シュレーカーとコルンゴルトとシェーンベルク

東大の学食の改修時に宇佐美圭司の壁画を廃棄したらしいというニュース。無知無教養は時に犯罪的であるとか、いやいや単に総務部門の資産管理の問題だろうとか、どれもこれももっともだが、じいさんの遺品の中のピカソのエッチングを、遺族が「なんだこのエロい落書き」と思って処分、なんて例は世界中で起こってそうだな。





曲目につられてオケの演奏会。自発的に行くのは久しぶりのような気がする。


2018年4月27日(金)
大阪交響楽団第217回定期演奏会”ウィーン世紀末のルーツVOL.5”

 シュレーカー:弦楽のための間奏曲Op.8(1900)
 コルンゴルト:左手のためのピアノ協奏曲嬰ハ調Op.17(1923)
 (アンコール)
 ゴドフスキー:Alt Wien
 (休憩)
 シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」(シュタイン編)(1902-03)

 指揮:寺岡 清高
 ピアノ:クリストファー・ヒンターフーバー
 管弦楽:大阪交響楽団


本来なら予習してから行くべきプログラムなのに、このところ多忙で叶わず、前半は初めて聴く曲目でした。
シュレーカーは、いずれこのブログで「烙印を押された人々」を取り上げたいと思ってたところ、めずらしくシュレーカー作品を生で聴けるとあって思わずチケットを購入しました。この間奏曲はウィーン学友協会音楽院の卒業作品ということで、この若書き一作でシュレーカー作品を云々することは出来ないと思うが、9声部に分かれた書法(vn4・va2・vc2・cb1)、妙な引っ掛かりを残す半音階的和声進行は、わずか数分の小品といえどもすんなりと腹に入るものではなく、予習を怠ったのが悔やまれます。よって中途半端な感想をここに記すのはやめておこうと思います。

コルンゴルトは過去に「死の都」とアメリカ亡命後に書いたたくさんの映画音楽を取り上げたことがありました。神童ともてはやされ、ステージパパの導きのままにかいたオペラと、映画音楽というフォーマットですっかり見違えるほどの第一級の職人芸を揮った諸作品の違いを、「自己愛」と「社会的ディシプリン」をキーワードに分析したつもりですが、この20代半ばのコンチェルトは、まだ売れっ子だった頃とはいえ、それなりの悪戦苦闘の跡が伺えて想像以上に面白い作品でした。左手だけのピアノソロという制約がなにがしかプラスに働いたのだろうと思います。ぎくしゃくとした旋律、甘く流れると思わせるや否や中断されるカンティレーナ、どこか断片的なまま積み重ねられる展開と、この人ならではのゴージャスな管弦楽書法との奇妙な取り合わせ。「プラスに働いた」というのは、音楽の完成度というのではなくて、その溢れそうになる自律性とでも言ったレベルでのことです。コルンゴルトだからと舐めていた訳ではないけれど、やはりこちらも予習しておくべきだったと後悔頻りですが、おかげでコルンゴルトをもう少し聴きこんでみようと思ったのは大きな収穫でした。
ヒンターフーバーのソロは見事でした。地味な経歴だが、テクニックが強靭で、多数の打楽器を含むオーケストラに負けずにピアノが鳴っていました。アンコールにゴドフスキーの小品を選んだのは「ウィーン世紀末」というコンサートのテーマにも適っていて大正解だと思います。赤ワインと濃厚なフォンで煮崩れるほど煮込んだ頬肉のような退廃の味わいは格別。「トリアコンタメロン」の中の1曲で、PTNAピアノ曲辞典には「懐かしきウィーン」という名前で載ってます。

