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前の職場の現場にいた、コワモテ・スキンヘッドのバルキーな大男。ある日出張(黒の背広、どうみても堅気ではない)で淀屋橋から枚方まで京阪電車に乗っていて、三つくらい離れた吊革に両手をいれたところ抜けなくなった。電車はそのまま枚方を通過して終着駅の京都河原町。捕獲されたゴリラ状態で、怪訝な顔で下車する乗客を全員見送った後、駅員に「お客さん、何してまんねん?」と爆笑されながら開放してもらいましたとさ。
この連載のその2で、練習番号4まで詳細な音楽構造を分析しました。その結果、pseudo-tonalな部分とpolytonalな部分の交代が見られること、非常に特徴的な音形figure1とfigure2を確認しました。練習番号5から暫くの間、イ長調とコントラバスのト調とのpolytonalな音楽にfigure1と2がヴァイオリンを含む各楽器に受け渡され、練習番号8からはバス・ドラムとスネア・ドラム、タンバリンも参加しておもちゃ箱をひっくり返したような賑やかなイ長調の音楽が繰り広げられます。コントラバスの刻みと語りの後、練習番号10からはpseudo-tonalな音楽と打楽器が同様に賑やかに続きます。譜例は練習番号11から12のコルネットとトロンボーンのパートです。 ![]() もう音程の詳細を書く必要はないと思います。ここではコントラバスのG-Dの刻みの他は調性を感じさせないようコルネットの旋律は捻りを加えられ、トロンボーンは3度の連続を避けつつディアトニックな進行に逆らうように後付けされているのは明らかです。練習番号10からの打楽器のパートも面白いので譜例を挙げておきます。 ![]() ヘ音記号は気にしないでください。一番下のGがバス・ドラム、Dがスネア・ドラム、Aがタンバリンです。聴いていると関節が外れそうな乱れっぷりですが、よく見ると最初の八分休符を挟む4つの音からなるグループ(これをaとします)、次の休符を挟まない6つの音からなるグループ(b)、同じセットがもう一度、そして次の休符を挟む6音からなるグループ(c)から出来ています。練習番号12までの打楽器パートを図示すると、a-b-b-c-c-b-b-c-c-b-bという順に並んでいます。これがいわゆる「制御された混乱」です。短い部分ですからすぐにも構造が判りますが、ブーレーズが「春の祭典」の精緻な分析で発見した数学的な秩序も同様のものだと考えて良いと思います。だからどうした、と訊かれると困りますが、聴く者に生理的快感を与える、この一見暴力的なリズムにも実は単純な、ある意味経済的な原理が隠されているのは非常に興味深いことだと思われます。この後、行進曲は弦の刻みとファゴットのソロに乗せて語りが入り、短いコーダを全員(と言っても7人ですが)が奏して終わります。行進曲全曲の管楽器パートの構造を練習番号毎にまとめると下表のようになります。 ![]() またしても「だからどうした?」と言う声が聞こえてきそうですが、これらの要素の組み合わせ、配列の妙、これを私の耳は洗練と受け止めます。本当にごく僅かな要素からこれでもか、というくらい豊穣な音楽が組み立てられています。私は要素という言葉を用いて動機という言葉を排していますが、動機はしばしば対立する二つの主題を生成し、その対立を経て止揚に至るという弁証法的な展開を辿るのに対し、ストラヴィンスキー(そして恐らくはラヴェル)のメチエは、要素間の矛盾や対立を生成原理とするのではなく、その組合せによってシニフィアンの鎖、連鎖構造を形作っていくものであると思います。これは判りにくい表現でしょうか。適当な喩えがなくて恐縮ですが、フロイトの「鼠男の症例」を読まれた方は、この患者の強迫神経症がまさにシニフィアンの連鎖が結晶化した「作品」であるという見方に理解を示して頂けるものと思いますが、ある種の音楽家にあってはこのシニフィアンの結晶は文字通り音楽作品という形を取ります。私がストラヴィンスキーとラヴェルを同列に論じた際に、その作品の響きをガラス質とか非人間的と評したのも理由のないことではないと思っている所以です。一方でドイツ流の作曲技法における動機はシニフィアンのレベルにありますが、主題はシーニュのレベルにあり、展開はいわばシニフィアンの交換という捉え方が出来ます。このような生成原理には人は必ずやシニフィエのにおいを嗅ぎとり、主題に「意味」を見出そうとしますが、結晶化したシニフィアンに対しては意味を見出すことは不可能です。いや私は、ストラヴィンスキーやラヴェルの作品に見られる構成原理がドイツ流のそれとは如何にも異質であり、彼らの作品に「意味」を見出そうとするのは全く無益なことだと言いたかっただけなのですが、この喩え話では牽強付会の誹りは免れないかも知れませんね。 私はいずれの構成原理がより優れているか、といった比較は有益な議論ではないと思っていますが、世間では「意味」のある音楽をもって良しとする風潮は幾らかあるのではないでしょうか。ああこれは悲しみの音楽だ、とかこれは歓喜だとか。「意味」のない音楽というと一段下みたいな。ラヴェルの作品を「工芸品」に例える類の言説が典型的なものですね。この問題についてはいずれ機会を改めて、もっとたくさん例証も挙げながら再考してみたいと思います。 ミクロな分析からこの作品のメチエが判るかと思いきや、結局のところ「天才の謎」としか名付けようのない闇をさまよったままです。学生の頃にブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポランのフランス語版を聴いてから既に30年近く、何度も何度も聴いてきてこの体たらく。この項続くのかどうか、私も判らないけれど、この作品の終わり近くに出てくる「小コラール」「大コラール」の和声構造については少し日を置いて挑戦してみたいと思っています。 (この項続く?) ▲
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| 2011-10-29 15:52
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ちょっと前の話。会社で言葉を知らんいかにも今時の若手社員(神戸大卒)に彼の上司が「・・・くん、『馬脚を現す』ってどういう意味か知ってる?」と尋ねた。すると彼、「えっ・・・・脚力が強いってことですか?」とのたまった。面白いので周りのみんなで「ねぇねぇ『重箱の隅をつつく』って知ってる?」とかキャッキャ言いながら尋ねると目を白黒させながら「えっ・・・・それ、重箱の隅をつつくってことじゃないんですか?」。もう期待通り。
お断りするまでもありませんが、ストラヴィンスキーは死後50年経過してませんので楽譜のコピーを載せるのは御法度です。が、言葉だけというのも少々無理がありますので、MUSESCOREのソフトを使って必要最小限の譜例を再構成したものを幾つか掲げておきます。 因みに私はコルネットやクラリネットなどの移調楽器の譜面がどうしても読めないので、この再構成は移調表記を実音表記に直す為にも私には必要不可欠の作業でした。 とりあえず、冒頭の兵士の行進曲、これを分析してみます。まず最初の3小節から練習番号1の部分、A管のコルネット(上段)とトロンボーン(下段)のパートを実音表記で抜き出しました。CHESTER MUSIC社のスコアの扉に自筆譜の写真が載っていますが、ストラヴィンスキーは練習番号を自ら記入しています。 ![]() 全体に無調という感じはなくて全曲がディアトニックな書かれ方をしています。最初の4小節のコルネットは、こういう言い方が正しいかよく判りませんが、へ長調で始まって途中で間違ってホ長調になってしまったような感じを受けます。試しに最後の3つの音を半音ずつ上げると、へ長調の明快な、というより凡庸な旋律となります。対置されるトロンボーンは、なんとなく調性感をぼかす為に後付けされた感じがしますが、伴奏を受け持つコントラバスのG-Dの刻みの繰り返しに引きずられて、ト長調に終止したように聞こえます。次の3小節のコルネットは明確にイ長調、トロンボーンは二長調、コントラバスは練習番号13までずっとG-Dの刻みでト調の土台を提供し続けます。 図式化すると調性感がぼかされた前半(無調ではないので、仮に擬調pseudo-tonalと呼んでおきます)と、比較的明確な多調(polytonal)の後半という構造になっています。