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カテゴリ:演奏会レビュー( 110 )

シュトックハウゼン 「シュティムング」公演

もう30年近く前の話。会社の独身寮でヴィシュネグラツキーの微分音を使った音楽を聴いていたら、クラシックには全く興味のない同僚Uが部屋に来て「なにこれ?」と言いながらしばらく耳を傾けていた。するとUの顔色が次第に悪くなって、「吐きそう・・・」。「まじ?」と尋ねると「・・・まじっす・・・」というので慌てて中止。ヴィシュネグラツキー恐るべし。っていうか、この同僚、音楽の素養とかはまるで無いのだが耳は確かだったと思う。





先週のツィンマーマンに続いてまたまたサントリーホール詣。

 2015年8月29日@サントリーホール(ブルーローズ)
 シュトックハウゼン 「シュティムング」(1968パリ版)
  音楽監督:ユーリア・ミハーイ
  ソプラノ:工藤あかね、ユーリア・ミハーイ
  アルト:太田真紀
  テノール:金沢青児、山枡信明
  バス:松平 敬
  音響:有馬純寿


23日にツィンマーマンを聴いたおかげで、その後音楽を聴く気がしなくなるという後遺症を発症していたのですが、シュトックハウゼンの「シュティムング」のおかげで随分快復できたような気がします。
今こうして少し気が抜けた状態で感想を綴ろうとしていると、まさに祭りの後といった気分だけれど、音楽の力をまざまざと、またしみじみと感じた一週間であったと思います。

今回の公演はブルーローズという小さなホールでしたが、それにしたってこの演目で満員御礼というのには驚きます。私は開演の一時間前には会場に着いたのですが、わずかな当日券を求めて長い列が出来ていたことにも驚きました。この盛況の拠って来たる所については、客層の若さとあわせて、後段でもうすこし考察します。
さて、会場に入ると、真ん中にしつらえられた高さ1mほどの四角い祭壇のような舞台(6段ほどの階段で登るようになっている)の四方を客席が取り囲むようなかたち。舞台の上には6人分のクッションとスコアが円陣に並べられています。定刻を少し過ぎた静寂の中、6人の歌手が赤、黄、青、黒、白、ピンクとそれぞれ思い思いのブラウスやシャツに裸足で静かに現れ、舞台をゆっくりと一周して登壇、胡坐をかいて座る。演奏の後は長い長い沈黙と静寂。6人が互いに一礼し、立ち上がったところでようやく拍手が沸き起こる。
こういったことは、1972年にシュトックハウゼンが作曲した「私は空を散歩する・・・」と同様、シアターピースというほどではないにしても、儀式的あるいは呪術的な所作が指定されていて、CDで音だけ聴いているだけでは絶対に分からない。まぁこれは60年代後半の、ビートルズにおけるマハリシ・マヘシ・ヨギ体験みたいなもの、あるいはもっと漠然と当時のヒッピー文化の影響と考えればよいのだろう。あるいはもしかしたら日本の武道の「礼に始まり礼に終わる」みたいなものなのかも知れない。

音楽全体の殆どがB(B♭)とその倍音(F-D-As(A♭)-C)から成り立っていて、シュトックハウゼンの中でもその響きの清澄さは特異なものだと思います。素材は実に簡潔だが、そこから70分にわたって繰り広げられる音楽は、ホーミーのような倍音唱法であるとか、さまざまな母音を種々のリズムとテンポ、6人のさまざまな組み合わせで歌ったり、あるいは息を吸ったり吐いたりをマイクロフォンで増幅したりと、少しも退屈することがありません。また世界の神々の名前や曜日の名前、エロい内容の詩の朗読など、やりようによって幾らでも神秘的にできそうなところを敢えて俗っぽく聴かせ、また実際にはきわめて精緻に書かれているのにものすごくいい加減に聞こえるというのが、いかにもシュトックハウゼンらしいと思いました(これは以前に大井浩明の演奏で「自然の持続時間」を聴いたときにも感じたこと)。しかしこの俗っぽさ、いい加減さこそ、ツィンマーマンの毒に中てられた精神にはなによりの癒しとなったようにも思えます。

6人の演奏は本当に見事だったと思います。ほぼ1ヶ月に亘って、たった一日の公演のために明けてもくれてもシュティムングの練習をするという合宿のような日々を送ってきたそうだ。もうこれだけの演奏を聞かせてもらえば文句のつけようがないのだが、それでも欲を言えば本当はもっと高いレベルのパフォーマンスがあり得るという気がする。たとえばCDに聴くコレギウム・ヴォカーレ・ケルンの、6人の声がもっと緊密に絡み合って、聴いていて危うくトランス状態になりそうな高いレベルには若干届かなかったような気がします。そのなかではやはりこの作品を何度も歌ってきたユーリア・ミハーイが頭一つ抜けていたと思いますが、エロい詩の最中に流し目で舌を激しく動かしたりと、かなりヤバいなと思いました(笑)。

それにしても、ツィンマーマンの時もそうだったのですが、客層がけっこう若くて、普段のクラシックコンサートとは様相がかなり違う(ツイッターの件数が多いのもそのせい)。前回、そのことに対して、「大げさにいえば未来へのかすかな希望を感じた」と手放しで喜んでいたわけだが、よくよく考えるとツィンマーマンとシュトックハウゼンだからここまでの盛況だった訳で、これがハリソン・バートウィッスルやジェルジ・クルタークやジェラール・グリゼーだったらこうはいかなかっただろうという気がします。もちろんブーレーズやルイジ・ノーノなんかでもそうだろう。いや、ツィンマーマンやシュトックハウゼンにしたって、実のところここまで、すなわち膨大なツイートがtogetterでまとめられるといった事態が現れるなど想像もしていなかった訳ですが、ではツィンマーマンとシュトックハウゼンの共通点はなにか、あるいは彼らと先に挙げたバートウィッスル以下の人達との違いはなにか、といえばこれは難問。別の問いとして、プロモーション次第で若い客層を掴めそうな人ならスティーヴ・ライヒとかモートン・フェルドマンとか、あるいはもっと大御所でケージやクセナキスなんかも挙げられるだろう。誰かのツイートにも似たようなコメントがあったのだけれど、要は保守本流(あくまでも現代音楽における、という意味だが)を少し外しているあたりが人気の核心なのでしょう。保守本流の定義というのも難しいのですが、仮にブーレーズが振りそうな現代音楽が保守本流だとすると、(ツィンマーマンは微妙だけど)彼が間違っても振りそうにない音楽が突如間歇的に人気がでて「祭り」状態になる、ということは何となく言えそう。これって日本だけの現象なのか欧米でもそうなのか、とか考え始めるとキリがないのだが、実に興味深い現象ではあります。

それはともかく、今回の「祭り」でよく分かったことは、東京であればプロモーション次第でシュトックハウゼンの「リヒト」全曲上演が可能なのではないか、という感触というか希望を得たこと(残念ながら他の都市では考えられない)。もう既に誰か動いていると思うけれど、何年か先にきっと実現するという気がします。その時はたぶんお台場あたりでヘリコプター四重奏曲の演奏をするのかな。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-31 22:51 | 演奏会レビュー

ツィンマーマン 「ある若き詩人のためのレクイエム」日本初演を聴く

谷中で営業中のスタッフ。
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この数ヶ月、早くこの日が来ないかなと心待ちにしていた日がついに終わってしまいました。あれだけギーレン盤で予習していたというのに、実際生で聴いた衝撃というのは喩え様もなく凄まじいものでした。

 2015年8月23日@サントリーホール(大ホール)
 B.A.ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」
  指揮:大野和士
  ナレーター:長谷川初範、塩田泰久
  ソプラノ:森川栄子
  バリトン:大沼 徹
  合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
  管弦楽:東京都交響楽団
  大石将紀、西本 淳(サクソフォン)、堀 雅貴(マンドリン)、大田智美(アコーディオン)、
  長尾洋史、秋山友貴(ピアノ)、大木麻理(オルガン)
  ジャズ・コンボ:スガダイロー・クインテット
   スガダイロー(ピアノ)、吉田隆一(サクソフォン)、類家心平(トランペット)、
   東保 光(ベース)、服部マサツグ(ドラム)
  エレクトロニクス:有馬純寿


