1 イーブイが進化したらヤックルになるんだよ。 東京で二期会の「トリスタンとイゾルデ」を観て早一週間以上経ちました。いつもなら大体鑑賞後2、3日の内には備忘記事をアップするのですが、今回は少し身辺が忙しかったのと、演奏についても演出についても何となくまとまった言葉にならなくて困っておりました。あまり先延ばしにしてもますます書くのが億劫になるので何かしら言葉にしてみます。 2016年9月17日@東京文化会館大ホール ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 トリスタン: 福井敬 マルケ王: 小鉄和広 イゾルデ: 池田香織 クルヴェナール: 友清崇 メロート: 村上公太 ブランゲーネ: 山下牧子 牧童: 秋山徹 舵取り: 小林由樹 若い水夫の声: 菅野敦 合唱: 二期会合唱団 管弦楽: 読売日本交響楽団 指揮: ヘスス・ロペス=コボス 演出: ヴィリー・デッカー 「トリスタンとイゾルデ」というオペラに対しては、初めてカール・ベームのバイロイト・ライブのLPを聴いた高校生の頃から、「本当にこれを神ならぬ生身の人間が書いたのだろうか?」という思いを持ち続けています。特に第2幕の長大な二重唱。こんな音楽がこの世に存在すること自体、私には奇跡のように思えてなりません。爾来ワーグナー熱は治まったりぶり返したりの繰り返しですが、トリスタンだけはなんだかんだ言いながら折に触れて聴きなおしてきました。まったくとんでもない音楽だと聴くたびに思います。 関西住まいではなかなか実演に触れるチャンスがなくて、これまで舞台を観たのは2008年7月のパリ国立オペラの来日公演と2011年1月の新国立劇場公演のみ。前者は全裸の男女の映像が流れ続ける演出のおかげで気が散ったのか、何ともとりとめのない印象しかありません。後者はデイヴィッド・マクヴィカーの演出はやや不発気味なるも大野和士の指揮が素晴らしく大変感動しました。そんな訳で、これまで演奏と演出共に十全の舞台を観たという手ごたえはなく、二期会ブランドにはそれなりの信頼を置いているものの、どこまで心に響くものになるだろうかと半ば期待し、半ば恐れながら聴いたという次第。 今回のもやもやの理由の大半はやはり演出だろうか?読替えというほどドラスティックでもないがトラディショナルという感じでもない。背景は第1幕が様式化された波の絵、第2幕は森の樹々、第3幕は墨をぶちまけたような抽象的なデザイン。それが衝立のような2枚の壁に描かれて、その隙間から人物が出入りする。斜めに傾いだ舞台には全幕通して一艘の小舟が置かれ、歌手はその中で、あるいはその周りで時に櫂を手にして歌う(それも公園の池のボートを漕ぐような安っぽいプラスチックのオールにしか見えない)。衣装も最初は時代・国籍ともよく分からないものが、第3幕はごく現代的な衣装。クルヴェナールはまるで新橋の飲み屋にいる、ちょっと規律の緩い会社のサラリーマンみたい。それでも第2幕の途中まではそれなりに伝統的な所作が続くのだが、マルケ王らに踏み込まれたトリスタンが短剣で己の両目を切り裂き、イゾルデもそれに倣うというショッキングな結末。第3幕でトリスタンは布きれを目に巻いて歌うが、同じく布を目に巻いたイゾルデは途中でそれを取り払い、何事もなかったかのように歌い続ける。 備忘としてつらつら書いているのだが、私にはなんとも要領を得ないというか、途中からあれこれと考えることを放棄してしまったので甚だ感興の湧かないまま過ごしてしまった感じがします。ディティールに込められた意味がそれなりにあるのかも知れませんが、もはや興味をなくしてしまいました。こういうのって、わざわざ外国から演出家を招聘する必要があるのだろうか? 良かった点はまずイゾルデの池田香織が素晴らしかったこと。私は以前にも書いた通り、びわ湖オペラの「死の都」のブリギッタを聴いて素晴らしい歌手だと思っていましたが、メゾソプラノでやってきた歌手がどこまでイゾルデを歌えるのか、正直よく分かりませんでした。ですが豊かな中低音域だけでなく、高音域もまったく絶叫することなく音楽的に歌えることにまず驚き、しかも第1幕より第2幕、第2幕より第3幕とどんどん調子が良くなることに心底びっくりしました。