後半は一種の教会旋法、ミクソリディア旋法とみることも可能ですが、コントラバスがト調の刻みを続けていますので、やはりこれは多調様式と見た方が自然です。コルネットとトロンボーンは完全にリズムが一致していますので、この二つの楽器の音程を調べてみました。まずは最初の4小節。 ![]() トロンボーンとコルネットの音の間隔を半音数で表記します。間隔が13以上の場合は12の倍数を引いて補正しています。全部で10個の音の組合せの内、長7度が3回、長2度が1回出てきて、不協和感、擬調感の要因となっています。 次の3小節はこんな感じです。 ![]() 最初の5組は協和音、次の短7度も比較的不協和感のない音程ですので、前半に比べて調性感が随分とはっきりしていますが、最後の長7度が、イ長調でもニ長調でもなくpolytonalな音楽として聴かれるべきことを主張しています。 次の練習番号2番もイ長調のコルネットとニ長調のトロンボーンのpolytonalな(あるいはaのミクソリディアによる)書法ですので協音程が連続しますが、二つの楽器の上がり下がりが異なっているので短3度、完全5度、短7度がバランス良く現れます。ここはディアトニックな「音なり」に書かれているので、自然と長3度や長7度が現れます。 ![]() ![]() ファゴットのタカタッタカタッタカタッタカ(これをfigure1と呼んでおきます)から練習番号3になり、コルネットのイ長調のアルペジオで、ちょっと名人芸を披露します(これも仮にfigure2としておきます)。次の4小節はまた調性がぼかされています。これも冒頭の4小節と類似の構造、コルネットの重嬰記号をシャープに置き換えるといかにも凡庸な旋律になりますが、これを思いっきり捻った感じ。トロンボーンのパートが、ディアトニックな響きから遠のくように後付けされた感じがするのも同様で、凡庸な短3度のあとに短2度と完全4度の連続という不自然な、もしくは極めて作為的な和声進行によって、聴き手の調性感は宙づりにされてしまいます。 ![]() この後しばらく、今まで現れた素材、というか断片の様々な組み合わせで続いていきます。退屈で仕方ないという方もおられるかも知れませんが、もう少しだけお付き合いください。 (この項続く) ▲
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| 2011-10-27 22:59
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鼻中隔湾曲症である。しかも親不知を抜こうとしたら、真横に曲がって生えていて町医者では抜けなかった。さらに、この前虫歯で歯医者にいったら神経の通り道が歪んでいる、と言われ、歯の奥に薬詰めるだけで1時間掛かった(けっしてヤブ医者ではない、と思う)。でも性格は素直です。
前回ヤナーチェクについて書きながら、何度かストラヴィンスキーについて言及しました。初期の「春の祭典」や「結婚」についてよくバーバリズムという言葉が使われるけれど、私はそうは思わない、あれはブーレーズの言う通り「制御された混乱」に基づく極めて知的な音楽である云々といったことを書きました。 もう一つ、ストラヴィンスキーと言えば枕詞のように「カメレオンの如く」次から次に作風を変えたと言われますが、私は疑ってかかる必要があると思っています。この手の言説の多くは「初期のストラヴィンスキーは面白いけれど、中期以降の作品はつまらない」という俗説あるいは偏見とセットになっていることが多いようです。本当にいろいろ聴いてから仰っているのか甚だ疑問ですが。確かに彼は知的構築物を作るための道具は何度か替えたかも知れない。特に晩年の「アゴン」以降、シェーンベルクらの12音技法を用いだした時は世間はあっと驚いたようです。それに私自身、彼の作品を大きく初期・中期・後期と分けて考えることもあります。しかし私の見る所、彼ほど長期に亘って作品を書きながら、その中身の変化しない作曲家も珍しいのではないか、と思っています。まだ学生の頃の習作はいざ知らず、1908年の「幻想的スケルツォ」から1966年の「ふくろうと猫」に至る60年近いキャリアの中で膨大な作品を残したけれど、一言で言うなら「何を聴いてもストラヴィンスキー」。成長とか円熟というものが無いわけではない。しかし、ストラヴィンスキーは最初から完成された姿で世にデビューし、死ぬまで知的かつ洗練の極みのようなそのスタイルを変えませんでした。 知的で洗練された音楽と言えば真っ先にラヴェルを思いだすという人は多いと思いますが、実際に音楽の見掛けの姿はかなり違うけれども、その音楽に対するアプローチは意外と近いのではと思います。そう言うと(特にラヴェル好きの方の中には)憤慨する方もおられるかも知れませんが、そういった人にはまずラヴェルが1913年に書いた「ステファヌ・マラルメの3つの詩」と、ストラヴィンスキーが1912年から13年に掛けて書いた「日本の3つの抒情詩」を聴き比べてごらんになったらよいと思います。この頃二人の作風が最も似通ったものになったのは間違いありませんが、その後どんなに見掛けが離れていこうとも、彼らの拠って立つところは本当に近いような気がするのです。 ラヴェルも、その作品を見渡してみると、およそ人間的成長とか円熟といった言葉とは無縁の、最初から完成された作曲家という印象を受けます。この二人に捧ぐべき最も簡潔な言葉は「天才」です。そして、この場合の天才という言葉には、他に何も修飾語や限定条件など附ける必要がないと思っています。 ラヴェルとストラヴィンスキーに共通する特徴は、二人とも音の素材を加工し、組合せ、研磨して作品を作っていく際に、その素材の組合わせが決して(ベートーヴェンやブラームスのような、あるいはシェーンベルクのような)ドイツ的な動機Motivによる労作という姿にならず、ある種の数学的な操作によってそれらが化合しないままに結晶化していくような、そういう作曲法をとる所ではないかと考えています。そのせいかどうか、二人の作品にはどこかガラス質の、非人間的な響きがするような気がします。メシアンなんかも同様ですね。20世紀前半に限って言えば、ラヴェルやストラヴィンスキーの作曲法と、シェーンベルクらのそれが対立しているように見えますが、マクロな見方をすればこの二つのタイプを繋ぐのがウェーベルンといったところでしょうか。ある意味、ウェーベルンが戦後の音楽の旗手となったのも当然ですが、それは弁証法的世界観の喪失、構造主義の台頭といった思想の潮流と無関係ではありえないと思います。 のっけから脱線してしまいました。実はこれから、ストラヴィンスキー自作自演集CD22枚組について断続的に紹介していこうと目論んでいるのですが、それに先立って、この記念碑的録音の番外編ともいうべき一枚のCDのことを書いてみたいと思います。 兵士の物語&管楽器のための交響曲 兵士の物語 語り手 ジェレミー・アイアンズ イゴール・ストラヴィンスキー指揮コロンビア室内アンサンブル 1961年2月10&13日、1967年1月24日録音 (語りの録音:2005年12月2日) 管楽器のための交響曲 ロバート・クラフト指揮コロンビア交響楽団 1966年10月11日録音 CD:SONY CLASSICAL 82876-76586-2 この録音が世に出た経緯を要約すると、①もともと1961年に組曲用としての録音を行なった。この頃台本作家のラミュと仲違いしていたストラヴィンスキーは全曲版への興味がなく、英語のナレーションも嫌っていた②それでも全曲版の録音にこだわったコロンビア側は、アフレコで語りを入れて全曲版を作るべく、組曲版に欠けている部分の録音を御大にお願いし、1967年にその録音が行なわれた③その後いかなる理由からか当録音はお蔵入りとなり、最初の録音から44年後の2005年にジェレミー・アイアンズの語りを被せてようやく日の目を見た、というところです。経緯はともかく素晴らしい演奏で、当時既に80になろうとする、しかも指揮を専門としてきた訳でもない老人のものとは思えません。実際には助手のロバート・クラフトの力もあったのかも知れませんが、いずれにしても切れ味鋭い、大変な名演といってよいと思います。ウェットな叙情や濃厚な表情の一切を排して音とリズムの組合せの妙だけで一時間ほど掛かる演奏を飽きさせません。しかもそのドライな演奏から、ふと怜悧なリリシズムが漂うところが素晴らしいと思います。 