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ロッシーニ 「チェネレントラ」 第56回大阪国際フェスティバル2018公演

先日、「探偵!ナイトスクープ」を観ていたら、耕運機の「一軸正逆転」という機構を身振り手振りで表現する、というのをやってた。番組では井関・ヤンマー・クボタの若い子が挑戦してたが、あんまり面白くない。試しに家人にやらせてみたらまんまアホの坂田師匠でこっちのほうがワロタ。





なんとなくブログさぼってたらあっという間に一ヶ月以上経ってしまいました。

 2018年5月12日@フェスティバルホール
 ロッシーニ 「チェネレントラ」
  アンジェリーナ: 脇園彩
  ドン・ラミーロ: 小堀勇介
  ドン・マニフィコ: 谷友博
  ダンディーニ: 押川浩士
  クロリンダ: 光岡暁恵
  ティズベ: 米谷朋子
  アリドーロ: 伊藤貴之
  合唱: 藤原歌劇団合唱部
  管弦楽: 日本センチュリー交響楽団
  指揮&フォルテピアノ: 園田隆一郎
  演出: フランチェスコ・ベッロット

この歳になると、急いで備忘を書いておかないと記憶がどんどん薄れてしまいます。こんなへっぽこブログですが、それでも書くとなるとそれなりに気力が必要。仕事もプライベートも何かと忙しく、なかなか重い腰があがらないといった状況でした。
今回の公演、一言でいうと小堀さんに全部持っていかれた、といった感じ。私は昨年、びわ湖でやったドニゼッティ「連隊の娘」のトニオでこの歌手を初めて聴いたのですが、その時も絶賛しておりました。今回のドン・ラミーロも本当に素晴らしい歌唱。レジェロなハイテノールとして貴重な存在だろうと思います。欲を言えばアジリタの粒立ちが少し甘いかな、とも思うけれどこれだけ歌えれば立派なもの。見た目は御伽噺の王子様というより、気のいい御用聞きの兄ちゃんみたいだが、それもこのオペラには寧ろ合っていると言えなくもない。願わくば、しばらくはヴェルディやプッチーニはお預けにして、ロッシーニ・ドニゼッティ・ベルリーニあたりに特化してほしいと思う。日本でのベルカントものに対する冷遇ぶりを見ているとなかなかプロとして食っていくのは大変だろうと思うけれど。
アンジェリーナの脇園彩も大変優れた歌唱だったと思いますが、どうも体調が悪かったのか声量をすこしセーブしていたようです。また高音が少し掠れ気味になってヒヤッとする瞬間もありました。しかし精密なアジリタを聴いていると、本調子であればとんでもなく凄いことになっていただろうと思わせるものがありました。幕切れの技巧の限りを尽くしたロンドは圧巻の一言。
他の脇役はいずれも穴がなくて安心して聴けました。第二幕のクロリンダのアリアは聴きものでしたが、音楽としては慣習的なカットもやむを得ないかなといった感じも(ちなみにこのアリアはロッシーニではなくてアゴリーニによる挿入曲)。
指揮の園田隆一郎も、小堀さんとやった「連隊の娘」以来。こういった軽いオペラをセンスよく演奏するのは大変なことだろうと思います。センチュリーsoはブッファ向きのオケとは言いかねるが、これだけの輝かしさを引き出すのはさぞ大変な仕事だったろうと思います。セッコにしては随分と饒舌なフォルテピアノも見事なものでした。
演出は特段変わったこともなく無難な感じ。冒頭、舞台上の巨大な本のページから登場人物が飛び出す仕掛けだが、観終わってみると、どうということもない。それより、ねずみの耳や尻尾を付けた4人の黙役が、アンジェリーナをあれこれ手助けする趣向がちょっと微笑ましい感じがしました。この、魔法使いもカボチャの馬車も登場しない徹底的にリアルなシンデレラ物語に、少しばかり御伽噺の要素をプラスしたアイデアは悪くないと思いました。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-06-17 22:54 | 演奏会レビュー | Comments(0)

シュレーカーとコルンゴルトとシェーンベルク

東大の学食の改修時に宇佐美圭司の壁画を廃棄したらしいというニュース。無知無教養は時に犯罪的であるとか、いやいや単に総務部門の資産管理の問題だろうとか、どれもこれももっともだが、じいさんの遺品の中のピカソのエッチングを、遺族が「なんだこのエロい落書き」と思って処分、なんて例は世界中で起こってそうだな。





曲目につられてオケの演奏会。自発的に行くのは久しぶりのような気がする。


2018年4月27日(金)
大阪交響楽団第217回定期演奏会”ウィーン世紀末のルーツVOL.5”

 シュレーカー:弦楽のための間奏曲Op.8(1900)
 コルンゴルト:左手のためのピアノ協奏曲嬰ハ調Op.17(1923)
 (アンコール)
 ゴドフスキー:Alt Wien
 (休憩)
 シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」(シュタイン編)(1902-03)

 指揮:寺岡 清高
 ピアノ:クリストファー・ヒンターフーバー
 管弦楽:大阪交響楽団


本来なら予習してから行くべきプログラムなのに、このところ多忙で叶わず、前半は初めて聴く曲目でした。
シュレーカーは、いずれこのブログで「烙印を押された人々」を取り上げたいと思ってたところ、めずらしくシュレーカー作品を生で聴けるとあって思わずチケットを購入しました。この間奏曲はウィーン学友協会音楽院の卒業作品ということで、この若書き一作でシュレーカー作品を云々することは出来ないと思うが、9声部に分かれた書法(vn4・va2・vc2・cb1)、妙な引っ掛かりを残す半音階的和声進行は、わずか数分の小品といえどもすんなりと腹に入るものではなく、予習を怠ったのが悔やまれます。よって中途半端な感想をここに記すのはやめておこうと思います。