あれから2日が経過したというのに、まだまだ衝撃が冷めやらぬといったところ。いつものように、音楽的な聴きどころ→演奏評→その他、といった手順でまとまった小文を書くということ自体、今の段階では不可能に思われます。なにかそれは、巨大な経験が一編の感想文に矮小化されてしまうような気がするから。
ツィンマーマンやレクイエムでツイッターをリアルタイム検索すると、おびただしい数のツイートが現れます。そういえば今回のサントリーホールの客席の主役はなんといっても若者。普段の、こちらの生気まで吸い取られそうな年寄り達がメインの客層とは随分違う。私もツイッターをやらない中年だが、今回ばかりは断片的なツイート風の記述をもって備忘に代えることにしたいと思う。
*
コンサートという形態でこんな体験をしてしまうと、もう今後2年や3年はコンサートに行かなくてもいい、というか、行きたくないと思ってしまう。もちろん極論だし、一時の気の迷いだし、明日にはしれっと別のコンサートに行くかもしれないけれど、今のこの気持ちに偽りはない。だって、1969年作と少々日は経過したが、まだまだ紛れもなくコンテンポラリーな音楽でこれほど感動するというのに、100年も200年も前のクラシック音楽なんて聞いてもつまんないじゃないか。
*
ギーレンのCDを聴いていたときは、最後のドナ・ノービス・パーチェム(我らに平和を与え給え)の叫びがなんとも救いがないように聞こえるなぁと思っていた。実際はそんな生易しいものでなくて、世の中にこれほどの絶望の叫びがあるだろうか、と思わせられるものだった。震撼させられるとはまさにこのこと。
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開演に先立って長木誠司さんと大野和士さんのプレトークがあったが、そのなかで、ドナ・ノービス・パーチェムの主題が(すぐにヘイ・ジュードの引用でかき消されてしまうが)ワーグナー「神々の黄昏」の愛の救済の動機だという指摘があった。CD聴いてるだけでもなんと悲痛な、と思っていた箇所だが、それが「愛の救済の動機」から来ているとは。なんだかやりきれない。
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ドナ・ノービス・パーチェムの後半の金管の咆哮に、そういえばなんどもこの愛の救済の音型が出てくる。耐え難いほどゆがめられた姿で。そしてその救済への願いはいっさい叶うことなく、対空砲とデモの騒音に流れ込んでいく。
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できればこのブログでは政治のことなど語りたくないと思ってきたが、今回ばかりはそうもいくまい。この巨大なレクイエムを体験しながら、ガザ地区の人々、シリアの人々、ウイグルやチベットの人々のことに思いを馳せないわけにはいかない。ドナ・ノービス・パーチェムとは実にアクチュアルな叫びであって、作曲家の自死後45年経った今、むしろ困難は増大している。
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このコンサートで得た唯一の希望は、これほど前衛的な演目であるにもかかわらずほぼ満員御礼であったらしいということ、そしてなによりその大半が若い人たちであったことだ。いくら客席の一部を合唱団やサウンド・エンジニアリングのために潰していたとは云えこの盛況は驚異的だし、それは単にサントリー芸術財団のプロモーションが巧みであったという理由だけでは説明がつかないと思う。その真の理由は知る由もないが、なんとなく私は彼ら若い人たちをみて、大げさにいえば未来へのかすかな希望を感じたというのは事実だ。普段は政治的に保守寄りの中年男として、若い世代の浅はかな政治参加に鼻白む思いをしたりするくせに、だ。
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プロローグが終わってレクイエムⅠが始まるところと、レクイエムⅡの冒頭、そして最後の「我らに平和を与え給え」の叫び。新国立劇場合唱団の輝かしい成果の中でもこの日のパフォーマンスは図抜けていたと思う。普通に考えて、この作品でもっとも困難を極めるのは合唱のパートに違いない。合唱を指揮した冨平恭平氏が拍手にこたえて舞台に上がったときの、いつも初台でみるのとは全く違ったある種の昂揚感、泣きそうになるのを我慢しているようなすこし強張った表情が忘れられない。
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全体の中では地味な役回りだが、ソプラノとバリトンのソロは本当に素晴らしい。開いた口がふさがらないといったところ。とくに森川栄子の歌唱は凄まじい。私はかれこれ17年も前の1998年に彼女の歌い、演じるリゲティの「死者の謎」や「アヴァンチュール」「ヌーヴェル・アヴァンチュール」を聴いているから、前衛音楽の大ベテランといってよいのだろう。
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音響の有馬さんもすばらしい仕事をされていた。ギーレン盤を聴いてきたものとしては、ドナ・ノービス・パーチェムの後半、もうすこし混沌と明晰さとの折り合いの附け方があるような気もしたが。だがそれも、例の愛の救済の動機がはっきりと聞こえるのを聴けば小さな不満でしかない。
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スガダイロー・クインテットがアンコールに応えて繰り広げたジャズ演奏にはいろんな意見もあるみたいだが、あれがあったから途中で変な気もおこさず無事家に帰れたという人がいてもおかしくない。だがそれよりもっと重要なことは、ツィンマーマンが作品の最後に書き記した絶望の叫びは、あの明るいジャズの一節ごときではびくともしないということ。
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あの、全部読まれることを端から想定していない膨大な日本語字幕は、今回の公演の成功のおおきな要素だと思う。ジョイスのユリシーズ(ペネロペイア)の訳がすごいスピードで縦書きのニコ動みたいに出てきた瞬間にそのことを確信した。でも、フィネガンズ・ウェイクの引用部分がどんなだったか見落としたことがとても残念。
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鳴り止まない拍手に応えて何度も舞台に出てきた大野和士だが、最後の最後に、黄色い表紙のショット社の巨大スコアを、これこそ今日の主役だといわんばかりに誇らしく掲げた。本当に指揮者冥利に尽きるといった思いだろうと思う。そういえば数年前に彼が「トリスタンとイゾルデ」を振り(新国立劇場)、「ユビュ王の晩餐の音楽」を振ったとき(新日本フィル定期)から、この日のことは想定していたのに違いない。
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最後にもう一度悪態をつくが、こんな体験をしてしまうと、陰気くさいホールで年寄りの咳払いや飴の包み紙を剥く音に耐えながら、古典やロマン派のシンフォニーを聴き、誰それの演奏にくらべてここがどうしたあそこがどうこう、などといったディスクールを垂れ流す行為が本当に愚劣なものに思えてしまう。そろそろ目を覚まして日常に戻らなければならないのだけれど。
*
翌24日は休暇を取っていたので別の用事で上京していた家人と靖国神社を参拝、久しぶりに遊就館を見学した。しかし前日の公演で心が感じやすくなっていたのか、特攻隊員達のおびただしい遺書や遺影をまともに見ることが出来ない。今回のツィンマーマン体験の後遺症はずいぶん長引きそうな予感がする。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-25 23:22 | 演奏会レビュー

ジョン・ケージ フリーマン・エチュード

聞いた話だけど(ネタかも知らんけど)、会社のワタナベさんという方が片岡鶴太郎に似ているというので、上司とかが「つるちゃん」と呼んでいたのだが、ある日うんと年下の女性が彼に書類を渡すときに「はい、つるちゃん」と言った瞬間、ワタナベさんの顔色が変わって、「ぼくはつるちゃんじゃありません(怒)」と言った。あわててその女性が謝って曰く「あ、ごめんなさい、片岡さん・・・」。




