敬(フロー)と池田香織(エルダ)のコンビがまたもや素晴らしい歌を聞かせてくれました。「ジークフリート」でのエルダはもう少し出番が長いから、是非とも彼女のエルダを再来年に聴いてみたいものです。
ヴォータンは神としての威厳を強調するか、それとも人間臭さというのか、神であるのに碌でもないことばかりやらかす輩という側面を出すかで表現が大きく変わるのだろう。かつてのホッターなんかを聴いてきたオールドファンの受けはいざ知らず、私はこの後者寄りのヴォータンは悪くないと思いました。
その他すべて割愛するが、どの歌手も誰一人これはちょっと・・という人がいなかったのは大変なことだと思います。できればダブルキャストの両方を聴いておきたかったと思いました(一日目を聴いた方の感想をみていると両日行く値打ちは十分あったようだ)。
「東京・春・音楽祭」では来月いよいよ「神々のたそがれ」公演。関西住まいの身には羨ましい限りだが、関西でも上質なリング上演が始まったことを心から喜びたいと思います。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-03-28 00:27 | 演奏会レビュー | Comments(2)

ドニゼッティ 「連隊の娘」 びわ湖ホール公演

ブログのアクセスレポートの検索キーワードを見てちょっと笑ったやつ2件。
「ポゴレリチ 客席を見る」
「フロリアン フォークト 嫌い」
これで私のブログを訪れた方がどうかがっかりしてませんように。





昨年の「ドン・パスクァーレ」に続いてまたもドニゼッティ。今回は中ホールでの公演でしたが、ベルカント好きのファンに支えられてそれなりの盛況でした。

 2017年2月12日@びわ湖ホール中ホール
 ドニゼッティ 「連隊の娘」
  マリー: 飯嶋幸子
  トニオ: 小堀勇介
  ベルケンフィールド侯爵夫人: 鈴木 望
  スュルピス: 五島真澄
  オルテンシウス: 林 隆史

  園田隆一郎指揮 大阪交響楽団
  びわ湖ホール声楽アンサンブル
  演出: 中村敬一

演出の中村敬一氏によるプレトークがあって、ヴェルディの「ナブッコ」の少し前に書かれたことから、オペラというものが貴族やブルジョア階級の嗜みから市民の愉しみに変わりゆく時代の推移について触れられていましたが、実際の楽しい舞台を観ているとまぁそんなことはどうでもよくて、ひたすら音楽を楽しむというのが正しい享受のあり方という気がします。
実際、吉本新喜劇みたいなお話に、ドニゼッティの中でも極め付けの脳天気な音楽。このブログで何度か書いてきたように、ドニゼッティには「ロベルト・デヴェリュー」や「マリア・ストゥアルダ」のような天才的な作品があるのだが、こちらはお世辞にも傑作という感じはなくて、せいぜい手練れのオペラ職人のやっつけ仕事といったところ。だが、トニオの有名なハイCが頻出するアリアを聴くとどうしようもなく胸が高鳴るし、マリーのロマンスには思わず涙腺が緩んでしまう。この快楽と無縁の人のほうが寧ろ世間のクラシック好きやコンサートゴーアーの中ではマジョリティかも知れないというのは寂しくもあるけれど、冬枯れの琵琶湖畔でこういった密やかな愉しみを味わうにはその寂しささえ一種のスパイスになるような気もします。

今回の公演は何より主役の二人の歌唱が素晴らしかったと思います。トニオの小堀勇介は初々しい歌いぶりで大変好ましく思いました。見た目と声と純朴な役柄が寸分のずれもなく一致している感じ。例の9連続ハイCは、あまりにも軽やかなので拍子抜けしそうになります。これならCisでもDでも大丈夫そうと思うが、これは大変なことに違いありません。パヴァロッティのレコードで聴いてきたような興奮とは違いますが、どちらかと言えばバカでおっちょこちょいなトニオのアリアには背筋に電流が走るみたいな興奮は不要なのだと気付きました。それでもびわ湖の客は皆さん耳が肥えてらっしゃるのか割れんばかりの拍手。小堀さんも本当にうれしそう。いいもの聴いたなと思います。
マリーの飯嶋幸子も策を弄せず愚直に役柄に取り組んでとてもよかったと思います。コロラトゥーラも危なげなく、ロマンスもしんみりと聴かせます。もっと手練手管の限りを尽くすみたいなやり方もあるんじゃないか、と思いながらも、この素朴な人たちばかりのオペラにはこれで十二分じゃないか、とも思います。
その他ではスュルピスの五島真澄が美声のバリトンで思いのほか良かったと思います。最後にちょこっとだけ出てくるクラーケントルプ公爵夫人を増田貴寛が演じていましたが、まるでマツコ・デラックスみたいな衣装で存在感を発揮。侯爵夫人の鈴木望も最後に悲しみと威厳をちらっと垣間見せて後味よく大団円を迎えました。
あと忘れてはならないのが兵隊や農夫や小間使い達といった役柄の合唱。この軽いオペラにはもったいないほどの立派な合唱で、贅沢な気分を味わえました。

