Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その13)

辛子明太子とプチトマトを一緒に食うと、口の中がめっちゃ生臭くなることを発見。最凶の食い合わせかも。一度お試しあれ。





前々回「異国の鳥たち」を取り上げたので、今回はそれより少し前の「クロウタドリ」を中心に聴いていきます。

 CD27
 ①美しき水の祭典(1937)
 ②ピアノとオンド・マルトノのための4つの未刊の小品(?)
 ③モーツァルトの様式による歌(1986)
 ④クロウタドリ(1951)
 ⑤5つのルシャン(1948)
 ⑥抑留者の歌(1945)

 ①ジャンヌ・ロリオ六重奏団
 ②イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
 ③ギィ・ドゥプリュ(cl)・イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ④クリスチャン・ラルデ(fl)、イヴォンヌ・ロリオ(pf)
 ⑤ジャン=ポール・クルデール指揮ル・マドリガル・アンサンブル
 ⑥サー・アンドルー・デイヴィス指揮BBC交響楽団、BBC合唱団

 ①1980年②~④1999年1月3・4日⑤1966年⑥1995年3月22日録音


「クロウタドリ」(「クロツグミ」と表記する文献もある)は1952年、パリ・コンセルヴァトワールのフルートの試験のために書かれたとのこと。技巧的なフルートに比べて、ピアノパートが(メシアンの楽曲にしては)随分平易に書かれているのも納得がいきます。作品の素材の大半が鳥の歌から成る作品としては最初期のものと言えそうです。
全体は大まかに言って5つの部分から成り立っています。
①ピアノの短い序奏の後、フルートのソロによる鳥の歌
②音列技法風のピアノとフルートの応答
③ピアノのトリルに始まるフルートソロの鳥の歌の再現
④音列によるピアノとフルートのカノン
⑤Vifに転じてからの目くるめくような鳥の歌とコーダ
音列技法風と書きましたが、例えば②は、まずピアノのFis-des-c-g-as-des-h-e-b-g-fisの音列をフルートが模倣します。ピアノの左手の伴奏にd,es,aが現れるものの、fは出てきません。同様に次のフレーズはピアノのf-g-as-ges-des-h-f-c-g-fisをフルートが模倣、左手の和声でb.eは出てきますがd,es,aがありません。Fisは何度も出てくるので、微妙に調性感があるような無いような、宙吊りにされたような不安を感じます。要は、彼自身の「音価と強度のモード」がきっかけとなって同時代に猖獗を極めたトータルセリエリスムとは似て非なる音楽であるということ。短い曲でピアノパートもシンプル、スコアも容易に入手できるので、もっと詳細に分析すれば面白かろうと思いますが、ここでは、鳥の歌が単なる作品の彩りとかエピソードのレベルを超えて、作品の中心原理となったこと、戦後の前衛音楽の旗頭から一転して孤高の道を歩むことになるメシアンの、いわば中期の始まり、メルクマールとなる重要な作品であるということだけ押さえておきたいと思います。
ラルデとロリオの演奏はもっと精密な演奏もあり得るだろうと思いながらも、その雰囲気というか、まさにメシアンの音と思わせる独特な味わいがあって、規範とするに足る演奏だと思いました。