ところで、「兵士の物語」は数あるストラヴィンスキーの作品の中でも私が最も愛するものでして、一つだけ選べと言われたら(どだい無茶な話ですが)散々迷った挙句にこれを選ぶんじゃないかな、と思います。ところが、ここまで絶賛しておきながら、長らく私はこの作品のメチエの秘密が判らなかった、というか、今でもよく判っていません。なんでこんな音の組合せを選ぶのか、理論なのか感性なのか、私がこれを聴いて「洗練されている」と感じているのはいかなる理由によるのか、心のどの琴線に触れていると言うのか、これが全く判らない。 因みに最近演奏会でよく取り上げられているようで、ネットで検索すると夥しいブログがヒットします。幾つか目を通して見ましたが、面白かったつまらなかったの類の印象批評型、意外と沢山出ているこの作品の録音の聴き比べ型、作曲の経緯や作品の背景についてあれこれ語る蘊蓄披露型、大体この3類型。いえ、別に非難している訳じゃなくて、いずれも大いに楽しみながら読ませて頂きましたが、私が最も知りたいことはどこにも書かれておりませんでした。 ならば自力で、とにかく手元にあるCHESTER MUSIC社のスコアを素人なりに分析しながら、なんとかこの作品の魅力について掘り下げてみるしかありません(我ながら因果な性格だと思います・・・)。 (この項続く) ▲
by nekomatalistener
| 2011-10-26 19:35
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会社の人が関西芸人のプラスマイナスの兼光に似ているのだが、職場が関東なので誰もしらない。
新国立劇場今シーズンの2作目は「サロメ」。関東で暮らし始めて2年半、このわずかな間に新国立で「影のない女」「アラベラ」「ばらの騎士」と観てきて、この「サロメ」でR.シュトラウスは4作目です。「影のない女」はゲルギエフ率いるマリインスキー劇場の引越公演でも観ましたし、私は行かなかったけれど二期会の「カプリッチョ」、バイエルン国立歌劇場の「ナクソス島のアリアドネ」なんてのもありました。独墺圏を別にすれば、R.シュトラウスのオペラの上演頻度に関しては、いつの間にか東京は世界有数の都市になったかのようです。シュトラウス好きな私にとっては本当にありがたい(お財布にはありがたくない)ことです。 2011年10月22日 指揮 ラルフ・ヴァイケルト 演出 アウグスト・エファーディング サロメ エリカ・ズンネガルド ヘロデ スコット・マックアリスター ヘロディアス ハンナ・シュヴァルツ ヨハナーン ジョン・ヴェーグナー ナラボート 望月哲也 東京フィルハーモニー交響楽団 今回の公演、またしても新国立劇場の底力の凄さを見せつけられました。サロメ役のエリカ・ズンネガルト、スタミナ不足を云々する向きもおられるかも知れませんが、前半は文句なしの歌唱。「7つのヴェールの踊り」の終盤はけっこう激しく踊りまくって、どこまで脱ぐのかなぁとちょっと下世話な興味もあって観ていたら最後は本当におっぱいまで晒して、根性が据わっているというか、びっくりしましたね(歌手というお仕事も大変)。さすがに踊った後しばらくは声量をセーブしていたせいか、少しもどかしい所もありましたが、ヨカナーンの首を得てから再び調子が出てきて立派に歌いきったという感じ。私は、サロメはあくまでも年端も行かぬ少女だと思うので、あまり妖艶すぎたり、ブリュンヒルデみたいな歌い方をするのはちょっとどうかと思います。その点彼女は、幾分線は細いのだけれど私の好みに合う歌手でした。実際、これだけ歌って踊れる歌手も少ないと思います。踊りだけバレエ・ダンサーが吹替えというのも興醒めですし、いくら声量があっても四股踏んでんのか、みたいな踊り見せられたら困ってしまいますから(笑)。 他の歌手でとにかく凄い、の一言だったのはヘロディアス役のハンナ・シュヴァルツ。声量・貫禄ともに群を抜いています。バーンスタイン、アバド、シノーポリらとも共演してきた百戦錬磨の大ベテランですが、ネットで調べてみたら1943年生まれ・・・って本当ですか?ちょっと信じられません。どんなに音量を上げてもヒステリックになったり吼えたりせず、余裕さえ感じられました。化け物としか言いようがない。 ヘロデ役のスコット・マックアリスターも適役。好色(というか、殆ど変態)、幼稚、わがまま、ヘタレ、落ち着きがない、男としてのありとあらゆるマイナス要素を凝縮したようなキャラクターで、しかも歌うには至難の役柄ですが、優れた歌唱で文句なしの出来栄え。実は少し前に、コヴェントガーデン王立歌劇場公演のDVD(フィリップ・ジョルダン指揮・デイヴィッド・マクヴィカー演出)を観て、ヘロデを歌ったトマス・モーザーが憎たらしいぐらい上手かったので、ついつい比較してがっかりするんじゃないかと心配していたのですが、杞憂に終わりました。 ヨカナーン役のジョン・ヴェーグナーも悪くはないのですが、預言者としての威厳という点で少し物足りないと思いました。地下牢から歌う時はPAのおかげで良い感じなのに、地上に出てきたらしょぼく聞こえるのはちょっと痛いですが、まぁそれだけ周りの歌手が凄いということで・・・。 ナラボート役の望月哲也も立派でした。取り返しのつかぬことをして絶望のあまり自殺する役ですが、粗雑に歌うと何だかよく判らないうちに唐突に死んでしまう感じがする、意外に難しい役だと思います。ただ甘い声というのではなく、追い詰められていく悲痛な感じがよく判り、自殺のくだりに納得感がありました。 その他、小姓、兵士、ユダヤの律法学者たち、いずれも不満なく聴けました。 肝心のオーケストラは、うねるような官能が感じられず若干の不満が残ります。チェレスタの一音がぴーんと耳に届くような室内楽的な部分は本当に美しいのですが、音が分厚くなると精密だけれどそれ以上でもそれ以下でもないという風に聞こえます。R.シュトラウスのオペラに対する楽団員の経験の少なさもあるでしょうが、やはり指揮者が少し淡白なんだろうか、と思います。聴きながら「もっとエロく!もっとえぐく!18禁で弾いてくれ!」と言いたくなりました。 舞台はどの地域の、どの時代を想定しているのかよく判りませんが、韃靼風というのか中央アジア風というのか、不思議な形の天幕のセット。衣裳もユダヤというより古代シリアと言われた方が納得がいくような感じ。その天幕の前に地下牢の巨大な蓋。少し錆の浮いたような鈍色(にびいろ)に光る蓋と、乾いた赤土のような色の天幕の対比が、荒涼たる旧約聖書の世界を彷彿とさせて、これはこれで違和感がない(もちろんサロメのお話自体は新約聖書のほうですが)。昔のパゾリーニの映画に通じるような荒廃の美を感じました。 近衛兵たちの幾何学的な動きや、奴隷頭のあれこれ指図する動きにも目を瞠るものがありました。ただユダヤ人達の、明治維新の頃の和装めいた衣裳にはちょっと苦笑しましたが。 それにしても、なんと陰惨極まりない物語なんでしょう。結末は判っていても、いざ目の当たりにするとやりきれない思いがします。音楽自体はうわべの不協和音ほどには病んでいなくて、その後のいわゆるユーゲントシュティルな作品と比べると、R.シュトラウスとしては例外的なぐらい対位法的書法が少なく、つる草のようにどこまでも旋律が続くというのでもなくて歌の旋律の各々はすっきりとしたプロポーションで書かれています。やはりオスカー・ワイルドの原作があまりにも病的なせいで、却って音楽が直線的な(健康的といってもいいくらいの)表現に留まってしまったとみることも出来そうです。その病的な物語と、官能的ではあるが世間で言われているほどには病的でない音楽との微妙なバランスが「サロメ」の醍醐味なのだと聴いていて気付きましたが、やはり観終わったあとの後味の悪さは格別でした。 ▲
by nekomatalistener
| 2011-10-23 16:27
| 演奏会レビュー
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Comments(2)
サザエさんに出てくるタイコーバさんってどこの国から出稼ぎにきた人なの?って某ブログを見て吹いたが、実は私もこの歳(49歳)になるまで「妙子おばさん」だと思ってました。正しくは「タイ子おばさん」なんですね~。よく考えたら一人だけ海と関係ないってのもヘンな話だわなぁ。知らんかった。
