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映画「聖なる鹿殺し」備忘録

バーホーベンは映画「エルElle」の主役に初めニコール・キッドマンを想定してたんだって。変態さんに好かれるタイプなのにトム・クルーズと結婚してたってのがちょっと不思議(大きなお世話です)。




ヨルゴス・ランティモス監督作品「聖なる鹿殺し」"The KILLING of a SACRED DEER"を観た。映画を観てこんなにわくわくするのも久しぶりのような気がする。ロードショーが始まって間がないのでネタバレにならない程度しか書けないが、まぁこんなお話。心臓外科医スティーヴン(コリン・ファレル)は妻(ニコール・キッドマン)と二人の子供と暮らしている。彼は数年前、ある事情で手術を失敗し、死なせてしまった患者の一人息子マーティン(バリー・コーガン)に対して、時計を買ってやったり何くれと面倒を見ている。ある日、ちょっとした思いつきでスティーヴンはマーティンを自宅に招くが、その日からスティーヴンのまだ幼い息子の足が麻痺して歩けなくなってしまう。一方マーティンもその日を境に、スティーヴンへの態度が常軌を逸したものになっていく・・・
ひたひたと迫り来る恐怖は下手なホラー映画の比ではないが、それが主眼の映画ではない。家族が崩壊していく様子は見ていて辛いものがあるが、どこかそういう情緒的な見方を撥ね除けるものがある。それはあけすけで乾いた独特のユーモア(というか、かなり下品なエロ描写)であったり、エウリピデスの「アウリスのイピゲネイア」と旧約のアブラハムとイサクの逸話の重ね合わせといった衒学趣味(タイトルの「聖なる鹿」もアルテミスの鹿に掛けているのだろうが、もう一つ、マイケル・チミノ監督の映画「ディア・ハンター」も関係があると思う。詳しくはネタバレになるから書かないが)、それに過激な暴力描写と、実に多様な要素を含んでいて一筋縄ではいかない。それを統一するものがあるとすれば、全編に一貫する徹底した美意識、特に完璧なまでに美しいカメラワーク。それに音楽がこれまた人を唸らせるものがあって、冒頭シューベルトの「スターバト・マーテル」D383で始まり、バッハのヨハネ受難曲で終わるというもの。困ったものだが、私は今後、ヨハネ受難曲を聴くたびにこの映画を思い出して複雑な気分を味わうことになるだろう。
コリン・ファレルもニコール・キッドマンも渋くてかっこいいが、バリー・コーガンは怪演といって良いと思う。物好きを自認する方は必見。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-03-11 02:10 | その他 | Comments(0)

蓮實重彦氏の記者会見について(雑談)

東の「聚楽よ~ん」に対抗できるのは西だとやはり「明日への活力」ですかね。





蓮實重彦氏の三島賞受賞の記者会見が話題になっている。文字に起こしたものを読むとなかなか痛快であるが、動画を見てみると、絶滅危惧種の珍獣をカメラの前に引きずり出して、みんなで恐々棒で突いているような感じがなきにしもあらず。記者の不勉強ぶりには、大手新聞社の学芸部員にしてこの程度かと暗澹たる気分になるが、蓮實氏の回答はある意味誠実すぎるほど。
以下の引用元はハフィントンポストより。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/16/hasumi-mishima_n_9998942.html

・・・・・・

――わかりました。黒田さんの世界には若々しさがあると。私は蓮實さんの作品に若々しさを感じたのですが、そういう風にご自身で理解はされていたりしますか。

黒田さん(の作品)は傑作であり、私の書いたものは到底傑作といえるものではありません。あの程度のものなら、私のように散文のフィクションの研究をしているものであれば、いつでも書けるもの。あの程度の作品というのは相対的に優れたものでしかないと思っております。

(中略)

――逆に伺いたいのですが。研究者の目で「相対的に優れたものでしかない」と思いながら、小説というものは書いたりできるものなのでしょうか。やっぱり何か情熱やパッションがなければ書けないと思うのですが。

情熱やパッションは全くありませんでした。専ら、知的な操作によるものです。

・・・・・・





蓮實氏の自己韜晦を多少差し引かねばならないと思いながら、この既視感はなんだろう、と思ったらコレ(文春の記事)でした。
(文春の元記事は手元にないので江川紹子氏の下記記事より引用)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140206-00032407/