コルンゴルトは過去に「死の都」とアメリカ亡命後に書いたたくさんの映画音楽を取り上げたことがありました。神童ともてはやされ、ステージパパの導きのままにかいたオペラと、映画音楽というフォーマットですっかり見違えるほどの第一級の職人芸を揮った諸作品の違いを、「自己愛」と「社会的ディシプリン」をキーワードに分析したつもりですが、この20代半ばのコンチェルトは、まだ売れっ子だった頃とはいえ、それなりの悪戦苦闘の跡が伺えて想像以上に面白い作品でした。左手だけのピアノソロという制約がなにがしかプラスに働いたのだろうと思います。ぎくしゃくとした旋律、甘く流れると思わせるや否や中断されるカンティレーナ、どこか断片的なまま積み重ねられる展開と、この人ならではのゴージャスな管弦楽書法との奇妙な取り合わせ。「プラスに働いた」というのは、音楽の完成度というのではなくて、その溢れそうになる自律性とでも言ったレベルでのことです。コルンゴルトだからと舐めていた訳ではないけれど、やはりこちらも予習しておくべきだったと後悔頻りですが、おかげでコルンゴルトをもう少し聴きこんでみようと思ったのは大きな収穫でした。
ヒンターフーバーのソロは見事でした。地味な経歴だが、テクニックが強靭で、多数の打楽器を含むオーケストラに負けずにピアノが鳴っていました。アンコールにゴドフスキーの小品を選んだのは「ウィーン世紀末」というコンサートのテーマにも適っていて大正解だと思います。赤ワインと濃厚なフォンで煮崩れるほど煮込んだ頬肉のような退廃の味わいは格別。「トリアコンタメロン」の中の1曲で、PTNAピアノ曲辞典には「懐かしきウィーン」という名前で載ってます。

プログラム後半はシェーンベルクの大作。若書きだけれどプログラム前半とはやはり格が違うとしか言いようがない傑作だと思います。この日の演奏、たいへん聴きごたえがありましたが、もっとこう、叫びとか痙攣とか、いわゆるドイツ表現主義的な表現ができないものか、と少し物足りなく思いました。こういった作品、ライトモチーフをぎくしゃくと積み上げていく作風は、「浄められた夜」をムード音楽みたいに演るのと同じく、その継ぎ目にやすりを掛けて滑らかにしてしまうと実につまらなくなる側面があって、なかなか難しいものだと痛感しました。かれこれ40年ほども昔、私がシェーンベルクを聴き始めた頃はカラヤン盤くらいしかなくて、美しく磨き上げられた音響から抜け落ちた物を歯がゆく想像するしかなかったけれど、今も(アバド盤があるとは言え)あまり状況は変わっていないような気がします。ちなみにこの日の演奏はエルヴィン・シュタインによる改変版で、一言でいえば4管編成を3管編成に書きなおしたもの、といったところ。客の入りはまぁ7割程度、トラの確保も厳しいでしょうからやむを得ないとはいえ、どうせなら原典版で聴きたかった。尤も、シェーンベルクがパラノイアックに書きつけた対位法の網目をどの程度端折ったのか、スコアを見ないと分からないが、この編曲版でもかなり分厚い響きがしていたので、生演奏でこの大曲を聴けたという満足感はそれなりにあったわけだが・・・。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-04-29 16:30 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ワーグナー 「ワルキューレ」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

かれこれ四半世紀も前の話。テレビで「カルトQ」という伝説的な超マニアック・クイズ番組があったのだが、ウィリアム・バロウズがお題の回で、4問正解したのがちょっと自慢。





びわ湖ホールの「指輪」シリーズの二年目。


 2018年3月4日@びわ湖ホール
 ワーグナー 「ワルキューレ」

  ジークムント: 望月哲也
  フンディング: 山下浩司
  ヴォータン: 青山貴
  ジークリンデ: 田崎尚美
  ブリュンヒルデ: 池田香織
  フリッカ: 中島郁子
  ゲルヒルデ: 基村昌代
  オルトリンデ: 小川里美
  ワルトラウテ: 澤村翔子
  シュヴェルトライテ: 小林昌代
  ヘルムヴィーゲ: 岩川亮子
  ジークルーネ: 小野和歌子
  グリムゲルデ: 森季子
  ロスワイセ: 平舘直子
  管弦楽: 京都市交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: ミヒャエル・ハンペ


まずはハンペの演出。この人がプロジェクション・マッピングを駆使した舞台は「さまよえるオランダ人」「ラインの黄金」に続いて3回目だと思うが、最初の「オランダ人」の時は素直にその技術の進歩に驚き、「ライン」の時はあまりにもリアルに何でも出来てしまうので、それが逆に観客の想像力を奪ってしまうのではないかという疑念を抱いた。そして今回、よく言えば伝統的と言えるのだろうが、あまりにも陳腐なイメージに正直落胆してしまった。まず第一幕、前奏曲の間、吹雪の森をさまようジークムントと追手のフンディングの郎党の姿が見える。そこから一気にフンディングの館の室内となる。居間の真ん中に聳えるトネリコの大木、食卓と暖炉。後半、ジークムントとジークリンデの愛の二重唱が始まると舞台は瞬時に春の森の情景となり、食卓や暖炉と見えたものがいつの間にか苔むした岩になっている。第二幕は終始荒涼とした岩山の情景、第三幕は岩山の頂きで、中央に斜めに傾いだ巨石。暗雲の立ち込めた背景に時折英雄の亡骸を運ぶワルキューレの馬が、白い影絵のように飛び交うのには失笑を禁じ得ない。幕切れの魔の炎の音楽の場面では盛大に炎が燃え上がり、舞台を埋め尽くす・・・。正直なところ、いわゆる「読み替え」演出に対して必ずしも良いイメージを持っていない筆者だが、いくら伝統的であってもこの陳腐さには辟易した。これでは観客の想像力を奪うどころの話ではなくて、演出家の想像力の貧困を疑わざるを得ないレベルではないか、と思う。プロジェクション・マッピングの映像がリアルであればあるほど、「ものすごく本物っぽく描かれた学芸会の書き割り」みたいに見えてしまう。ただ、決してプロジェクション・マッピングそのものの所為だとは思わない。今回私が失望した理由は一にも二にも演出家のイメージの貧困だと思う。「ワルキューレ」は指輪の中でも最も人間的なドラマで、台詞だけで強烈な感動を帯び起こす、非常に演劇的な作品だと思うが、そんなオペラであるからいっそのことヴィーラント・ワーグナーのような大道具の殆どない抽象的な舞台のほうがよほどオペラ的であるかも知れない。もちろん現代にあってヴィーラントの模倣を観たい訳ではなくて、演出家の想像力の限りを尽くした美しい舞台が観たいと思うだけなのだが。

音楽について。最初の嵐の音楽から、その室内楽的な響きに驚かされる。通常よりプルトを減らしてるんじゃないかと思ったぐらい、面白いことに、第二幕以降はそれほど極端に室内楽的という訳ではなくて、それなりに分厚い響きを鳴らすこともあって、ことさら第一幕に狙いを定めて「猛り狂わないワーグナー」を目指したのだろう。それが沼尻氏の狙いであることは十分伝わるので物足りなさを感じることはなかったが、忘我の二重唱は正直なところもっと泣かせてほしかったと思う。この第一幕とそれ以降の表現の断層がある分、昨年の「ラインの黄金」のほうが若干音楽的なまとまりの良さがあったという感じがする。沼尻氏の指揮も随分あれこれ聴いてきたが、初めの内なんだか情趣に乏しく思えたこの人の演奏スタイルも、「ドン・パスクァーレ」の名演や昨年の「ライン」を聴くうちに馴染んできて好ましく思うようになった。今回のワルキューレ、特に第一幕は好き嫌いの分かれる演奏だと思うが、私は面白く聴いた。

