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メシアン 「鳥のカタログ」全曲演奏会

早朝家を出るとき、「かえりはさむそうや」と呟いたら家人に「え?むかいおさむさん?」と言われたことある。一瞬アナグラムかなと思ったけど全然違う。





京都のカフェ・モンタージュで「鳥のカタログ」全曲演奏会。関西人はこの町なかのカフェを誇りに思っていいと思う(京都人からは「関西」で一括りにすんな、と言われるかも知れんが)。

 2018年2月21日@カフェ・モンタージュ
 メシアン 「鳥のカタログ」
  第1巻 
   1.キバシガラス
   2.ニシコウライウグイス
   3.イソヒヨドリ
  第2巻
   4.カオグロサバクヒタキ
  第3巻
   5.モリフクロウ
   6.モリヒバリ
  第4巻
   7.ヨーロッパヨシキリ
  (休憩・入替)
  第5巻
   8.ヒメコウテンシ
   9.ヨーロパウグイス
  第6巻
   10.コシジロイソヒヨドリ
  第7巻
   11.ノスリ
   12.クロサバクヒタキ
   13.ダイシャクシギ

入口で渡された曲目チラシにはフランス語によるタイトルのみで和名表記がなかったので一応挙げておきました。WikipediaもPTNAピアノ曲辞典も間違いだらけなのでご参考まで。
作品について思うところは以前このブログでも取り上げているので繰り返しませんが、(先日「アッシジの聖フランチェスコ」公演の備忘でも書いたように)メシアンの作品は舞台やリサイタルを実際に体験して初めて分かることがたくさんあるように思います。倍音の響きとか、私の低スペックな耳ではよく分かりませんが、意識的でなくともCDでは聴き取れないレベルの音を体験していたのだろうと思います。
細部に関しての個人的な思いとしては、「アッシジ」体験後にこれを聴くと、チョウゲンボウの鳴き声がとても懐かしく、昔の友人に出会ったような感じをうけたのが新鮮でした(第8曲の冒頭近く、Faucon crécerelleと書かれている部分)。あるいは後年主役級に成長した役者の、若い頃に端役でちょろっと舞台に出てる映像を観たときのような感じとでもいえばよいか(「アッシジ」のチョウゲンボウの声はとても重要な役回りですからね)。

木川貴幸の演奏については、前日のドビュッシーの演奏評とほぼ同様の感想を持ちました。良い点は、楽器がクリアによく鳴っていて、どんなに強音でも音が割れたりしないこと。物足りないところはところどころメカニックが不足していると思われること(楽器そのものによる音色のムラや、おそらく高音域のアクションに難があることは勘案すべきだろうと思うが)。例えば第2曲目の中に出てくるニワムシクイや第7曲のヨーロッパヨシキリなどの、気の遠くなるほど長い囀りには、もっとキレの良い指回りが必要なように思います。でもそれで退屈したとかいうことは全くなくて、これほどの大曲(この日は正味3時間15分ぐらいか?)を眠くもならず楽しく聴き通せたのは何と言ってもピアニストの力のおかげであろうと思います。こんなことを言うのはアレだが、大した儲けにもならないだろうに、どうしてこんな苦行にも似た演奏活動をするのか、訝しく思うと同時に感謝や尊敬の念も抱かざるを得ないのでした。
備忘として書いておくが、演奏はすべて楽譜を見ながら。第7曲のブレスなしで延々と囀りが続くところについては、楽譜とは別に何ページ分かをまとめて複写したと思われる大判の紙を適宜譜面台に置いて弾いておられました。

***

余計なことですが、リサイタルの後半に隣に座ったバカ女、演奏始まってまもなくスマホの操作。照明を落とした中ではとても気が散るし、あろうことかスマホにチリチリ鳴る鈴を付けとる。後期高齢者がよくやるけど、こいつはまだ30代後半くらいだろう。それが3回続いたのでちょいと睨んだら、今度はトートバックの中でごそごそ操作してました。鈴は鳴らんが光は漏れる。それを10分に一回くらい。これって躾の問題なのか、それとも一種の依存症なのか。正直音楽を聴く環境としては最悪でした。普通のコンサートホールと違って、このカフェは客層が良いので安心してましたが、一人バカがいるだけで台無しですわ。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-27 00:42 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ドビュッシー 12のエチュード(全曲)