新垣隆
「彼(佐村河内氏)の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない、という思いもありました」

・・・・・・・




「だからなに?」と聞かれと困るけれど、こういった言葉は、創造とはなにか、芸術はどこからやってくるのか、といった問いを(多少逆説的ではあるけれど)改めて惹起するだけの力を持っているように思われる。このブログで折に触れて作曲家のメチエだのなんだのと書いてきたことも、私がストラヴィンスキーやヒンデミット、ハイドンといった、一見パッションとは無縁の乾いた音楽を書く人達に惹かれるのも、このような問いに導かれてのことだろう。ついでに言えば、この問いの周りをぐるぐる回っている限り、私にはこの、創造には「情熱やパッション」が不可欠だと思っている新聞記者や、「佐村河内守の交響曲」に心酔した人達を嗤う資格は無いのだと思う。
蓮實氏の『伯爵夫人』は掲載誌(新潮4月号)を買い逃して実は未読。6月に単行本が出るようなので改めて書く機会があるかも知れません。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-05-21 00:11 | その他 | Comments(0)

3.11雑感

疑似科学かどうか簡単な見分け方。一言でも「波動」という言葉使ってたらアウト。




ある方のツイートに、今回の「イェヌーファ」と「ピーター・グライムズ」と「軍人たち」が新国立劇場ベストスリーと書いてあるのを見ました。私は残念ながら「軍人たち」は観ていないので何とも云いかねるけれど、「ピーター・グライムズ」は確かに凄い舞台でした。だが「イェヌーファ」がそこまで凄かったかと言われたら、ちょっと違う感じもする。
ではお前のベストスリーはと聞かれたら?グリャコヴァの歌った「蝶々夫人」、クヴィエチェンの「ドン・ジョヴァンニ」、いろいろ思い浮かぶが「ムツェンスクのマクベス夫人」も捨てがたい。もう二位以下はどうでもいいが、一つだけ極私的ベストワンを選ぶなら何と言っても2011年4月16日の「ばらの騎士」だろう。
この年の3月11日、新浦安駅近くで単身生活を送っていた私の住まいは、液状化でトイレもシャワーも使えなくなり、余震や停電など、東北の人たちとは比べ物にならないとはいえ、それなりに大変な日々を送っていた。実に地震から一ヶ月以上、不思議と音楽を聴く気にならず、やはり衣食足りてこその音楽、たかが音楽、という思いを持ち始めていた。これではいかんと思い、思い切って行くことにした「ばらの騎士」。正直なところ、なぜいまばらの騎士か、と思わないでもなかった。オックス男爵を歌ったフランツ・ハヴラタ以外は元の海外キャストは誰も日本に来ず、大半は日本人カバー歌手。指揮を予定していたアルミンクも来ない。客観的にみてどれほどのレベルの公演だったのか今となっては判然としない。だが一ヶ月ぶりに音楽を浴びて、私はもうほとんど第1幕から泣いていた。終幕の三重唱に至っては嗚咽を堪えることが出来なかった。私だけではない。あちこちからすすり泣く声が聞こえた。
この公演の時ほど音楽のもつ力を感じたことはない。あの震災自体は不幸な出来事だったが、一方でこのような貴重な経験もした。
いつかこのブログにも記そうと思いながらようやく果たせた。
by nekomatalistener | 2016-03-15 22:39 | その他 | Comments(2)

ブーレーズ追悼

節子、それブーレーズやない、ピエール瀧や。




このブログで一言でも「ブーレーズ」という言葉が入った記事を検索すると39編もありました。どんだけブーレーズ好きなんだ俺。
とはいうものの、基本的にコンサート・ゴーアーではない私は、指揮者としてのブーレーズを生で聴いたのは1995年5月26日のサントリーホールでのロンドン交響楽団を指揮した公演のみ。確かこの時は、もともとポリーニがバルトークのコンチェルトをやるはずだったのが急遽体調不良でラヴェルのマ・メール・ロアのオーケストラ版に差替えられたと記憶している。ポリーニ目当てでわざわざ奈良から東京まで出てきて、がっかりしたはずなのに、この時のメシアンの「クロノクロミー」の演奏があまりにも素晴らしくて、そのがっかりした記憶というのが全くない。まるで、粉々になったステンドグラスが頭の上から降ってきたみたいな感じというのか、忘我とか法悦というのはこういうことを言うのかな、とぼんやり考えていたように思います。もちろんメシアンの音楽自体が素晴らしいのだけれど、あの色彩感の表出というのは只事ではなかったはずです。クロノクロミーとは時間と色を表すギリシャ語からの造語みたいだが、これほどタイトルに相応しい演奏もなかろうと思いました。メシアンに呆然としてしまい、プログラム後半のストラヴィンスキーの「春の祭典」の記憶があまりないのは残念ですが、ブーレーズ死去と聞いて真っ先に思い浮かべた記憶がこの公演でした。