1948年の「5つのルシャン」は大変重要な作品だと思いますが、作品の詳細に触れた文献は(日本語であれ英語であれ)ネットではなかなか見つかりません。「ハラウィ」、「トゥーランガリラ」と並んで「トリスタン三部作」と言われていることはよく知られていますし、16世紀フランドル楽派のクロード・ル・ジュヌClaude Le Jeuneの音楽にインスパイアされたらしいことも今回初めて知りましたが、歌詞の難解さ(シュルレアリスム風の詩と奇妙なオノマトペや造語の混合)も相俟って、この音楽へのアプローチとしてはあまり役立つ情報とは言えません。12人の歌手のための無伴奏合唱というスタイルや、ハーモニーの美しさもさることながら、専らリズムと特異なオノマトペ(t-k-t-k-t-k・・・のような)の面白さが追求されていることなど、メシアンの作品の中でも異色ですが、ある種の愉悦感(歌詞に相応しい言葉かどうか別として)は、シュトックハウゼンが1965年に書いた「ミクロフォニーⅡ」(12人の合唱、ハモンドオルガン、4リング・モジュレーターのための)を想起させるものがありました。どちらも男女それぞれ6人ずつの合唱ということで、シュトックハウゼンはメシアンへのオマージュとしてこれを書いたのではないかと思った次第。
演奏については、録音年代がいくぶん古いせいもあって、透明感とか精密さとは若干違うところが寧ろ作品の求めるものに合致している感じです。Youtubeでいろんな演奏を聴くと、リズム感の希薄な緩い演奏も散見されますが、このCDの演奏は早めのテンポでリズムもエッジが効いている感じが良いと思います。地声もあらわに吼えたり唸ったり、夜中にヘッドフォンで聴いているとちょっとアレな感じが堪りません。

「抑留者たちの歌」は1944年8月のパリ解放を祝うため、翌45年ラジオ・フランスの音楽監督であったアンリ・バローの委嘱で書かれた大オーケストラと合唱のための作品。初演後スコアが紛失したと思われていたところ、1991年になって放送局のライブラリーから再発見されたらしい。こういった珍無類の作品が聴けるのもコンプリート盤ならでは、ですが、どことなくソヴィエトのプロパガンダ音楽のような様相ながらも、メシアン流の和声とグロッケンシュピールやチャイニーズシンバルのギラギラした音色、それと異様なほどの高揚感があって、落ち穂拾いのつもりが思わぬ収穫でした。演奏も文句なし。

「美しき水の祭典」は1937年パリ万博の、噴水と花火のエキジビションのために委嘱されたとのこと。だからという訳でもないのでしょうが、メシアンにしてはどこかポップな味わいもあって、6台のオンド・マルトノという特殊な編成、第4曲と第6曲が後の「世の終わりのための四重奏曲」に転用されていること共々、人目を惹きやすいのか、意外によく知られている部類なのかも知れません。個人的には、印象派として見てもアヴァンギャルドとして見ても中途半端でちょっと苦手です。第4曲と第6曲は確かに美しいのですが、オンド・マルトノの人工的な音色で聞くと、なんだか斎場のお通夜や告別式で、開式を待つ間に流れているBGMみたいな感じ。

オンド・マルトノとピアノのための「未刊のページ(4つの小品)」はメシアンの死後に出版された作品で作曲年は不明。ドビュッシー風の和声は初期作らしいものですが、鳥の歌が後の作品に比べると非常に素朴な書法ながらもピアノに現れることから、年代の特定はなかなか難しいのかも知れません。BGMとして聞くならともかく、何度も繰り返し聴こうとすると少しもて余してしまいました。

クラリネットとピアノのための「モーツァルトの様式による歌」は作曲者晩年の1986年に、パリ・コンセルヴァトワールの学生のコンペ用に書かれたそうだが、メシアンを思わせる要素は皆無、微妙な違和感はあるものの、ほぼモーツァルト様式に忠実な小品。私にはどうも、作品目録を埋めていく以上の面白さは感じられませんでした。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-06-24 00:41 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

ワーグナー 「ワルキューレ」 愛知祝祭管弦楽団公演

ポケモンGOのイシツブテを見ると、なんかチキチキマシン猛レースのタメゴローとトンチキを思い出す。40代以下の人は誰も知らんと思うけど。





わざわざ名古屋までこの演奏会形式による「ニーベルングの指輪」シリーズを聴きに行こうと思ったのは、昨年の「ラインの黄金」の評判がまぁまぁ良かったのと、清水華澄がジークリンデを歌うと知ったから。で、その結果はというと、本当に行ってよかった。恥ずかしながらあちこちで大泣きしてしまいました(笑)。