ジョン・ケージの「フリーマン・エチュード」の第3・4巻を聴きました。

 2015年7月7日@京都カフェ・モンタージュ
 ジョン・ケージ
 「フリーマン・エチュード」第3巻・第4巻
 
  vn:辺見康孝


同じ奏者による第1・2巻の演奏は今年の2月15日だったのだが用事で行けず。今回ようやく後半だけとはいえ、生で聴くことができて実に面白い体験をしました。
ケージの「フリーマン・エチュード」、昔は知る人ぞ知るといった曲だったのが、最近はポピュラーとは言えないにしても随分と(名前だけは)知られるようになってきたのではと思います。曲名の由来は、ポール・ズーコフスキーの演奏を想定してベティ・フリーマンから委嘱されたことによるそうだが、前半の2巻を書いて、あまりにも複雑・難技巧になったために長い中断を余儀なくされ、その後アーヴィン・アルディッティの勧めによって作曲を再開したとあります。その間の演奏技術の進歩により、ようやく全曲が完成したという訳だ。
「昔は知る人ぞ知る」云々と書いたけれども、ケージの作品の中で同じ傾向の作品、すなわち音高やテンポ、強弱といったパラメーターが星図やコイン投げの結果のような偶然の産物に拠っており、作品の構成原理もまた易のような偶然性の高いものであるといった共通点をもつもの、ピアノのための「易の音楽」とか「南天のエチュード」なんかも同様だろう。試しにこれらの作品を時系列に並べてみると、「易の音楽」1951年、「南天のエチュード」1974~75年、「フリーマン・エチュード第1~2巻」1977年、「北天のエチュード」1978年、「フリーマン・エチュード第3~4巻」1990年となり、ケージのキャリアの中で意外なほど長い年代にわたって書かれていることがわかります。これらの作品に共通する極端な複雑さや難技巧は、「易の音楽」あたりではコイン投げの結果たまたま音符が密集した結果そうなった、という側面があるのに対し、それ以降の作品は最初から難技巧、ある種の名人芸の披露を狙って作曲されており、その分「わかりやすい」と言えなくもない。また、このような傾向(複雑さや難技巧への偏愛)が70年代の半ばから顕著になるのは、ブライアン・ファーニホウの出現とも関係しているのだろうと思います。ケージといえば、音符が確定的に書かれているか否かに関わらず、なんとなく音が少なく、通常の意味でのヴィルトゥオジティとはかけ離れたイメージを抱きがちだと思うのだが、それは偏に、ケージの中で別の系列をなすこれらの作品群の実演が少なかったということによるのだと思います。だが、大井浩明や辺見康孝のおかげで、こうして高いレベルの実演を聴く機会が増え、当然のこととしてケージの全体像も見直しを迫られるということなのでしょう。もっとも実際の演奏を耳にすると、奏者も大変だろうが聴く方だってほとんど苦行に近い体験をすることになります。もちろん音楽としてとても面白いのだが、どうしても一挺のバイオリンで1時間ちかい演奏を、終始同じテンションを保ったまま聴くというのは想像以上に困難で、ところどころ意識が飛びそうになったりもする。まぁ思いのほかあっというまの1時間で、面白かったのは確かだけれど、正直なところ「易の音楽」の実演を聴いた時ほどの興奮や感激はありませんでした。私自身が弦楽器をやる人間ならもう少し違った感想を持ったかも知れません。

辺見康孝の演奏について、私には巧いだの下手だの言えるだけの見識はないのだが、それにしても若い演奏家がこういったレパートリーに果敢に挑戦するというのは素晴らしいことだと思います。彼の演奏は昨年next mushroom promotionのメンバーとして聞いておりました。その時も感じたことですが、激烈な表現、それは正に苦行のはずなのだが、それを冷静に、むしろ楽しげに演奏していたように思います。演奏会終了後に、あっけらかんと、何ヶ所か緊張の糸が切れて、あまり正確に弾けなかったといった自己批判を云々したと思えば、アルディッティの録音は揺れてはいけないはずのテンポがかなり揺れている、といった演奏者ならではの演奏評が飛び出すのも実に愉快。スコアの特殊な表記の説明も興味深く、サロンならではのインティメイトな一夜でした。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-07-13 23:40 | 演奏会レビュー

バルトーク 弦楽四重奏曲連続演奏会vol.3

電車の中で幼稚園くらいの女の子と親戚のおばちゃん風の女性の会話が聞こえてくる。おばちゃんが女の子にすきな食べ物を尋ねると、女の子が元気に「近大マグロッ!」と答えてはりました。





泉原隆志率いる弦楽四重奏団によるバルトーク連続演奏会の最終回は第2番と第6番。伸び盛りの若い演奏家が回を追うごとに成長していく様子は観ていて(聴いていて)素晴らしいと思いました。

 2015年4月24日@カフェ・モンタージュ
  バルトーク
   弦楽四重奏曲第2番Sz.67(1917)
   弦楽四重奏曲第6番Sz.114(1939)

  泉原隆志(vn)、長谷川真弓(vn)、金本洋子(va)、城甲実子(vc)


わずか半年ほど前に、第1回目(3番&5番)を聴いたときは、そのアンサンブルの瑕の多さに少しハラハラしたものですが、その分バルトークの音楽のフォークロア的な側面が際立ち、それはそれで実に面白いものでした。その後、第2回目(1番&4番)では格段にアンサンブルの精度がよくなり、今回は満を持しての最終回という感じがしました。
以前にも書いた通り、バルトークの弦楽四重奏曲については、ジュリアードSQの旧盤に代表されるような先鋭極まりない演奏、4本の鋼鉄製の針金がきりきりと絡み合うような演奏と、私がその昔愛聴していたノヴァークSQのような、肌理の粗い手触りと濃密なマジャールの血を感じさせるような演奏の二つのタイプがあるように思いますが、彼らの演奏はもちろん後者のタイプに近い。それはアンサンブルの精度の問題もあるけれど、むしろそれより峻嶮な山々に挑む彼らの気負いと愚直なアプローチの所為だろうと思います。その結果、第2番の特異な面白さが際立っていた反面、第6番の晦渋さを改めて認識することにもなりました。

第2番は1915年から1917年にかけて書かれたということだが、その少し前に大規模なバレエ音楽「かかし王子」が、そのあとにパントマイム「中国の不思議な役人」が書かれているところを見ると、この時代にバルトークの作風が伝統を踏み越えて大きく変化したのは間違いないところ。したがってこの第2番には、ストラヴィンスキーのオペラ「うぐいすの歌」やシェーンベルクの「グレの歌」と同じく、一つの作品中に様式の大きな変化が刻まれていると言えます。ラプソディックな第1楽章、仏領アルジェリアで採集したサハラの民族音楽の影響を受けた第2楽章に比べると、急進的な第3楽章の特異さが突出しています。一般には弦楽四重奏曲第4番(1928)あたりがバルトークがもっとも「前衛的」であったとされているようですが、私はむしろ1918年あたり、「中国の不思議な役人」もそうだが、「ピアノのための3つのエチュード」なんかのほうがはるかに無調的で演奏も至難、若きバルトークが内なる天才の命ずるままに自由奔放に書いている感じがします。というわけで、弦楽四重奏曲第2番というのは一般に思われているよりもはるかに重要な作品ではないか、と改めて思いました。今回の演奏では第1、第2楽章と第3楽章との落差が巧まずして強調されていた結果、この作品の特異さ、様式の切断のようなものを理解できたような気がします。

アメリカ移住の直前に書かれた第6番は、私にはなかなか腹に入らない難物。カフェ・モンタージュの店主が、バルトークという人は真顔で冗談を言うので、周りの者はどこまでが冗談でどこから本気なのかわからなかった、同様にこの第6番もよく分からない云々と仰っていたのはまさにその通り。楽章を追うごとにMesto(悲しげに)の部分が増殖していくような構造、第1楽章のベートーヴェンの第16番や「大フーガ」を思わせるようなモットーの扱いと、同じくベートーヴェンの後期ピアノソナタのパロディのようなMarcia、冗談のかけらもない苦い味わいのBurlettaに続いてMesto一色に塗りつぶされた救いのない第4楽章。とてつもなく深刻そうなのにどこか飄々としており、真面目かと思えばどこか投げやり、しかもある種の人生に対する悪意のようなものが垣間見えて、一筋縄でいかないとはまさにこのこと。この後にアメリカで書かれた晩年の作品にみられる澄みきった境地のようなものは全く見られません。恐るべき音楽だとは思うけれど、そんなにしょっちゅうは聴きたいと思わないし、今回の演奏を聴いてもその思いは変わりません。今回の演奏は大変な熱演だったと思いますが、残念ながらその晦渋さを超えて、聴き手の腹に落ちるような演奏には至っていないと思いました。ある作品に対して、演奏者が若いということがネックになることなど本当はあまりないと思いたいのだが、この6番ばかりは彼らも歯が立たなかったという他ありません。