指揮者としてのブーレーズは、私はおそらく膨大なディスコグラフィーの内の何分の一も聴いていない上に、圧倒的なものもあれば意外に微温的に感じられるものもあって、やや評価が定まらないところがあります。しかし、色んな作曲家の作品の中で、知名度は低いが傑作であるとか、完成度に難はあるが絶対に無視できない作品とかを思い浮かべると、そのかなりの部分がブーレーズのLPで初めて聴いたということに気が付きます。例えば、ドビュッシーならバレエ「遊戯」、ラヴェルであれば「マラルメの3つの歌」、ベルリオーズの「レリオ」、ストラヴィンスキーの「ダンバートン・オークス」、バルトークの「かかし王子」、マーラーの「嘆きの歌」なんかもそう。そのいくつかは未だにまともな競合盤もないようだが、こういった作品の存在を私に教えてくれたことはどんなに感謝しても感謝しきれません。私が学生の頃には殆ど知られていなかったハリソン・バートウィッスルやジェルジュ・クルターグの録音も然り。
これらの大半を私はLPで聴いてきたのでいま手元に殆ど無いのが残念。あやふやな記憶でベスト・スリーを挙げるのも申し訳ないような気もするが、これだけは外せない、と思うものをとりあえず3つ記しておきたい。
①ウェーベルン作品全集
 これは新旧2組の録音がありますが、あらゆる虚飾を削ぎ落とした果ての美しさというのは旧盤により顕著な感じがします。ただ、旧盤をCBSのCDで買い直したところ、なぜか安っぽい録音で(当時の私のオーディオ機器の所為かも知れませんが)、元のLPの音に遠く及ばなかった記憶があるので、CDで聴くなら新盤ということになるだろうか。いずれにしても新旧とも偉業と呼ぶに足る素晴らしい仕事だと思います。
②シェーンベルク 「ピエロ・リュネール」
 ブーレーズはこの作品を何度も録音しているが、最初期のピラルツィクが歌った仏ADES盤が一番好き。イヴォンヌ・ミントン盤、クリスティーネ・シェーファー盤と時代が下るとともに、音響としてはますます美しく、しかし何か大切なものがすこしずつ失われていく感じも。
③ベルク 「ルル」
フリードリッヒ・ツェルハ補筆による全3幕版の初めての録音。今はすっかり人気曲の仲間入りして、このディスクのテレサ・ストラータス(ルル)やイヴォンヌ・ミントン(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)を凌ぐ歌い手は数多いるが、この録音の凄まじい熱気と退廃の香りは何物にも代えがたいと思います。
ま、他にも挙げたいディスクはありますが、ブーレーズが指揮者としてメジャーになればなるほど、私の興味が(曲目にも演奏にも)薄れていくということは何となく言えそうな気がします。

