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大フィル定期 レスピーギ「ローマ三部作」

親会社から久しぶりに出張で来てた方のしゃべり方が独特なんだけど、同僚に「あの人トッポジージョみたいやな」と言ったところ若い子にはまったく通じない。まぁ予想はしてた。





レスピーギを取り上げるのは初めて。なかなか自分で(オペラやコンテンポラリー以外の)コンサートに行くことのない私ですが、例によって取引先の社長さんからお誘いがあって行ってきた次第。


 2018年2月16日@フェスティバルホール
 大阪フィルハーモニー交響楽団 第515回定期演奏会
 レスピーギ
  交響詩「ローマの噴水」
  交響詩「ローマの祭」
  (休憩)
  交響詩「ローマの松」
 指揮: アンドレア・バッティストーニ


いや、このブログでレスピーギという名前を出したことは前に一回あって、昨年佐渡裕の「トゥーランガリラ」演奏会の時に、佐渡の良くも悪くもエンタメ志向の強い演奏に対する不満を「メシアンのレスピーギ化」と書いておりました。要するに悪口ですね。
でも実はレスピーギの少なくとも「ローマ三部作」については、よく出来た曲だと思っており、その大胆なポリリズムやポリトナールな書法はもっと賞賛されてしかるべきだろうと思います。特に「ローマの祭」の、広場で様々な音楽がカオスのように聞こえてくるところなど、マーラー(第3交響曲)やストラヴィンスキー(ペトルーシュカ)からインスパイアされたことは歴然としているものの、チャールズ・アイヴズの同様のアイデアと比べても不当に評価が低いと思わざるを得ません。それに「ローマの松」の終曲の、抗いようのないカッコよさ、スペクタクルな興奮も、単なる名曲と片づけるのは実にもったいない。
だいぶ前のことですが、レスピーギという作曲家に対して少し興味をもって、多少あれこれ聴いてみようと思った時期がありました。実はオペラをたくさん書いていてけっこう面白いという話を聞いたりしたのですが、当時は音源そのものが入手できず、代わりに「ミクソリディア旋法のピアノ協奏曲」などいくつか聴いてみました。結果は、さして面白いとも言えない楽想と、虚仮威しなピアノ書法に辟易してしまい、それきりになってしまいました。そんな個人的な好き嫌いはさておき、「三部作」でさえ、どうも傑作というよりはイロモノ扱い、レスピーギ自身も良くて二流扱いされがちなのは、CDが生まれる以前のLP時代に、専らオーディオ機器の性能を測るためだけに作られたようなシロモノがあって、「三部作」はその恰好の素材として、チャイコフスキーの「1812年」なんかと同列の扱いをされていたという不幸な歴史のせいじゃないだろうか。それに敢えて言うなら吉田秀和に代表されるような「真面目な」クラシック愛好家の存在、昭和の頃はレスピーギといえばカラヤン、という時代にあってアンチ・カラヤンの存在、等々。だが、時代も移り変わり、総体的に聴衆の耳が肥えた現代にあって、いつまでも昭和の価値観を引きずることもあるまい。「三部作」は久しぶりに聴きましたが、本当に面白く興奮する音楽でした(もっとも最初に演奏された「噴水」は私自身の体調のせいかどうか、半分寝落ちしてましたが・・・)。
演奏も大変キレのあるもので、初めて聴く指揮者でしたがぞんぶんに楽しみました。かなりオーバーアクション系の指揮で、まぁ俗なレベルだけれど視覚的な面白さも。大フィルを聴くのも何年ぶりか分からないほどですが、なんとなくもっさりしたイメージは完全に払拭できました。時間的にはややコンパクトなプログラムだったので、「リュートのための古代舞曲とアリア」から何か一曲、いう期待もあったのですが、内容的にはけっこう腹いっぱいになるためか、アンコールは無し。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-02-20 13:00 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 細川俊夫「松風」