この名無しのカルテット、この後の予定はまったく無いそうだ。泉原さんのコンマスとしての活動も忙しいに違いなく、長期に亘ってアンサンブルを練り上げていくのは大変なのかもしれませんが、今回のバルトークシリーズは大成功だったと思うので、なんとかこれからも弦楽四重奏団としての活動をしてほしいものです。ショスタコーヴィチの15曲、シェーンベルクの4曲、ウェーベルンの3曲(Op.5,9,28)にベルクの2曲etc、彼らの演奏で聴いてみたい作品はたくさんあります。どうか息長く取り組んでほしいと思うのですが。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-30 23:10 | 演奏会レビュー

大阪国際フェスティバル2015より ロッシーニ 「ランスへの旅」

ほぼ満席のフェスティバルホールの客の、ざっと半分以上が大阪のオバハンであると推察。豹柄こそ見当たらねど、なんとなく着てるものに気合が入っている印象。「やっ、奥さんどないしはったん、ええの着てはるやん、どこでこおたん?」とか手当たり次第に茶々いれとなるわー。




 
楽しみにしていた「ランスへの旅」公演。終幕近く、もうすぐ終わってしまうのだと思っただけで泣けました。


 2015年4月18日@フェスティバルホール
 ロッシーニ 「ランスへの旅」
  コリンナ: 老田裕子
  メリベーア侯爵夫人: ターチャ・ジブラッゼ
  フォルヴィル伯爵夫人: イザベラ・ガウディ
  コルテーゼ夫人: 石橋栄実
  騎士ベルフィオーレ: 中川正崇
  リーベンスコフ伯爵: アントン・ロシツキー
  シドニー卿: クラウディオ・レヴァンティーノ
  ドン・プロフォンド: 伊藤貴之
  トロンボノク男爵: 三浦克次
  ドン・アルヴァーロ: 木村孝夫
  ドン・プルデンツィオ: 西村圭市
  「ランスへの旅」フェスティバル・シンガーズ
  指揮: アルベルト・ゼッダ
  演出: 松本重孝
  ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団


大阪国際フェスティバル2015の目玉であった本公演、内外の若手歌手を選りすぐって素晴らしい舞台であったと思います。が、今回のMVPはなんといっても指揮者のアルベルト・ゼッダ。もう80の半ばを過ぎておられると思うのだがなんという溌剌とした音楽だろう。随分長い時間をリハーサルに掛けたそうですが、私がロッシーニの演奏に望むものすべて、輝かしいオーケストラの響き、こころが湧き立つようなリズムの饗宴、強い日差しや抜けるような青空を思わせる声と、そのために却って濃く感じられる影の気配、そんな事々がすべて信じられないぐらいの実在感でもって実現されていました。正直なところ、歌手のレベルに若干のバラツキがあったことは否めませんが、それでも私がこれまでに聴いたロッシーニ演奏としては最上のものであったと思います。

主役級だけで10人前後も出てくるこのオペラで、個別に誰がどうだったか、悲しいかな終わったそばから忘れていく部分もあって全部は書ききれませんが、とくに印象に残った歌手を何人か書き留めておきます。なんといっても一番おいしい役をさらってカーテンコールでも一番大きな拍手をもらっていたのはコリンナを歌った老田裕子でしょう。この人、昨年の「カーリュー・リヴァー」公演で少年の声を歌って好印象を持っていましたが、ややスピントな芯のある、意思の強さを感じさせる声質で、華やかなコロラトゥーラも自在感があって素晴らしいと思いました。メリベーア侯爵夫人を歌ったターチャ・ジブラッゼの、深みのあるメゾにも夢中にさせられます。今回の女性の出演者の中ではもっともロッシーニの様式に寄り添った歌唱だったかもしれません。リーベンスコフ伯爵のアントン・ロシツキーは、かなり粗っぽくて、お花畑をブルドーザーで走り回るようなところもあるが、その声の輝かしさの魅力は否定しがたいものがありました。ヴァリアンテもハイCだかハイDだか、ちょっとやりすぎな感じもあったが、それでもその白熱した歌唱には(多少苦笑いしながらも)大きな拍手を送らざるを得ません。シドニー卿をうたったクラウディオ・レヴァンティーノは、真面目で地味な歌い方が役柄によく合っていて、好感を持ちました。日本人の男性陣ではドン・プロフォンドの伊藤貴之が達者なブッフォぶりを発揮して見事。彼のアリアはアバドの旧盤ではライモンディが怪演していた役ですが、ロッシーニのバスアリアとしても特に優れたアリアだと思います。これぐらいにしておきますが、宿の使用人たちの合唱も含めて、総体としてはなかなかの高レベルであったと思います。特に前半の6重唱や14声のコンチェルタートなど茫然とするくらいの完成度。ただ、今回の公演に限って言えば、私のうけた大きな感銘は歌手よりはむしろオーケストラから受けたものという気がします。ちなみにレチタティーヴォ・セッコはピアノフォルテで古雅な響きがとても美しい。そこそこ饒舌なのに上品なのもよい。シドニー卿のアリアのフルートのオブリガードや、コリンナの伴奏のハープも実にきれいでした。備忘として記しておきます。

演出は実にオーソドックスなもので、よくも悪くも引っかかるものが全くなく過ぎていきました。まぁお話自体が歌合戦のためにとってつけたみたいな他愛のないもの、と考えれば、演出であれこれ頑張る必要もないわけですが、最後の歌合戦とコリンナの歌によるヨーロッパ各国の友愛と和合の場面に至って、舞台には歌合戦には登場しなかったギリシャの旗が翻るのを目にして、当然のように現代のEUにおける理念と現実、EUをとりまくイスラム国の問題、イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナのことなどが一瞬頭をよぎります。この究極の余興というべきオペラに無粋すぎる連想であることは百も承知ですが、舞台上の夢のような世界がもうすぐ終わってしまうというもの惜しさと、こんな世界は現実のどこにも存在しないのだという苦い認識とが綯い交ぜになって、感動とも悲しみともつかない複雑な心境になったのは事実。演出(というか小道具)にしてやられた感じはしました。

さて、この「ランスへの旅」にまつわる私の視聴体験だが、クラウディオ・アバドによる新旧録音はもちろんどちらも素晴らしいと思いますが、個人的には2008年1月31日に東京文化会館で聴いたゲルギエフ率いるマリインスキー劇場の引越し公演が今でも鮮やかに思い出されます。ゲルギエフの狙いはマリインスキー劇場の座付き歌手に近い、無名の秘蔵っ子たちのお披露目だったような気がしますが、このときの演出は幕開けからして、劇場内の客席のあちこちから登場人物たちが飛び出して来たり、舞台上にバロック時代のような鬘をつけた楽団員が並んでいたり、と工夫満載。ゲルギエフはタキシードにボルサリーノと真っ白なマフラーをつけてピットではなく舞台上で指揮をし、歌手たちは現代のファッションショーのようなポップな衣装で、時に本物の馬にまたがって颯爽と現れるなど、ありとあらゆるスペクタクルな趣向が凝らされ、その分お話の空疎さがめだったものの、実に楽しい舞台でした。ゲルギエフのロッシーニは、無類の面白さながらなんとなくオーセンティックなロッシーニとは違うんじゃないのか、という落ち着かなさもあったけれど、若手歌手らのまとまりの良さと才気煥発な演出で、それはそれで大満足な一夜でした。その時の演奏と今回の公演を比べようとするつもりはありません。どちらも本当に素晴らしい舞台でしたし、日本にいながらにして二度もこのオペラの舞台を見ることができたことを本当に幸せに思っています。

追記その1
ゲルギエフの時は多少の繰り返しのカットなども入れつつ、長大な一幕仕立てだったように記憶していますが、今回は14声のコンチェルタートで一旦休憩を入れ(ここまでカットなしでちょうど2時間)、歌合戦を中心とする後半(約45分)が続くというスタイル。トイレのこととか考えると妥当な感じですね。
追記その2
今回の公演で新しく建て替えられたフェスティバルホールを初めて体験しました。私の席は一階最後列で、二階席が視界の上方を塞ぐように迫り出していて、ちょっと嫌な予感がしましたが、音楽がはじまると実に美しく、尖りもせずぼやけてもいない、ほどよくブレンドされた音が聞こえて安心しました。まずは良いホールに生まれ変わったことを喜びたいと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-22 00:31 | 演奏会レビュー

The People United will NEVER be defeated!