作曲家としてのブーレーズにも簡単に触れておきたい。これはたくさんの人が指摘していることですが、指揮者としてのブーレーズ同様、作曲家としてのブーレーズも、メジャーになればなるほどますます美しく、しかしどこか空虚な作品を書くようになったというのは概ねその通りという気がします。そういった意味で、ベストスリーを挙げるなら半世紀以上前の作品が並ぶのは仕方ないのかも。
①ル・マルトー・サン・メートル
この曲も何度も録音しているが、やはり初期のアンサンブル・ミュジック・ヴィヴァント盤が一番印象に残っています。美しいだけでなく、本当はとても危険な音楽という感じがする。初めてスコアを見ながら聴いたとき、殆ど小節ごとに変わる拍子が繁分数で書かれていることに驚き、幼稚な感想だけれど「頭いいんだろうなこの人・・・」と思った記憶がある。
②2台のピアノのためのストルクチュール
昔WERGO盤で聴いたコンタルスキー兄弟の火花散る演奏が強烈でした。割と最近、CDで聴きなおす機会があったのだが、やはり鮮烈な体験でした。これだけの密度の2台ピアノ作品って今後生まれ得るだろうか?
戦時中のメシアンは別格として、大戦後に書かれた2台ピアノ作品としてはもう別次元というか、言っちゃ悪いがリゲティやルトスワフスキーの現代風サロン音楽とは拠って立つ次元が完全に違う。これに比肩出来るのはツィンマーマンの「モノローグ」ぐらいなものかもしれない。
③第2ピアノソナタ
学生の頃に、当時は物凄く高価だったウジェル社の大判の楽譜を買って、第1楽章くらいは弾いてみたいと思ったがやはり素人には手も足も出ないなと嘆息。1995年に東京でポリーニが弾くのを生で聴き、やはり凄い作品だと改めて驚愕。第3楽章のトリオのエクリチュールにしびれます。まさにポリフォニーの極致。第4楽章は全体が驚異の連続、空前絶後の音楽だと思います。最近ジャン・バラケのソナタとの相互影響が取り沙汰されたりもするけれど、これからもブーレーズのこのソナタの価値は微動だにしないだろうと思います。

本当は「水の太陽」とか「婚礼の顔」を挙げるのが通っぽい感じもするが、そんなに何度も聴いた訳ではないので平凡なラインナップになりました。一方「プリ・スロン・プリ」や「エクラ」などの煌めくような美しさは、とても素敵だと思いますが、上に挙げた3曲が、レコードやCDを聴くだけでも真剣勝負の厳しさを伴う行為になってしまうのに比べて、どうしても美しすぎて眠くなる(笑)。というか、極めて精巧なガラス細工を眺めてるような気分になってしまう。それが芸術の在り方としていいのか悪いのか、という議論は意味がないとしても、やはり一種の退嬰感というのは否定できないように思います。同じガラス片でも、きらきらと光る装飾品に向いたものもあれば、相手の喉を掻き切る凶器に向いているものもあるわけだが、美しく磨けば磨くほど凶器としての側面がすり減っていくようなものか。

ブーレーズ死去のニュースには驚いたけれど、90歳ならもう大概のことはやり尽くしたのだろうと思います。私は(昨年のアバドの時とか)、慣れ親しんできた演奏家が亡くなっても、ま、仕方ないね、で済むほうなのだが、なぜかブーレーズに対してはこうやって駄文ながら何かを捧げずにはいられなかった。それほど今の私の音楽に対する姿勢だとか嗜好といったものに、ブーレーズが与えてくれた影響が大きいということなのだと思います。やはり私はブーレーズがほんとに好きだったんだろうな。心からの感謝を捧げたい。
by nekomatalistener | 2016-01-08 00:01 | その他 | Comments(0)

死の劇場 カントルへのオマージュ

このまえ、観るともなく観てたゴールデンのバラエティ番組で、最近若い子とかに通じない大阪弁ベスト10みたいなのをやってた。「てんごする」とか「でんする」とか、あー今でも使とるがな、というのもあるが、大学生の娘には殆ど通じない。ちなみに番組には出てこなかったが、「ほたえる」とか「家にいぬ」なんて言い方も通じない。ちょっとした衝撃。





「アゴラ言論プラットフォーム」という、様々な有識者の投稿から成り立っているサイトがある。おおよそ投稿の9割が政治と経済に関するものだが、たまに文化的な内容の投稿もある。偶々11月13日に新規投稿をチェックすると『「現代とカントル」考』という記事が目にとまった。内容を見ると、まさかのタデウシュ・カントール(最近はカントルという表記をするらしい)についての記事、しかも京都で11月15日までタデウシュ・カントル生誕100周年記念「死の劇場 カントルへのオマージュ」展をやっているとのこと。何はともあれこれは見ておかなくてはと思い、14日に京都市立芸術大学ギャラリー(@KCUA)に行ってきた。