歌手はいずれも充実していたが、指揮のスタイルに合わせたのかどうか、やや小ぶりな印象を持つ。その中ではブリュンヒルデを歌った池田香織がやはり頭一つ抜けていたと思うが、昨年名古屋で歌った基村昌代の鮮烈なブリュンヒルデを思い出すにつけ、もっと高望みしたくなるというもの(ちなみに今回の公演では基村は脇役のゲルヒルデを歌っている)。ヴォータンの青山貴然り。今や日本のバス・バリトンの第一人者だと思うが、最後の告別と魔の炎の音楽の場はちょっとスタミナ切れという感じも。ジークムントの望月哲也、ジークリンデの田崎尚美は第一幕やけにおとなしい感じがしたが第二幕以降はまずまず。指揮者のスタイルに対して少し委縮気味だったのだろうか。フンディングはまぁこんなものかな、という感じだが、フリッカはもう少し吠えてもよかったかも。

来年のジークフリートが待ち遠しいが、ハンペの演出はあまり期待できない。沼尻氏の指揮で、私にはどうも散漫な感じがする第二幕がどう響くかはとても楽しみにしている。
(この項終り)


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by nekomatalistener | 2018-03-08 00:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)

大フィル定期 レスピーギ「ローマ三部作」

親会社から久しぶりに出張で来てた方のしゃべり方が独特なんだけど、同僚に「あの人トッポジージョみたいやな」と言ったところ若い子にはまったく通じない。まぁ予想はしてた。





レスピーギを取り上げるのは初めて。なかなか自分で(オペラやコンテンポラリー以外の)コンサートに行くことのない私ですが、例によって取引先の社長さんからお誘いがあって行ってきた次第。


 2018年2月16日@フェスティバルホール
 大阪フィルハーモニー交響楽団 第515回定期演奏会
 レスピーギ
  交響詩「ローマの噴水」
  交響詩「ローマの祭」
  (休憩)
  交響詩「ローマの松」
 指揮: アンドレア・バッティストーニ


いや、このブログでレスピーギという名前を出したことは前に一回あって、昨年佐渡裕の「トゥーランガリラ」演奏会の時に、佐渡の良くも悪くもエンタメ志向の強い演奏に対する不満を「メシアンのレスピーギ化」と書いておりました。要するに悪口ですね。
でも実はレスピーギの少なくとも「ローマ三部作」については、よく出来た曲だと思っており、その大胆なポリリズムやポリトナールな書法はもっと賞賛されてしかるべきだろうと思います。特に「ローマの祭」の、広場で様々な音楽がカオスのように聞こえてくるところなど、マーラー(第3交響曲)やストラヴィンスキー(ペトルーシュカ)からインスパイアされたことは歴然としているものの、チャールズ・アイヴズの同様のアイデアと比べても不当に評価が低いと思わざるを得ません。それに「ローマの松」の終曲の、抗いようのないカッコよさ、スペクタクルな興奮も、単なる名曲と片づけるのは実にもったいない。
だいぶ前のことですが、レスピーギという作曲家に対して少し興味をもって、多少あれこれ聴いてみようと思った時期がありました。実はオペラをたくさん書いていてけっこう面白いという話を聞いたりしたのですが、当時は音源そのものが入手できず、代わりに「ミクソリディア旋法のピアノ協奏曲」などいくつか聴いてみました。結果は、さして面白いとも言えない楽想と、虚仮威しなピアノ書法に辟易してしまい、それきりになってしまいました。そんな個人的な好き嫌いはさておき、「三部作」でさえ、どうも傑作というよりはイロモノ扱い、レスピーギ自身も良くて二流扱いされがちなのは、CDが生まれる以前のLP時代に、専らオーディオ機器の性能を測るためだけに作られたようなシロモノがあって、「三部作」はその恰好の素材として、チャイコフスキーの「1812年」なんかと同列の扱いをされていたという不幸な歴史のせいじゃないだろうか。それに敢えて言うなら吉田秀和に代表されるような「真面目な」クラシック愛好家の存在、昭和の頃はレスピーギといえばカラヤン、という時代にあってアンチ・カラヤンの存在、等々。だが、時代も移り変わり、総体的に聴衆の耳が肥えた現代にあって、いつまでも昭和の価値観を引きずることもあるまい。「三部作」は久しぶりに聴きましたが、本当に面白く興奮する音楽でした(もっとも最初に演奏された「噴水」は私自身の体調のせいかどうか、半分寝落ちしてましたが・・・)。
演奏も大変キレのあるもので、初めて聴く指揮者でしたがぞんぶんに楽しみました。かなりオーバーアクション系の指揮で、まぁ俗なレベルだけれど視覚的な面白さも。大フィルを聴くのも何年ぶりか分からないほどですが、なんとなくもっさりしたイメージは完全に払拭できました。時間的にはややコンパクトなプログラムだったので、「リュートのための古代舞曲とアリア」から何か一曲、いう期待もあったのですが、内容的にはけっこう腹いっぱいになるためか、アンコールは無し。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-02-20 13:00 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 細川俊夫「松風」

松風観ながら、ふたっつでったほいの~とヨサホイ節を思い出すいけない私。





細川俊夫のこのオペラを観るためにだけ上京したが、期待を上回る素晴らしさにしばし呆然。


  2018年2月17日@新国立劇場
  細川俊夫 「松風」
    松風: イルゼ・エーレンス
    村雨: シャルロッテ・ヘッレカント
    旅の僧: グリゴリー・シュカルパ
    須磨の浦人: 萩原潤
    指揮: デヴィッド・ロバート・コールマン
    演出・振付: サシャ・ヴァルツ
    管弦楽: 東京交響楽団
    合唱: 新国立劇場合唱団
    ダンス: サシャ・ヴァルツ&ゲスツ