「アリとキリギリス」のwikipediaの記述すごいな。
「この寓話には二つの寓意がある。一つは、キリギリスのように将来の危機への備えを怠ると、その将来が訪れた時に非常に困ることになるので、アリのように将来の危機の事を常に考え、行動し、準備をしておくのが良いというもの。 二つ目は、アリのように夏にせこせことためこんでいる者というのは、餓死寸前の困窮者にさえ助けの手を差し伸べないほど冷酷で独善的なけちであるのが常だ、というものである。」





なんとなくサヨク嫌いだと思っていた大井さんが、よりによってこんなプログラム。4月1日(エイプリルフール)というのと相俟って、これは何か悪い冗談なのか、と最後まで気が抜けない(笑)。


 2015年4月1日@カフェ・モンタージュ
  
  高橋悠治: 毛沢東詞三首 (1975)
  ジェフスキ: 「不屈の民」変奏曲 (1975)(カデンツァは池田拓実(2015)※)
  (アンコール)
  坂本龍一: エナジーフロー (1999)
  吉松隆: 左寄りの舞曲Op.35-2 (1988)

  ※カデンツァで引用された曲: 
  高橋悠治《管制塔のうた》(1978)〔成田空港入場検問廃止記念〕
  セルヒオ・オルテガ《ベンセレーモス》(1971)
  《サリール・アル=サワリム》(2014)

  ピアノ: 大井浩明


思うに大井浩明というピアニストは、自分の好む作品をリサイタルで提示するだけでは飽き足らず、その作品の生まれたコンテクストの全体像を示そうとする志向が強いのだと思います。この人が本当に好んでいる作品は、たぶんどこかで本人が話していたとおりシュトックハウゼン、クセナキス、ブーレーズあたりなのだとおもうが、それらの作品を繰り返し繰り返し取り上げるだけでは飽き足らず、その同時代の、あるいはそれに先行する、または影響を受けた人たちの膨大な作品のアーカイヴを提示せずにはいられないのだろう。
同様の志向は多かれ少なかれ、現代音楽(あまり好きな言葉=切り分け方ではないが、便宜的に1945年以降の音楽をこう呼んでおく)を得意とする演奏家に共通するものだろうと思います。ブーレーズもポリーニも、自身のプログラムビルディングによる大規模な現代音楽の連続演奏会を行っています。しかし、ブーレーズが一連の20世紀音楽の回顧展を行った際のインタビューで、ショスタコーヴィチがひとつも入っていないことを訝しんだインタビュアーに対し、「私はショスタコーヴィチが重要な作曲家だとは思いません。それに下品ですし・・・」と答えたように、ブーレーズにしてもポリーニにしても、そのプログラムは彼らの厳しい審美眼に耐える作品のみが選ばれており、彼らの「趣味に合わない」作品は厳しく排除されていたように思う。しかし、大井浩明はこれまで膨大な作品を取り上げているが、それは彼自身が好む作品だけではなく、そのコンテクストを構成するものであれば例え自分の趣味でなく、共鳴もしない、あるいは駄作であっても敢えて取り上げるという点で、他に比べるもののないピアニストという気がします。
そういった意味で戦後のある時期、60~70年代の音楽を取り上げようとすれば、このコンテクストを提示するには政治的メッセージ(それももっぱら左寄りの)の強い一連の作品をオミットするわけには絶対にいかないと考えたのだろう。誰がどう考えたって、思想的な意味で大井浩明とジェフスキーや高橋悠治が共鳴することはありえないにも関わらず、大井浩明は敢えて彼らの作品だけでリサイタルを行う、そういう人なのだ。しかも4月1日(四月馬鹿)に悪意を込めたアンコール曲と並べて。
大井浩明の「政治思想」がいかなるものなのか、彼のツイッターに溢れるネトウヨ風の露悪的なディスクールをどこまで真に受けたものかよく分かりませんが、今回のアンコールも含めた「サヨク的なるものに対するあからさまな悪意」は筋金入りという気がします。カフェモンタージュに集まった聴衆が実のところどう思ったか知らないが(案外、坂本龍一すてき!とか思ったかもしれないが)、もし坂本龍一や吉松隆がこの場に居合わせたなら、その微妙なおちょくり方に憤慨して席を蹴って帰ってもおかしくないとおもいます。

以上は演奏家の思考を忖度しながらの考察だが、一方で聴くものの立場からすれば、こういった演奏会に接して、「音楽は思想(政治)を語りうるか」という根源的な問いを改めて考えないわけにはいかない。私は再三再四書いてきたように、音楽というのは本質的にシニフィアンの連鎖であって、一切の意味作用を剥奪されていると考えるものであるが、反対に音楽というものは本質的に政治的なものであって、人はあらゆるところにそのメッセージ性を感じ取るべきであるという立場があるのは当然だろうと思います。特に革命歌の引用を聞いて人は何を思うべきか、というのはなかなか面白い設問であろう。例えばこれがベルクのヴァイオリン協奏曲であれば、バッハのコラールの引用から「われ満ち足れり」という章句に思いを致さずに音だけを聞くというのは困難だろう。音楽がシニフィアンの連鎖だとしても、いわば不純物の形で介入してくる言葉や意味というものを抜きにしてその音楽を評価できるのか、というのは意外に困難な問いだと思います。

大井浩明の演奏はここ最近いつも思うことだけれど、ディティールが粗っぽくて、長時間聞き続けるのは正直つらいところもある(初めて「不屈の民」を聴いたのがアムラン盤、なんて人は尚更だろう)。しかし今回はそのような演奏スタイルが案外合ってなくもない。学生運動華やかなりしころの集会で奏でられる音楽はこのような粗い手触りのものこそ相応しいだろう。そのような音楽はコンサートホールなんかじゃなくて、昔であれば京大の西部講堂なんかが相応しかったのだと思うが、この日のカフェモンタージュはある意味そのような特殊な空間のオールタナティブとして機能していたように思う。ひさびさにアングラという言葉をふと思いだす実に不思議な感覚。客の入りが少なくて20人ほどしかいなかったが、それもまた良し。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-04-02 22:58 | 演奏会レビュー

新国立劇場オペラ研修所公演 ロッシーニ「結婚手形」「なりゆき泥棒」

スマホで「なまはげ」と打つとめちゃかわいい鬼の顔の絵がでてくるよ。





新国立劇場のオペラ研修所によるロッシーニのファルサ2本立て公演、わざわざ関西から聴きに行った甲斐がありました。


 2015年2月21日@新国立劇場中劇場
 「結婚手形」
   トビーア・ミル: 西村圭市(Br) 
   ファンニ・ミル: 飯塚茉莉子(Sp)
   エドアルド・ミルフォルト: 水野秀樹(T)
   ズルック: 大野浩司(Br)
   ノルトン: 後藤春馬(Bs-Br)
   クラリーナ: 高橋紫乃(Ms)

 「なりゆき泥棒」
   ベレニーチェ: 種谷典子(Sp)
   ドン・パルメニオーネ: 大野浩司(Br)
   アルベルト伯爵: 岸浪愛学(T)
   エルネスティーナ: 高橋紫乃(MS)
   マルティーノ: 後藤春馬(Bs-Br)
   ドン・エウゼービオ: 伊藤達人(T)