園田隆一郎の指揮も秀逸。なんの引っ掛かりもない脳天気な音楽だからこそセンスがまともに出てしまう怖さがある音楽ですが、本当になんの引っ掛かりもなく楽しめたのは実は凄いことだと思います。初演当時のパリの当世風なのか、些か軽佻浮薄な音楽と、ベルカントの神髄たるロマンスが何の矛盾もなく同居するこの音楽で指揮者のセンスの良さを感じたのは意外な喜びでした。
演出もまた妙なひねりの一切ないもの。衣装も身のこなしも兵隊さんは兵隊さんらしく、貴族は貴族らしく、といった感じ。下手にはしゃがれると辟易すること必至のお話だけにこれはありがたい。よくも悪くも素直、という言い方があるけれど、今回はその素直さがすべて良い方向にいったんじゃないかな。フランス風のオペラ・コミークなので地の台詞による学芸会みたいな芝居が音楽を繋いでいくのですが、これが全てフランス語。まぁ若干尻がもぞもぞする感じもあるものの、フランス語と日本語のまぜこぜよりはマシかなといったところ。難しいものです。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-02-15 00:43 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その9)

分け入つても分け入つても社畜





60年代の作品を聴いていきます。今回は1965/69年に書かれた大規模なオルガン作品。

  CD10
  聖なる三位一体の神秘への瞑想(1965/69)
  
  オリヴィエ・ラトリー(org)
  2000年7月パリ・ノートルダムで録音

1965年の即興演奏を元に作曲され、メシアン自身の演奏で1972年3月29日、ワシントンDCの無原罪の御宿りの聖母教会で初演されています。
どうも私はメシアンのオルガン作品と相性が悪いのではないかと考えています。ピアノや管弦楽のための作品にくらべると、より実験的、即興的な要素が強いように思われますが(それはとりもなおさず、メシアンにとってオルガンが最も身近な楽器であったという証左でもあるのでしょう)、聴く側からすれば些かしんどいという感じがします。今回取り上げたような長大な作品だと、最後まで何度も聴き通すのはかなり忍耐のいる仕事でした。いや、実験的であること、長大であることが悪いのではないでしょう。私はもっと前衛的で長大な作品、例えばシュトックハウゼンであれフェルドマンであれ、これほどまで苦行めいた聴き方はしてこなかったはず。ならば相性が悪いとしか言いようがありません。それと、他のジャンルの作品とくらべてカトリシズムへの耽溺の度合いが著しく強い感じがして、それもつい敬遠してしまう原因かもしれません。まぁそれを言うなら「20の眼差し」だって同じようなものかも知れませんが、あちらは絢爛たるピアノ技巧が楽しみの大きなポイントになっているので大部分の聴き手はカトリシズムの教義を忘れて聴くことができる。だがそれが果たして正しいメシアンの享受のあり方かという疑問を持たざるを得ません。少なくともオルガン作品の場合、楽器の制約によってピアノほどの目覚ましい技巧は使えないので、その分カトリシズムという要素が全面に出てきて、私のような不心得な聴き手を苦しめるのかもしれません。