 
オペラを観て感じる感動というのにも色々あると思うのだが、例えば涙が出るような感動というのではないし、知的想像力を刺激されてある種の興奮を感じるというのとも微妙に違う。言葉にするのは難しいけれど、「美」という抽象的観念が舞台の上で形象化するのを目の当たりにしたときの驚きとか喜び、そこに作曲者のいう「人間の原感情」、すなわちうれしいとか悲しいといった感情の一層下に横たわっている物を感じたときの惧れに近い感情、そんなこんなが一挙に押し寄せてくることでエモーショナルな情動を感じる・・・このオペラを観た感想をまとめるなら、そんな感じになるのだろうと思う。いずれにしても大変優れた舞台であり、特にオペラという形式で、音楽以外の要素がこれほど高いレベルで実現しているのは稀であり、しかもそれが少しも音楽の邪魔をするのではなくて総合的に作品を形作っているのもまた稀なことだろう。

原作はもちろん能の「松風」。そういえば能もしばらくご無沙汰しているが、このオペラを観ると、また能への興味が沸々と湧き上がる。
物語は能とほぼ同じ。在原行平が須磨に流されていたあいだに、松風・村雨の姉妹と懇ろになるが、やがて行平は帰京してすぐに亡くなり、悲嘆に暮れた姉妹もこの世に思いを残したまま亡くなる。須磨を旅する僧のもとに姉妹の霊が現れ、行平を偲んで舞う、というもの。あの有名な行平の歌、「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今かへりこむ」「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」もテキストに取り込まれている(前者が詠まれたのは須磨配流の時ではないが、このあたり史実とはかなり異なるようだ)。
オペラのほうは、配役は能と同じだが、舞台では終始多くのダンサーたちが踊っている。コレオグラフィック・オペラと題されている通り、それはバレエというよりコンテンポラリーダンスに近いものだろうが、その方面の素養が全くない私にも見事だと思わせる完成度。また舞台からピットへ、また舞台へと小規模な合唱が地謡、あるいはコロスさながら登場人物の台詞を繰り返し、補う。囃子に相当するオーケストラは、ことさら和楽器を使うということはないが、舞台上の合唱が手に手に風鈴をもち、澄んだ金属音を奏でる。構成は複式夢幻能の形式通り二部に分かれ、前場は舞台上に大道具の類は一切なく(実際にはダンサーが上り下りする足場があるのだがしかとは見えない)、途中から紗が降りて煌々と照る月とともに幻想的な雰囲気を醸し出す。後場では塩屋に見立てた骨組みだけの建物が設えられ、僧の功徳により姉妹の霊が救われると、上から夥しい松葉が降り注ぐ。実に簡素な舞台だが、音楽と歌手やダンサーの振付、美術、照明の全てが緊密に組み上げられて、ため息がでるような美しさ。
音楽はまずPAで流される風や潮騒の音から始まり、断絶感なくオーケストラに引き継がれていく。いわゆる現代音楽としてのイディオムに一切の妥協はないのだが、姉妹登場の並行五度の二重唱など、耳に残る旋律もあり、馴染みがなくともすんなりと腹に入る音楽。しかし、それだけにとどまらない何物かがこの音楽にはあるような気がする。

ここで少し下世話な話になるけれど、「松風」の物語で一番引っ掛かるところといえば、行平を愛し、また愛された女が姉妹であるということ。能を観るならこの辺りの事情というのは見て見ぬふりをしなければならないのかも知れないが、中世のこととて、行平との間に間違いなく肉体関係があったのだろうと思うと何とも背徳的なお話に思えてしまう。作曲者は公演後のアフタートークで、この姉妹を女性の二面性の表現である云々と仰っていたが、そういう傍から松風の激しい舞を「エクスタシー」と表現するものだからますますあらぬ想像をしてしまうというもの。だが、後場の姉妹の歌や舞の思いがけないほど激しい表現というのは、私にはエロスの表出としか言いようのないものであった。エロスとは業(ごう)と言い換えてもよいのだろう。よくよく考えれば、邦人の作品でここまでエロスの表出を感じさせるものというのは少ないような気がするが、それこそ細川俊夫の作品がこれほど海外で高く評価される一因であると思う。一方で、この後場の松風の殆ど狂乱に達するほどの歌と舞の場面では、それまでたくさんいたダンサーが男女二人だけになり、塩屋の中で狂おしいパ・ド・ドゥーを踊る。こういった下世話な想像さえ許容する官能表現を突き詰めた先に、先ほど書いた「原感情」に対する畏怖の念が惹起されるというのは、実は大変なことであって、真の芸術というものの奥の深さを感じないわけにはいかない。私はこの稿を書きながら、己の言語表現の貧しさを嘆かずにはいられないのだが、冒頭に書いた「エモーショナルな情動」を言葉にしようと思えば、私の筆力ではこんな分析が精いっぱいといったところである。

歌手やダンサー、管弦楽について巧拙を云々するというのはもはや何の意味もないだろう。姉妹役の歌手がプロのダンサーと殆ど遜色ないほどの身体表現を行う驚きも誰しもが感じたことに違いない。初演から7年も経ってようやく、香港を含む各地での上演に遅れて、それもベルギーのモネ劇場のレンタルという形で日本初演にこぎつけたことに対して、まるで日本の国力の劣化そのものであるかのような言葉を見かけたが、これも分かるといえば分かる。しかし、私は7年遅れであろうがレンタルであろうが、この完璧な美が立ち上る舞台を観て、関係者のここに至る努力をただただありがたいと思った者である。これからゆっくりとこの日私が得た物を反芻するために、細川俊夫の作品を集中して聴いてみたいと思う。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-02-19 23:32 | 演奏会レビュー | Comments(0)

メシアン 「鳥のカタログ」全曲演奏会

早朝家を出るとき、「かえりはさむそうや」と呟いたら家人に「え?むかいおさむさん?」と言われたことある。一瞬アナグラムかなと思ったけど全然違う。





京都のカフェ・モンタージュで「鳥のカタログ」全曲演奏会。関西人はこの町なかのカフェを誇りに思っていいと思う(京都人からは「関西」で一括りにすんな、と言われるかも知れんが)。

 2018年2月21日@カフェ・モンタージュ
 メシアン 「鳥のカタログ」
  第1巻 
   1.キバシガラス
   2.ニシコウライウグイス
   3.イソヒヨドリ
  第2巻
   4.カオグロサバクヒタキ
  第3巻
   5.モリフクロウ
   6.モリヒバリ
  第4巻
   7.ヨーロッパヨシキリ
  (休憩・入替)
  第5巻
   8.ヒメコウテンシ
   9.ヨーロパウグイス
  第6巻
   10.コシジロイソヒヨドリ
  第7巻
   11.ノスリ
   12.クロサバクヒタキ
   13.ダイシャクシギ