ロヒンギャについて議論するとき、気を付けないとついデロンギって言ってしまう。ちなみにデロンギのヒーターは小型でもよく暖まるからいいんだけど(いや、よくない)。





ドビュッシーの12のエチュード、私は大好きな曲ですがリサイタルで取り上げられる機会が少ないのがとても不思議。気を付けて調べればあちこちで弾かれているのかも知れませんが、私が生で聴くのは、かれこれ30年ほども昔、御茶ノ水にあったカザルスホールで岡田博美が弾いたのを聴いて以来。こんな調子だと生きてる内には次の機会はないかも。


  2018年1月20日@カフェ・モンタージュ
  ドビュッシー 12のエチュード
  Pf: 木川貴幸


さっき「大好きな曲」と書いたけれど、ドビュッシーの作品の中では第一次大戦前後に作曲されたこのエチュードとバレエ「遊戯」あたりが最も先鋭的かつ洗練されていて、文句なしの傑作という感じがします。
話をピアノ曲に限って私的なことを書くと、私はどうもドビュッシーの作品は、聴くのはいいとして自分で弾くのは苦手。「映像」とか「前奏曲集」とか、例えばミケランジェリの録音なんかを聴くと本当に凄い作品だと思うが、自分で弾くとなるとスッカスカの音になるような気がして、そこそこ難度の高い書法を克服しようという気には到底なりません。ただ、12のエチュードだけは、ごく一部でもいいからいつかは練習してみたいと思っています。中でも「対比音のための」、「組み合わされたアルペジオのための」あたり。本当に天才にのみ書き得る音楽だと思います。
エチュード繋がりでもう少し雑談を書くと、前にどこかでドビュッシーのエチュードの3年ほど前、1912年に書かれたスクリャービン「3つのエチュードOp.65」の面白さについて書いたことがあります。スクリャービンは今やアマチュア含めて猫も杓子も弾く状況になってますが、このOp.65はまだまだマイナーな部類でしょう(技巧的にかなり過酷なせいかも)。でも9度や7度のためのエチュードなんて、ちょっと他に思い当たらない。ドビュッシーと並んで、この時代のアヴァンギャルドと呼ぶに相応しいと思います。ドビュッシーの翌年1916年のシマノフスキー「12のエチュードOp.33」やバルトークが1918年に書いた「3つのエチュードOp.18」なんかも実に面白い。特にバルトークは彼の作品の中でも最も急進的・無調的、しかも10度の音程を楽に掴めなければ絶対に弾けない超絶技巧で書かれています。こうしてみると1912年から18年という比較的短い期間に、ピアノのエチュードという形でこれほど先鋭的な作品が次々に書かれたというのは、今から振り返るとものすごい時代だったと思います。

さて肝心の当日の演奏ですが、よく伸びる美しい音のピアニストで私は大変楽しく聴きました。ニューヨーク在住のまだまだ若手で、カフェ・モンタージュで3年ほど前にブーレーズの全ピアノ作品の演奏をしている(私は聴きそびれてしまいましたが)。ストレスなく楽器を鳴らすテクニックは十分、音色とアーティキュレーションはどちらかと言えば鋭角的で、作品の本質にはよく合っていると思いましたが、指回りというかメカニックは意外にもたつくところがあります(1905年製のアンティークなスタインウェイのコントロールの難しさがあるのかも知れませんが)。私は大昔に聴いた岡田博美の目の覚めるような演奏が未だに記憶にあるので、評価が辛めになってしまうのだが、例えば「5本の指のための」や「8本の指のための」にはもっとシャープな切れ味を求めてしまう。あるいは「和音のための」では、ミスタッチを少なくするために、音楽の勢いが若干削がれてしまったようにも思います(正確に弾くのがどんなに困難かは分かっているつもりだが)。最も物足りないのは「対比音のための」で、重層的・立体的なソノリティの構築という点では非常にもどかしい思いをしました。全曲の中でも白眉というべき楽曲で不満を感じさせたのは少々残念でした。とはいえ、この翌日にメシアンの大作「鳥のカタログ」が控えている中での意欲的な選曲のリサイタルだったわけで、機会があればまた聴いてみたいと思いました。
翌日のメシアンについては稿を改めます。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-25 01:01 | 演奏会レビュー | Comments(0)