プログラム後半はシェーンベルクの大作。若書きだけれどプログラム前半とはやはり格が違うとしか言いようがない傑作だと思います。この日の演奏、たいへん聴きごたえがありましたが、もっとこう、叫びとか痙攣とか、いわゆるドイツ表現主義的な表現ができないものか、と少し物足りなく思いました。こういった作品、ライトモチーフをぎくしゃくと積み上げていく作風は、「浄められた夜」をムード音楽みたいに演るのと同じく、その継ぎ目にやすりを掛けて滑らかにしてしまうと実につまらなくなる側面があって、なかなか難しいものだと痛感しました。かれこれ40年ほども昔、私がシェーンベルクを聴き始めた頃はカラヤン盤くらいしかなくて、美しく磨き上げられた音響から抜け落ちた物を歯がゆく想像するしかなかったけれど、今も(アバド盤があるとは言え)あまり状況は変わっていないような気がします。ちなみにこの日の演奏はエルヴィン・シュタインによる改変版で、一言でいえば4管編成を3管編成に書きなおしたもの、といったところ。客の入りはまぁ7割程度、トラの確保も厳しいでしょうからやむを得ないとはいえ、どうせなら原典版で聴きたかった。尤も、シェーンベルクがパラノイアックに書きつけた対位法の網目をどの程度端折ったのか、スコアを見ないと分からないが、この編曲版でもかなり分厚い響きがしていたので、生演奏でこの大曲を聴けたという満足感はそれなりにあったわけだが・・・。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2018-04-29 16:30 | 演奏会レビュー | Comments(0)

映画「聖なる鹿殺し」備忘録

バーホーベンは映画「エルElle」の主役に初めニコール・キッドマンを想定してたんだって。変態さんに好かれるタイプなのにトム・クルーズと結婚してたってのがちょっと不思議(大きなお世話です)。




ヨルゴス・ランティモス監督作品「聖なる鹿殺し」"The KILLING of a SACRED DEER"を観た。映画を観てこんなにわくわくするのも久しぶりのような気がする。ロードショーが始まって間がないのでネタバレにならない程度しか書けないが、まぁこんなお話。心臓外科医スティーヴン(コリン・ファレル)は妻(ニコール・キッドマン)と二人の子供と暮らしている。彼は数年前、ある事情で手術を失敗し、死なせてしまった患者の一人息子マーティン(バリー・コーガン)に対して、時計を買ってやったり何くれと面倒を見ている。ある日、ちょっとした思いつきでスティーヴンはマーティンを自宅に招くが、その日からスティーヴンのまだ幼い息子の足が麻痺して歩けなくなってしまう。一方マーティンもその日を境に、スティーヴンへの態度が常軌を逸したものになっていく・・・
ひたひたと迫り来る恐怖は下手なホラー映画の比ではないが、それが主眼の映画ではない。家族が崩壊していく様子は見ていて辛いものがあるが、どこかそういう情緒的な見方を撥ね除けるものがある。それはあけすけで乾いた独特のユーモア(というか、かなり下品なエロ描写)であったり、エウリピデスの「アウリスのイピゲネイア」と旧約のアブラハムとイサクの逸話の重ね合わせといった衒学趣味(タイトルの「聖なる鹿」もアルテミスの鹿に掛けているのだろうが、もう一つ、マイケル・チミノ監督の映画「ディア・ハンター」も関係があると思う。詳しくはネタバレになるから書かないが)、それに過激な暴力描写と、実に多様な要素を含んでいて一筋縄ではいかない。それを統一するものがあるとすれば、全編に一貫する徹底した美意識、特に完璧なまでに美しいカメラワーク。それに音楽がこれまた人を唸らせるものがあって、冒頭シューベルトの「スターバト・マーテル」D383で始まり、バッハのヨハネ受難曲で終わるというもの。困ったものだが、私は今後、ヨハネ受難曲を聴くたびにこの映画を思い出して複雑な気分を味わうことになるだろう。
コリン・ファレルもニコール・キッドマンも渋くてかっこいいが、バリー・コーガンは怪演といって良いと思う。物好きを自認する方は必見。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2018-03-11 02:10 | その他 | Comments(0)

ワーグナー 「ワルキューレ」 びわ湖ホールプロデュースオペラ公演

かれこれ四半世紀も前の話。テレビで「カルトQ」という伝説的な超マニアック・クイズ番組があったのだが、ウィリアム・バロウズがお題の回で、4問正解したのがちょっと自慢。