入口で渡された曲目チラシにはフランス語によるタイトルのみで和名表記がなかったので一応挙げておきました。WikipediaもPTNAピアノ曲辞典も間違いだらけなのでご参考まで。
作品について思うところは以前このブログでも取り上げているので繰り返しませんが、(先日「アッシジの聖フランチェスコ」公演の備忘でも書いたように)メシアンの作品は舞台やリサイタルを実際に体験して初めて分かることがたくさんあるように思います。倍音の響きとか、私の低スペックな耳ではよく分かりませんが、意識的でなくともCDでは聴き取れないレベルの音を体験していたのだろうと思います。
細部に関しての個人的な思いとしては、「アッシジ」体験後にこれを聴くと、チョウゲンボウの鳴き声がとても懐かしく、昔の友人に出会ったような感じをうけたのが新鮮でした(第8曲の冒頭近く、Faucon crécerelleと書かれている部分)。あるいは後年主役級に成長した役者の、若い頃に端役でちょろっと舞台に出てる映像を観たときのような感じとでもいえばよいか(「アッシジ」のチョウゲンボウの声はとても重要な役回りですからね)。

木川貴幸の演奏については、前日のドビュッシーの演奏評とほぼ同様の感想を持ちました。良い点は、楽器がクリアによく鳴っていて、どんなに強音でも音が割れたりしないこと。物足りないところはところどころメカニックが不足していると思われること(楽器そのものによる音色のムラや、おそらく高音域のアクションに難があることは勘案すべきだろうと思うが)。例えば第2曲目の中に出てくるニワムシクイや第7曲のヨーロッパヨシキリなどの、気の遠くなるほど長い囀りには、もっとキレの良い指回りが必要なように思います。でもそれで退屈したとかいうことは全くなくて、これほどの大曲(この日は正味3時間15分ぐらいか?)を眠くもならず楽しく聴き通せたのは何と言ってもピアニストの力のおかげであろうと思います。こんなことを言うのはアレだが、大した儲けにもならないだろうに、どうしてこんな苦行にも似た演奏活動をするのか、訝しく思うと同時に感謝や尊敬の念も抱かざるを得ないのでした。
備忘として書いておくが、演奏はすべて楽譜を見ながら。第7曲のブレスなしで延々と囀りが続くところについては、楽譜とは別に何ページ分かをまとめて複写したと思われる大判の紙を適宜譜面台に置いて弾いておられました。

***

余計なことですが、リサイタルの後半に隣に座ったバカ女、演奏始まってまもなくスマホの操作。照明を落とした中ではとても気が散るし、あろうことかスマホにチリチリ鳴る鈴を付けとる。後期高齢者がよくやるけど、こいつはまだ30代後半くらいだろう。それが3回続いたのでちょいと睨んだら、今度はトートバックの中でごそごそ操作してました。鈴は鳴らんが光は漏れる。それを10分に一回くらい。これって躾の問題なのか、それとも一種の依存症なのか。正直音楽を聴く環境としては最悪でした。普通のコンサートホールと違って、このカフェは客層が良いので安心してましたが、一人バカがいるだけで台無しですわ。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-27 00:42 | 演奏会レビュー | Comments(0)

ドビュッシー 12のエチュード(全曲)

ロヒンギャについて議論するとき、気を付けないとついデロンギって言ってしまう。ちなみにデロンギのヒーターは小型でもよく暖まるからいいんだけど(いや、よくない)。





ドビュッシーの12のエチュード、私は大好きな曲ですがリサイタルで取り上げられる機会が少ないのがとても不思議。気を付けて調べればあちこちで弾かれているのかも知れませんが、私が生で聴くのは、かれこれ30年ほども昔、御茶ノ水にあったカザルスホールで岡田博美が弾いたのを聴いて以来。こんな調子だと生きてる内には次の機会はないかも。


  2018年1月20日@カフェ・モンタージュ
  ドビュッシー 12のエチュード
  Pf: 木川貴幸


さっき「大好きな曲」と書いたけれど、ドビュッシーの作品の中では第一次大戦前後に作曲されたこのエチュードとバレエ「遊戯」あたりが最も先鋭的かつ洗練されていて、文句なしの傑作という感じがします。
話をピアノ曲に限って私的なことを書くと、私はどうもドビュッシーの作品は、聴くのはいいとして自分で弾くのは苦手。「映像」とか「前奏曲集」とか、例えばミケランジェリの録音なんかを聴くと本当に凄い作品だと思うが、自分で弾くとなるとスッカスカの音になるような気がして、そこそこ難度の高い書法を克服しようという気には到底なりません。ただ、12のエチュードだけは、ごく一部でもいいからいつかは練習してみたいと思っています。中でも「対比音のための」、「組み合わされたアルペジオのための」あたり。本当に天才にのみ書き得る音楽だと思います。
エチュード繋がりでもう少し雑談を書くと、前にどこかでドビュッシーのエチュードの3年ほど前、1912年に書かれたスクリャービン「3つのエチュードOp.65」の面白さについて書いたことがあります。スクリャービンは今やアマチュア含めて猫も杓子も弾く状況になってますが、このOp.65はまだまだマイナーな部類でしょう(技巧的にかなり過酷なせいかも)。でも9度や7度のためのエチュードなんて、ちょっと他に思い当たらない。ドビュッシーと並んで、この時代のアヴァンギャルドと呼ぶに相応しいと思います。ドビュッシーの翌年1916年のシマノフスキー「12のエチュードOp.33」やバルトークが1918年に書いた「3つのエチュードOp.18」なんかも実に面白い。特にバルトークは彼の作品の中でも最も急進的・無調的、しかも10度の音程を楽に掴めなければ絶対に弾けない超絶技巧で書かれています。こうしてみると1912年から18年という比較的短い期間に、ピアノのエチュードという形でこれほど先鋭的な作品が次々に書かれたというのは、今から振り返るとものすごい時代だったと思います。

さて肝心の当日の演奏ですが、よく伸びる美しい音のピアニストで私は大変楽しく聴きました。ニューヨーク在住のまだまだ若手で、カフェ・モンタージュで3年ほど前にブーレーズの全ピアノ作品の演奏をしている(私は聴きそびれてしまいましたが)。ストレスなく楽器を鳴らすテクニックは十分、音色とアーティキュレーションはどちらかと言えば鋭角的で、作品の本質にはよく合っていると思いましたが、指回りというかメカニックは意外にもたつくところがあります(1905年製のアンティークなスタインウェイのコントロールの難しさがあるのかも知れませんが)。私は大昔に聴いた岡田博美の目の覚めるような演奏が未だに記憶にあるので、評価が辛めになってしまうのだが、例えば「5本の指のための」や「8本の指のための」にはもっとシャープな切れ味を求めてしまう。あるいは「和音のための」では、ミスタッチを少なくするために、音楽の勢いが若干削がれてしまったようにも思います(正確に弾くのがどんなに困難かは分かっているつもりだが)。最も物足りないのは「対比音のための」で、重層的・立体的なソノリティの構築という点では非常にもどかしい思いをしました。全曲の中でも白眉というべき楽曲で不満を感じさせたのは少々残念でした。とはいえ、この翌日にメシアンの大作「鳥のカタログ」が控えている中での意欲的な選曲のリサイタルだったわけで、機会があればまた聴いてみたいと思いました。
翌日のメシアンについては稿を改めます。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-25 01:01 | 演奏会レビュー | Comments(0)