http://agora-web.jp/archives/1660735.html

私は著者の若井朝彦氏については何も知らない。件のHPはFBのコメントしか受け入れないようであるし、ツイッターもFBもやらない私にはこの催しを教えて下さった氏に御礼すら出来ないが、よくぞ記事にしてくださったことだ。
もっとも私はタデウシュ・カントールについて詳しい訳でもなんでもない。ただ、昔(90年代の半ばだったと記憶する)、BSで彼の舞台「死の教室」の録画が放映され、私はまさしく死臭の漂うような、しかも美しい舞台を観て驚いた。カントールは1982年と90年の2回来日しており、利賀村と東京のパルコ劇場で「死の教室」を上演したとのことだが、今となってはBSで観たものがそのどちらであったかさえはっきりしない。
その後、なんどかカントールと彼の創始した劇団CRICOT2のことは気になりつつも、日本語で読める情報のあまりの少なさもあって次第に忘却の彼方に沈んでいったのだが、それでも何かの折にふと「死の教室」のことが思い出されたりすることもあった(特に死をモチーフにした舞台作品を観た折など)。
この前衛演劇がどうして30歳になるかどうかという頃の私をあれほどまでに魅了したのか、もはやよく覚えていないというのが実態だが、芝居の冒頭近く、年老いた(あるいは亡霊となった)かつての生徒達が、それぞれ自身の分身である子供の姿の人形を抱いて、階段型に並べられた机のまわりを延々とワルツにのって回る場面、また一つの言葉を生徒たちがつぎつぎと反復し、騒音にまで至る場面、これらをフロイトのテキスト(特に「鼠男の症例」)を手掛かりに反復強迫とシニフィアンの連鎖に見立てて分析すること、いわばラカンが『「盗まれた手紙」によるゼミナール』でやろうとしたことを無謀にもこの演劇をネタにやろうとしていたことは、今となっては少々厨ニ病的で恥ずかしいことだが事実なので仕方がない。

さて、そのような経緯で観ることになったこの催し、カントールの人となりや遺された作品に照準をあてた回顧展のようなものを想像していたがさにあらず。彼自身のドローイングなどもあるにはあるが、カントールの舞台から影響を受けたアーティストのインスタレーションや映像作品が展示の大半を占めていた。あくまでも「カントル」展ではなくて「カントルへのオマージュ」展なのであった。まぁ考えてみればカントールのような特異な演劇作家の業績を回顧するなら演劇を再演するに如くはないのであって、そうでなければ今回のような形態をとらざるを得ないということは理解できる。むしろ、中心の欠けた展示によって却って中心にあるはずの存在の大きさを際立たせていたと言えなくもない。例えて言えばサド侯爵が登場しないがゆえに真の主役であるという、あの三島由紀夫の演劇「サド侯爵夫人」のように。
備忘として展示作品の作家名を挙げると、石橋義正、ミロスワフ・バウカ、パヴェウ・アルトハメル、アルトゥル・ジミェフスキ、ヨアンナ・ライコフスカ、松井智惠、丹羽良徳、オル太、といったアーティスト達。私はこういったいわゆる現代アートに疎くて、これらをあれこれ論評する力がない。ただ、好き嫌いレベルの感想を言えば、パヴェウ・アルトハメルの二つの映像作品は、解説のちらしにも書かれている「日常の裂け目」のようなものが確かに感じられて、長いこと見入ってしまった。また、丹羽良徳の「デモ行進を逆走する」という映像、反原発デモの集団の中を先導者とカメラマンが逆行していくという、ただそれだけなのだが、この国の得体のしれない同調圧力を感じさせるものであった。オル太というアーティスト集団の「目覚め」というインスタレーション作品、オシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の廃墟となった病院を舞台に、患者とおぼしい人物がずるずると這い回る映像はホラー映画並みの不気味さだが強烈な印象を残す。

なお、最終日前日のこの日、カントールに関するシンポジウムも行われたようだが所用があって時間前に退出。多少の物足りなさもあったが、今現在日本語wikipediaに立項すらされていないこの不世出の舞台作家を思い出す機会としては十分な値打ちがあった。
(それにしても、この記事も「カントル」あるいは「カントール」で検索してきた方には、彼自身について殆ど何も情報をもたらさぬ中心が空虚な記事であることよ)

ちなみに「死の教室」はyoutubeで視聴可能。ただ権利関係がどうなっているのか分からないが、突然削除される可能性もあるので見るならお早めに。

https://www.youtube.com/watch?v=-p870MeyJuw

(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-11-16 23:23 | その他 | Comments(0)