全部で9つの楽章から出来ていますが、解説によれば3つの性格を持つ3曲のセットから出来ているとのこと。すなわちⅠ:三位一体のそれぞれ(父と子と聖霊)に捧げられたもの(第1・6・7曲)、Ⅱ:神の様々な属性を表す音楽(第2・5・8曲)、Ⅲ:トマス・アキナスと出エジプト記に書かれた神の記述(第3・4・9曲)。曲順にこのカテゴリーを記すとⅠ→Ⅱ→Ⅲ→Ⅲ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅰ→Ⅱ→Ⅲとなっていて、タイトルの三位一体と音楽の3曲×3セットの構造が照応しています。一方、この作品の中でメシアンは"langage communicable"という技法を第1・3・7曲で用いて音と言葉(文字)を照応させようとしているらしい。これが何を意味しているのかはスコアを取り寄せて分析しないと何とも言えませんが、これもまた晦渋な印象の原因なのかもしれません(ふと思い立って楽譜販売のサイトをみたら税込で22,356円もするので絶対取り寄せないと思うけど・・・)。
解説はともかく、耳で聴いた印象をもう少し分析すると、概ね3つのタイプの音楽にカテゴライズできるような気がします。まず9曲中6曲がオッフェルトリウムとでも呼べそうなソロと応唱が交替していくタイプの音楽で、その内第1・5・9曲が調性のないソロに先導され(カテゴリーA)、第2・6・8曲がグレゴリオ聖歌風のソロに先導されます(カテゴリーB)。全体に不協和音と無調的なパッセージに満ちた音楽の中で、カテゴリーBの3曲は比較的取っつきやすくて、聴いて楽しくまた美しい響きが随所に出てきます。第2曲のソロはあの「天の都市の色彩」で聴かれた東洋風の旋律で、私はてっきりガムランにインスパイアされたものと思っていましたがグレゴリオ聖歌をモディファイしたものと言われたらそんな気もしてくるのが面白い。第3・4・7曲はオッフェルトリウムの構造を持たないもので、トッカータ風であったり鳥の歌であったり、といった曲想(カテゴリーC)。これを曲順に並べるとA-B-C-C-A-B-C-B-Aとなって、シンメトリックという訳ではないがやはり3曲×3セットという構造が見て取れます。もっとも、こうやって分析しても苦手な作品が聴き易くなるわけでもなく、やはり難物だと思わざるを得ません。

演奏についてはこのシリーズの(その5)に書いた以上の印象はありませんので繰り返しません。何度聴いても腹に入らない音楽ですが、しばらく冷却期間を置くことにしましょう。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-01-08 18:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

三輪眞弘の個展を聴く

紅白は家人が観るのでなんとなく目に入るだけなんだけど、SEKAI NO OWARIだけは目が耳が否応なく吸い寄せられる。なんかJ-POPで世界観みたいなものを感じさせるって凄いよね、知らんけど。





連休をだらだら過ごしていたらいつの間にか年が明けている。とりあえず去年聴いた最後のコンサートの備忘を書いておこう。


 2016年12月25日@フェニックスホール
 「声のような音/音のような声」三輪眞弘作品集
 (1)言葉の影、またはアレルヤ
 (休憩)
 (2)独唱曲「天使の秘密」
 (3)再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代
 (4)独唱曲「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」
 (休憩)
 (5)フォルマント兄弟の「スターバト・マーテル」
 (6)合唱曲「新しい時代」The New Era
 (7)ポップソング wach jetzt auf!

 丸谷晶子(Sp)
 岡野勇仁(MIDIアコーディオン)
 山名敏之(cemb)
 Orphe Choirs(合唱)
 大阪大学「芸術計画論」受講者有志(kb)

三輪眞弘の作品をライブで聴いたのは3回目。今回の作品はいずれも三輪眞弘が2000年に書いたモノローグ・オペラ「新しい時代」のスピンオフ作品で、最初の「言葉の影、またはアレルヤ」がオペラの前に書かれた以外はすべてオペラ完成後の作品。このオペラについて私はなにも知らないのだが、作曲者自身のトークから推し量ると、90年代後半に日本中を震撼させた二つの事件、すなわち1995年の地下鉄サリン事件と97年の神戸連続児童殺傷事件、それにまつわる「言葉」に対する思索がきっかけとなって作曲されたのだという。演奏に先だって企画・構成の伊東信宏氏と三輪氏とのトーク。作曲者はけっこう饒舌な方であるがトークはけっして判りやすい内容ではない。私の受け止めたままにあえて要約すれば、作曲者はあの教祖の名前を連呼する、一度聴けば忘れられない歌であるとか、14歳の少年による警察やマスコミを愚弄する一連の手紙であるとか、こういったテクストのもつ強度、明晰であり恐るべき訴求力をもつ言葉に対する羨望と絶望の入り混じった感情を吐露されていたように思う。もうひとつトークで興味深かったのは、この人は「歌」を書くというのがそもそも苦手である、個人の感情をメロディーに乗せて公にするということが出来ない、という話に続けて、しかし架空の教団の布教歌であれば大丈夫だと話していた。今回の最後のポップソングがまさにそれ。そういえば前回私がこの人の個展を聴いたときも、この人の言葉というものに対する強いこだわりを感じたのだが、今回の個展はそこに焦点を絞った好企画であったと思う。
実はこの個展を聴いて、私も音楽と言葉について何かしら思索の跡を言葉にしてみたいという誘惑に駆られていた。だがこの人の個展はプロの音楽家やライターがけっこう集結する場でもあるらしくて、例えば白石知雄氏の次のような文章を読むと素人が出る幕というのはほとんどないと思い知らされる。