正に向かうところ敵なし、といった風でした。 トリスタンの福井敬については、第3幕の前に体調不良の為もしかしたら途中でカバー歌手が歌うかもしれないとのアナウンスがあったものの、瀕死のトリスタンが歌う第3幕には寧ろプラスに働く面もあったようで、結果的になんら支障なく歌い切りました。これも以前このブログで「ダナエの愛」のミダス王が素晴らしかったという話を書きましたが、直情的なヘルデン役に関して日本では右に出るものがないと思います。ディティールがすこし雑に感じるところもありましたが、体調が悪いという印象はまったくありませんでした。 ブランゲーネの山下牧子も素晴らしく、第2幕では主君のためとはいえ取り返しのつかぬことをしでかしたブランゲーネの悲しみが切々と伝わりました。これは脇役としては驚くべきことだと思います。クルヴェナールの友清崇は、第1幕のやや浮ついた歌唱には少々疑問符がついたものの、第3幕はとても良かったと思います。生硬な演技にはちょっと参りましたが。マルケ王の小鉄和広は苦悩する王にしては表現が軽く、第2幕の長いモノローグを私は少し持て余しましたが、第3幕はようやく深々した声が聴けて悪くありませんでした。他の脇役はまずまず。 ヘスス・ロペス=コボスの指揮は深い息遣いを感じさせてよかったと思いますが、ベーム盤で育った世代としてはもっとうねるような官能的な響きがあるんじゃないか、と心のどこかで無いものねだりしてしまう。読響は大健闘だと思いますが、私は東京文化会館の1階席で聴き、これはやはり2階席のほうが良かったかな、とすこし後悔していました。それにしても日本のメジャーオケはことワーグナーに関してはまずハズレなく聴けるというのも、良い時代ではあります。つらつら書いた通り、全体としてはなんとも微妙な舞台でしたが、日が経つにつれてやはり観ておいてよかったと思っています。 (この項終り)
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by nekomatalistener
| 2016-09-27 00:33
| 演奏会レビュー
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某業界紙にあるメーカーの「リケジョ向けイベント」の記事が載っていたが、今時リケジョて、「ナウなヤング」くらい読んでて恥ずかしいな。しかもこれ、理系女子を対象にしたイベント「理工チャレンジ(リコチャレ)」の一環で、リコチャレっつーのは「内閣府や経団連などが共催、企業や大学の協力で展開」しとるそうな。リコチャレ(笑)。もう理系女子は怒ってもいいと思うの。 引き続き60年代の作品を中心に。 CD26 ①ミのための詩(管弦楽版)(1937) ②鳥たちの目覚め(1953) ③七つの俳諧(1962) ①フランソワーズ・ポレ(Sp) ②ピエール=ローラン・エマール(Pf) ③ジョエラ・ジョーンズ(Pf) ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団 ①1994年11月録音②③1996月2月録音 指揮者としてメジャーになってからのブーレーズの特色が、良くも悪くもあからさまに現れ出たような一枚。若いころのブーレーズであれば、初期作の「ミのための詩」など決して取り上げなかったような気もしますが、大成した指揮者として「トゥーランガリラ」だけではないメシアンの全体像をブーレーズなりに示そうとしたのでしょうか。いずれも極限まで音を磨き上げ、ひたすら美しい響きを追及したといった趣だが、ブーレーズが若いころにアンサンブル・ドメーヌ・ミュジカルと録音した「七つの俳諧」と聴き比べてみると、ほとんどムード音楽のように聞えてしまうところが好き嫌いの分かれるところだと思います。といっても決して微温的というのではなくて、その完成度の高さというのは本当に素晴らしいのだけれど、旧録音のあの、生まれたばかりの現代音楽の仮借なき演奏と比べると、もしかしたら物凄く大切なものが失われているのではないかという思いを禁じえない。