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新国立劇場公演 細川俊夫「松風」

松風観ながら、ふたっつでったほいの~とヨサホイ節を思い出すいけない私。





細川俊夫のこのオペラを観るためにだけ上京したが、期待を上回る素晴らしさにしばし呆然。


  2018年2月17日@新国立劇場
  細川俊夫 「松風」
    松風: イルゼ・エーレンス
    村雨: シャルロッテ・ヘッレカント
    旅の僧: グリゴリー・シュカルパ
    須磨の浦人: 萩原潤
    指揮: デヴィッド・ロバート・コールマン
    演出・振付: サシャ・ヴァルツ
    管弦楽: 東京交響楽団
    合唱: 新国立劇場合唱団
    ダンス: サシャ・ヴァルツ&ゲスツ

 
オペラを観て感じる感動というのにも色々あると思うのだが、例えば涙が出るような感動というのではないし、知的想像力を刺激されてある種の興奮を感じるというのとも微妙に違う。言葉にするのは難しいけれど、「美」という抽象的観念が舞台の上で形象化するのを目の当たりにしたときの驚きとか喜び、そこに作曲者のいう「人間の原感情」、すなわちうれしいとか悲しいといった感情の一層下に横たわっている物を感じたときの惧れに近い感情、そんなこんなが一挙に押し寄せてくることでエモーショナルな情動を感じる・・・このオペラを観た感想をまとめるなら、そんな感じになるのだろうと思う。いずれにしても大変優れた舞台であり、特にオペラという形式で、音楽以外の要素がこれほど高いレベルで実現しているのは稀であり、しかもそれが少しも音楽の邪魔をするのではなくて総合的に作品を形作っているのもまた稀なことだろう。

原作はもちろん能の「松風」。そういえば能もしばらくご無沙汰しているが、このオペラを観ると、また能への興味が沸々と湧き上がる。
物語は能とほぼ同じ。在原行平が須磨に流されていたあいだに、松風・村雨の姉妹と懇ろになるが、やがて行平は帰京してすぐに亡くなり、悲嘆に暮れた姉妹もこの世に思いを残したまま亡くなる。須磨を旅する僧のもとに姉妹の霊が現れ、行平を偲んで舞う、というもの。あの有名な行平の歌、「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今かへりこむ」「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」もテキストに取り込まれている(前者が詠まれたのは須磨配流の時ではないが、このあたり史実とはかなり異なるようだ)。
オペラのほうは、配役は能と同じだが、舞台では終始多くのダンサーたちが踊っている。コレオグラフィック・オペラと題されている通り、それはバレエというよりコンテンポラリーダンスに近いものだろうが、その方面の素養が全くない私にも見事だと思わせる完成度。また舞台からピットへ、また舞台へと小規模な合唱が地謡、あるいはコロスさながら登場人物の台詞を繰り返し、補う。囃子に相当するオーケストラは、ことさら和楽器を使うということはないが、舞台上の合唱が手に手に風鈴をもち、澄んだ金属音を奏でる。構成は複式夢幻能の形式通り二部に分かれ、前場は舞台上に大道具の類は一切なく(実際にはダンサーが上り下りする足場があるのだがしかとは見えない)、途中から紗が降りて煌々と照る月とともに幻想的な雰囲気を醸し出す。後場では塩屋に見立てた骨組みだけの建物が設えられ、僧の功徳により姉妹の霊が救われると、上から夥しい松葉が降り注ぐ。実に簡素な舞台だが、音楽と歌手やダンサーの振付、美術、照明の全てが緊密に組み上げられて、ため息がでるような美しさ。
音楽はまずPAで流される風や潮騒の音から始まり、断絶感なくオーケストラに引き継がれていく。いわゆる現代音楽としてのイディオムに一切の妥協はないのだが、姉妹登場の並行五度の二重唱など、耳に残る旋律もあり、馴染みがなくともすんなりと腹に入る音楽。しかし、それだけにとどまらない何物かがこの音楽にはあるような気がする。

ここで少し下世話な話になるけれど、「松風」の物語で一番引っ掛かるところといえば、行平を愛し、また愛された女が姉妹であるということ。能を観るならこの辺りの事情というのは見て見ぬふりをしなければならないのかも知れないが、中世のこととて、行平との間に間違いなく肉体関係があったのだろうと思うと何とも背徳的なお話に思えてしまう。作曲者は公演後のアフタートークで、この姉妹を女性の二面性の表現である云々と仰っていたが、そういう傍から松風の激しい舞を「エクスタシー」と表現するものだからますますあらぬ想像をしてしまうというもの。だが、後場の姉妹の歌や舞の思いがけないほど激しい表現というのは、私にはエロスの表出としか言いようのないものであった。エロスとは業(ごう)と言い換えてもよいのだろう。よくよく考えれば、邦人の作品でここまでエロスの表出を感じさせるものというのは少ないような気がするが、それこそ細川俊夫の作品がこれほど海外で高く評価される一因であると思う。一方で、この後場の松風の殆ど狂乱に達するほどの歌と舞の場面では、それまでたくさんいたダンサーが男女二人だけになり、塩屋の中で狂おしいパ・ド・ドゥーを踊る。こういった下世話な想像さえ許容する官能表現を突き詰めた先に、先ほど書いた「原感情」に対する畏怖の念が惹起されるというのは、実は大変なことであって、真の芸術というものの奥の深さを感じないわけにはいかない。私はこの稿を書きながら、己の言語表現の貧しさを嘆かずにはいられないのだが、冒頭に書いた「エモーショナルな情動」を言葉にしようと思えば、私の筆力ではこんな分析が精いっぱいといったところである。

歌手やダンサー、管弦楽について巧拙を云々するというのはもはや何の意味もないだろう。姉妹役の歌手がプロのダンサーと殆ど遜色ないほどの身体表現を行う驚きも誰しもが感じたことに違いない。初演から7年も経ってようやく、香港を含む各地での上演に遅れて、それもベルギーのモネ劇場のレンタルという形で日本初演にこぎつけたことに対して、まるで日本の国力の劣化そのものであるかのような言葉を見かけたが、これも分かるといえば分かる。しかし、私は7年遅れであろうがレンタルであろうが、この完璧な美が立ち上る舞台を観て、関係者のここに至る努力をただただありがたいと思った者である。これからゆっくりとこの日私が得た物を反芻するために、細川俊夫の作品を集中して聴いてみたいと思う。
(この項終り)

by nekomatalistener | 2018-02-19 23:32 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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