第2幕、次の場面は夏の夜。なんという自由な、何物にも囚われない音楽でしょうか。癖のある拍節とペンタトニックなヴォカリーズによる森の動物達の合唱。突拍子もない連想ですが、物心付いた頃、テレビの前で「ジャングル大帝」が始まるのをわくわくして待っていたことをふと思い出しました。大人の為の童心の音楽という感じがします。 ![]() ビストロウシュカの様子を一匹の雄狐(ズラトフシュビーテク)が伺っています。女狐の気を惹こうと雄狐の語る「あなたは理想的な現代女性だ。煙草はお吸いになるのですか」とか、「僕はあなたのことを小説やオペラに書くからね」といったセリフが笑わせてくれます。雄狐は彼女のご機嫌を取るため兎を採りに駆けていくと、ビストロウシュカは「あたしってそんなにきれいかしら」とつぶやき、兎を捕まえて戻ってきたズラトフシュビーテクとの二重唱が始まります。 ![]() ほとんど語りだけで出来ているようなこの作品の中で、この場面はいわゆる「愛の二重唱」というべきもの。ここぞとばかり狐たちは大きなアーチを描く旋律を歌いあげ、オーケストラは官能的な音楽を奏でます。官能的というと何とかの一つ覚えみたいに「トリスタンとイゾルデ」を引合いに出すのは気が引けますが、本当にトリスタンや、いやむしろ、この場面に相応しいのは「ヴァルキューレ」のジークムントとジークリンデの二重唱の方かも知れませんが、それらに匹敵する狂おしいばかりの濃密な音楽です。色彩的な変二長調を中心とするフラット系の調性が支配している所為で、ふとプッチーニの一節が頭をよぎったりもしますが、もちろん他のどんな音楽にも似ていないのは再三申し上げてきた通りです。次の譜例は二重唱のクライマックス、ロ長調に転調してしばらくすると同じ旋律が変ハ長調の記譜になります。ロ長調も変ハ長調も一緒じゃないのか、と言うなかれ。可能な限りヤナーチェクの耳にはそう聞こえていたであろう調性で、我々も耳を研ぎ澄ませて聴かねばなりません。 ![]() 巣穴にもぐり込んだニ匹を覗き見したお堅いふくろうが、「私達のあのビストロウシュカが、あんなにお行儀の悪いことを!」と嘆きますが、リス達やハリネズミは大喜びで哄笑します。なんともおおらかな性の賛歌。 きつつきの司祭が二匹の結婚式を執り行い、森の動物たちのアポテーズが始まります。この部分もちょっと他に例を見ない独特の音楽です。凶暴なリズムでいやが上にも聴き手の興奮を誘うところは、ストラヴィンスキーの「結婚」を連想させなくもありませんが、実は私はストラヴィンスキーの春の祭典や結婚をバーバリズムの音楽とは考えておりません。あれはプーレーズが喝破した通り、「制御された混乱」なのであって、実態は極めて知的な音楽だと思っています。それと比べると、この森の動物達のほうがよほどバーバリックな音楽だと思います。(ストラヴィンスキーについてはいずれ項を改めて書きまくりたいと思っています)。 第3幕は変二短調(嬰ハ短調ではなく)の前奏曲で始まります。変ニ短調の平行調は変ヘ長調となり、理論的にはあり得ない調性なのですが、ヤナーチェクはEの音がほしい時はわざわざFのフラットで記譜しています。行商人ハラシュタが現れ民謡調の歌を歌いますが、ここはシャープだらけの嬰ハ短調の記譜になっており、どんなにヤナーチェクが調性に対する感覚を重視しているかがここでも見て取れます。 続いて森番が登場し、ハラシュタを密猟者ではないかと疑います。ハラシュタは言い逃れをしますが、森番が死んだ野兎を餌に狐の罠を仕掛けると、先回りして狐を捉え恋人に贈るマフにしようと思い立ちます。 狐の夫婦と沢山の子狐たちが登場、子狐の合唱はバルトークが採集したルーマニアやハンガリーの農村の民謡を思わせます。ころころとじゃれている犬や猫の子を見ていると、どこからこんなエネルギーが湧いて出てくるのか、と思う時がありますが、この合唱は正にそんな感じの活気に溢れたものです。 ![]() 狐の夫婦は、また来年の5月になったら子供を作ろうと、幸せに溢れた二重唱を歌います。ホ長調でハラシュタが機嫌よく現れますが、罠に気付いたビストロウシュカはハラシュタを翻弄し、その隙に雄狐と子狐達は野兎をまんまと食べてしまいます。きりきり舞いのハラシュタ(3/4拍子と1/2拍子!が激しく交替します)が、よろめいて鼻の頭に怪我をすると、音楽は変イ短調に転じて、いよいよ悲劇が始まる、ただならぬ様相を呈し始めます。三連譜と四連譜のぶつかり合い、5小節単位のフレージング、森の中に突如深淵が現れたかのような恐るべき音楽。逆上したハラシュタが発砲し、ビストロウシュカは死んでしまいます。ここは敢えてミクロな分析は止めておきますが、発砲と狐の死のくだり、天才の筆致としか言いようがありません。万感の思いを込めたゲネラルパウゼの後に続く、わずか18小節のポストリュード。これ見よがしの悲しみは一切無いのに胸に迫ってくる素晴らしい挽歌であると思います。 変二長調の前奏に続いて、例の居酒屋の場面。まだ時刻は早く、愛想のない女将と校長、そして森番のみの寂しい光景です。前の場面からどれだけの時が経過したのかはっきりしませんが、森番は飼い犬のラパークが歳を取って動けないことを校長に話し、同時に自らの老いを感じています。悲劇の後の、しみじみとするような場面です。 深いブラス合奏の間奏曲の後、全曲の白眉というべき森番のモノローグが始まります。森番は明るい森の中で、妻との若かった日々を思い出しながらうとうとします。森の美しさを讃えながら感動的なモデラートA přece su rádを歌います。 ![]() 森番の夢の中で、これまで登場した全ての動物達が現れます。その中に女狐を見つけた彼は、今度は大切にしてやるから、と捕まえようとしますが、夢から目覚めるとそれは一匹の蛙でした。かつての狐との出会いを思いだし、森番は蛙に語りかけますが、蛙は「あれは僕じゃなくておじいさんだよ」と話します(森番が蛙のセリフを理解したのかどうかは不明ですが)。繋がっていく生命に感動した彼は銃を地面に落します。森番らしく、何と言って深遠なことを言う訳ではないのに、自然を越えた超越的な存在すら感じさせる深いモノローグです。森番の歌の最後はイ長調に転じて、あたかも自然への賛歌のように滔々と流れていきます。もうここで終わっても十分に感動的だと思うのですが、ここからブラスの咆哮に続いて奇跡のような変二長調のフィナーレが置かれています。例のシンフォニエッタに似た、荒削りでおおらかな音楽。気の利いた言い回しが浮かびませんが、ヤナーチェク以外の誰にも書けない素晴らしい音楽です。ここでも、小さな生き物たちとの親密な情景からいきなりカメラがズームアウトして広大な森や草原の映像に切り替わるような、一種の視覚的な喜び、軽い目眩すら覚えるような快楽を感じます。一体、ヤナーチェクは本気でこのオペラを舞台にかけるつもりがあったのでしょうか?もしかすると彼の頭の中にはアニメ映画のようなものがあったのではないか、と思われます。この作品が作曲されたのは1922年から翌23年に掛けてですから、既に映画は人々の娯楽としての地位を確立し始めた頃です。ただ、アニメーションが登場するのはあと20年ほど後のことですが、あながち無理な想像とは言えないと考えています。ちょっと真剣にスタジオ・ジブリさんにお願いしてみようかな、と(笑)。全曲通しても1時間35分、尺としても手頃ですし。あるいは、どうしても舞台で、ということであれば、あの「ライオン・キング」を演出した天才ジュリー・テイモアに演出してもらいたいですね。きっと今まで誰も見たことのない、大人も子供もわくわくするような舞台を作ってくれそうな気がします。 音源のCDで森番を歌っているリハルト・ノヴァークが素晴らしいと思いました。ちょっと癖というのか、時々皮肉な、あるいは意地悪そうな歌い方になる時もありますが、粗野でいて実は限りない優しさを持ち、同時に孤独な魂を抱えた森番のキャラクターを見事に演じています。女狐、雄狐、校長、ハラシュタ、いずれも優れた歌手達ですし、小さな動物や虫達を歌う子役も含めて誰ひとりとして穴のないキャスティングでした。「ルサルカ」で「はじけない指揮ぶり」と悪口を書いたノイマンも(比較の対象がないのでちょっとアレですが)、この演奏に関しては何の不満もありません。基本的には中庸を旨とする人なのでしょうが、ヤナーチェクを世に紹介したいという熱意と使命感が底に感じられる名演だと思いました。 私は基本的にはあまり自分の趣味を人に押し付けようと思わないほうですが、この作品に関しては本当に音楽を愛する全ての人に聴いてほしいと、声を大にして言いたいと思います。絶対に損はしませんよ。 (この項終わり) ▲