 2017年6月11日@愛知県芸術劇場コンサートホール
 ワーグナー「ワルキューレ」全三幕
  ジークムント: 片寄純也
  ジークリンデ: 清水華澄
  フンディング: 長谷川顯
  ヴォータン: 青山貴
  ブリュンヒルデ: 基村昌代
  フリッカ: 相可佐代子
  ゲルヒルデ: 大須賀園枝
  ヘルムヴィーゲ: 西畑佳澄
  オルトリンデ: 上井雅子
  ヴァルトラウテ: 船越亜弥
  ジークルーネ: 森季子
  ロスヴァイセ: 山際きみ佳
  シュヴェルトライテ: 三輪陽子
  グリムゲルデ: 加藤愛
  三澤洋史指揮 愛知祝祭管弦楽団
  演出構成: 佐藤美晴

歌手達の中では清水華澄はもちろん良かったのですが、何より素晴らしかったのはブリュンヒルデを歌った基村昌代。第二幕で、ちょっとお転婆風の軽めの声で現れた時は正直「あちゃー」と思ったのですが、これはもちろん計算の内。ブリュンヒルデはジークムントに対して死の告知をするが、彼のジークリンデへの愛の深さを知っていきなり真実の愛に目覚める。それからの表現の激しさと深さはただならぬものがありました。ジークムントが死んで絶望するジークリンデに、お腹の中に子供が宿っていることを告げる場面や、終幕のヴォータンとの別れの場面、もう言葉が追いつかなくて素晴らしいとしか言いようがない。この二つの場面、私は涙なくして観られませんでした。
ジークリンデの清水華澄、この人の身上は何と言っても忘我といってもよいほど役柄に没入していく姿勢と、テンペラメントの激しさ。ジークリンデはうってつけの役だろうと思いきや、第一幕はちょっと手が届きそうで届かないもどかしさを感じる。この人にとって、ワーグナーはヴェルディのエボリ公女のようにはいかないのか、と少し物足りない。でも第二幕、ジークムントに不幸な半生を語って錯乱する場面からは俄然熱を帯びてきて、ブリュンヒルデに触発されたのかどうか、第三幕の対話はもう凄まじいまでの激しさ。やはり類まれな歌手だと思いました。
ジークムントの片寄純也は私はだいぶ前にパリアッチのカニオを聴いて以来かも知れません。偉丈夫で声量もあり、ジークムントのような直情的な役柄にはよく合っていると思います。ただ、声楽用語でなんと言ったらよいのか分からないのだが、ところどころ、舞台の俳優に例えるとセリフが棒読みみたいなこなれていない歌い回しが気になります。十分水準以上とは思いながらも、先の女声二人にはわずかに及ばず、といったところ。
ヴォータンの青山貴は、これまで聴いてきた中では一番良かったのではないでしょうか。第二幕で登場したときは、声がこちらに届く前に散ってしまう感じも受けましたが、すぐに持ち直して深々とした声を堪能させてくれました。ブリュンヒルデとの告別の場も文句なし。
フリッカの相可佐代子は役柄に即したヒステリックな表現はとても良いが、ちょっとオケに声が負けた感じ(オケはちょっと鳴らしすぎ、というより制御しきれていない所あり)。フンディングの長谷川顯もスイッチが入る前に出番が終わってしまう感じが少し気の毒。8人のワルキューレの乙女達も、思ったより声が届かない。このあたりはまぁこんなもんかな、といったところ。