エリック・サティとその時代展

グラハム・カーの「世界の料理ショー」DVD-BOX、第1集と第2集合わせるとamazonで28,000円以上もするのか。
うーむほしいなぁ。





29日はシュトックハウゼンを聴いたあと、そのまま東京で宿泊。翌日渋谷Bunkamuraで「エリック・サティとその時代展」を観てきました。
絵画やポスター、楽譜に挿絵、マン・レイによるオブジェなど多岐にわたる展示物は、サティとの繋がりという点で多少強引なものもあるけれど、パリのベル・エポックやアール・ヌーヴォー、ダダイズムなどを中心とする時代の空気のようなものを実感させてくれます。
最初の展示室では「ジムノペディ」が静かに流れ、少し後の展示室で「薔薇十字会のファンファーレ」ときて、次のコーナーでは「パラード」の初演時の衣装や演出を再現したという2007年の公演の動画、最後に「スポーツと気晴らし」の挿絵(シャルル・マルタン)と楽譜を交互に見せ、高橋アキの演奏に合わせてサティが楽譜に書き込んだアフォリズムとも落書きともつかない言葉を朗読するという17分ほどのフィルム。これが素晴らしい。このあたりの趣向がなかなかのセンスで、ジムノペディしか知らない初心者も、そこそこすれたマニアも同時に楽しめる内容であったと思います。これに「家具の音楽」があればいうことがないのだが。

それにしても、この時代のさまざまなポスターや雑誌の挿絵などをみていると、たくさんの作家たちの雑多な作品であるにもかかわらず、まぎれもなくこの時代の空気というものが彫琢されていて、しかもそれぞれの個性というものも感じられるのには驚かざるを得ません。つい連想してしまうのだが、目下パクリ疑惑で大変そうな某デザイナーさん、その真偽のほどはともかく、あんまり一貫した作家性みたいなものは感じられない。あの方に本当に必要なのは、こういった現代のデザインの源流ともいうべきさまざまな意匠や芸術運動に関しての広範な教養だったんじゃないかと、ふと思った次第。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-09-02 00:54 | その他 | Comments(0)

現代音楽ファン垂涎の新録音情報

♪セーブン銀行唐揚げ粉♪



パリのIRCAMの知人から聞いた話だが、フランスを代表する指揮者ピエール・ブーレーズの90歳の記念アルバムとしてフィギュアのショートプログラムで使われた音楽を集めたアルバム「コンテンポラリー・フィギュア」を録音するとのこと。曲目はプッチーニの「誰も寝てはならぬ」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」、ロッシーニの「セビリアの理髪師」など多彩。しかも編集なしでそのまま競技に使えるよう、作品をばらばらにぶった切って、サビの部分をむりやり繋げるといった大胆かつ噴飯もののアレンジを施したという。これに対し、音楽界からは疑問の声もあるものの、スポーツ界の受け止め方は概ね好評だという。また演奏はアンサンブル・アンテルコンタンポラン他の豪華な顔ぶれで、ラフマニノフの独奏は往年の名ピアニスト、リチャード・クレイダーマンが担当する。なお、独奏者はこれから練習を開始するため、実際の録音は2025年頃の予定となる模様。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-01 21:51 | その他 | Comments(0)

日記みたいなもの~その10

タパスの小皿に残った大量の油をパンに浸して全部たいらげた友人のあだ名は油田(鼻が)。




今回は特定の5人くらいに向けて書いてるので、「わしそんなん知らんがな」という方はテキトーにスルーしてください。

この土曜日、あるクローズドな演奏会でここ数ヶ月練習してきたラバピエス(アルベニス「イベリア」より)を初お披露目したところ撃沈崩壊。跳躍する和音はことごとく音を外す、複雑なところは指がもつれる、暗譜が飛んで頭真っ白、つっかえつっかえ、やっとのことで弾き終えた瞬間、マヤの暦の間違いか何かで今すぐ地球滅びろ、と思ってしまいました。私の黒歴史入り確定。もう封印したい。

