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新国立劇場公演 ヤナーチェク 「イェヌーファ」 

大手企業で運動会など再評価 一体感醸成に効果「リアルな交流できる」
SankeiBiz 2月18日(木)8時15分配信
・・・・・
うそつけ。




新国立劇場初登場のヤナーチェク。正直なところ直前まで行くのを迷っていたのですが、友人の「一生後悔するよ」というメールで急遽楽日を観ることに。これは観ておいてよかった。

 2016年3月11日@新国立劇場
  ブリヤ家の女主人: ハンナ・シュヴァルツ
  ラツァ・クレメニュ: ヴィル・ハルトマン
  シュテヴァ・ブリヤ: ジャンルカ・ザンピエーリ
  コステルニチカ: ジェニファー・ラーモア
  イェヌーファ: ミヒャエラ・カウネ
  粉屋の親方: 萩原 潤
  村長: 志村文彦
  村長夫人: 与田朝子
  カロルカ: 針生美智子
  羊飼いの女: 鵜木絵里
  バレナ: 小泉詠子
  ヤノ: 吉原圭子

  指揮: トマーシュ・ハヌス
  演出: クリストフ・ロイ
  合唱指揮: 冨平恭平
  合唱: 新国立劇場合唱団
  管弦楽: 東京交響楽団


ヤナーチェクの音楽を聴くと、その独自性にいつも驚いてしまいます。質実剛健というか無骨な手触り、洗練というのとは全く違うが恐るべき完成度。過去のどんな音楽にも似ていない(少なくともどんな先行者がいたのかよく分からない)という点で、ムソルグスキーと並び立つ天才であると思います(ムソルグスキーの場合はダルゴムイシスキーが一応先行者ということでいいのだろうか)。
この「イェヌーファ」にしても、耳で聴くだけでは垢抜けない感じがしなくもないのですが、舞台で観るとその音楽と演劇との緊密な結びつきに驚嘆することになります。特に第2幕終結部の身を突き刺すような金管の扱い方や、第3幕の終わりの、カメラがパンして大きく視界が拓けるような音楽は、舞台と合わさることで物凄い威力を放っていました。
それよりなにより、どうしようもない登場人物ばかり出てくるこのオペラを貫く、ヤナーチェクの慈愛としか言いようのない暖かな視線には殆どたじろぐ思いがします。屑の中の屑であるステヴァだけでなく、他の登場人物だって多かれ少なかれろくでもない連中ばかりなのだが、ヤナーチェクは彼らに些かも下卑た歌を歌わせない。その真摯な音楽はモラヴィアの田舎の愛憎劇を人間の根源的な悲劇にまで昇華する。ヒューマニズムという言葉は手垢が付き過ぎて普段まず使わない言葉だが、ヤナーチェクの音楽に底流するものこそ、真のヒューマニズムだと言っても過言ではないような気がします。

今回の公演、私は新国立劇場の過去の公演の中でもトップクラスだと思いますが、まず主役級の歌手達が本当に素晴らしかった。特に、ラツァを歌ったヴィル・ハルトマンとコステルニチカを歌ったジェニファー・ラーモアはこの作品の上演史に残るだろうと思います。とりわけハルトマンは、まさにラツァを歌うために生まれてきたのではないかとすら思う(こんな感想は2012年「ピーター・グライムズ」の時のスチュアート・スケルトン以来かもしれない)。ハンナ・シュヴァルツも凄い。1943年生まれで、今回の日本公演では同時に「サロメ」のヘロディアスも歌うというから正にバケモノ。もちろんイェヌーファのミヒャエラ・カウネ、シュテヴァのジャンルカ・ザンピエーリも言うことなし。脇役を固める日本勢は、難しいチェコ語(モラヴィア方言)のオペラということで大変だったと思うのだが、これといって穴がないのは大したものだと思いました。
トマーシュ・ハヌス指揮東京交響楽団の演奏も大変優れたものだったと思います。ツイッターやブログなどぱらぱらと見ていると、概ねこの公演に対しては高評価ながら、海外で幾度か舞台を観た方の中にはやや辛口のものもありました。余りにも演奏がきれいに整理されすぎて、ドラマの生々しさが犠牲になっているとの評価を見ましたが、そのような見方があることは当然のことだろうと思います。ヤナーチェクほどの天才の音楽であれば、演出や歌手の如何によってもっと高いレベルがあり得て当然、これが最高ということはないのでしょう。だが、今後の日本におけるヤナーチェクの受容を考えた場合に、これほど高い水準の好演が新国立劇場という大箱で、多くの人の目に触れたということは大きな意義をもつはず。
これは演出にも言えることであって、今回それが残念ながらレンタルであって再演が望みえないことを残念に思われる向きもあった。だがこれも、レンタルであれ何であれ、とにもかくにも新国立劇場で取り上げられたということが大切なのではないか。その演出はというと、第1幕、オーケストラの序奏の前に、白々とした光に満たされ、机と椅子以外は何の調度もない刑務所の取調室のような部屋に、刑務官がコステルニチカを連れてくるところから始まる。以下はすべてコステルニチカの回想という見立て。この殺風景な白い空間は、ストーリーの進展に連れて、横幅が広がり、奥の壁がスライドして麦畑が見えたり、雪景色が見えたりと変化するが、その高さと奥行はこの劇場のキャパのおそらく半分も使っておらず、それがそのままイェヌーファやコステルニチカをとりまく閉塞的な社会を表している(現代の日本だって、すこし田舎に行けばこのような生き辛い社会はいくらでもみつかるだろう)。人物の動かし方は極めて演劇的で、途中何度も現れるゲネラルパウゼではとてつもない緊張を強いられます。登場人物は、第1幕でラツァが吊りズボンにアンダーシャツ一枚という野良着姿であるほかは皆現代風のファッション、ラツァも2幕以降はスーツを着ている。イェヌーファは最初深紅のワンピースで出てくるが終幕はごく地味な黒の衣装。このあたり、それぞれに意味があるのだろうがよく分かっていないので割愛。決して伝統的とも言い切れない舞台であるのに、観終わると深い充足感を感じます。

今回の公演に関して、特にツイッターで絶賛の嵐になり、最初の内興行的には苦戦していたようだが、私が観た楽日はまずまずの客の入りであったように思います。新国立劇場の客層は比較的保守的だとしても、その内容次第でこうしてマイナーなレパートリーであっても客が入るということは実に心強いことだ。来シーズンの新国立劇場の目を覆うばかりの陳腐なラインナップには心底がっかりしたが、関係者には今回の成功事例をよく分析していただきたいものです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2016-03-14 22:29 | 演奏会レビュー
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