愛知祝祭管弦楽団は、この4年がかりの「指輪」シリーズのための寄せ集めで、基本的にアマチュアの人たちとのこと。その気になればいくらでもケチをつけれそうではあるが、私はそういったことは書かないでおこうと思う。立派な演奏だったと思います。三澤洋史は新国立劇場の合唱団の指揮者としてしか知りませんでしたが、こういった楽団を相手に長大な音楽を破綻なくねじ伏せただけでも大変なことだろうと思います。ただ、指揮は拍子をきっちりと刻むことに最大のポイントを置いているように思われ、その分音楽のうねるような自発性が多少犠牲になっていたようにも思います。おそらくもっとプロフェッショナルなオーケストラ相手なら違うやり方があったのかも知れません。そこは目を瞑るしかないのだけれど、これが名古屋の一回きりの公演ではなくて、東京のように二度三度の公演ならもっと良い成果が出せたに違いありません。いずれにしろ、私は早くも来年の「ジークフリート」公演を楽しみにしています。

ワーグナーの音楽そのものについて少しだけ。
私は先にも触れたブリュンヒルデがジークリンデに懐妊を告げる場面と、罰を与えられたブリュンヒルデがヴォータンに自分をつまらぬ男から護ってほしいと懇願する場面が白眉だと思っています。そのどちらも、ジークフリートの動機が金管で高らかに現れますが、それは単に回想とかほのめかしといったレベルではなくて、どこか無意識のレベルに直接働きかけてくるような強烈な効果があることに気が付きました。それは、長大な作品を経済的・効率的に紡ぎだすためのメチエとか、聴衆が理解しやすいように、あるいは退屈しないようにするための方法といった、いわばレトリックとしてのレベルではなくて、ジークフリートの不在(語られないもの=欠如)を埋めるためにジークフリートの動機(象徴=ランガージュ)が生まれるといったレベルに達していると言えるかも知れません(ライトモチーフの全てがそうではないにせよ、このジークフリートの動機の出現で図らずもそのレベルに触れてしまった、というのが実際のところかも知れませんが)。だからこそ、ワーグナーの「ラインの黄金」から「パルジファル」に至る諸作が、あれほどまでに哲学や精神分析学をはじめ広く人文科学全般に影響を与え得たのではないかと思いました。演奏会の備忘のついでに書くには話が広がりすぎるし、もっと言葉を尽くそうにも印象批評みたいな書き方しかできないのだけれど、これだけは書かずにはいられませんでした。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2017-06-14 22:58 | 演奏会レビュー | Comments(4)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その12)

私がまだ小学生の頃だと思うのだが、コロッケ屋さんを舞台にしたテレビドラマで、じゃがいもを皮ごと刻みながら「こうすると挽き肉みたいにみえるでしょ」とかなんとか、新入りの女性に教える場面があった。その時は「へーそうなんや」と思って観てたが、これ今なら食材偽装で炎上しそうだな。





今回は70年代の冒頭に書かれた大作「ニワムシクイ」を中心に聴いていきます。

 CD1
 ①8つの前奏曲(1928-1929)
 ②ニワムシクイ(1970)

 ロジェ・ムラロ(pf)
 ①2001.2.15②2001.2.22録音

50年代後半に書かれた「鳥のカタログ」の番外編、あるいは新「鳥のカタログ」の一篇として書かれ、結局単体で残った「ニワムシクイ」ですが、その規模の大きさ(このディスクの演奏は32分ほど)と絢爛たるピアノ技巧によって、メシアンの作品の中でも大変重要な作品であると思います。果てしなく鳴き続けるニワムシクイの歌を聴いていると、「鳥のカタログ」にこの鳥の名を冠した曲がないのが不思議に思えてきます。あるいはメシアンは、かつてこの鳥を取り上げるには自分自身の作曲のメチエ、あるいは妻イヴォンヌ・ロリオのピアノ技巧について何かしら満足できず、ようやく満を持して作品を世に問うたのが偶々この時期になったのかも知れません(あくまでも想像ですが)。いずれにしても素晴らしい作品で、もう少し時が経てばメシアンのピアノ曲の最高峰と言われるようになるのでは、と思います。
実はこの作品について書かれた素晴らしいブログがあり、私が附け加えることもあまりないかなと思います。