Olivier Messiaen Complete Editionを聴く(その17)

崎谷明弘ってすごいピアニストだと思うけど見た目がタイムマシーン3号の関太君みたい。





このシリーズもそろそろ終盤に入ってようやくトゥーランガリラ交響曲にたどり着きました。


 CD20
 トゥーランガリラ交響曲

 イヴォンヌ・ロリオ(pf)、ジャンヌ・ロリオ(ondes Martenot)
 チョン・ミュンフン指揮バスチーユ歌劇場管弦楽団
 1990年10月録音


前々回の投稿で、11月の初めから2週間ほど入院していたことを書きました。入院中はとにかく暇なもので、ヘッドフォンで「アッシジの聖フランチェスコ」と「トゥーランガリラ」を繰り返し聴いてましたが、おかげで「アッシジ」のほうはともかく、「トゥーランガリラ」のほうはすっかり食傷してしまいました。メシアンの代表作であることに異議を唱えるつもりは毛頭ありませんが、せいぜい「初期の最後を飾る大作である」くらいの見方が妥当ではないかと考えるに至りました。

*****

笹崎譲さんのツイッターにこんなのがありました。

笹崎・(T)・譲
@udupho
教えてもらったのだが、Messiaenトゥーランガリラ交響曲の「立像の主題」の立像って、おち○○んのことで、「花の主題」っ(ピーーーーーー)
18:13-2018年1月5日

どこまで信じていいのか分かりませんが、フィルハーモニア管弦楽団のHPにもこんな記載がありました。

These contrasting themes, both presented in the first movement, symbolise masculine and feminine elements ー the phallic 'statue' and the yielding 'flower' ー, which are transformed and intertwined in the third main cyclic theme,the 'theme of love'.
http://www.philharmonia.co.uk/paris/essays/50/turangalila-symphonie

まぁカトリック的な「愛」とは随分違うなぁと思っておりましたが、これなら「愛の主題」というより「性愛の主題」と訳した方が良さそうです。

*****

いくら入院中ヒマだったとは言え、全10楽章を聴き通すのはけっこうしんどいものです。そこで、邪道ではあるが、適当に抜粋して聴くことも多かったのですが、こんな聴き方をするとそれはそれで面白かったのでメモしておきます。
まず、よく知られている通り、第1・5・6・10楽章が全体のフレームを形作っており、その間に「愛の歌」と「トゥーランガリラ」のシリーズが交互に挟まっているという構造になっています。
そこでまず、フレームの第1・5・6・10楽章だけを抜粋して聴くと、序ースケルツォー緩徐楽章ーフィナーレ、という伝統的な交響曲という感じがする。仰々しくていかにもメシアン、なのだが、正直あんまり面白くない。
次に第2・4・8曲の愛の歌シリーズだけを聴くと互いによく似ていてちょっと面白い。スケルツァンドな部分と、ねっとりとした旋律の交代、後者はスクリャービンならさしずめestaticoとでも表記したであろう官能的な旋律ですが、どことなくハリウッド的と言いたくなるような通俗的な感じも。この作品を評価しないブーレーズは、こういうところを嫌ったのかもしれません。
最後に第3・7・9曲、「トゥーランガリラ」のシリーズを続けて聴くと、これが滅法面白い。全曲通しで聴くと何となく埋没しがちな楽章ですが、よく聴けばオーケストラ版「カンテヨージャーヤー」の趣もあって、これはちょっとした発見でした。