びわ湖ホールの「指輪」シリーズの二年目。


 2018年3月4日@びわ湖ホール
 ワーグナー 「ワルキューレ」

  ジークムント: 望月哲也
  フンディング: 山下浩司
  ヴォータン: 青山貴
  ジークリンデ: 田崎尚美
  ブリュンヒルデ: 池田香織
  フリッカ: 中島郁子
  ゲルヒルデ: 基村昌代
  オルトリンデ: 小川里美
  ワルトラウテ: 澤村翔子
  シュヴェルトライテ: 小林昌代
  ヘルムヴィーゲ: 岩川亮子
  ジークルーネ: 小野和歌子
  グリムゲルデ: 森季子
  ロスワイセ: 平舘直子
  管弦楽: 京都市交響楽団
  指揮: 沼尻竜典
  演出: ミヒャエル・ハンペ


まずはハンペの演出。この人がプロジェクション・マッピングを駆使した舞台は「さまよえるオランダ人」「ラインの黄金」に続いて3回目だと思うが、最初の「オランダ人」の時は素直にその技術の進歩に驚き、「ライン」の時はあまりにもリアルに何でも出来てしまうので、それが逆に観客の想像力を奪ってしまうのではないかという疑念を抱いた。そして今回、よく言えば伝統的と言えるのだろうが、あまりにも陳腐なイメージに正直落胆してしまった。まず第一幕、前奏曲の間、吹雪の森をさまようジークムントと追手のフンディングの郎党の姿が見える。そこから一気にフンディングの館の室内となる。居間の真ん中に聳えるトネリコの大木、食卓と暖炉。後半、ジークムントとジークリンデの愛の二重唱が始まると舞台は瞬時に春の森の情景となり、食卓や暖炉と見えたものがいつの間にか苔むした岩になっている。第二幕は終始荒涼とした岩山の情景、第三幕は岩山の頂きで、中央に斜めに傾いだ巨石。暗雲の立ち込めた背景に時折英雄の亡骸を運ぶワルキューレの馬が、白い影絵のように飛び交うのには失笑を禁じ得ない。幕切れの魔の炎の音楽の場面では盛大に炎が燃え上がり、舞台を埋め尽くす・・・。正直なところ、いわゆる「読み替え」演出に対して必ずしも良いイメージを持っていない筆者だが、いくら伝統的であってもこの陳腐さには辟易した。これでは観客の想像力を奪うどころの話ではなくて、演出家の想像力の貧困を疑わざるを得ないレベルではないか、と思う。プロジェクション・マッピングの映像がリアルであればあるほど、「ものすごく本物っぽく描かれた学芸会の書き割り」みたいに見えてしまう。ただ、決してプロジェクション・マッピングそのものの所為だとは思わない。今回私が失望した理由は一にも二にも演出家のイメージの貧困だと思う。「ワルキューレ」は指輪の中でも最も人間的なドラマで、台詞だけで強烈な感動を帯び起こす、非常に演劇的な作品だと思うが、そんなオペラであるからいっそのことヴィーラント・ワーグナーのような大道具の殆どない抽象的な舞台のほうがよほどオペラ的であるかも知れない。もちろん現代にあってヴィーラントの模倣を観たい訳ではなくて、演出家の想像力の限りを尽くした美しい舞台が観たいと思うだけなのだが。

音楽について。最初の嵐の音楽から、その室内楽的な響きに驚かされる。通常よりプルトを減らしてるんじゃないかと思ったぐらい、面白いことに、第二幕以降はそれほど極端に室内楽的という訳ではなくて、それなりに分厚い響きを鳴らすこともあって、ことさら第一幕に狙いを定めて「猛り狂わないワーグナー」を目指したのだろう。それが沼尻氏の狙いであることは十分伝わるので物足りなさを感じることはなかったが、忘我の二重唱は正直なところもっと泣かせてほしかったと思う。この第一幕とそれ以降の表現の断層がある分、昨年の「ラインの黄金」のほうが若干音楽的なまとまりの良さがあったという感じがする。沼尻氏の指揮も随分あれこれ聴いてきたが、初めの内なんだか情趣に乏しく思えたこの人の演奏スタイルも、「ドン・パスクァーレ」の名演や昨年の「ライン」を聴くうちに馴染んできて好ましく思うようになった。今回のワルキューレ、特に第一幕は好き嫌いの分かれる演奏だと思うが、私は面白く聴いた。