by nekomatalistener
| 2011-10-20 22:50
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「あらびき団」打ち切り。一番残念がっているのは沼津みなと新鮮館のおにいさんだと思う。
このオペラ、まだまだ一般には知られていないと思うので、ごく簡単にあらすじも紹介しながら、音楽のディティールを見てみます。 スコアを一部引用していますが、EUや日本ではパブリックドメインですので問題ないでしょう。逆に英訳リブレットは入手できませんでしたので、CDの対訳が怪しいところはあまり検証できていません。 第1幕の前奏曲は調号なしの変イ短調のメランコリックなAndanteで始まります。 ![]() 感傷とは全く無縁な音楽であるにも関わらず、何かこう、ひしひしと孤独さが募るような音楽です。第1幕では、登場する動物も人間も、皆孤独を抱えた存在であるとでも言うのでしょうか。 全曲が調号なしで書かれていますが、転調が激しく全音音階が頻出するこの作品では調号なしで臨時記号で逃げたほうが記譜しやすいという事情があるのでしょうね。変イ短調は通常の記譜であればフラット7つ、実に譜読みしにくい調性です。めったにお目にかからない調性ですが、アルベニスの「イベリア」第1曲「エボカシオン」が変イ短調で書かれていますね。通常なら幾分譜読みしやすい嬰ト短調での記譜が一般的ですが、臨時記号で逃げるのならむしろ変イ短調を想定してフラット中心の記譜のほうが書きやすく読みやすいと思います。ですがここで重要なのは、曲想が嬰ト短調ではなく変イ短調として聴かれるべきものに思われることです。実はこの作品、これに続く殆どの場面がフラット系(変ホ、変イ、変ニ、変トの各調)で書かれており、独特の音楽の色彩感の源となっています。逆にシャープ系で印象に残る箇所としては、第1幕の鶏殺戮の大騒動(ホ長調)、第2幕で森番が銃を撃つが狐が逃げていく場面(イ長調)、終幕の森番の自然への賛歌(イ長調)を挙げることができます。楽譜を見る習慣のない方には実に退屈な議論でしょうし、楽譜が読める方の中にも、嬰ト短調と変イ短調の違いなど(少なくとも平均律に慣れてしまった現代人には)無意味であると仰る方がいるだろうと思います。しかし譜例に見る「ためいき」の下降音形には、どうしても変イ短調でしかありえないと感じるのは私だけではないと思います。これぐらいにしておきますが、私はここで、ヤナーチェクが調性の扱い方について実に鋭敏な感覚を持っていたに違いないことをどうしても述べておきたかったのです。 前奏に続いて蠅やとんぼのパントマイム。森番が登場、森の中で独り銃に語りかけながら居眠りをします。こおろぎ、きりぎりす、蚊、蛙が登場。森番の血を吸って千鳥足の蚊はワルツを踊ります。蛙に興味津々の子狐が登場、驚いた蛙が飛び跳ねると、森番の顔に落ちます。森番が飛び起きるとそこには親とはぐれた子狐。森番は子供達への土産に狐を捕まえます。 続く間奏曲はまたしても変イ短調。これも孤独感、いやむしろ悲劇性を湛えた特異な音楽、本当に類まれな音楽だと思います。題材が特殊ということもあって、この作品をオペラとして舞台にかけ、群衆の一人として観たり聴いたり、ということがどうもそぐわない感じがします。この旋律の最期の4つの音(B-Des-As-Es)がそのまま狐の哀れっぽい泣き声になります。 ![]() 森番が狐(ビストロウシュカ)を持ちかえると、妻は蚤がいるんじゃないかと嫌がります。おかしいのはその後、つい先ほどの場面で「ママ、ママ」と泣いていた子狐が、いきなり口の達者な女狐になっています。まぁ原作が漫画ですからね(笑)。 飼い犬のラパークと恋をめぐる会話。そこに森番の子供たちが現れ、棒で狐を突っついていじめると、狐の逆襲に遭います。妻は怒り狂い、森番は狐をひもで縛ってしまいます。 この後、夜から夜明けにかけての時間の経過を変ロ短調から変ロ長調を経て変ト長調に移りゆく間奏曲が表しますが、この部分の美しさは譬え様もありません。ここまで夜明けの微妙な色彩の変化を描いた音楽というのは、おそらくラヴェルの「ダフニスとクロエ」ぐらいしかないんじゃないかと思う程です。 ![]() 鶏たちがやってきて、卵を産まないビストロウシュカをからかいます。彼女は雌鶏たちに、雄鶏の支配から逃れて立ち上がれとアジテーションを行いますが、盲目的な雌鶏には雄鶏なしの生活が考え付きません。怒ったビストロウシュカは次々と鶏たちを噛み殺します。喚き散らす森番の妻、森番に棒でぶちのめされそうになったビストロウシュカはひもを噛み切って逃げていきます。スケルツォのようなこの場面、ホ長調が主であることは先に書いたとおりですが、最後は変ホ長調の大混乱で幕を閉じます。 第2幕、穴熊の住む巣穴が欲しくなったビストロウシュカは、森の獣達を味方につけて穴熊に言いがかりをつけ、最後は巣穴に放尿して穴熊を追い出してしまいます。まるで一昔前の地上げ屋のようなあくどさです。もうお気づきでしょうが、この物語では確かに動物は擬人化されていますが、人間の道徳律とはまるで無縁の存在です。とてもじゃないがメルヘンとは言えません。また、動物達は種を超えて自由に会話をしていますが、人間との意思の疎通は全くありません。 この場では全音音階がブリッジの役割をして、調性は変二長調からロ長調に至るまで自在に変化します。変イ長調に転じて、居酒屋の喧騒を表す場面転換のバーバリスティックな間奏曲。 次の居酒屋の場は、酔っ払ってぐだぐだの人間の男達ばかり登場します。狐の一件でくさっている森番は牧師や校長に執拗に絡みます。牧師はラテン語の警句を呟き、校長はある女のことが忘れられず湿っぽい酒を飲んでいます。まったくぱっとしない連中ですが、彼らに向けるヤナーチェクの眼差しは暖かく、音楽としては不思議に味わい深いものがあります。しかしこの音楽を語るにはもう少し繰り返し聴き、私自身ももっと年をとらねばならないという気がします。べろべろになった校長は道を踏み外してひまわり畑に落ち、ひまわり相手に口説き始める始末。牧師は昔手痛い目に遭った恋を思いだしモノローグを歌います。銃をもって現れた森番がビストロウシュカを見つけ発砲しますが、弾が逸れ、狐は逃げていきます。この後、突然音楽はイ長調になりますが、映画でいうならカメラがズームアウトして突然視界が開け、大草原が目の前に現れたかのような効果があります。ヤナーチェクの独特の調性感覚を感じるとともに、まるで映画かアニメーションを観ているような気分にもなります。実際、舞台で動物の着ぐるみを見せられるよりはアニメにしてみたい感じがします。ジブリさん、どうですか?(笑)。 CDはここまでが一枚目に収められています。第2幕の後半は次回に。 (この項続く) ▲
by nekomatalistener
| 2011-10-12 19:46
| CD・DVD試聴記
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多分その名を知らない人はいない大会社の重役さんと、メールで「薬師丸ひろ子」ネタで笑い興じる。
ふと思い立って、yahoo検索で"薬師丸ひろ子顔負けの演技"という言葉でサーチしたら何と1件ヒット、しかも「ミイラの作り方」について書いたサイト。めまいがする。 8日に新国立劇場に「イル・トロヴァトーレ」を観に行って来ました。 指揮 ピエトロ・リッツォ 演出 ウルリッヒ・ペータース レオノーラ・・・タマール・イヴェーリ マンリーコ・・・ヴァルテル・フラッカーロ ルーナ伯爵・・・ヴィットリオ・ヴィテッリ アズチェーナ・・・アンドレア・ウルブリッヒ フェルランド・・・妻屋秀和 合唱 新国立劇場合唱団(合唱指揮 三澤洋史) 東京フィルハーモニー交響楽団 もともとレオノーラを歌うことになっていたタケシャ・メシェ・キザールが体調不良で降板し、タマール・イヴェーリが代役。この人、以前新国立の「オテロ」でデズデモナを歌ってた人です。ソプラノ・リリコとしてはすごく良い歌手です。「オテロ」のデズデモナの舞台は本当に素晴らしくて、私は最後のアヴェ・マリアを歌うところで涙を禁じ得ませんでした。でもレオノーラはただのリリコではなく、リリコ・スピントの役柄。第1部のアリアのアジリタが全然歌えていないのはちょっと厳しいですね。その部分以外は、声もよく出ていて良いソプラノだと思いましたが、少しお疲れ気味なのか後半音程が下がり気味(ほんの僅かですが)。