*****

チョン・ミュンフンとロリオの演奏、丁寧だし精緻でもあるが、ロリオのピアノは良く言えば中庸、悪く言えば若干の年齢的な衰えを感じさせ、チョンの指揮もロリオに気を遣ったのかピアノに寄り添うあまり勢いを犠牲にした感もある。ロリオといえばメシアン、それもやや歳とってからの録音しかご存じない方も多かろうと思いますが、若き日のブーレーズの第2ソナタの録音(1961年頃か。ブーレーズ&ドメーヌ・ミュジカルの10枚組CDに入っている)を聴くと、本当に凄いピアニストだと思う。もう少し若い頃に録音してほしかったな、というのが偽らざる感想です。

なんか今回は随分手抜きっぽいが、まぁいいか。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-08 00:13 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)

三輪眞弘+前田真二郎 モノローグ・オペラ「新しい時代」

森友学園をアダ・マウロみたいな感じで読んでみる。





三輪眞弘の「新しい時代」については、2016年12月25日にこのモノローグ・オペラからのスピンオフ作品を集めた演奏会を聴いていますので、作品の書かれた背景などについて三輪氏本人が話していた事など、その時の備忘を参照されたい。
http://nekolisten.exblog.jp/23520158/


 モノローグ・オペラ「新しい時代」
 2017年12月16日@ザ・フェニックスホール
 作曲・脚本・音楽監督: 三輪眞弘
 演出・映像: 前田真二郎

 14歳の少年信者: さかいれいしう
 儀式を司る4人の巫女(キーボード): 岩野ちあき、木下瑞、日笠弓、盛岡佳子
                   (大阪大学『記憶の劇場』プロジェクト受講生有志)
 信者1(映像オペレーター): 古舘健
 信者2(音響オペレーター): ウエヤマトモコ
 信者3(ミキシングオペレーター): 大石桂誉


明確なストーリーがあるかと言えば若干微妙ながらも、14歳の少年がネット空間の神に自らを捧げて自死する、という風にまとめられるだろう。1996年までドイツを拠点に作曲活動をしていた三輪氏にとって、95年と97年に起こった二つの事件(地下鉄サリンと神戸連続児童殺傷事件)がどれほど痛切であったかは想像できなくもないが、私はぼんやりと目の前で生起している物事を見ながら、日本におけるネットの黎明期というのはもう少し後、たぶん1998~99年頃じゃなかったかな、などと考えていました。後で調べてみたら2ちゃんねるの創設がその頃なのであって、いわゆるオタク達はもう少し早い時期、まさに95年から97年頃にはもうネットの世界に進出していたのかも知れません。こんなことをグダグダと書くのも、個人史としてはついこのあいだの事であるのに、なんとも記憶があやふやになっていること、あれほど世間を震撼させた事件であるのに、今となっては歴史の一コマに収まってほとんど何のアクチュアリティも感じられないこと、それらを題材にしたオペラというものが、もの凄い速さで劣化、陳腐化していくこと、などを考えざるを得ないから。そして、昨年の12月16日の出来事をこうして翌年1月6日に記そうとして、早くもディティールについては忘却の彼方に沈もうとしていることに愕然としている自分がいる。

開演の少し前に会場に入ると、舞台の左前方のスクリーンに丸い幾何学的な模様が投射されてゆっくりと回転しています。舞台奥のガラスの向こうには大阪のビル群。カーテンが降りて照明が落とされると、4人の巫女と3人の信者、少年が登場、少年の歌に続いて4人の巫女のキーボードによる「言葉の影、またはアレルヤ」が始まります。30分ほども続くこの場面で、何度も合成音声による「ア・・レ・・ル・・ヤ・・」や「yes、oui、はい、ja」といった囁きが立ち上る。その間、前のスクリーンには幾何学模様や「yes、oui、はい、ja」の言葉、キーボードのスコアの一部などが映し出される。
続く場面で少年があるいは無伴奏で、あるいはキーボードの簡素な伴奏で歌う。曲調はどれもシンプルでミニマル風のもの。ごくわずかな音楽的素材が繰り返されてそれなりの時間に拡張されているといった趣であって、2016年に聴いたスピンオフ作品集のほうが遙かに音楽的に多彩な感じでした。といっても決して退屈したという訳ではなくて、音楽作品としてやはり面白い。先にも書いたとおり、物語としては同時代的アクチュアリティを失ってしまったとしか私には思えなかったのだが、音楽のほうはシンプルであるが故にしぶとく生き残りそうな気配がする。
ちなみに2016年の時は「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代」が最も面白かったのだが、こちらのオペラにはそのままの形では出てこない。若い人達とカルトあるいはネットの問題については、この「幽霊」のほうがよほどリアリティを伴って作品の中に捕らえ得ていたように思います。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-07 00:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)