歌手はいずれも充実していたが、指揮のスタイルに合わせたのかどうか、やや小ぶりな印象を持つ。その中ではブリュンヒルデを歌った池田香織がやはり頭一つ抜けていたと思うが、昨年名古屋で歌った基村昌代の鮮烈なブリュンヒルデを思い出すにつけ、もっと高望みしたくなるというもの(ちなみに今回の公演では基村は脇役のゲルヒルデを歌っている)。ヴォータンの青山貴然り。今や日本のバス・バリトンの第一人者だと思うが、最後の告別と魔の炎の音楽の場はちょっとスタミナ切れという感じも。ジークムントの望月哲也、ジークリンデの田崎尚美は第一幕やけにおとなしい感じがしたが第二幕以降はまずまず。指揮者のスタイルに対して少し委縮気味だったのだろうか。フンディングはまぁこんなものかな、という感じだが、フリッカはもう少し吠えてもよかったかも。

来年のジークフリートが待ち遠しいが、ハンペの演出はあまり期待できない。沼尻氏の指揮で、私にはどうも散漫な感じがする第二幕がどう響くかはとても楽しみにしている。
(この項終り)


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# by nekomatalistener | 2018-03-08 00:10 | 演奏会レビュー | Comments(0)

大フィル定期 レスピーギ「ローマ三部作」

親会社から久しぶりに出張で来てた方のしゃべり方が独特なんだけど、同僚に「あの人トッポジージョみたいやな」と言ったところ若い子にはまったく通じない。まぁ予想はしてた。





レスピーギを取り上げるのは初めて。なかなか自分で(オペラやコンテンポラリー以外の)コンサートに行くことのない私ですが、例によって取引先の社長さんからお誘いがあって行ってきた次第。


 2018年2月16日@フェスティバルホール
 大阪フィルハーモニー交響楽団 第515回定期演奏会
 レスピーギ
  交響詩「ローマの噴水」
  交響詩「ローマの祭」
  (休憩)
  交響詩「ローマの松」
 指揮: アンドレア・バッティストーニ


いや、このブログでレスピーギという名前を出したことは前に一回あって、昨年佐渡裕の「トゥーランガリラ」演奏会の時に、佐渡の良くも悪くもエンタメ志向の強い演奏に対する不満を「メシアンのレスピーギ化」と書いておりました。要するに悪口ですね。
でも実はレスピーギの少なくとも「ローマ三部作」については、よく出来た曲だと思っており、その大胆なポリリズムやポリトナールな書法はもっと賞賛されてしかるべきだろうと思います。特に「ローマの祭」の、広場で様々な音楽がカオスのように聞こえてくるところなど、マーラー(第3交響曲)やストラヴィンスキー(ペトルーシュカ)からインスパイアされたことは歴然としているものの、チャールズ・アイヴズの同様のアイデアと比べても不当に評価が低いと思わざるを得ません。それに「ローマの松」の終曲の、抗いようのないカッコよさ、スペクタクルな興奮も、単なる名曲と片づけるのは実にもったいない。
だいぶ前のことですが、レスピーギという作曲家に対して少し興味をもって、多少あれこれ聴いてみようと思った時期がありました。実はオペラをたくさん書いていてけっこう面白いという話を聞いたりしたのですが、当時は音源そのものが入手できず、代わりに「ミクソリディア旋法のピアノ協奏曲」などいくつか聴いてみました。結果は、さして面白いとも言えない楽想と、虚仮威しなピアノ書法に辟易してしまい、それきりになってしまいました。そんな個人的な好き嫌いはさておき、「三部作」でさえ、どうも傑作というよりはイロモノ扱い、レスピーギ自身も良くて二流扱いされがちなのは、CDが生まれる以前のLP時代に、専らオーディオ機器の性能を測るためだけに作られたようなシロモノがあって、「三部作」はその恰好の素材として、チャイコフスキーの「1812年」なんかと同列の扱いをされていたという不幸な歴史のせいじゃないだろうか。それに敢えて言うなら吉田秀和に代表されるような「真面目な」クラシック愛好家の存在、昭和の頃はレスピーギといえばカラヤン、という時代にあってアンチ・カラヤンの存在、等々。だが、時代も移り変わり、総体的に聴衆の耳が肥えた現代にあって、いつまでも昭和の価値観を引きずることもあるまい。「三部作」は久しぶりに聴きましたが、本当に面白く興奮する音楽でした(もっとも最初に演奏された「噴水」は私自身の体調のせいかどうか、半分寝落ちしてましたが・・・)。
演奏も大変キレのあるもので、初めて聴く指揮者でしたがぞんぶんに楽しみました。かなりオーバーアクション系の指揮で、まぁ俗なレベルだけれど視覚的な面白さも。大フィルを聴くのも何年ぶりか分からないほどですが、なんとなくもっさりしたイメージは完全に払拭できました。時間的にはややコンパクトなプログラムだったので、「リュートのための古代舞曲とアリア」から何か一曲、いう期待もあったのですが、内容的にはけっこう腹いっぱいになるためか、アンコールは無し。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2018-02-20 13:00 | 演奏会レビュー | Comments(0)