  指揮: 河原忠之
  演出: 久恒秀典
  管弦楽: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


いつも読んでいるブロガーさん達の評価が今ひとつなのは残念だけれど、少なくとも私が聴いた21日の公演のキャストは素晴らしい歌唱であったと思います。どちらかといえば曲目の珍しさに惹かれて聴きに行ったので、正直なところ演奏に対する期待値はさほど高くなかった訳ですが、現在の若手の歌手達の技術がここまで進んでいるとは、と驚嘆の思いを禁じ得ませんでした。特に「結婚手形」のファニー(ファンニ)役の飯塚茉莉子と「なりゆき泥棒」のベレニーチェ役の種谷典子が素晴らしく、彼女たちの歌を聴けただけでもう大満足。とりわけ後者のソロ「あなた方は花嫁を求め Voi la sposa pretendete 」は驚くべき技術で、後半の繰り返しのヴァリアンテもこの上なく華やかでしたがまだまだ余裕のある歌いぶり。おそらく今後頭角を現していかれることと思いますが、彼女のたった1日限りのベレニーチェを聴けたことを私はずっと自慢に思うに違いありません。
ロッシーニのオペラの興行において最も困難なことは、輝かしい声でアジリタを正確に歌えるハイ・テノールの確保であると思いますが、エドアルト役の水野秀樹、アルベルト伯爵役の岸浪愛学ともども、十分期待に応えてくれたと思います。岸浪はちょっと風邪気味だったのか、声が擦れそうになることもありましたが、至難なアリア「どんな神聖な務めも D'ogni più sacro impegno 」を誤魔化し無しで果敢に歌いきって素晴らしかったと思います。
他の歌手たちも総じて優れていたと思いますが、指揮の河原忠之があまりにも歌手の生理に合わせて、というか安全運転に過ぎるものでしたので、ちょっと間延びするところも。ズルックとドン・パルメニオーネを歌った大野浩司など、こまかい音符をはしょらず丁寧に歌っているのには好感を持ちましたが、指揮者は時に過酷であっても更に彼らを追い詰めるべきだったのではないか、などと思いました。脇の何人かはそろそろ中堅といった歌手が押さえていましたが、トビーアを歌った西村圭市は(私は以前「スペインの時」(ラヴェル)のラミーロ、「カーリュー・リヴァー」(ブリテン)の旅人を聴いているが)さすが場数を踏んできた歌手ならでは。そのコミカルな味わいはちょっとインパルスの板倉のコントを観ているような感じです。また「なりゆき泥棒」のドン・エウゼービオ役の伊藤達人も以前「フィレンツェの悲劇」(ツェムリンスキー)のグイドや「カルディヤック」(ヒンデミット)の騎士役を歌うのを聴いていますが、今回はまさかのオネエ役という設定で笑わせてくれました(コミカルで、しかも後味が良い)。脇役も穴がなく、後藤春馬や高橋紫乃のシャーベット・アリアが本来の「お口直し」をはるかに超えて聴かせるものになっていたのも素晴らしいと思います。

河原忠之の指揮については先ほども書いた通り少々もっさりしたところもあるのだが、歌手に余裕があるとすばらしく適確なテンポになり、そうでない場合やアンサンブルになるとやけに慎重になる癖があるように思いました。とはいえ、「結婚手形」のフィナーレや「なりゆき泥棒」の五重唱など、アンサンブルでもスリリングに聴かせるところもあって、どこまでが指揮者の計算の内なのか、ちょっと判断に困るところ。私自身はいくつかのブログの悪評ほど酷いとも思いませんでした。それは東京シティフィルの好演によるところが大きいと思います。やや重心が低音寄りなのだが十分に輝きもあり、薄っぺらにならない響きが実に良かったと思います。ロッシーニとなると途端にスッカスカの音を鳴らすオケが多い中、これは良い意味で予想を裏切られました。そのせいで、ところどころ重いテンポの個所も、それはそれでちゃんと音楽として成り立っているように思いました。もちろん私とてもっと颯爽とやってくれないかな、と不満に思う所もありますが、ロッシーニが(驚異的な速筆にも関わらず)一音一音克明に楽譜に書きつけたアジリタをすっ飛ばすような雑な演奏を聞かされるよりは、よほど良かったと思います。

もうひとつ特筆すべきことは美術の美しさ。「結婚手形」では前方に傾いだ丸舞台の両脇に大きな扉のある壁、舞台奥にもうひとつ扉、舞台上にはアンティーク風の地球儀、書き物机に籐の衝立。シンプルだが落ち着いた色合いで、19世紀初頭の中産階級の邸宅の表現としては申し分なし。「なりゆき泥棒」は同じ八百屋舞台の上に、楕円形の額縁に雲が描かれた絵画のようなものが吊り下げられ、前半の嵐の宿の場面ではそれに流れる雲のような照明が当たってあたかも天窓のように見え、後半はロココ風の調度品となって侯爵家の瀟洒な室内を表す。それ以外には舞台下手にソファ、小道具に旅行鞄と4つの荷物を入れた箱のみとシンプルだが、芝居のお膳立てとしては必要にして十分。演出はごくごく常識的なものだが、なじみの薄い出し物なのでこれで良いと思います。

土曜の夜にしては客の入りはよくありません。ロッシーニの天才を知らない人が多いのは残念ではありますが、この国の妙な独墺偏重主義に凝り固まった年寄がクラシックコンサート市場の上客である以上、致し方ありません。だからこそ、ロッシーニの演奏至難な初期ファルサをオール日本人キャストで高水準な舞台で聴く日がこようとは、と実に感慨深いものがありました。日本のオペラ界というのも狭い世界だけれど、その中の若手の世界では今や、かつてのロッシーニ・ルネサンスの頃もかくやというほど、すぐれた才能が現れてきているらしい。声楽家もアスリートと一緒で、年々巧くなっていくものなのかも知れません。来る4月の大阪での「ランスへの旅」公演も楽しみです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-24 23:59 | 演奏会レビュー

バルトーク 弦楽四重奏曲連続演奏会vol.2

検索画面で「常岡」とうっただけで「常岡浩介 猫」とか「常岡浩介 にゃーにゃ」とか出てきてなごむわー。





泉原隆志率いる弦楽四重奏団のバルトーク連続演奏会の第2回を聴きました。

  2015年2月9日@カフェ・モンタージュ
  バルトーク
   弦楽四重奏曲第1番Sz.40 (1909)
   弦楽四重奏曲第4番Sz.91 (1927)

  泉原隆志(vn)、長谷川真弓(vn)、金本洋子(va)、城甲実子(vc)


同じメンバーによる第1回の様子は以前このブログに書きましたが、

http://nekolisten.exblog.jp/20248537/

今回の演奏もバルトークのフォークロア的な側面を際立たせる演奏という印象は変わりません。しかし、前回よりも技巧のほつれが少なく、音楽への踏込み方も深くなっており、完成度が格段に上がっていました。上り坂にある若い人達らしく、わずか数ヶ月の間に驚くほど巧くなっているように思いました。
私個人のバルトークの弦楽四重奏曲との出会いについては前回書きましたので繰り返しませんが、第1番についてはどうしても後の諸作に比べて、内容の割に長すぎるのではないか、といった感想を持たざるを得ませんでした。しかし、今回彼らの闘志がみなぎるような気負い立つ演奏を聴いて、初めてこの作品を飽きずに最後まで面白く聴きとおせたような気がします。このことは本当に凄いことだと思います。バルトークの、ベートーヴェン以降の弦楽四重奏曲の歴史に連なろうとする気負いが、彼らの今現在の演奏スタイルにぴたりと合致したことでこのような演奏になったのでしょう。そしてその気負いを正しく表現すれば、フォークロア的側面は体臭のように自ずと現れ出るのだと思います。もしかするとこのような表現は、技巧にも優れ、場数を踏んだベテランではなくて、彼らのような伸び盛りの若い四重奏団にしかできないものがあるのかも知れず、今回の演奏を聴けたことは実に貴重な体験であったのかも知れません。

第4番について、カフェ・モンタージュの店主がベルクの「抒情組曲」と並んで20世紀の弦楽四重奏曲の双璧といったことを口にされていましたが、これに異を唱える向きは少ないだろうと思います。もちろんショスタコーヴィチ、シェーンベルク、ウェーベルン、ブリテンはどうなるんだ、という声もあろうかと思いますが、彼らの作品がどれか一つというよりは全体として重要であるのに比べて、抒情組曲とバルトーク4番はずばり1曲対1曲のガチンコ勝負という感じがします。それだけどちらも多彩で密度の濃い作品ということでしょう。
それはともかく第4番も実に面白い演奏。彼らの演奏は、前回よりはるかに技巧的な難点が克服されているものの、精緻といった感じではなく、かなり粗削りなところも残しているのは確かだろうと思います。しかし粗削りだからこそ、この作品のもつマジャールの血の刻印がはっきりと読み取れるような気がしました。前回、私は第3番を評して「バルトークのラジカルな要素とフォークロア的要素がぎりぎりの地点で奇跡のように両立している」と書きましたが、今回の演奏を聴くと、やはりこの言葉は第4番にこそ相応しいと思います。そういった意味で、作品の本質をとらえた優れた演奏であったと思います。

このシリーズ、来る4月24日、第2番と第6番が最終回。今回も満員御礼だったそうなので、興味のある方はどうぞお早めに。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-12 22:34 | 演奏会レビュー

西村朗ピアノ作品によるリサイタル

代替食品ソイレントが出荷開始ってニュース、40年ほど前の映画「ソイレント・グリーン」を知ってる世代にはガセネタとしか思えないんだが・・・





京都のカフェ・モンタージュで西村朗作品によるリサイタル。この40人ほどでいっぱいになってしまう小さなカフェがコンテンポラリー音楽の聖地になる日は近い?