ちょっと真面目に今回の失態を分析すると、まず、若い頃は適度な緊張感があると普段うまく弾けたり弾けなかったりするところは案外うまく行ったりするんだが、歳とると普段うまく弾けたり弾けなかったりするところは間違いなく上手く弾けない。普段から間違うところは当然間違う。普段なんてことなく弾けてるところもそれにつられてズタボロ。あらゆることが裏目に出るのである。
それと、若い時分は暗譜で苦労したことがないのだが50超えるともうダメ。本番であんなにホワイトアウトするとは思わんかった。
まぁよくよく考えると、若い頃はそれなりに時間割いて練習していたんですよね。いくら最近さっぱりヒマですわ、などと言っても会社勤めしながら2時間も3時間も(物理的にも体力的にも)弾ける訳ないので若い時なら何とかなったことが出来なくて当たり前、という気もする。
一番根本的な問題は、そもそもラバピエスというのが選曲ミスですわな。好きこそモノの何とかで、惚れた曲なら大概の曲はどうにかなったあの頃はいずこへ。実際のところは、イベリアの中ではラバピエスって譜読みが面倒くさいだけで、技巧的にはへレスやトゥリアーナのほうがよっぽど難しいと思うけれど、ラバピエスがいかんのは、始まって20秒もせん内に一番の難所が来るので、そこでトチッて逆上するとずーっとリカバリー出来なくなること。ちょっと長い休符があって変イ長調に転調してから一休みできるところはあるが最早手遅れ。もう、アルベニスのいぢわる。

ほんと、今からでも地球滅びてくんないかな。
by nekomatalistener | 2014-05-11 01:12 | その他 | Comments(6)

日記みたいなもの~その9

心斎橋シネマートで、ジョシュア・オッペンハイマー監督のドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」を観る。1965年インドネシアで起こった共産主義者殲滅にかこつけた組合労働者や知識人、華僑らの10万人とも100万人とも言われる大虐殺の、いまも優雅にくらしている加害者に殺人の様子を映画仕立てで再現させるという秀逸なアイデア。最初のうち嬉々として「演じて」いた当事者がどう変化するのかが見ものだが、最後のクレジットで現地スタッフやキャスト名が流れるところ、延々とANONYMOUSという表記が続くのが、紛れもなく現代の現実なのだと震撼させられる。




さて久しぶりのブラームス「51の練習曲」のレポート。前回Breitkopf&Härtel版の番号でNo.1cと1dについて書きました。実はこれに続いてNo.1eと1fがあるのだが、今の私には難しすぎて苦痛以外の何物でもないので後回し。気分を変えてNo.21aを弾いてみます。
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これも弾きなれない内は11度くらい届く巨大な手でなければ弾けないのでは、と諦めそうになりますが、次第に手の大きさではなく指の捌き方でそれなりに形になってくるのが面白い(完璧なレガートは無理にしても)。今私が取り組んでいるLavapiésも日本人の手の大きさでは厳しいところが頻出するので、このエチュードはなかなか有用だと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2014-05-03 19:24 | その他 | Comments(0)

アルベニス 「ラバピエス」考 (その2)

「人喰猪、公民館襲撃す!」という2011年公開の韓国映画(もちろんC級)、なんか邦題のセンス(泣)にほだされて観たくなるなぁ。にしても公民館って・・・




ラバピエスに関してもう一つ豆知識みたいなお話を。
ロマン派以降の楽譜にはいわゆる「発想記号」というものが多く書き込まれるのが通例です。例えば、grazioso(優美に)とかrisoluto(決然と)といった類ですが、ラバピエスにはnarquoisement(人を小馬鹿にしたように)とかbrusquement(とげとげしく)、canaille(下卑た感じで)といった他では滅多にお目にかからない言葉がフランス語で書き込まれています。マドリッドの一角のラバピエス地区はいわゆるヒターノが多く住む街。昔から泥棒の巣窟などと言われて治安の悪い場所だそうだが、陽気な音楽に附せられたこの手の標記になにがしかの影響を与えているのだろうか。いずれにしても、きれいに、耳に心地よく弾くだけでは決定的に何かが足りないということ。前の投稿で私が「猥雑」ということばを繰り返し用いたのはこういうところを指しています。ラバピエスを弾く面白さは、この猥雑さ、下品さと言っても良いと思いますが、これを音楽的に表出することだろうと思います。
では前回の続きです。


http://www.youtube.com/watch?v=5EDzZ4uQsTI
マルカンドレ・アムラン
キャプションはなく詳細不明。アムランという人、いわゆる超絶技巧系の作品でいくつか良いディスクもある(例えばゴドフスキー=ショパンのエチュードとか)が、クラシカルな演目で実に退屈な演奏もあるというイメージ。この動画は録音も劣悪で終盤に音が流れなくなる事故があったり評価に値しないが、この曲とアムランの相性が悪いことは判ります。技術的にも破綻がおおく雑。