松風観ながら、ふたっつでったほいの~とヨサホイ節を思い出すいけない私。





細川俊夫のこのオペラを観るためにだけ上京したが、期待を上回る素晴らしさにしばし呆然。


  2018年2月17日@新国立劇場
  細川俊夫 「松風」
    松風: イルゼ・エーレンス
    村雨: シャルロッテ・ヘッレカント
    旅の僧: グリゴリー・シュカルパ
    須磨の浦人: 萩原潤
    指揮: デヴィッド・ロバート・コールマン
    演出・振付: サシャ・ヴァルツ
    管弦楽: 東京交響楽団
    合唱: 新国立劇場合唱団
    ダンス: サシャ・ヴァルツ&ゲスツ

 
オペラを観て感じる感動というのにも色々あると思うのだが、例えば涙が出るような感動というのではないし、知的想像力を刺激されてある種の興奮を感じるというのとも微妙に違う。言葉にするのは難しいけれど、「美」という抽象的観念が舞台の上で形象化するのを目の当たりにしたときの驚きとか喜び、そこに作曲者のいう「人間の原感情」、すなわちうれしいとか悲しいといった感情の一層下に横たわっている物を感じたときの惧れに近い感情、そんなこんなが一挙に押し寄せてくることでエモーショナルな情動を感じる・・・このオペラを観た感想をまとめるなら、そんな感じになるのだろうと思う。いずれにしても大変優れた舞台であり、特にオペラという形式で、音楽以外の要素がこれほど高いレベルで実現しているのは稀であり、しかもそれが少しも音楽の邪魔をするのではなくて総合的に作品を形作っているのもまた稀なことだろう。

原作はもちろん能の「松風」。そういえば能もしばらくご無沙汰しているが、このオペラを観ると、また能への興味が沸々と湧き上がる。
物語は能とほぼ同じ。在原行平が須磨に流されていたあいだに、松風・村雨の姉妹と懇ろになるが、やがて行平は帰京してすぐに亡くなり、悲嘆に暮れた姉妹もこの世に思いを残したまま亡くなる。須磨を旅する僧のもとに姉妹の霊が現れ、行平を偲んで舞う、というもの。あの有名な行平の歌、「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今かへりこむ」「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」もテキストに取り込まれている(前者が詠まれたのは須磨配流の時ではないが、このあたり史実とはかなり異なるようだ)。
オペラのほうは、配役は能と同じだが、舞台では終始多くのダンサーたちが踊っている。コレオグラフィック・オペラと題されている通り、それはバレエというよりコンテンポラリーダンスに近いものだろうが、その方面の素養が全くない私にも見事だと思わせる完成度。また舞台からピットへ、また舞台へと小規模な合唱が地謡、あるいはコロスさながら登場人物の台詞を繰り返し、補う。囃子に相当するオーケストラは、ことさら和楽器を使うということはないが、舞台上の合唱が手に手に風鈴をもち、澄んだ金属音を奏でる。構成は複式夢幻能の形式通り二部に分かれ、前場は舞台上に大道具の類は一切なく(実際にはダンサーが上り下りする足場があるのだがしかとは見えない)、途中から紗が降りて煌々と照る月とともに幻想的な雰囲気を醸し出す。後場では塩屋に見立てた骨組みだけの建物が設えられ、僧の功徳により姉妹の霊が救われると、上から夥しい松葉が降り注ぐ。実に簡素な舞台だが、音楽と歌手やダンサーの振付、美術、照明の全てが緊密に組み上げられて、ため息がでるような美しさ。
音楽はまずPAで流される風や潮騒の音から始まり、断絶感なくオーケストラに引き継がれていく。いわゆる現代音楽としてのイディオムに一切の妥協はないのだが、姉妹登場の並行五度の二重唱など、耳に残る旋律もあり、馴染みがなくともすんなりと腹に入る音楽。しかし、それだけにとどまらない何物かがこの音楽にはあるような気がする。