新国立劇場公演 細川俊夫「松風」

松風観ながら、ふたっつでったほいの~とヨサホイ節を思い出すいけない私。





細川俊夫のこのオペラを観るためにだけ上京したが、期待を上回る素晴らしさにしばし呆然。


  2018年2月17日@新国立劇場
  細川俊夫 「松風」
    松風: イルゼ・エーレンス
    村雨: シャルロッテ・ヘッレカント
    旅の僧: グリゴリー・シュカルパ
    須磨の浦人: 萩原潤
    指揮: デヴィッド・ロバート・コールマン
    演出・振付: サシャ・ヴァルツ
    管弦楽: 東京交響楽団
    合唱: 新国立劇場合唱団
    ダンス: サシャ・ヴァルツ&ゲスツ

 
オペラを観て感じる感動というのにも色々あると思うのだが、例えば涙が出るような感動というのではないし、知的想像力を刺激されてある種の興奮を感じるというのとも微妙に違う。言葉にするのは難しいけれど、「美」という抽象的観念が舞台の上で形象化するのを目の当たりにしたときの驚きとか喜び、そこに作曲者のいう「人間の原感情」、すなわちうれしいとか悲しいといった感情の一層下に横たわっている物を感じたときの惧れに近い感情、そんなこんなが一挙に押し寄せてくることでエモーショナルな情動を感じる・・・このオペラを観た感想をまとめるなら、そんな感じになるのだろうと思う。いずれにしても大変優れた舞台であり、特にオペラという形式で、音楽以外の要素がこれほど高いレベルで実現しているのは稀であり、しかもそれが少しも音楽の邪魔をするのではなくて総合的に作品を形作っているのもまた稀なことだろう。