本当に作品への愛が溢れていますね。ですが、これを紹介するだけではやはり物足りないので、ここであまり触れられていないニワムシクイ以外の鳥たちの声を自分の勉強も兼ねて挙げておきましょう。「鳥のカタログ」同様、タイトル以外の鳥たちも沢山現われるので、その名称を知っておくことは無駄ではないはず。
まず現われるのはヨーロッパウズラ(仏Caille;羅Coturnix coturnix)とサヨナキドリ(Rossignol;Luscinia megarhynchos)。

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この2種類の鳥の歌が何度か繰り返された後に、主人公のニワムシクイ(Fauvette des jardins;Sylvia borin)が啼き始めます。

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お次はミソサザイ(Troglodyte;Troglodytes troglodytes)。

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ニワムシクイの歌がひとしきり続いた後、ヨーロッパアオゲラ(Pic vert;Picus viridis)とヒバリ(Alouette des champs:Alauda arvensis)、次いでズアオトリ(Pinson;Fringilla coelebs)。

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ニワムシクイの歌や自然描写がしばらく続いた後、様々な鳥たちが姿を現します。まずはオオヨシキリ(Rousserolle Turdoïde;Acrocephalus arundinace)。

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次にニシコウライウグイス(Loriot;Oriolus oriolus)。フランス語のLoriotは、綴りが少し違うが奥さんのロリオLoriodと発音が一緒なので、メシアンにとっては特別な鳥のようです。

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ハシボソガラス(Corneille noir;Corvus corone)、セアカモズ(Pie-grièche écorcheur;Lanius collurio)、トビ(Milan noir;Milvus migrans)が次々と一瞬だけ姿を見せます。

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ツバメ(Hirondelle de cheminée;Hirundo rustica)は鳴き声ではなくて飛翔する姿が描かれています。

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長大なニワムシクイの歌のあと、長い長い沈黙。クロウタドリ(Merle noire;Turdus merula)が現われます。
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ヒバリの歌がやがて目覚ましいピアノの難技巧のカデンツァに発展し、次第にテンポを落としていくといよいよ夜が近づいてきます。
そこで現われるのがキアオジ(Bruant jaune;Emeriza citrinella)。

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ゴシキヒワ(Chardonneret;Carduelis carduelis).

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ズグロムシクイ(Fauvette à tête noire;Sylvia atricapilla)。

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最後にモリフクロウ(Chouette Hulotte;Strix aluco)。

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鳴かないツバメも入れると実に18種類の鳥たちが現われるのでした。それにしてもメシアンの楽譜は本当に綺麗。楽譜の見た目の美しさと音楽の本質は、関係ないようでいて実は深い所で繋がっているような気がします。



メシアンがまだパリ国立高等音楽院の学生であった頃の「8つの前奏曲」は、最近のピアノ弾きには随分人気のある作品であるように見受けられます。確かに第1曲「鳩」や終曲「風のなかの反映」などはドビュッシーの「映像」や「前奏曲集」の延長線上にあるとても判りやすい音楽。もちろん、ドビュッシーを何とか乗り越えようとする試行錯誤の跡はいたるところにあって、単なる初期作にとどまらない面白さがあります。ですが、やはり後のメシアンの音楽と比べると習作の域を出ない、というのが冷静な評価だろうと思います。それにしても、この作品を聴くたびに、ドビュッシーの「12のエチュード」(1915)やスクリャービンの「3つのエチュードOp.65」(1912)が如何にとんでもない音楽であったかを逆に痛感します(特に後者は9度や7度のエチュードという斬新なもので、メシアンが知っていた可能性は高いと想像しています)。それと比べればメシアンの初期作は概してとても穏健な音楽というべきでしょう。