ここで少し下世話な話になるけれど、「松風」の物語で一番引っ掛かるところといえば、行平を愛し、また愛された女が姉妹であるということ。能を観るならこの辺りの事情というのは見て見ぬふりをしなければならないのかも知れないが、中世のこととて、行平との間に間違いなく肉体関係があったのだろうと思うと何とも背徳的なお話に思えてしまう。作曲者は公演後のアフタートークで、この姉妹を女性の二面性の表現である云々と仰っていたが、そういう傍から松風の激しい舞を「エクスタシー」と表現するものだからますますあらぬ想像をしてしまうというもの。だが、後場の姉妹の歌や舞の思いがけないほど激しい表現というのは、私にはエロスの表出としか言いようのないものであった。エロスとは業(ごう)と言い換えてもよいのだろう。よくよく考えれば、邦人の作品でここまでエロスの表出を感じさせるものというのは少ないような気がするが、それこそ細川俊夫の作品がこれほど海外で高く評価される一因であると思う。一方で、この後場の松風の殆ど狂乱に達するほどの歌と舞の場面では、それまでたくさんいたダンサーが男女二人だけになり、塩屋の中で狂おしいパ・ド・ドゥーを踊る。こういった下世話な想像さえ許容する官能表現を突き詰めた先に、先ほど書いた「原感情」に対する畏怖の念が惹起されるというのは、実は大変なことであって、真の芸術というものの奥の深さを感じないわけにはいかない。私はこの稿を書きながら、己の言語表現の貧しさを嘆かずにはいられないのだが、冒頭に書いた「エモーショナルな情動」を言葉にしようと思えば、私の筆力ではこんな分析が精いっぱいといったところである。

歌手やダンサー、管弦楽について巧拙を云々するというのはもはや何の意味もないだろう。姉妹役の歌手がプロのダンサーと殆ど遜色ないほどの身体表現を行う驚きも誰しもが感じたことに違いない。初演から7年も経ってようやく、香港を含む各地での上演に遅れて、それもベルギーのモネ劇場のレンタルという形で日本初演にこぎつけたことに対して、まるで日本の国力の劣化そのものであるかのような言葉を見かけたが、これも分かるといえば分かる。しかし、私は7年遅れであろうがレンタルであろうが、この完璧な美が立ち上る舞台を観て、関係者のここに至る努力をただただありがたいと思った者である。これからゆっくりとこの日私が得た物を反芻するために、細川俊夫の作品を集中して聴いてみたいと思う。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-02-19 23:32 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その18)

昨年の紅白も家人が観るのでなんとなく目に入るだけだったんだけど、竹原ピストルの熱い声はやっぱり耳を惹き付ける。でもツイッターで感想を見てたら「うまいラーメン作りそう」ってのが一番なるほど、と思えました。





晩年の大作「彼方の閃光」を聴いていきます。

 CD25
 彼方の閃光(1991)

 チョン・ミュンフン指揮バスチーユ歌劇場管弦楽団
 1993年10月録音


この作品、ウィキペディアを始めとして、意外とネット上の情報も多いので作曲の経緯等は割愛。以前の私であれば、「若い頃の手癖で書いてる」だのなんだのと否定的な言辞を弄したかも知れませんが、「アッシジの聖フランチェスコ」と並べて何度も録音を聴き、「アッシジ」のびわ湖ホール公演に触れて圧倒的な感銘を受けた今では、大変な傑作ではなかろうかと思うようになりました。全体的な印象をまず記すと、
・晦渋なところの少ない、平明といってよいくらいの分かりやすさ。
・巨大編成にも関わらず、透明・静謐・簡素な書法。
・仰々しいサブタイトルがなくても切実に感じられる宗教性。
こんなところでしょうか。
それにしても、このところ何度も書いているように、メシアンの音楽は生演奏を聴くとかなり印象が変わる。晦渋に思えたところがすんなりと腹に入ってくる感じ。昨年のカンブルランと読響の「彼方の閃光」のコンサート、やはり行っておくべきだったと後悔頻りです。
先ほど、「平明といってよいくらいの分かりやすさ」と書いたけれど、そうはいってもメシアン独特のイディオムによる一時間を超える大作、そうすんなりと咀嚼できるものでもありませんので一曲一曲自分の備忘のためのメモを付けておきます。サブタイトルの定着した訳語は多分ないのでウィキを参照したが、明らかな誤訳など適宜修正しました。