メシアン 「アッシジの聖フランチェスコ」 びわ湖ホール公演

京阪のCMで、尻尾を落とし物と間違われた着ぐるみの狐さんが「しっぽですぅ~」ってやつ、なんか言い方がいけずそうで、あゝ京都やなぁと思います。





ブログって寿命みたいなのがあって、ある日突然更新が止まってそのまま休眠というブログがけっこうありますね。このブログも、なんとなく書くのが面倒といった理由で随分更新してませんでしたが、世の中の役には立たずとも、かつて行った演奏会の詳細を思い出すよすがとしてはそれなりに役立つということで、記憶が薄れてしまう前に少しでも記録しておきたいという気にようやくなった次第。実は11月の初めに大腸憩室出血で2週間ばかり入院し、楽しみにしていたカレッジ・オペラハウスの「偽の女庭師」公演を聞きそびれてしまいました。メシアンのほうは退院後1週間たらずの病み上がりながらも何とか間に合いました。これは本当に行けて良かった。私の鑑賞歴の中でも5本の指に入る素晴らしさでした。


 2017年11月23日@滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール
 メシアン 「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式)

  天使: エメーケ・バラート
  聖フランチェスコ: ヴァンサン・ル・テクシエ
  レプラ患者: ペーター・ブロンダー
  兄弟レオーネ: フィリップ・アディス
  兄弟マッセオ: エド・ライオン
  兄弟エリア: ジャン=ノエル・ブリアン
  兄弟ベルナルド: 妻屋秀和
  兄弟シルヴェストロ: ジョン・ハオ
  兄弟ルフィーノ: 畠山茂
  合唱: 新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル
  合唱指揮: 冨平恭平
  オンド・マルトノ: ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー、大矢素子、小川遥
  管弦楽: 読売日本交響楽団
  指揮: シルヴァン・カンブルラン


東京での2公演も含め、今回のカンブルラン/読響の素晴らしさについては、夥しいツイッターやブログなどで感想も書き尽くされたと思うので、私のほうはあくまでも個人的な備忘録としての記録にとどめたい。
メシアンのこの異形のオペラについては、昨年夏にケント・ナガノのCDを聴いた感想をアップしましたが、その時の感想を一言でいえば「聖痕の場はようわからん」というものでした。だが、演奏会形式とはいえ簡単な所作を伴った舞台で体験すると、もう理屈を超えて心を揺さぶられた、としか言いようがない。どなたかがツイッターで仰っていたが(誰のものだったか、今となっては探しようがない)、メシアンはホールに満ちる倍音の響きまで計算してスコアを書いている、といった指摘をされていました。そんなに高性能な耳の持ち主ではない私には、真偽のほどは判りかねるけれど、CDのような音源で聴くだけでは絶対に判らないことがあるということだけは確かだと思います。かつてあれほど晦渋に思えた聖痕の場の合唱だというのに、これこそメシアンが已むに已まれず書いた凄絶な音楽であって、この場を経て本当の意味でフランチェスコは聖人となったのだろうと心から納得させられる思いでした。これはもう、メシアンのメチエとか音楽語法のレベルではおそらく解析できず、ただただ虚心に音楽に向き合うことでしか体感できないものかも知れません。さっき、つい筆がすべって「私の鑑賞歴の中でも5本の指に入る」と書いたけれど、実際ここまで対象となる音楽に対して「理屈はともかく、今私はこの音楽を体得した」と思えた演奏会はそうそうあるものではありません。これまで何度も、メシアンの「傑作の森」は1960年代それも前半、「クロノクロミー」から「天の都市の色彩」あたりの諸作であり、「アッシジ」を含む晩年の作品はどちらかといえば過去の回想と手癖だけで書かれたかの如く否定的なことばを書いてきました。だが、今回の「アッシジ」を体験した今、全面的にこの評価は改めなければならないだろうと思います。少なくとも「アッシジ」と「彼方の閃光」はメシアンの辿り着いた極北ともいうべき音楽だと考え始めています。