ムラロの演奏については、以前「鳥のカタログ」でウゴルスキーを引合いにしながら、精密だがモノクロームな感じだと書きましたが、今回も概ね同様の感想を持ちました。「ニワムシクイ」はライブ録音ですが、その精度はかなり驚異的。「8つの前奏曲」のほうは、綻びというほどではないものの、意外にもたついている箇所があって、まぁ基本的に指は回るはずの人ですから、向き不向き、あるいは作品の好き嫌いのレベルで少し差がついたのか、といった印象。この前奏曲については、昔のミシェル・べロフの録音が色彩的でとてもよかった記憶があります。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-05-10 23:37 | CD・DVD試聴記 | Comments(4)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その11)

ネットニュースで、フィリピン沖に生息するエントツガイという不思議な貝の生態を知ったが、画像検索するとコテカみたいだった。殻の中身が、これがまた・・・(お察し下さい)。





これまで60年代の作品を一通り聴いてきたので、あとは時代を少しずつ遡ったり進んだり、気ままに聴いていこうと思います。という訳で、今回は「鳥のカタログ」の少し前に書かれた「異国の鳥たち」を含むディスクを聴きます。


 CD28
 ①おお聖なる饗宴よ(1937)
 ②世の終りのための四重奏曲(1940)
 ③ピアノと弦楽四重奏のための小品(1991)
 ④異国の鳥たち(1956)

 ①ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジcho.
 ②ルーベン・ヨルダノフ(vn)、アルベール・テタール(vc)、クロード・デズルモン(cl)、ダニエル・バレンボイム(pf)
 ③イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ロズモンドSQ
 ④ジャン=イヴ・ティボーデ(pf)、リッカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 ①1969.11②1978.4③1999.1.3~4④1995.9.9録音


まずは「異国の鳥たち」から。1956年、ピエール・ブーレーズの委嘱によって書かれた作品で、タイトルの通りインド、中国、マレーシア、南北アメリカ大陸の鳥たちの鳴き声が素材となっています。これは私には文句なしの傑作だと思われます。弦楽器を含まないオーケストラとピアノ、パーカッションのギラギラとした響きは、さながら南国の原色の鳥たちの姿を彷彿とさせますが、その音色としてのまとまりと、ピアノとオーケストラの交替の妙、様々な鳥たちが啼き交わすカオスと切迫したリズム、その全てが堅牢な知的構造物として統御されているのは、後にも先にもない、この時期だけのメシアンの特色と言ってもよさそうです。このすぐ後に書かれ始めた「鳥のカタログ」では、音楽の時間の流れは自然を模したかのようにもっとゆっくりと流れ、一つ一つの作品の演奏時間は時に途方もなく引き伸ばされ、自然の中を散策したり、散文を読んだりする体験に近いものとなりますが、「異国の鳥たち」では韻文で書かれた上質な詩を読む体験に近いという感じもします。ブーレーズがドメーヌ・ミュジカルを率いていた頃から繰り返し演奏しているのも、単に自分が委嘱したからというのではなく、この作品が彼の美意識にぴったりと合致するからに違いないと思います。そのブーレーズの演奏も良いけれど、このディスクのシャイーの演奏も愉悦に満ちた素晴らしいもので、辛口と思われがちなこの作品がこんなに楽しく聴けるというもの珍しかろうと思います。

「世の終りのための四重奏曲」は恐らくメシアンの中でも最も有名な作品だと思いますので、戦時下の一種の極限状況で書かれたといった情報については改めて書くまでもないでしょう。私は大昔にピーター・ゼルキンが結成したアンサンブル、タッシの演奏で初めてこの作品を知った世代なので、なんとなく(メシアンには何の関係もないのだが)70年代初頭のヒッピー文化を連想させるというか、LSDでラリってるようなイメージがついてまわるという時期があったのですが、改めて聴くとやはり凄い音楽だと思いました。初期のメシアンを代表する傑作でしょう。薄いガラス片を踏みしだくような独特の和声(例えば2曲目中ほどの下記譜例など)には陶酔感というか、一種の幻覚効果があって、そういう意味では「ラリっている」というのもあながち間違いではないのだけれど・・・。バレンボイムらによる演奏は気魄のこもった演奏で聴きごたえがあります。解説書には作曲者自身がレコーディングに立ち会い、お墨付きauthorizationを与えたと書かれています。