第1曲「栄光のキリストの出現」
金管のパルジファル風のコラール。初期の「キリストの昇天」を思い出させる美しさ、途中何度か長いゲネラルパウゼが出てくる。それは生涯の終りの万感の思いを想起させる。
第2曲「射手座」
弦のカンティレーナをチューブラーベルやゴングといった打楽器、弦のハーモニクス、フルートの鳥の歌などが彩る。ここにも時折長いパウゼが・・・。この弦の旋律、どこかで聴いたことがあると思っていたが、「嬰児イエズスに注ぐ20のまなざし」の第11曲「聖母の初聖体拝受」の中間部(マニフィカト)に入る直前、左手に現れる「聖母と御子の想起」Rappel de《la Vierge et l'Enfant》と記されている旋律である。生涯の終りにこうして若き日の作品の自己引用を行っているのは面白い。
第3曲「コトドリと結婚の街」
おどけた感じのスケルツォ。愉悦に満ちた鳥の声。
第4曲「刻印された選ばれし者」
大小のゴングの鳴り響く中、木管による錯綜したアンサンブル。わずか2分強、晦渋という訳ではないが、複雑なリズムの重ね合わせは音によるスコラ神学と言いたくなる。若い頃からこの晩年まで、こういった複雑さもまたメシアンの神髄と思わせられる。
第5曲「愛にとどまる」
まどろみのように甘い官能的な音楽は「トゥーランガリラ」の「愛の眠りの園」を連想させるけれど、何かが決定的に違う。それは音楽の純度に関わる何かだが、まだ私の中で言語化していかない。何度か長い長いゲネラルパウゼ。
第6曲「7つのトランペットと7人の天使」
様々な打楽器とトロンボーンのユニゾン。大太鼓の三回ずつの連打が非常に特徴的。最近はほとんど使われないが御稜威(みいつ)という言葉を思い浮かべる。
第7曲「そして神はすべての涙をぬぐい去り給う」
高い弦のトリル、木管の優しい響きとホルン、鳥の歌。メシアンのたどり着いた癒やしの世界。
第8曲「星々と栄光」
タムタムと低音楽器の晦冥の響きに光が差すような金管のスケルツァンドなパッセージ。闇と光の絵画的表現。この作品、大半の楽章はとてもシンプルな作りをしていて、若い頃の(たとえばトゥーランガリラのような)過剰感はない。ただこの第8曲と第10曲はたくさんの素材がさまざまな楽器の組み合わせでめまぐるしく現れる。だが巨大オーケストラをトゥッティでならす箇所は随分少ない。前後の楽章にくらべるとごてごてと複雑な構成に聞こえるが全体の中にあって違和感がない。これと次の第9曲は、私には殆ど「アッシジの聖フランチェスコ」のスピンオフ作品であるかのように思えます。
第9曲「生命の樹の鳥たち」
木管群による様々な鳥たちが鳴き交わす。
第10曲「神の道」
弦の半音階上昇と金管による神の栄光。第8曲と同様、多彩な楽想が詰め込まれているにも関わらず、全体のシンプルで静謐な印象を壊さずに収まるところに収まっているという印象を受ける。
第11曲「キリスト、楽園の光」
優しく美しい弦楽合奏で、第1曲とのシンメトリーを成しながら穏やかに全曲を終わる。
(この項続く)

by nekomatalistener | 2018-02-15 22:57 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)