批判的な感想を書いたが、メシアンのスコアからこれほどの美しさを引き出すのはブーレーズの天才的な耳の良さという他ないということは強調しておくべきでしょう。辛口と思われがちな「七つの俳諧」がこれほど甘く聞こえるというのはある意味驚異的。 個々の作品について少しだけ触れておきます。 「ミのための詩」はメシアンの最初の妻クレール・デルボスのために書いた1936年の歌曲集を翌37年にオーケストラ伴奏に編曲したもの。この最初の結婚は不幸な結果に終わったけれど、この歌曲集はメシアンには珍しく思われるほど愛と優しさにあふれたもの。こういった作品も魅力的だ。比較的知名度が低く、日本語で読める文献も少ないですが、大井浩明のブログに寄せた甲斐貴也氏の解説は曲の背景を知る上で大変参考になりました。 「鳥たちの目覚め」は鳥の歌だけを素材とした20分ほどの小オーケストラのための作品。最初長いピアノ・ソロのユニゾンで一羽の鳥が啼き始め、次第に鳥が増え始めて曲の中ほどでは様々な鳥たちが目覚めて一斉に啼きだす。メシアンの作品としては辛口の部類だと思いますが、そのめくるめく啼き声には圧倒される思いがします。 大変実験的な音楽と、絵画的描写的な構図との重ね合わせ。こういった形でなければ53年の段階ではメシアンといえども鳥の歌だけの作品というのは提示し得なかったのだろう。しかしこの実験は、わずか3年後には「異国の鳥たち」や「鳥のカタログ」という傑作に結実する。そのプロトタイプとしての「目覚め」をブーレーズは録音する価値があると考えたのだろう。曲の終りがた、ピアノの高音でチチチと鳥が啼くところでふとクセナキスの「エヴリアリ」を思い出したりするのも楽しい。 「七つの俳諧」はメシアンとイヴォンヌ・ロリオが1962年に日本を訪れた際の様々な印象を7つの短い音楽にまとめたもの。第4楽章の雅楽の響きを翻案したものの他はことさら日本的な素材はないが、これは60年代の傑作群のひとつといって良いと思います。 第1曲「導入」は微かな風に反応して動くモビルを見ているような極度に抽象的な、しかも美しい音楽。本人がどういうか分らないが、例えばハリソン・バートウィッスルとか近藤譲のある種の作品に(影響とは言わないが)微かな木霊を聞く思いがする。「クロノクロミー」とも共通する、純粋に音響としての美を追求した傑作。 第2曲「奈良公園と石灯籠」。「導入」の印象のままに続けて演奏されます。作曲者が石灯籠に着目したのは、無機質だが構成と秩序の美が感じられるという点で、よく判るような気がします。 第3曲「山中━カデンツァ」。鳥の歌が現れて先のニ曲の冷たい美との対称を図る。鶯の歌がトランペットで歌われるのがめっぽう面白い。 第4曲「雅楽」。メシアンが雅楽を一旦咀嚼して再構成した響きは、雅楽のもつウルトラモダンな側面をよく捉えている。表面的でない日本の印象の内面への取り込みを感じます。 第5曲「宮島と海の中の鳥居」。ことさら描写的な音楽という訳ではないが、なめらかな金管の旋律と鳥の声、そして絵画的なタイトルによって、どこかクリスチャン・ラッセンのイラストみたいにつるつるした感じが無きにしも非ず。一歩間違えば表面的かつ俗悪な印象すら与えるリスクを孕みながらも、辛うじて抽象的な美として存立しているところがメシアンのメシアンたる所以か。 第6曲「軽井沢の鳥たち」。「クロノクロミー」、そしてこの「俳諧」において、鳥の声は自然の描写といったレベルを遥かに超えて、音響的素材として抽象的な知的構造物のいわば建築資材としての役割を果たすようになったように思う。メシアンは同じ事を何十年もやっているようでいながら、鳥のカタログから更に高みに昇ったのではないか。 第7曲「コーダ」。「導入」とほぼ同じ素材を用いてシンメトリカルにこの楽曲を締めくくります。 (この項続く)
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by nekomatalistener
| 2016-09-11 19:05
| CD・DVD試聴記
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