                                            
 2015年2月8日@カフェ・モンタージュ
 西村朗作品集
  《炎の書》(2010)
   (トーク)
  《神秘の鐘》(2006)
  《薔薇の変容》(2005) 
  《カラヴィンカ》(2006)
   (トーク)
  《オパール光のソナタ》(1998)
  《タンゴ》(1998)
  《アリラン幻想曲》(2002)
  《三つの幻影》(1994)
   (アンコール)
  田中吉史《松平頼暁のための傘》(2010/11)
   〔松平頼暁・西村朗両氏の対談の音声素材に基づく〕(委嘱作品)
  ジョン・レノン(西村朗編曲)《ビコーズ》(1969/91)
  武満徹(西村朗編曲)《さようなら》(1953/2001)

  ピアノ:大井浩明、トーク:西村朗


大井浩明が東京でPOC(Portraits of Composers)と銘打ち、毎回一人のコンテンポラリー音楽の作曲家を取り上げて、そのピアノ曲を可能な限り網羅的に演奏するという意欲的なリサイタルのシリーズを続けているのは周知のことだろうと思います。今回のはいわばそのPOCの番外編といったもので、ピアノ曲のみとはいえ、西村朗の音楽がこれほど集中的に取り上げられるということも珍しいだろうと思います。
私は不勉強ながら彼の音楽をほとんど知りません。数年前のN響アワーで「蘇莫者」という舞楽の舞を伴うオーケストラ曲の抜粋を聴いて、かなり好意的な感触を得たけれども、その後あれこれ音源を取り寄せるところまではいかず今日に至りました。そんなわけで良くも悪くも殆ど何の先入観も持たないまま聴いた次第でしたが、ある意味非常に判りやすい音楽という感じがしました。そしてその判りやすさが、音楽としての面白さの根幹をなしているという風にも思えます。
これらの作品について、西村氏自身が大井浩明のブログに自作解題を寄せておられますので、詳細はそれを読んでいただくとして、

http://ooipiano.exblog.jp/23409101/

まず目に付くのは、「水」や「炎」、「光の乱反射」や「鳥の声」といった視覚的、聴覚的なモチーフによる標題楽が多いということ。その当然の帰結として、これらのキーワードを目にしたときに誰もが思い浮かべるであろうピアノ曲の大家、ドビュッシー、スクリャービン、メシアンらの響きの、遠い木霊が聞き取れます。
その視覚的、聴覚的イメージというのは、当日のトークで上掲の解題よりも更に具体的に語られました。例えば、冒頭の《炎の書》は中目黒不動尊で目にした護摩の炎とそのゆらめく火影であること、次の《神秘の鐘》は嵐山の化野を訪れた際にインスピレーションを得たこと、第2曲の子守歌は水子を弔うものであり、両端楽章は渡月橋を渡ってあの世とこの世を往来するイメージであること、最後の《三つの幻影》の第2曲で、内部奏法(低い音の弦を指でミュートしながら鍵を強打する)の音はバラナシ(ベナレス)の河岸の火葬を見た時の、骨が割れる音であること、また第1曲はガンジス河そのもの、第3曲は火葬で唱えられるマントラの音による描写であること云々。
これらの身もふたもない直截な元ネタを、いくら作曲者自身の言葉だからと言って額面通り受け取ってよいのか、それともこれは一種のリスナーに対するサービスなのか、よく分りませんが、少なくとも抽象的な音の運動と響きのみを追求すると思われがちな現代の作曲家の中にあって、視覚的聴覚的かつ具象的なイメージから音楽を作る(今となってはもしかすると珍しいタイプの)作曲家であるということが判りました。そしてその語られたイメージと相俟って、耳で聴いた際にとても判りやすく感じられるということ。その音楽は、セリエリスムとは無縁ながらも新調性主義とも袂を分かっており、しかもところどころ調性的なフレーズが忍び入ることを拒んでもいない、といったスタイルだと思います。決して聴き手の耳に媚びるタイプではないが、ドビュッシーやメシアンを聞き慣れた耳であればそこそこ長時間でも聴きとおせるような判りやすさと言ってよいと思います。
更に、トークでご自身の作品を評して「よく言えばギャラント、悪く言えば饒舌」と仰った通り、一言で言えばものすごく音が多い。その点においても、さきほどから何度も名前を挙げたドビュッシー、スクリャービン、メシアンらと極めて近いところにある音楽という感じがします。これだけ多くの作品を立て続けに聴くと、やや食傷気味になるところ無きにしも非ずではあるが、少なくともリサイタルで一曲ないし二曲取り上げる分には、聴き手にも面白く、弾き手にもカタルシスをもたらすこと必至であると思います。

大井浩明の演奏はいつもながらの明晰なもので、硬質でブリリアントな音質が作品によく合っていたと思います。それと同時に、昨年のドビュッシーのリサイタルでも感じたことだが、以前よりも荒削りなところが目立ってきた感じもします。スコアを見た訳ではないので何とも言えないところもあるが、華麗なアルペジオなどでもっと一音一音の粒立ちが欲しいと思ったことが何度もありました。もしかすると、初見である程度弾けてしまうために、却って細部の磨き上げが上手くいかないタイプなのかも知れません。

アンコールが三曲。
田中吉史の作品はタイトルにもあるように、NHK「現代の音楽」で松平頼暁と西村朗が対談した時の音声をピアノに移したもの。こういうと、聞いたことがない人にとってはちんぷんかんぷんだと思うので、近い例として次のyoutubeを挙げておこう。伊賀拓郎という作曲家が作曲(?)した、元西宮市議の野々村某という43歳児の号泣会見を忠実にピアノに移したもの。これは抱腹絶倒、はっきり言って元ネタよりよほど面白いぐらい。およそ人類の役には立ちそうにないが、凄い才能です。

https://www.youtube.com/watch?v=CbrNtKd2nxQ

さて本家(田中作品)のほうだが、大井氏が曲目紹介を兼ねて語ったところによると、西村氏が放射線遺伝学とかなんとかの学者でもある松平氏にその方面の話題を振ったところ、松平氏が滔々と話し出したので西村氏が「はぁ・・」と気のない返事をする様子などが克明に描かれている(笑)。西村氏の声が素材となっているからこれをアンコールに取り上げたと大井氏が語っておられましたが、私の中では「人の声」を素材とする技法が「鳥の声」を素材としたメシアンを想起させ、技法と響きの両面でメシアンとの近親関係を示唆する西村作品に向けて大きなアーチを掛けてリサイタルを締めくくったといった感じがしました。いっそのこと、この作曲者にはメシアンばりに「人のカタログ」を作曲してもらったらどうだろうか。ジャパネットたかたの高田社長などは素材として極めて面白そうだ。
・・・と、ここまで書いて、ネットで調べてみると、この田中吉史という方、既にルチアーノ・ベリオやブルーノ・マデルナの声、あるいはもっとアノニマスなテレビの気象情報の音声や、専門的すぎて殆どの人にとってはわけのわからない音の連なりでしかない学術発表などを素材に作品を書いているようです。これは面白そうです。
アンコール、あとの2曲はまぁ他愛ないアンコールピースの類か。

それにしても今月のカフェ・モンタージュは20世紀以降の音楽ばかりでなかなかの壮観。私は都合で行けませんが、ジョン・ケージのフリーマン・エチュード演奏会(最初の二巻)とか、ブーレーズのピアノ曲全曲とか、びっくりするようなリサイタルがあるので興味のある方は是非。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-02-10 00:51 | 演奏会レビュー