いずれにしても、レオノーラ(に限らず初期から中期にかけてのヴェルディ・ソプラノ)の役柄の難しさ、苛酷なアジリタの要求を満たしつつ、あくまでリリコでなければならない、という困難を痛感します。 マンリーコのヴァルテル・フラッカーロ、久々にイタリアオペラらしいテノールを聴きました(脳天気という側面も含めて)。ただ、音程が上振れしすぎ。声質はとてもいいので惜しいと思います。第2部のアズチェーナとの二重唱のカデンツァ、音程が狂うってなレベルじゃない。ほとんど事故レベル。もうこれは無かったことにしよう、と思いました(笑)。残念なのは、後半になって声はどんどん良くなっていき、音程はどんどん上がり気味、という法華の太鼓暴走バージョン。第3部のお約束のハイCは、合唱のストレッタを突き抜けてくるほどの力はなくてちょっと不発気味。貴重なイタリアオペラのテノールですから、これから精進して再来日してほしいですね。 アズチェーナのアンドレア・ウルブリッヒはとても良かったです。ヴェルディのメゾソプラノに絶対必要な邪悪さも十分。マンリーコに引っ張られて音程の悪いところもありましたが概ね立派な歌唱。 ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリは、声も見た目も良くて、過不足のない役作り。 主役4人については、以上のとおり、惜しいところもありますが、特段スター歌手を集めた訳でもなくてこのレベル、というのは実は物凄いことなのではないか、と思います。だって、メトやスカラでさえ、脇役のすみずみまで歌手を揃えて、というのは最近ではもうありえないのでしょう?オペラの外来公演は国家の威信を掛けてオールスターで、という時代はもう過去のもの、そんな時代に極東の島国でこのレベルの公演が日常的に行なわれているというのは大変なことなのだろうと思います。たまたまというのでなく、新国立は基本こうですから。欲を言えばキリが無いけど、とんでもなく酷い歌手は一人もいない、というのは凄いんだなきっと。 脇役とはいえ、フェルランド役の妻屋秀和、毎度思いますが日本人としては抜群の方じゃないでしょうか。その立派な体躯から出てくる声はまさに日本人離れしています。以前聴いた「ヴォツェック」の医者や「アラベラ」の父親の役など本当に素晴らしいものでした。今回も立派過ぎるくらいのフェルランドを聴きながら、この人ドイツものでもイタリアものでもこうして便利使いされてるけれど、一度新国立でこの人に誰か主役を歌わせてくれないか、と思いました。この人の声に合う主役ってすぐには思いつかないけれどきっと何かあるでしょう?ボーイトの「メフィストーフェレ」とかムソルグスキーの「ホヴァンシチナ」とか何でもいいけど。プロフィールを見ると物凄い数のオペラをやってますね、その大半は脇役なのでしょう。何をやっても上手いから却ってもったいないといつも思ってしまいます。ほんと新国立さん考えてあげてよ。 三澤洋史率いる合唱団はいつものことながら本当に上手い、プロらしい集団です。安心して聴けますし、今回の第3部の兵士の合唱など男声ばかりでも全然素人っぽさがないのはさすがです。 最後に東フィルを振ったピエトロ・リッツォですが、アゴーギクがところどころおかしい、というか、ソステヌートのつもりが単にがくっとテンポが落ちただけみたいに聞こえる箇所が数箇所ありました。この辺は経験の多寡は関係ないはず。厳しい言い方をすると、様式に対する理解度の問題だと思います。でも東フィルはオペラのオケとしては本当に上手いです。このあたりのクオリティの高さ、さすが日本ですね、という感じ。それが音楽的な感動に繋がるかというとえてして直結しないもんなんだが、今回は言うことないです。大したもんです。 さて今回最大の議論の的は演出、それも死の擬人化をどう考えるかということでしょう。私は、第4部で死神が魂の抜け殻のようなレオノーラを抱いてワルツを踊るところ、演出家はこれをやりたくて死神をでずっぱりにしたのだろうか、と考えましたが、それにしても死の舞踏というイメージそのものが陳腐、結局のところ死神は不要だったのでは、と思わせられました。それでも死神を舞台に上げるというのなら、もう少し通俗に堕さないビジュアルがあったような気がします。今回の劇画調の死神と例えばベルイマンの「第七の封印」の死神では、やはり格が違うような気がする。死の擬人化、死の舞踏、これはヨーロッパの14世紀に遡る美学上の大テーマなのですから、これを引用するというのは中世以降のヨーロッパの歴史を背負って、演出家が彼の全存在を賭して行なうというぐらいの覚悟が必要です。また、音楽上の死の舞踏の系譜というのもあって、リストとサン=サーンスが有名ですが、トロヴァトーレにそれへの連想を掻き立てる要素があるかと言えばNoですね。つまり演出家がお話を頭で考えてこねくり回した結果を見せられているのだと思うのです。音楽に死の舞踏のモチーフとリンクする点があって、そこに照準をあてて死神を登場させているのであれば納得もしますが、なんとなくのべつ幕なしに登場というんじゃ、ちょっと安直というか、チープな感じがしました。 死神が出てくること以外は概ねオーソドックスな舞台で、誰にも受け入れられ易いものではないでしょうか。私は変な読み替えとか勘弁してほしいほうなので見易かったと思います。 舞台は青を基調とした照明が美しく、改めて夜の場面の多いオペラだと認識しました。特に修道院の場の、ロマネスク風の交差ヴォールトを背景とした装置は息を呑む美しさです。ここにはさすがに死神も現れまいと思いきや堂々と出てきたのには、演出家の意図を疑ってしまう結果となりました。 これもつまらない指摘かも知れませんが、舞台転換がもたもたし過ぎ。舞台裏でゴトゴトやってる間、なくもがなの解説を字幕で見せるのも興醒め。 繰返しになりますが、なんだかんだ不満を書きながら、殊更特別でもなんでもない公演で、これだけのクオリティというのは本当に新国立劇場が歴史を積み重ね、お客の拍手やらブーイングやらに育てられてここまできたのかなぁという感慨がありました。文句をつけるのも実は楽しみのうち。実際、大いにヴェルディの歌を堪能した一日でした。 ▲
by nekomatalistener
| 2011-10-10 21:37
| 演奏会レビュー
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前回の投稿で何度かミスタイプして「エフゲニー・オネーギン」が「おねー議員」になった。
そんなのいたらちょっとやだな~。「あたし前原たんのほうがよかったのに~もうっ復興法案賛成してあげないっ」・・・とか言いそうで。 ここ数日、ヤナーチェクの「利口な女狐の物語」を聴きながら、その超弩級の天才に心底驚いています。「シンフォニエッタ」なら中学生の頃からですから、かれこれ30数年前から知ってるといやぁ知ってる(別に「1Q84」を読んで初めて聴いた訳ではない・・・)。グラゴル・ミサも聴いたことがある、でもなかなかそれ以外に食指が動かなくてこの歳になりました。いやぁもっと早く知っておれば良かったのに、とも思うし、このオペラの幕切れを聴いていると、いやこの歳で初めて聴く意味もあるのだ、とも思います。そう、これはR.シュトラウスの「薔薇の騎士」と同じく、恐らく若いときに聴いてももちろん良いけれども歳をとってから聴くのはまた格別、という種類のオペラでもあるのですね。 それにしてもこの音楽、どの部分をとっても借り物という感じがなく、体臭と言ってもいいような強烈な個性に満ち満ちています。寡聞にして、ヤナーチェクの作風の先行者やエピゴーネンが誰だったのか、いや、そもそもいたのかどうか知りませんが、少なくとも私には今まで聞いたことのない類の音楽でした。強いて言えば一部に初期のバルトーク風のところがあったり、ドビュッシーの遠いこだまが聞こえたり、あるいはストラヴィンスキーのある種の作品、例えば「プリバウトキ」とか「マヴラ」に少し似た感じの部分がなくもないですが、かといってストラヴィンスキーを彼の後継者もしくはエピゴーネンと呼ぶのは無理があると思います。本当に何者にも似ていないし何者も真似できない、感傷は微塵もないのに豊穣極まりない音楽。それを理論的に分析すれば、全音音階や教会旋法、あるいはペンタトニックの多用、などということになるのでしょうが、それだけでは何も説明したことにならないような気がします。