http://www.youtube.com/watch?v=omY4PCYOP8o
アムランの東京でのリサイタル?
この曲がこれほど何の感興もなく弾き散らされることも珍しかろう。なにしろ聴いていて全く楽しくない。技巧的にも実にお粗末。アムランの志すエンタテイメントとイベリアのそれとは方向性が違うのだろう。


http://www.youtube.com/watch?v=kUyw3MLzhZU
Rosa Torres Padro
英語のキャプションがないので詳細不明。テンポの揺れに独特のものがあるが、やや恣意的に感じられたり、
極端な音の跳躍といった技巧上の困難を回避するための、必然性のないテンポの揺れに思われるところもあって、あまり感心しない。
★★

http://www.youtube.com/watch?v=fEYu8qvj_OU
Diego Cayuelas
個人的には大変好きな演奏。技巧的には完璧といっても良いが、あまり神経質にならずに曲の猥雑な持ち味を全面に出しているのが素晴らしいと思う。密集和音や対位法的なからみの表現も程良くノンシャランで、何より聴いて楽しいと思う。この人については良く知りませんが、全曲録音していたらラローチャに迫るものが出来たに違いない。
★★★★

http://www.youtube.com/watch?v=EhjNQnyl7XA
Vanessa Perez
International Keyboard Institute & Festivalとキャプションにある。よく考えられ練り上げられたと感じられる点も多いが、魅力にまで至らないという感じ。やはり技巧的な面での余裕のなさなのだろうか。
★★

http://www.youtube.com/watch?v=uCdM4wpe9TM
Jose Echaniz
全曲盤、ラバピエスは45:14から。1950年代のウェストミンスター盤の録音とのこと。ヴィンテージ録音としてそれなりに貴重だとは思うが、技巧的にはかなり難あり。これを聴くと改めてラローチャという人がどれだけ傑出していたかを思い知ることになる。


http://www.youtube.com/watch?v=N_IETC4Opc0
Jose Maria Pinzolas
1991年録音の全曲盤。ラバピエスは59:30から。うーん、平凡かな。どこがどう悪い訳ではないんだが面白くない。これくらいならいまどきアマチュアでも弾きます。
★★

http://www.youtube.com/watch?v=R13GcRQSPxU
Rafael Orozco
これも全曲盤でラバピエスは57:45から。このピアニストについても詳細は何も知りませんがなかなか悪くない。さきのCayuelasとよく似たアプローチで、それなりに技巧もしっかりしていて手の内に入っている感じがします。これでもう少し華があれば、と思います。
★★★

http://www.youtube.com/watch?v=Gi0n6ZYeaUM
Mauricio Annunziata
1989年ブエノスアイレスとのキャプション。珍無類という人もいるかもしれませんが、基本的に弾けてないので私はパス。


http://www.youtube.com/watch?v=q53THCBxIOs
Pedro Fermín Guardia
キャプションには"Murcia, 13-05-2013"とある。ライブという以前に、体育会系というか、かなり荒っぽいところがあるが、陽気で猥雑という本来の曲想にはそれなりに合っていると思います。少なくとも聴いて嫌な感じはしない。
★★

http://www.youtube.com/watch?v=l9PjbrV-Dn4
上原由記音
アルベニスを得意といている人だそうだが、これを聴く限り、指のよく回るお嬢さんがきれいに無難に弾きました、という以上の感興を持てないのでした。このyoutubeはなぜか前半しか収録されていません。
★★


他にもいろいろありそうですがもうお腹いっぱい。どちらかといえばマニア向けの曲かと思ってましたが、録音・動画とりまぜてこんなにあるとは思いもしませんでした。それにしても難しい曲だなと思います。技巧的な困難もさることながら、それを乗り越えて陽気に猥雑に弾くのがなにより大変。★3つ以上はそれなりに聴いて楽しく、こんな風に弾いてみたいと思わせてくれる演奏でした。

最後におまけでアルベニス「スペイン組曲」から「カディス」をアルド・チッコリーニが弾いている動画を。
こういうのを色気のある演奏というのだろう。この小股の切れあがった女に鯔背な男、という感じ、若い人に理解してもらえるだろうか。
http://www.youtube.com/watch?v=Mj2vuUyPLzY

(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-04-04 23:48 | その他 | Comments(0)