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1937年に書かれた初期の無伴奏合唱(オルガン伴奏は任意)のためのモテット「おお聖なる饗宴よ」は、ドビュッシーの影響もさることながら既にメシアン独特の和声が現われる大変美しい小品。ネットでスコアが拾えたので少しだけ下に掲げますが、この言葉の抑揚に則した自由なリズムを見ると、メシアンの重要な語法の一つである附加リズムの起源を見る思いがします。セント・ジョンズ・カレッジ合唱団の演奏はクオリティが高く、こうした初期の落ち穂拾いのような録音でも手を抜かないのがグラモフォンらしい感じがしました。

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メシアン最晩年の「ピアノと弦楽四重奏のための小品」は、メシアンには珍しいクラシックな編成ですが、実はウィーンの楽譜出版社ウニフェルザール社の経営者であるアルフレート・シュレーの90歳の誕生日のために委嘱されたもので、もともとの注文は弦楽四重奏のための小品であったところ、メシアンがピアノを加えて作曲したというものでした。思わせぶりなG-A-Gis-Dのモットーは動機労作風の展開はなく、ピアノと弦が緊密に絡み合うこともなく並置、交替するのみ。しかも途中からピアノによるニワムシクイの声となります(相の手のように挿まれる弦のパッセージがこのモットーの4音から始まるのが御愛敬)。お世辞にも面白いとは言えないこの作品、メシアンはあまり感興の湧かないまま作曲したのではないだろうか。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-05-03 23:58 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その10)

近鉄の車内放送で、車掌さんが何度も「ドアが閉まります、ドアが閉まります」と言ったあとに、ちょっと怒った声で”The doors will be closed!”と叫んではりました。外国の方がふざけてたんでしょうね。でも南海やったら「閉まるゆうとるやろがこのボケ」とか言いそう。





60年代の掉尾を飾る大作「我らの救い主イエス・キリストの変容」。

 CD14/15
 我らの救い主イエス・キリストの変容
 ロジェ・ムラーロ(Pf)、トマ・プレヴォー(fl)ロベール・フォンテーヌ(cl)
 エリック・ルヴィオノワ(vc)、フランシス・プティ(マリンバ)、
 ルノー・ムッツォリーニ(シロリンバ)、エマニュエル・キュルト(ヴィブラフォン)
 フランス国立放送合唱団
 チョン・ミュンフン指揮フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団
 2001年9月録音


1965年から1969年にかけて作曲され、1969年6月にリスボンで初演されています。テキストはマタイによる福音書の他、トマス・アクィナスの『神学大全』から取られているとのこと。しかし、このような外部情報が作品の理解に幾らかでも助けになるかと言えば勿論否である。正直なところ、私はこの大作を持て余していて、何度も聴けばそれなりに良さが分かるかと思いながらも、聴き通すこと自体がかなり重荷に感じています。作風は60年代の傑作群(「クロノクロミー」「七つの俳諧」「天の都市の色彩」)の流れを汲む辛口の楽章もあれば、幾分年代が遡ったような甘口のものもあって、その混合こそが70年から晩年に至るメシアンのスタイルの始まりだというのはよく分かりますが、私には苦手な音楽という他ありません。いまつらつらと考えていることは、やはり神学に対する教養なくしてメシアンの理解はあり得ないのではないだろうか、ということ。メシアンの少なくとも幾つかの作品は、音楽愛好家の誰でもがアプローチ可能な、普遍的で開かれたものではなくて、カトリックの教義を非常に深いレベルで共有する者にのみ、その狭き門が辛うじて開かれているのではないか、などと考えています。そのアプローチの至難さを思うと、半ば諦めの境地ではありますが、せめてトマス・アクイナスの著作の幾つかでも読んでみようかという無謀な気持ちも湧いてきます。メシアンの作品の中でもおそらく大変重要に違いないこの「変容」が、全く腹に入らないというのは実に悔しいものであります。
全体の理解とは程遠いのを承知で、備忘として全14楽章のちょっとした感想を記しておきます。各楽章の表題の邦訳は定まったものはないと思うので、ネットで拾ったものを仮に掲げておきますが、これが正しいのかどうか私には判断つきません。