三輪眞弘+前田真二郎 モノローグ・オペラ「新しい時代」

森友学園をアダ・マウロみたいな感じで読んでみる。





三輪眞弘の「新しい時代」については、2016年12月25日にこのモノローグ・オペラからのスピンオフ作品を集めた演奏会を聴いていますので、作品の書かれた背景などについて三輪氏本人が話していた事など、その時の備忘を参照されたい。
http://nekolisten.exblog.jp/23520158/


 モノローグ・オペラ「新しい時代」
 2017年12月16日@ザ・フェニックスホール
 作曲・脚本・音楽監督: 三輪眞弘
 演出・映像: 前田真二郎

 14歳の少年信者: さかいれいしう
 儀式を司る4人の巫女(キーボード): 岩野ちあき、木下瑞、日笠弓、盛岡佳子
                   (大阪大学『記憶の劇場』プロジェクト受講生有志)
 信者1(映像オペレーター): 古舘健
 信者2(音響オペレーター): ウエヤマトモコ
 信者3(ミキシングオペレーター): 大石桂誉


明確なストーリーがあるかと言えば若干微妙ながらも、14歳の少年がネット空間の神に自らを捧げて自死する、という風にまとめられるだろう。1996年までドイツを拠点に作曲活動をしていた三輪氏にとって、95年と97年に起こった二つの事件(地下鉄サリンと神戸連続児童殺傷事件)がどれほど痛切であったかは想像できなくもないが、私はぼんやりと目の前で生起している物事を見ながら、日本におけるネットの黎明期というのはもう少し後、たぶん1998~99年頃じゃなかったかな、などと考えていました。後で調べてみたら2ちゃんねるの創設がその頃なのであって、いわゆるオタク達はもう少し早い時期、まさに95年から97年頃にはもうネットの世界に進出していたのかも知れません。こんなことをグダグダと書くのも、個人史としてはついこのあいだの事であるのに、なんとも記憶があやふやになっていること、あれほど世間を震撼させた事件であるのに、今となっては歴史の一コマに収まってほとんど何のアクチュアリティも感じられないこと、それらを題材にしたオペラというものが、もの凄い速さで劣化、陳腐化していくこと、などを考えざるを得ないから。そして、昨年の12月16日の出来事をこうして翌年1月6日に記そうとして、早くもディティールについては忘却の彼方に沈もうとしていることに愕然としている自分がいる。

開演の少し前に会場に入ると、舞台の左前方のスクリーンに丸い幾何学的な模様が投射されてゆっくりと回転しています。舞台奥のガラスの向こうには大阪のビル群。カーテンが降りて照明が落とされると、4人の巫女と3人の信者、少年が登場、少年の歌に続いて4人の巫女のキーボードによる「言葉の影、またはアレルヤ」が始まります。30分ほども続くこの場面で、何度も合成音声による「ア・・レ・・ル・・ヤ・・」や「yes、oui、はい、ja」といった囁きが立ち上る。その間、前のスクリーンには幾何学模様や「yes、oui、はい、ja」の言葉、キーボードのスコアの一部などが映し出される。
続く場面で少年があるいは無伴奏で、あるいはキーボードの簡素な伴奏で歌う。曲調はどれもシンプルでミニマル風のもの。ごくわずかな音楽的素材が繰り返されてそれなりの時間に拡張されているといった趣であって、2016年に聴いたスピンオフ作品集のほうが遙かに音楽的に多彩な感じでした。といっても決して退屈したという訳ではなくて、音楽作品としてやはり面白い。先にも書いたとおり、物語としては同時代的アクチュアリティを失ってしまったとしか私には思えなかったのだが、音楽のほうはシンプルであるが故にしぶとく生き残りそうな気配がする。
ちなみに2016年の時は「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための新しい時代」が最も面白かったのだが、こちらのオペラにはそのままの形では出てこない。若い人達とカルトあるいはネットの問題については、この「幽霊」のほうがよほどリアリティを伴って作品の中に捕らえ得ていたように思います。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-07 00:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)

メシアン 「アッシジの聖フランチェスコ」 びわ湖ホール公演

京阪のCMで、尻尾を落とし物と間違われた着ぐるみの狐さんが「しっぽですぅ~」ってやつ、なんか言い方がいけずそうで、あゝ京都やなぁと思います。





ブログって寿命みたいなのがあって、ある日突然更新が止まってそのまま休眠というブログがけっこうありますね。このブログも、なんとなく書くのが面倒といった理由で随分更新してませんでしたが、世の中の役には立たずとも、かつて行った演奏会の詳細を思い出すよすがとしてはそれなりに役立つということで、記憶が薄れてしまう前に少しでも記録しておきたいという気にようやくなった次第。実は11月の初めに大腸憩室出血で2週間ばかり入院し、楽しみにしていたカレッジ・オペラハウスの「偽の女庭師」公演を聞きそびれてしまいました。メシアンのほうは退院後1週間たらずの病み上がりながらも何とか間に合いました。これは本当に行けて良かった。私の鑑賞歴の中でも5本の指に入る素晴らしさでした。


 2017年11月23日@滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール
 メシアン 「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式)

  天使: エメーケ・バラート
  聖フランチェスコ: ヴァンサン・ル・テクシエ
  レプラ患者: ペーター・ブロンダー
  兄弟レオーネ: フィリップ・アディス
  兄弟マッセオ: エド・ライオン
  兄弟エリア: ジャン=ノエル・ブリアン
  兄弟ベルナルド: 妻屋秀和
  兄弟シルヴェストロ: ジョン・ハオ
  兄弟ルフィーノ: 畠山茂
  合唱: 新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル
  合唱指揮: 冨平恭平
  オンド・マルトノ: ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー、大矢素子、小川遥
  管弦楽: 読売日本交響楽団
  指揮: シルヴァン・カンブルラン