いずみシンフォニエッタ定期~リゲティのピアノ協奏曲他

ACのCMで、ファミレスかなんかで年配のウエイトレスが、テーブルを拭いている若いバイトのお姉さんに「いつも丁寧ね~」と言うと若いのが嬉しそうに「あっ・・・ありがとうございます」って返事するのあるよね。関西(とくに京都)ではあんなデタラメなCMはあり得ない。「いつも丁寧ね~(=ほんまに仕事がとろい子やねぇ、もっとちゃっちゃとせんと)」に対する正しい返事は「すんません、すぐ終わりますから(=うるさいんじゃババァ)」です。





大阪を拠点に20世紀以降のコンテンポラリー音楽にこだわるいずみシンフォニエッタの演奏会に行ってきました。今回の目当てはなんといってもリゲティの協奏曲でしたが、他の曲目も大変面白いものでした。


  2015年1月24日@いずみホール
  いずみシンフォニエッタ大阪 第34回定期演奏会
   コープランド アパラチアの春
   ディアナ・ロタル シャクティ~サクソフォンと室内オーケストラのための協奏曲(2004)
   (休憩)
   リゲティ ピアノ協奏曲(1985-88)
   ミヨー 世界の創造Op.81

  板倉康明指揮いずみシンフォニエッタ大阪
  西本淳(sax)、福間洸太朗(pf)


私がリゲティと聞いていつも思い出すのは、岩城宏之さんがご存命の頃にいずみホールで主催された「アヴァンチュール&ヌーヴェル・アヴァンチュール」を中心とした演奏会。少し記憶もあやふやになってきたので調べてみると、1998年6月12日、「音楽の未来への旅シリーズ’98 Ⅰ声の冒険」と題されたコンサートでした。曲目は
ベリオ セクエンツィアⅢ (1965/66)
  声: 野々下由香里

リゲティ 死者の謎 (1988)
  声: 森川栄子、 Pf: 野平一郎

黛敏郎 スフェノグラム<楔形文字> (1950)
  指揮:岩城宏之、声: 野々下由香里、fl: 小泉浩、sax:福本信太郎
  perc: 松倉利之、Vn: 松原勝也、Vc: 刈田雅治、pf: 野平一郎、長尾洋史

リゲティ アヴァンチュール (1962)
リゲティ ヌーヴェル・アヴァンチュール (1962-65)
  指揮:本多優之、Sp: 森川栄子、A: 加藤千鶴、Br: 黒田博
  fl: 小泉浩、hrn: 南浩之、pf: 長尾洋史、cemb: 野平一郎、
  perc: 松倉利之、Vc: 刈田雅治、cb: 猪股研介

というもので、こんなプログラムの演奏会が常時とは言わないが時折開かれるいずみホールというのは、本当に大阪に生まれ育った者として誇りに思います。 この時は確か岩城宏之と武田倫明の両氏によるプレトークがあり、お二人が前衛華やかなりし頃の話をしながら「こんなにガラガラの演奏会というのも久しぶりだね(笑)」などと愉快そうに仰っていたのが印象的でした。実際、前半が終わるなり近くの席にいた学生風の女子二人組が「なにこれ~気持ち悪~」「あたし途中で出よか思たわ」と話すのが聞こえ、ただでさえガラガラのホールが、休憩後さらに客が減ってしまったことも忘れられません。それはともかく、この日の演奏のレベルは今思い出しても大したもので、ブルーノ・マデルナの指揮したリゲティの録音を相当聴き込んで出かけた私は大変な感銘を受けました。

昔話はこれぐらいにして、ほんの十数年前の一般のリスナーにおけるリゲティの認知度というものを考えた時、昨今のリゲティ・ブーム、腕も人気もあるピアニストがこぞって彼のエチュードを取り上げる風潮というのは隔世の感がありますし、実に喜ばしいことだとは思いますが、その人気というのが決してエチュード集の外に向かっていかないところが若干気に食わないところです。今回福間洸太朗が弾いた「ピアノ協奏曲」は、1985年から88年、エチュード集の第1巻とほぼ同時期に書かれ、同種の語法が使われているどころか、部分的にはエチュード第1曲「無秩序」とか第6曲「ワルシャワの秋」の自己引用に近いものまで含まれていて、これらの音楽に多少馴染んでいる方ならすぐに親しめるものとなっています。今回の演奏を機に、協奏曲もいろんなピアニストが取り上げるようになれば、と夢想しますが、縦を合わせるだけでも大変そうなオーケストラを見ているとなかなか困難という気もします。さらに言えば、エチュードや協奏曲がいくら人気が出たところで、60年代の傑作群(だいたい61年の「アトモスフェール」から67年「ロンターノ」ぐらいまでの諸作)が同様のポピュラリティを持つことは決して無いだろう、というのが少々寂しいところではあります。
福間のピアノはやや線が細く、音色のパレットという点でもちょっと物足りない感じもしますが、これだけの難曲を実に楽しげに弾くというのは凄いことだと思います。オリンピックなんかと一緒で、人間というのはどこまで進化するんだろう、と思ったほど。ピアノ・パートが技巧的に煩雑になればなるほどオーケストラに掻き消されて聞こえなくなるのはピアニストの所為ではなくて作曲家の悪意のなせる業でしょう。オーケストラは大健闘じゃないでしょうか。興奮するところまではいかないが満足しました。

他の曲目は簡単に。
コープランドは、単に古き良きアメリカを描く牧歌的な作品というイメージがありますが、板倉氏の神経質なほど細かくリズムを刻む指揮によって、1920年代のストラヴィンスキーを思わせるような鋭角的な側面が明らかになったのはとても面白い体験でした。私は知りませんでしたが、プログラムによればコープランドは1921年に渡仏してナディア・ブーランジェに師事し、当時パリにいたストラヴィンスキーやミヨーから多大な刺激を受けたらしい。それもなるほど、と思わせる演奏であったと思います。
ディアナ・ロタルの「シャクティ」はサキソフォンの特殊奏法と超絶技巧を駆使した作品。冒頭の尺八のムラ息を思わせるような部分はよくあるパターンという気もしましたが、それに続く部分、カウベルを始めとする打楽器群とバリトン・サックスの激烈な衝突など凄まじいばかり。耳で聴くだけでは、どの楽器がなにをすればこんな音が鳴るのかさっぱり判らない、といった奇天烈な音響に満ちていて刺激的でした。新調性主義などどこ吹く風といった作風で、これを取り上げただけでもいずみシンフォニエッタの「本気度」が伺われます。
最後に演奏されたミヨーは大傑作の大名演だと思いました。指揮はやはりリズムを随分細かく刻んでいるようでしたが、このような指揮がどんな具合にシンフォニエッタのメンバーと反応するのか、ジャズのスイング感と先鋭なモダニスムが並び立っている演奏でした。このテの作品というのは、ストラヴィンスキーの「エボニー・コンチェルト」なんかもそうだが、演奏者のセンスの良し悪しがまともに現れるような気がします(たとえば「エボニー」のストラヴィンスキー自身によるノリノリの演奏とブーレーズの死ぬほど詰らない演奏など)。その点で今回のミヨーは本当に良い演奏でした。

備忘としてあと二点。
その1。最初に西村朗氏と板倉氏のプレトークがあり、オヤジギャグの緩い応酬にちょっと辟易。ま、それもこれも、コンテンポラリーの敷居を少しでも下げる努力といったところか。
その2。開演30分前からロビーにてミニコンサートあり。二人のヴァイオリニスト(佐藤一紀、高木和弘)によるミヨーの二重奏曲(たぶんOp.258)、モーツァルトのシュピーゲルカノンの第1曲(K.Anh C10.16というやつ、偽作とも)、それにトルコマーチの二つのヴァイオリンによる編曲の3曲。モーツァルトは、私はあってもなくても、という感じがしましたが、ミヨーの小品は洒落たアペリティフになっていたと思います。

あ、そうそう。先ほど岩城宏之とリゲティの思い出話をしましたが、実はこの二人、亡くなった日が一日違い。岩城宏之が2006年6月13日で、リゲティが同年同月の12日に亡くなったとのこと。なにか不思議な縁があったのでしょう。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-01-26 23:45 | 演奏会レビュー