音のパレットとしてはその通りであるが、そのパレットからなぜあの音ではなくこの音を選び出したのか、という点に関しては説明がつかないのです。それほど独特の音の選択です。それよりもむしろ、オーケストラに関して偏執的なまでに細部までびっしり書き込まれた部分と、眼前遥かに開けた大草原を駿馬に乗って疾走するような荒削りで胸のすく様な部分の交代の妙であるとか、殆ど全編まるで話すように書かれている(伝統的なレチタティーヴォとはかなり様相が異なる)にも拘わらず、ここぞというところで一瞬だけ感情が迸るように歌われる部分(雄狐を待つ間にビストロウシュカが歌うところとか)の対比、自由に伸縮する変リズムの連続と、たまに現れる執拗なりズムオスティナートの交代とか・・・そんなところにもこの独自性の秘密があるような気がします。ただ誤解のないように言えば、これらの手法は、先日プッチーニの「外套」で書いたようなレベルでの職人的メチエではなく、もっと直感的・生理的なもの、あるいは音楽的修練・訓練とは無縁なもの、アカデミズムの対極にあるもの、という点、あえて言えばムソルグスキーに近いものがあると言えそうです。この手法の本質をさらに圧縮して一言で言うなら、「自由」ということになるのではないかと思っています。 冒頭から思わず熱くなってしまいました。まずは音源のデータを記しておきます。 猟場番・・・・・・リハルト・ノヴァーク(Bs) 猟場番の妻、ふくろう・・・・・ヘレナ・ブルトロヴァー(A) 校長、蚊・・・・・ミロスラフ・フリドレヴィチ(T) 牧師、あなぐま・・・・・カレル・プルーシャ(Bs) 行商人ハラシタ・・・・・ヤロスラフ・ソウチェク(Bs) 女狐ビストロウシュカ・・・マグダレーナ・ハヨーショヴァー(S) 雄狐ズラトフシュビーテク・・・ガブリエラ・ベニャチコヴァー(S) ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 (1979年12月7~22日、80年6月25~27日録音) CD:SUPRAPHON COCQ84519-20 前回まで、「ルサルカ」を聴きながら、二つの限界を感じると書きました。すなわち、一つは物語にエロティックな要素がなく、ただの他愛ないお伽話に思えてしまうこと(物語だけでなく音楽としても同様であることにも言及しました)、もう一つは言葉と音楽の結びつきが今ひとつ強固でなく、借り物の旋律にチェコ語の歌詞がむりやり嵌め込まれた感があることですが、この「女狐」には「ルサルカ」に欠けていたこの二つの要素がふんだんに盛り込まれています。 物語という点では、虫や鳥や森の獣がたくさん出てくるこのオペラの方がはるかに子供向けか、といえば実は少々微妙です。原作は新聞の連載漫画だと言いますが、終幕の森番のモノローグと蛙の歌は哲学的とも言えそうな代物。ほろ苦い後悔や諦念、そして自然への畏怖の念に溢れており、ある程度聴き手も年齢を重ねないと判らない味わいがあるのは冒頭で「薔薇の騎士」に喩えたとおりです。また、ここには妙にあけすけな性にまつわる挿話もあり、物語に奥行きをもたらしています。 性と言えば(ちょっと脱線しますが)、例えば第一幕で、まだ恋を知らないと嘆く犬のラパークに向かって、知ったかぶりのビストロウシュカ(女狐)は椋鳥の騒がしい交尾の様子をまくしたてます。添付の歌詞の邦訳は低レベルで日本語になってない感じがしますが、、椋鳥の話を聞いて変な気を起した犬のラパークがビストロウシュカにけしからぬことをしようとする場面のト書きで、「ラパークはしっぽでビストロウシカをつかまえる」とあるのは如何なものか。ボルネオかどっかの猿じゃあるまいし、単に対訳として日本語が熟していないという以前の問題です。「オペラ対訳プロジェクト」という日本語サイトには「ビストロウシュカの尻尾を手でにぎる」とあって、これも変。犬が手で握る?(笑)ボーカルスコアのドイツ語のト書きは"Dackel nähert sich der Füchsin in verliebter Absicht, sie stößt ihn um.”(愛を感じて近づくが撥ねつけられる)とありますが、簡略過ぎる感じ。英訳のリブレットが入手できず元々どう書かれているのかは謎のままです。 もう一つの言葉と音楽の関係についてはどうでしょうか。試しに第一幕の冒頭近く、こおろぎときりぎりすの会話の部分を見てみましょう。 ![]() こおろぎもきりぎりすも、「子供の声」と指定されています。自由奔放さと精密さの同居するこの譜割を子供が精確に歌うことは多分期待できないでしょうから、これは「語り」のための一種の目安と考えてよいと思います。いや、大人が歌って教えてあげれば子供でも簡単に歌えるかも知れませんが、実はこの作品のほとんどのページがこれに類した書法で書かれており、歌手たちは大人も子供も譜割の精密さよりは語りの自由さに重きを置いて、例えばチェコ語(モラヴィア方言)の長母音は心持ち長く歌う、といった事が暗黙の了解として前提されていると見るべきでしょう。こういった暗黙の了解事項はロッシーニ以前のイタリアオペラのレチタティーヴォ・セッコにも見られることですが、ここでより大切なことはごくわずかな部分を除いてほとんど全曲がこの朗唱風の書法で書かれていることと、音楽のリズムや拍子などアーティキュレーションが言葉の抑揚に完全に従属していること、音楽の一切が語りの流れを邪魔することなく、しかも驚くべき雄弁さで書かれているということだと思います。 さらに、もっと大切だと思われることは、このリブレットはすべて散文で書かれているという点です。対比として「ルサルカ」ばかり持ち出すのも気の毒ですが、あの「ルサルカ」のリブレットはアリアのみならずレチタティーヴォに至るまで全て完全な韻文で書かれていました。格変化が激しく語順の制約が少ないチェコ語ならではかも知れませんが、韻文であるということは、言葉がより音楽に従属しやすい、ということです。音楽がまずありき、と思われてならないのもそこに原因があると思います。逆に、「女狐」は全くの散文ですから、当然伝統的な拍節法をもつ旋律であれば云わば字余りや字足らずが頻出し、大変困った結果になるはずです。どれだけ語りが中心であっても音楽である以上、旋律の自律的なまとまりが必要であり、台詞と音楽が衝突する事態は避けられません。この困難を、ヤナーチェクは二つのレベルで解決しています。一つは、この譜例からも判るとおり、5連譜や7連譜といった自由度の高い譜割、そしてもう一つは、伝統的なフレージングからの逸脱とその結果としての変拍子の多用です。実際には歌唱部分の多くは2/4や3/8といった短い拍子で書かれていることが多く、一見したところ拍子の頻繁な変化は少ないのですが、例えば4小節で一単位となるフレーズがa-a-b-aと続いて16小節で一節の旋律が生まれるという、ヨーロッパの伝統的な音楽語法というものがここでは完全に無効となっているのです。それは伝統の破壊に他なりませんが、しかもそれは、ウィーン楽派やバルトーク、ストラヴィンスキーら20世紀音楽の使徒らが等しく通った伝統的語法への反逆という道筋を全く通らずに、アカデミズムとは無縁な辺境の作曲家が日常会話のような台詞を携えて自然に行き着いた結果のように見えます。なおかつその破壊力はバルトークの弦楽四重奏曲第3番や、ストラヴィンスキーの春の祭典に決して引けを取っていないと言っても過言ではありません。 本稿の冒頭近くで、ヤナーチェクの語法の本質は「自由」というものだと書きました。ミクロな分析でそれが立証できたかどうか心許ありませんが、自由は時に反逆と同様の結果をもたらす、とまとめることが出来そうです。でも、これでは「女狐」の魅力を語ったことには全然なりませんね。次回はもう少し、全く聴いたことのない人にも聴いてみたいと思ってもらえるような分析を続けてみたいと思います。 (この項続く) ▲
by nekomatalistener
| 2011-10-09 19:30
| CD・DVD試聴記
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"急須猫を噛む"でgoogle検索。926件ヒット。