東京での2公演も含め、今回のカンブルラン/読響の素晴らしさについては、夥しいツイッターやブログなどで感想も書き尽くされたと思うので、私のほうはあくまでも個人的な備忘録としての記録にとどめたい。
メシアンのこの異形のオペラについては、昨年夏にケント・ナガノのCDを聴いた感想をアップしましたが、その時の感想を一言でいえば「聖痕の場はようわからん」というものでした。だが、演奏会形式とはいえ簡単な所作を伴った舞台で体験すると、もう理屈を超えて心を揺さぶられた、としか言いようがない。どなたかがツイッターで仰っていたが(誰のものだったか、今となっては探しようがない)、メシアンはホールに満ちる倍音の響きまで計算してスコアを書いている、といった指摘をされていました。そんなに高性能な耳の持ち主ではない私には、真偽のほどは判りかねるけれど、CDのような音源で聴くだけでは絶対に判らないことがあるということだけは確かだと思います。かつてあれほど晦渋に思えた聖痕の場の合唱だというのに、これこそメシアンが已むに已まれず書いた凄絶な音楽であって、この場を経て本当の意味でフランチェスコは聖人となったのだろうと心から納得させられる思いでした。これはもう、メシアンのメチエとか音楽語法のレベルではおそらく解析できず、ただただ虚心に音楽に向き合うことでしか体感できないものかも知れません。さっき、つい筆がすべって「私の鑑賞歴の中でも5本の指に入る」と書いたけれど、実際ここまで対象となる音楽に対して「理屈はともかく、今私はこの音楽を体得した」と思えた演奏会はそうそうあるものではありません。これまで何度も、メシアンの「傑作の森」は1960年代それも前半、「クロノクロミー」から「天の都市の色彩」あたりの諸作であり、「アッシジ」を含む晩年の作品はどちらかといえば過去の回想と手癖だけで書かれたかの如く否定的なことばを書いてきました。だが、今回の「アッシジ」を体験した今、全面的にこの評価は改めなければならないだろうと思います。少なくとも「アッシジ」と「彼方の閃光」はメシアンの辿り着いた極北ともいうべき音楽だと考え始めています。

カンブルランと読響の素晴らしさについて、コンサートゴーアーでもなければ、もしかしたらクラオタですらない私が何を書くことがあろうか。だが、マッシブな響きにおける音圧の物凄さもさることながら、響きがどんなに薄くなっても張り詰めたような緊張感が持続することは書きとめておきたい。「彼方の閃光」もそうだけれど、とんでもなく大きな編成のオーケストラを用いながらも、作品の大半はとても薄い響きで書かれているのがメシアン晩年の特色といえると思いますが、こうして「アッシジ」の演奏でそれを目の当たりにすると、それこそフランチェスコとその兄弟の生活さながら、清貧の果ての豊かさといったものを感じないわけにはいきません。
歌手の中では、フランチェスコを歌ったテクシエが素晴らしい。その声を「慈愛に満ちた」と表現するのは如何にも紋切り型という気がするが、実際そうだから仕方がない。それに加えて、実に生身の人間らしい弱さまで兼ね備えて大変な当たり役だと思います。鳥たちへの説教の場面、フランチェスコと兄弟マッセオとの対話は、この生真面目なオペラの中にあっては一種のスケルツァンドな面白ささえ感じたが、よくよく考えるとこの音楽でそういった面白さを感じるというのは実は大変なことだろう。テクシエの声のもつ人間臭さのなせる技だろうと思います。
天使を歌ったエメーケ・バラートも良かったと思います。正に天上の声。傷、というのが言い過ぎなら一瞬の危うさ、みたいなものが無くはなかったが、それがまったく気にならないほど美しい声でした。レプラ患者役のペーター・ブロンダーも張りのある声で、世を呪う場面から奇跡を経て歓喜の絶頂へという振幅の大きな役を表現し尽くしていました。レオーネ役のフィリップ・アディスはこれら3人と比べると、やや見劣りがします。声量もそうだが、最初の場面の特徴ある増4度が今ひとつ決まらず、音程がぶら下がり気味となるところなど。だが、続くテクシエとのゆったりとした対話は、いかにも師と弟子との対話のように聞こえて、暫く経つとこれはこれでいいのかなと思いました。他の兄弟達も過不足なし。
全曲のなかで重要な位置を占める合唱の素晴らしさも、実際に聴いた多くの方が指摘していることだが、やはり書き留めておきたい。例の聖痕の場での神の声の合唱は、本当に作品の真価を知らしめるほどのパフォーマンスであったと思う。私は、冨平さんの指導下の新国立劇場合唱団ということで、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」の時のパフォーマンスの素晴らしさを思い出したが、「アッシジ」の幕切れの合唱の凄さは、それをも凌いでいたかも知れません。全曲が終わってカーテンコールの間、私、すこし腰が抜けてました。

ほとんど完璧といってもよい今回の公演で、唯一水を差したのが字幕の拙さ。あれはなんでしょうね、グーグル翻訳のほうがマシなくらい。細かいことだが、「チョウゲンボウ」をなんでわざわざ一般的とはいえない「マクソ鷹」と訳すのか。後で調べてみたら、昔(江戸時代以前)、ノスリやチョウゲンボウなど、鷹狩りに使えない猛禽を馬糞鷹と呼んだらしいのだが、このオペラでGheppioをマクソ鷹と訳す理由は私にはまったく理解できない。また、聖痕の場での神の御言葉、確かに日本語にするには大変難解な歌詞ではあるが、今回の字幕はほとんど日本語としての体を成してませんでした。普通、こういった台詞を訳すのなら、せめてヨハネの黙示録くらいは目を通すはずだし、そうしていれば多少生硬ではあってももうちょっとマシな日本語になっていたと思うのだが。あまりこういった指摘は書きたくはないのだが、今回は酷すぎたので備忘として書いておきます。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-01-04 23:44 | 演奏会レビュー | Comments(5)

アンサンブル・ノマド結成20周年記念”饗宴” vol.1 20世紀の華

ラッコ鍋(笑)。





このところ出張や会食続きでブログ更新もままなりませんが、記憶が薄れる前に・・・


 アンサンブル・ノマド第59回定期演奏会
 2017年9月23日@東京オペラシティリサイタルホール

 P.ヴァスクス: 遠き光(1996-97)
   vn: 野口千代光 指揮: 中川賢一
 M.フェルドマン: ヴィオラ・イン・マイ・ライフⅢ・Ⅰ・Ⅱ(1970)
   va: 花田和加子 指揮: 佐藤紀雄
 I.クセナキス: エオンタ(1963)
   pf: 中川賢一 指揮:佐藤紀雄
 武満徹: 波・ウェイヴス(1976)
   cl: 菊池秀夫