第1セプテネール
第1曲 福音叙述
打楽器のみの開始に続いておもむろにユニゾンの合唱が歌い出す。 この楽章に限らず、オーケストラも合唱も巨大な編成の割に極めてストイックというか、不経済な書法が目立つ。
第2曲 御自身の栄光の体のかたどりに
歓びに溢れる冒頭の主題が印象的。合唱は前半またもやユニゾン、後ろ三分の一ほどがハーモニックな書法。拡大された調性によるやや辛口の音楽に甘い和音が時折現われる。
第3曲 イエス・キリスト、あなたは神の栄光の輝き
「クロノクロミー」の延長線上にある素晴らしい音楽。管弦楽、合唱とも室内楽的な密やかさから巨大編成ならではのマッシヴな響きまでとてもレンジが広い。
第4曲 福音叙述
第1曲とほぼ同様の音楽が繰り返される
第5曲 あなたの幕屋は何と慕わしいことか
抒情的な合唱に続いて、ピアノ、チェロ、シロリンバなどのソロを含む室内楽的な響きが美しい。
第6曲 それは永遠の光の輝き
女声のユニゾンとオーケストラの鳥の声による短い間奏曲風の楽章。木管とシロリンバ、ピアノが啼き交わす鳥の歌はなかなかカオティークで面白い。
第7曲 聖なる山の聖歌
40年代の諸作品に出てくる、不協和に軋みながら協和音に解決するメシアン独特の音形が現われる。静かで美しい合唱。

第2セプテネール
第8曲 福音叙述
第1曲、第4曲の再現だが、クセナキスを思わせる弦のグリッサンドが出てくる。かつての弟子が「メタスタシス」を書いてから10年以上も経って、なぜ引用めいた音形を書いたのだろうか?
第9曲 完全なる出生の完全なる承認
導入は最後の審判の如く打ち鳴らされるシンバルや喇叭の咆哮、男声ユニゾンが続くが、これが何度も繰り返され、第1曲の福音叙述、ソロ楽器による技巧的なフレーズ、男声ソロの単音によるテキストの朗唱、トニカで始まる調性感のある合唱などがモザイク状に組み合わされる。長大な楽章の中に、福音叙述や朗唱が嵌め込まれているのは、この楽章自体が入れ子状になった小規模なミサ曲であるようにも聞こえる。
第10曲 子らの完全なる世継ぎ
チェロの抒情的なソロ、薄いオーケストラを伴って歌われるユニゾンの合唱、言葉は矛盾しているが「巨大な室内楽」を聴いているよう。
第11曲 福音叙述
第1曲、第4曲、第8曲より幾分長く、開始は他の3曲と異なって上昇音形から始まる。
第12曲 このところは何と恐ろしい
ピアノのカデンツァに続いて40年代風の合唱が2回現われる。合唱はユニゾンから終盤のカオティークな叫びまで多様。
第13曲 完全なる三位一体の現出
点描的な書法の大変前衛的なオーケストラと、時にグレゴリオ風男声ユニゾンを伴う合唱、それに臆面もない協和音の奇妙な混合。
第14曲 栄光の光の聖歌
苦悶と陶酔の狭間を、軋みながら移ろい、協和音に至る合唱。好きか、と聞かれると困るけれども、ある意味メシアンの面目躍如たる音楽だろう。
(この項続く)

# by nekomatalistener | 2017-04-23 00:33 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)