同じく"シックス扇子"で検索。1,220件ヒット。 さて第2幕ですが、ここが一番このオペラの中で様式の混乱を呈しているところだと思います。殆ど全編チャイコフスキー風の音楽で書かれており、時折登場する水の精だけがかろうじて第一幕のワーグナー風の世界をひきずっています。 好意的に解釈すれば、この二幕はもののけの世界ではなく人間(王子・侯爵夫人・森番・皿洗い)の世界を描いているから様式も違うのだ、と言えなくもありませんが、ルサルカまでが一幕とは同じ人物と思えないほど異なった楽想を与えられています。やはり、様式というものに対するドヴォルザークの無自覚性、無頓着さというべきでしょう。 Allegro giusto へ長調の軽快な音楽に乗って森番と皿洗いの歌が歌われます。なんとも素朴過ぎて却って居心地の悪い感じです。変ロ短調Larghettoの森番のアリオーゾ U nás v lesích straší はどことなくチャイコフスキーのメランコリーが感じられます。甘い甘い変イ長調の前奏に乗って王子登場。この甘さは砂糖の塊みたいなウィーンのお菓子の甘さみたいです(私は決して嫌いじゃないけど)。喩えて言えばレハールのオペレッタの甘さ。続く変イ長調Andante の王子のアリア Již týden dlíš mi po boku は流麗な、これもチャイコフスキー流のもので甘く美しい旋律ですが、あまり言葉に寄り添って書かれている感じはしません。旋律が上滑りしていくような物足りなさを覚えます。 テンポを落として侯爵夫人との対話。イ短調Vivace の王子のアリオーゾ Ach, výčitka to vĕru včasná も心にすり寄ってくるような甘い旋律。聴いていると脳がとろけて、ちょっと痴呆状態になりそう(こういうのも嫌いじゃない)。 Moderato maestoso で突然ポロネーズの一節が鳴り渡り、侯爵夫人のレチタティーヴォの後、今まで現れた様々なライトモチーフが回想されます。変ホ長調のファンファーレに続いて舞踏会のポロネーズが始まります(この辺りの展開、殆どチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」のパクリ)。オーケストラのアンコールピースにも使えそうな派手な曲ですが、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」にしてもチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」にしても、なぜ舞踏会というとポロネーズなのか?田舎貴族にはポロネーズ、という決まり事でもあるんでしょうか? 水の精が現れ第一幕の音楽を回想した後、アリア Celý svĕt nedá ti, nedá (ホ短調Moderato)を歌います。短い間奏は感傷的でドヴォルザーク好きならメロメロになりそうですが、アリアそのものはあまりチェコ語の抑揚とは関係なく書かれています。ロ長調の舞踏会のゲストの合唱も同様。やがてルサルカが現れ水の精との対話が始まりますが、第一幕と違ってワーグナーの影は薄められています。ト短調Allegro appassionato のルサルカのアリア Ó marno, marno, marno to je はカバレッタ風のもの。チャイコフスキーがイタリアオペラのパロディを書いたらこんな風になるのでは、と思わせます。 再び侯爵夫人と王子が現れ、ルサルカの姿が見えないのをいいことに今度はあからさまに愛を語り始めます。フォルテッシモのイ長調の和音で絶頂に上り詰めますが、突然現れたルサルカに王子は死ぬほど驚き(と、ト書きに書かれている)、Fisの減7の和音が鳴り響きます。このあたりの凡庸さ、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の、愛の二重唱の頂点でマルケ王に踏み込まれた時のあの身の毛もよだつカタストロフを知る者には、まるでぬるま湯のように聞こえます。ワーグナーから一体何を学んだのかと、こっちが驚いてしまいます。エピゴーネンの悲しさ。この後、水の精の嘆き、王子の懇願、冷酷な侯爵夫人の一声とともに畳みかけるように幕が降ります。 私はなんとアンビヴァレントな記述を長々としているのでしょうか。嫌なら聴かなきゃいいのに、という声も聞こえてきそうです。結局私はこのチープな、しかし絡め取られそうな甘さに今全身で抗っているのでしょうか。好き、でも嫌い。愛の反対語は憎しみではなく無関心、というのはマザー・テレサの言葉だそうですが、その意味では、私はドヴォルザークの凡庸さを憎んでも無関心ではいられないのでしょうね。 ワーグナー風の第1幕、チャイコフスキー風第2幕に比べると、第3幕はドヴォルザークの地が比較的素直に出ていると言えそうです。泥臭いけれどもある種の魅力に溢れています。今まで世間でなぜこれほどドヴォルザークが好まれるのかよく分かりませんでしたが、今は少し分かるような気がしています。 第3幕は調性のはっきりしないAllegroの前奏曲から始まります。ルサルカが登場し、レチタティーヴォが続いた後、へ長調Larghettoのたゆたうような美しいアリア Mladosti své pozbavena を歌います。「たゆたう」ように聞こえるのも当然、F-durからf-moll・As-dur・as-moll・Ces-dur・h-moll・cis-moll・Des-dur・cis-moll・as-mollと転調に転調を重ねてようやくF-durに戻ります。 続いてホ短調Allegro moderatoイェジババとルサルカの対話。民謡調あり葬送行進曲ありと、様々に曲想を変えながら二人の緊迫した対話が続きます。ルサルカのアリオーゾも美しく、誰のまねでもない素晴らしい音楽が聴かれます。 ハ長調Moderatoに転じて水底の精たちの合唱。単純極まりない始まり方をしながらハ短調になってからは泥臭さと紙一重の凄愴な美しさを湛えています。Allegro moltoで森番と皿洗い、イェジババの民謡調の対話。洗練とは程遠い楽想に正直かなわんなぁと思ってしまう。 ホ長調Larghettoでしばらく森の精たちの民謡調の歌が続きます。「千と千尋の神隠し」みたいな懐かしい感じの部分もあって悪くはないけれど、結構長くて行進曲を経てハ長調の狂騒に至ってはさすがにげんなり。 水の精の嘆きの後、Allegro con fuocoで王子が登場。ヘ短調の王子のアリア Ode dne ke dni touhou štván は一言で言うなら「ダサカッコイイ」という感じ。だんだんと泥臭さが美点に感じてきます。 変ホ長調のハープのカデンツァをきっかけにルサルカ登場、王子との最後の二重唱が始まります。ルサルカのアリオーゾも死を決心した王子の歌も本当に美しく感動的なのですが、なんというかエロス的要素が全く感じられないのですね。よくもまぁこんなに次から次へと美しい旋律が湧いて出てくるものだと感心しますが、このエロスの欠如が真の感動を妨げているような感じがします。 王子の歌の最期にDesの和音とGの和音が交互に二回ずつ鳴らされます。あの「新世界より」でお馴染みの和声進行。思わず遠くを見てしまうような、懐かしさに溢れた和声。 王子の死、水の精の嘆き。ルサルカが王子の魂を祝福し、変二長調で静かに幕が降ります。 私はこのオペラが本当に好きなんだろうか、と自問しつつもう何回聴いたことでしょう。完結した芸術作品としては瑕だらけであっても、どこかに真実が潜んでいるような作品を私は愛して已まないはずではなかったか?でも何かが「好き」と言うのを阻んでいます。ドヴォルザークを例えばムソルグスキーと比べてみると、前者は生まれるのが遅すぎた秀才、後者は生まれるのが早すぎた天才、と(むごいようですが)はっきりと違いが分かります。作曲のスキルという意味ではドヴォルザークの方が多分数倍優っていますが、後者の天才はどんなに稚拙なスコアからも隠れようがありません。ですが、気まぐれなミューズは、そんなドヴォルザークのスコアにも降り立ち、幾つかの頁に小さい花を咲かせ、「月に寄せる歌」には思いの外大きな花を咲かせました。もうこれは理論や分析では解明できないことだと思わざるを得ません。 本当は全3幕の音楽のアウトラインをなぞりながら、もう少し言葉と音楽の問題について掘り下げてみるつもりでしたが、ちょっと力尽きてしまいました。この項はとりあえず終わりとし、12月のオルガ・グリャコヴァの公演を楽しみにしたいと思います。 ▲
by nekomatalistener
| 2011-10-01 16:25
| CD・DVD試聴記
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