ネットでたまたま目に留まったこのコンサート、クセナキスのエオンタを生で聴ける機会など、残りの生涯でどれだけあるだろうかと思わずチケットを押さえました。結果、エオンタに限らず、本当に感動する演奏会でした。感動といっても色んな種類があるのだけれど、情でも知でもない、なんというか魂を根底から揺すぶられるというか、ああ聴きに行って良かったと心の底から思えるような体験でした。

まずはヴァスクスの「遠き光」。このアンサンブル・ノマド結成20周年記念コンサートは「”饗宴” メンバーによる協奏曲集」と銘打たれていて、この作品はヴァイオリン・ソロと弦楽合奏(4-4-3-2-1)によるもの。ギドン・クレーメルが取り上げているのでご存じのかたも多いと思いますが、徹底的に悲劇的な短調で書かれた作品。その悲劇的な色調というのは、敢えて喩えればバーバーの弦楽のためのアダージョみたいな感じもするが、あのアダージョがケネディの死とか映画「プラトーン」とは何の関係もないのと同様、ヴァスクスが生まれたラトビアという国の過酷な歴史と結び付けることは慎まねばならない。しかし、ヤナーチェクの「1.X.1905.」の得体の知れない悲劇性に対して、それを言葉にしようと思えば、音楽の背景にある歴史を引き合いに出さなければどうにも説明のつかないものが残るのと同様、単に作曲上のメチエをあれこれ並べてもどうにも割り切れないもの、胸を塞ぐような重苦しいものが残る。かなり長い作品で、聴いて楽しいものではないが、曲の中程よりすこし終わり方、ヴァイオリンのカデンツァのあとの地獄の扉が開いたかのようなグロテスクなワルツなど、最後まで聴かせる力があることは確か。演奏も見事でした。

短い休憩のあと、佐藤紀雄氏が舞台に出てきて、フェルドマンの演奏に際してパンフレットやチラシは手に持たず鞄のなかへ、という異例のお願いをされました。ひたすらピアニッシモの世界が続くフェルドマンの演奏前には実に賢明な措置。また曲順をⅢ・Ⅰ・Ⅱの順で行うこと、これは直感によるもので理論的な説明はできないこと、もっとも作品自体、三曲を一気に演奏することは想定していないこと、などをお話しされました。この日演奏されたヴィオラと小オーケストラのための作品は、フェルドマンがケージに傾倒していた時期から後期の静謐な世界に移行し始める時期のもので、点描法というのか、ポツポツと現れてしばらく空間を漂った後しずかに消えていく音が実に美しい。息をするのも憚られるような静寂の中、指揮者が手を降ろして初めて深く息をつくというのは、若干聴き手にマゾヒスティックな姿勢を取らせるところもあるが、これこそフェルドマンを生で聴く愉しみではありました。

もう一度短い休憩を挟んでいよいよお目当ての「エオンタ」。演奏会でクセナキスを聴くのは、はるか昔にストラスブール・パーカッション・アンサンブルが来日したときの「プレイヤード」以来かもしれません。私はこの「エオンタ」が好きで、昔は高橋悠治のレコードくらいしかなかったけれど、最近はyoutubeでけっこう色んな演奏が聴けたりする。ピアノパートは基本的に「ヘルマ」と似た書法が多く、ピアノの全域に亘って確率的に(耳で聴けはほとんど無作為のように)音が現れ、しかも五連符と六連符を重ね合わせて更にいくつもの装飾音符が付くといったもの。これに金管五重奏(2tp・3tb)のノイジーな合奏が重なるのだが、これまでCDやyoutubeで聴いてきた演奏を大きく分けるとピアノのchaoticな側面を強調したもの(技巧的な制約でchaoticにならざるを得ないものも含む)と、それでも必死に論理的な書法を伝えようともがいているようなものに大別出来るような気がします。中川賢一のピアノは、どちらかと言えばchaoticに近いということになるのだと思うが、土台楽譜通りに弾くことはほぼ不可能であり、一瞬でも気を抜けば即崩壊してしまうような書法に対して、鬼気迫る形相でとにもかくにも弾き切ったことに対して私は震撼させられました。エオンタのピアノについて巧い下手を云々することは、実際に自分で弾いたことのある人間だけにしか許されないだろうというのが私の持論。金管の5人は舞台の上を歩き回り、ばらばらの方向に向かって楽器を吹く(そのために舞台袖に二人の副指揮者がつく)。その凶暴なグリッサンドやトレモロは白亜ではなくてまさに浅田彰のいう「古い赤土のギリシャ」の世界だと思う。ピアノ・金管とも見事な演奏だったと思いますが、この日一番のMVPはピアノの譜めくりのお姉さんだったかも。Boosey&Hawkesのスタディスコアをお持ちの方は分かっていただけると思いますが、アレは並みの読譜力では目で追えるシロモノではありません。

最後の武満徹の「ウェイヴス」、私は武満に対してすこし苦手意識があるけれど、これは傑作だと思います。舞台中央にクラリネット、舞台上手よりに打楽器奏者の奏するバスドラム、中央後方にホルン、それを挟むように二人のトロンボーン。ホルン奏者の横には薄い銅鑼のような楽器、トロンボーン奏者の横にはスネアドラムが配されていて、強く楽器を吹くと銅鑼やスネアが共振して微かに砂がこぼれるような音を発する。楽譜を照らすライト以外は照明が落とされ、文字通り波が寄せては返すような響きが続く。それは繊細極まりないのだが、音響の羅列ではなくて音楽としての自律性を感じさせるだけの強靭な何かがあって、いつもの「タケミツトーン」とは少し色合いの異なる音楽だと思う。最初に私が「傑作」と書いた所以です。

以上、駆け足で備忘を書いたのだが、それにしてもアンサンブル・ノマドの軌跡というのは素晴らしい。その長い業績の中でも、この日のプログラムは特に聞き手の咀嚼力を要するものだろうと思います。私が通常の意味でコンサート・ゴーアーになれないのは、別に古典やロマン派を忌避しているのではなくて、たまにこういった演奏会に行くとなると、それなりに準備をして、当日必死の思いで咀嚼し、そのあと時間を掛けて反芻するだけの時間が必要となるから、というのが当たっているかも知れません。実際、一昨年のツィンマーマンのレクイエムの演奏会や、今回の演奏会のあと、しばらく虚脱状態になって音楽を聴くのが少し辛くなります。こういった現象を何と呼べばいいのか、すこし考えあぐねています。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2017-10-01 23:32 | 演奏会レビュー | Comments(0)