原作はもちろん能の「松風」。そういえば能もしばらくご無沙汰しているが、このオペラを観ると、また能への興味が沸々と湧き上がる。
物語は能とほぼ同じ。在原行平が須磨に流されていたあいだに、松風・村雨の姉妹と懇ろになるが、やがて行平は帰京してすぐに亡くなり、悲嘆に暮れた姉妹もこの世に思いを残したまま亡くなる。須磨を旅する僧のもとに姉妹の霊が現れ、行平を偲んで舞う、というもの。あの有名な行平の歌、「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今かへりこむ」「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」もテキストに取り込まれている(前者が詠まれたのは須磨配流の時ではないが、このあたり史実とはかなり異なるようだ)。
オペラのほうは、配役は能と同じだが、舞台では終始多くのダンサーたちが踊っている。コレオグラフィック・オペラと題されている通り、それはバレエというよりコンテンポラリーダンスに近いものだろうが、その方面の素養が全くない私にも見事だと思わせる完成度。また舞台からピットへ、また舞台へと小規模な合唱が地謡、あるいはコロスさながら登場人物の台詞を繰り返し、補う。囃子に相当するオーケストラは、ことさら和楽器を使うということはないが、舞台上の合唱が手に手に風鈴をもち、澄んだ金属音を奏でる。構成は複式夢幻能の形式通り二部に分かれ、前場は舞台上に大道具の類は一切なく(実際にはダンサーが上り下りする足場があるのだがしかとは見えない)、途中から紗が降りて煌々と照る月とともに幻想的な雰囲気を醸し出す。後場では塩屋に見立てた骨組みだけの建物が設えられ、僧の功徳により姉妹の霊が救われると、上から夥しい松葉が降り注ぐ。実に簡素な舞台だが、音楽と歌手やダンサーの振付、美術、照明の全てが緊密に組み上げられて、ため息がでるような美しさ。
音楽はまずPAで流される風や潮騒の音から始まり、断絶感なくオーケストラに引き継がれていく。いわゆる現代音楽としてのイディオムに一切の妥協はないのだが、姉妹登場の並行五度の二重唱など、耳に残る旋律もあり、馴染みがなくともすんなりと腹に入る音楽。しかし、それだけにとどまらない何物かがこの音楽にはあるような気がする。

ここで少し下世話な話になるけれど、「松風」の物語で一番引っ掛かるところといえば、行平を愛し、また愛された女が姉妹であるということ。能を観るならこの辺りの事情というのは見て見ぬふりをしなければならないのかも知れないが、中世のこととて、行平との間に間違いなく肉体関係があったのだろうと思うと何とも背徳的なお話に思えてしまう。作曲者は公演後のアフタートークで、この姉妹を女性の二面性の表現である云々と仰っていたが、そういう傍から松風の激しい舞を「エクスタシー」と表現するものだからますますあらぬ想像をしてしまうというもの。だが、後場の姉妹の歌や舞の思いがけないほど激しい表現というのは、私にはエロスの表出としか言いようのないものであった。エロスとは業(ごう)と言い換えてもよいのだろう。よくよく考えれば、邦人の作品でここまでエロスの表出を感じさせるものというのは少ないような気がするが、それこそ細川俊夫の作品がこれほど海外で高く評価される一因であると思う。一方で、この後場の松風の殆ど狂乱に達するほどの歌と舞の場面では、それまでたくさんいたダンサーが男女二人だけになり、塩屋の中で狂おしいパ・ド・ドゥーを踊る。こういった下世話な想像さえ許容する官能表現を突き詰めた先に、先ほど書いた「原感情」に対する畏怖の念が惹起されるというのは、実は大変なことであって、真の芸術というものの奥の深さを感じないわけにはいかない。私はこの稿を書きながら、己の言語表現の貧しさを嘆かずにはいられないのだが、冒頭に書いた「エモーショナルな情動」を言葉にしようと思えば、私の筆力ではこんな分析が精いっぱいといったところである。

歌手やダンサー、管弦楽について巧拙を云々するというのはもはや何の意味もないだろう。姉妹役の歌手がプロのダンサーと殆ど遜色ないほどの身体表現を行う驚きも誰しもが感じたことに違いない。初演から7年も経ってようやく、香港を含む各地での上演に遅れて、それもベルギーのモネ劇場のレンタルという形で日本初演にこぎつけたことに対して、まるで日本の国力の劣化そのものであるかのような言葉を見かけたが、これも分かるといえば分かる。しかし、私は7年遅れであろうがレンタルであろうが、この完璧な美が立ち上る舞台を観て、関係者のここに至る努力をただただありがたいと思った者である。これからゆっくりとこの日私が得た物を反芻するために、細川俊夫の作品を集中して聴いてみたいと思う。
(この項終り)

# by nekomatalistener | 2018-02-19 23:32 | 演奏会レビュー | Comments(0)