と言う訳で、今回もそれぞれの作品の中でなにが起こったのかを書き残すに留めておきたい。
まず最初の「言葉の影、またはアレルヤ」について。会場の照明が落ちると、4人の黒い衣裳のキーボード奏者が現われ、互いに向き合って舞台の上に座る。なにかの儀式のように一礼。やがてミニマル音楽のような旋律の断片をそれぞれが弾き始め、少しずつ変化していくが、その変化のスピードは気が遠くなるほど遅い。よくあるミニマル音楽のモアレ状の変化よりも、キーボードの発する音のノイズ成分の変化のほうが結果として印象にのこる。これが30分ほども延々と続く間、何度か意識が飛びそうになるが、途中で数回ノイズが凝り固まった末に「ア、レ、ル、ヤ・・・」という囁きに聞える瞬間が出てくる。私は最初4人の演奏者が囁いているのかと思ったがどうもそうではないらしい。一体どのような仕組みなのか、これもフォルマント合成音声の一種なのだろうが、私はアメーバのように不定形な動きをしていた粘菌が、時期が来ると子実体を作って胞子を散布する映像を思い浮かべていた。機械の発する言葉は不気味であるが、これがなぜ不気味に思われるのかというのも考えてみると不思議ではある。フロイトの『不気味なもの』を再読したくなった。
第二部をとりまく二つの歌曲、「天使の秘密」と「訪れよ、我が友よ」+「新しい時代」はいずれもPCから流れるミニマル風の伴奏に乗せて歌われるもの。最初の「言葉の影・・・」もそうだが、このミニマルを構成する音楽の断片はいずれも「神の旋律」と呼ばれていて、オペラ「新しい時代」の基本原理となっている。歌そのものは何の変哲もない、どちらかといえば単純なものだが、なんとなく感じられる落ち着かなさについては最後のポップソングと併せて後述する。
第二部の、というよりこの個展の中心に位置づけられる「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代」は大変興味深い作品で、これを聴けただけでも元が取れた感じがする。作曲者自身が舞台に一台のラジカセを置きに現われ、スイッチを入れて立ち去る。このラジカセと客席を取り囲む6チャンネルのスピーカーから、繁華街の雑踏の物音が聞こえてくる。やがて教団の信者と思しい若者のモノローグがあちこちから聞こえ、最初は聴力検査かと思うような微弱な音で教団の神の旋律が鳴っていたのが次第に大きくなっていく。殆ど真っ暗だった会場は、背景の壁がゆっくりと上がるとフェニックスホール自慢のガラス張りの向うに煌めく大阪の夜景が現われ、やがてまた背景の壁が降りて闇に閉ざされる。聴き手としては当然ながら、生の音声、アク―スティックな楽音が一切ない大作をコンサートの真ん中に配置した意図を探らずにはいられないのだが、何分言葉が熟して行かないので別の機会に譲りたい。
第3部はチェンバロとMIDIアコーディオンとソプラノによる「スターバト・マーテル」から始まる。ペルゴレージの「スターバト・マーテル」の最初の二重唱を、生身の歌手とMIDIアコーディオンのフォルマント合成による音声が歌うという趣向。MIDIアコーディオンの不安定さというのは、アコーディオンのボタン操作で子音と母音を指定することの非合理的な指使いにあるように見えた。もちろんこの不安定さそのものが作曲者の狙いなので、聴衆としてははらはらしながら(時に笑いをこらえながら)聴いているしかない。
合唱曲「新しい時代」も一筋縄ではいかない。一見活気に満ち溢れた布教ソングのように始まるが、その錯綜ぶりはなかなか半端なものではなくて、それまで伴奏ないし背景音として聴いてきたミニマル音形が合唱で展開されているかのようだ。
最後のポップソングも歌手とMIDIアコーディオンによる重唱(?)。明確な調性に基く音楽を現代音楽というシーンの中に置くことの、本質的ないかがわしさといったものを、架空の宗教団体のイニシエーションに置き換えるという意図、あるいは(作曲者は一種の照れというのか韜晦というのか、「歌」と言っていたが)調性音楽はもはや「夢落ち」のレベルでしか書けないという問題意識はここにきて明白。

私はこの雑文を専ら自分の備忘として書いていて、この場に居合わせなかった方にそこで得られた感興について伝えるのは本当に難しいことだと思う。しかし、私は2016年に聴いたすべてのコンサート(本当に恥ずかしいくらい少ないのだけれど)の中では、先日の京響の「グルッペン」に次いで印象深いものとして、つまり3月の「イェヌーファ」公演や、7月の「真夏の夜の夢」公演を凌ぐほどの面白いものとして感じ、受け止めたことを書きとめておきたい。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-01-03 13:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)