カンブルランと読響の素晴らしさについて、コンサートゴーアーでもなければ、もしかしたらクラオタですらない私が何を書くことがあろうか。だが、マッシブな響きにおける音圧の物凄さもさることながら、響きがどんなに薄くなっても張り詰めたような緊張感が持続することは書きとめておきたい。「彼方の閃光」もそうだけれど、とんでもなく大きな編成のオーケストラを用いながらも、作品の大半はとても薄い響きで書かれているのがメシアン晩年の特色といえると思いますが、こうして「アッシジ」の演奏でそれを目の当たりにすると、それこそフランチェスコとその兄弟の生活さながら、清貧の果ての豊かさといったものを感じないわけにはいきません。
歌手の中では、フランチェスコを歌ったテクシエが素晴らしい。その声を「慈愛に満ちた」と表現するのは如何にも紋切り型という気がするが、実際そうだから仕方がない。それに加えて、実に生身の人間らしい弱さまで兼ね備えて大変な当たり役だと思います。鳥たちへの説教の場面、フランチェスコと兄弟マッセオとの対話は、この生真面目なオペラの中にあっては一種のスケルツァンドな面白ささえ感じたが、よくよく考えるとこの音楽でそういった面白さを感じるというのは実は大変なことだろう。テクシエの声のもつ人間臭さのなせる技だろうと思います。
天使を歌ったエメーケ・バラートも良かったと思います。正に天上の声。傷、というのが言い過ぎなら一瞬の危うさ、みたいなものが無くはなかったが、それがまったく気にならないほど美しい声でした。レプラ患者役のペーター・ブロンダーも張りのある声で、世を呪う場面から奇跡を経て歓喜の絶頂へという振幅の大きな役を表現し尽くしていました。レオーネ役のフィリップ・アディスはこれら3人と比べると、やや見劣りがします。声量もそうだが、最初の場面の特徴ある増4度が今ひとつ決まらず、音程がぶら下がり気味となるところなど。だが、続くテクシエとのゆったりとした対話は、いかにも師と弟子との対話のように聞こえて、暫く経つとこれはこれでいいのかなと思いました。他の兄弟達も過不足なし。
全曲のなかで重要な位置を占める合唱の素晴らしさも、実際に聴いた多くの方が指摘していることだが、やはり書き留めておきたい。例の聖痕の場での神の声の合唱は、本当に作品の真価を知らしめるほどのパフォーマンスであったと思う。私は、冨平さんの指導下の新国立劇場合唱団ということで、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」の時のパフォーマンスの素晴らしさを思い出したが、「アッシジ」の幕切れの合唱の凄さは、それをも凌いでいたかも知れません。全曲が終わってカーテンコールの間、私、すこし腰が抜けてました。

ほとんど完璧といってもよい今回の公演で、唯一水を差したのが字幕の拙さ。あれはなんでしょうね、グーグル翻訳のほうがマシなくらい。細かいことだが、「チョウゲンボウ」をなんでわざわざ一般的とはいえない「マクソ鷹」と訳すのか。後で調べてみたら、昔(江戸時代以前)、ノスリやチョウゲンボウなど、鷹狩りに使えない猛禽を馬糞鷹と呼んだらしいのだが、このオペラでGheppioをマクソ鷹と訳す理由は私にはまったく理解できない。また、聖痕の場での神の御言葉、確かに日本語にするには大変難解な歌詞ではあるが、今回の字幕はほとんど日本語としての体を成してませんでした。普通、こういった台詞を訳すのなら、せめてヨハネの黙示録くらいは目を通すはずだし、そうしていれば多少生硬ではあってももうちょっとマシな日本語になっていたと思うのだが。あまりこういった指摘は書きたくはないのだが、今回は酷すぎたので備忘として書いておきます。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-04 23:44 | 演奏会レビュー | Comments(5)