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シュトックハウゼン 「光の月曜日」を聴く (その3)

野坂昭如死去。最近はすっかり遠ざかっていたけど、ふと懐かしく思い出したのは「砂絵呪縛後日怪談(すなえしばりごじつのかいだん)」とか「骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら)」といった業の深そうな怪談もの。あの独特の華麗な文体はクセになる。





第2幕は「エーファの二度目の出産」と題されていて、次のような部分から成り立っています。


エーファの二度目の出産
7少年独唱/バセット・ホルン、3バセット=テーゼ/コンサート・グランド・ピアノ/少女合唱、合唱、21女優/モダン・オーケストラのための 

 ・少女の行列
 ・ピアノ曲を伴う受胎
 ・再誕
 ・エーファの歌
   コア・デ・バセット-週の輪-バセット・テーゼ-イニシエーション

編成にある「モダン・オーケストラ」とは前回も書いた通り、複数台のシンセサイザー、サンプラー、打楽器、テープからなるユニットを指す用語のようです。バセットホルンや第三幕に登場するフルートは登場人物としての奏者により舞台の上で演奏され、通常であればピットの中に入るべき演奏者はサウンドエンジニアを含めてもごく僅かということになります。
通常の意味で物語が分かりやすく進展するということはありません。エーファは二度目の出産で月曜日の子供、火曜日の子供、以下日曜日まで七人の子供を産みますが、第一幕に比べると「あらすじ」のようなものの展開は希薄で、それにかわって劇中で演奏されるピアノ曲や、子供が歌う「週の輪」の音楽的な独立性が目に付きます。
「エーファの歌」の一部分をなす「週の輪」は、どことなく東南アジア風の特徴的な旋律が、あたかも有節歌曲のように繰り返され、「月曜日」の中でも最も耳に残る部分かも知れません。シュトックハウゼンの筆致は、子供が歌うには情け容赦もないというか、大変難しい歌唱だろうと思います。旋律は「三層の音楽的フォルメル」から構成されているそうだが、私は附点の附いた4度あがる部分がミヒャエルのフォルメルかな、とかろうじて分かる程度。ともかく「月曜日」全曲の中でも聴きどころとしては随一の箇所でしょう。歌詞は曜日ごとにごく断片的なものだが、「リヒト」全体の把握のためには大変重要なものという気がします。とりあえず「月曜日」の部分だけCDのブックレット及び「シュトックハウゼン音楽情報」のサイトから引用するとこんな感じ。


MONTAG:
Mond-Licht (humorvoll:heiß fängt die Woche an…)
EVA-tag - Geburt der Kinder
tsch - Rauschen - Mut
Grün Silbergrün - Sopran
Wasser - Riechen
Zeremonie und Magie

月曜日
月の光(ユーモラスに:熱は週の始まり…)
エーファの日 - 子供たちの誕生
チ-あふれ出す-勇気
緑色 銀緑色 - ソプラノ
水 - 嗅覚
儀式と魔法

「ピアノ曲を伴う受胎」は、女達の「エマール!」という呼びかけに応じて、セキセイインコの恰好をしたピアニスト(初演時はピエール・ローラン・エマール)がグランドピアノを弾きます。このピアノパートだけ独立させたものは「ピアノ曲XⅣ(『光の月曜日』の誕生日のフォルメル)」と題されてピエール・ブーレーズに捧げられているとのこと。内部奏法を含むこのピアノパートは、技巧的であるよりは叙情的ないし神秘的なもの(16分音符=60というとてつもなく遅いテンポで始まる)。私は以前このブログで、大井浩明が「クラヴィア曲XVIII(水曜日のフォルメル)」を弾いたときに、「安っぽいミュージカル、あるいは暗黒舞踏かなんかの舞台音楽みたい、というのが正直な感想」と書いたことがあるが、「月曜日」のほうも若干通俗的な感じがします。以前はなんとも居心地悪く聞こえたわけだが、今ならこの通俗性も含めてこの時期のシュトックハウゼン「らしさ」と捉えることができます。いずれにしても、初期の11曲のピアノ曲からなんと遠くまで来たのだろうと思わざるを得ません。
順番は前後しますが、冒頭の「少女の行列」は、シンセサイザーと澄んだ金属音のする打楽器に彩られた神秘的な女声合唱。「エーファの歌」の冒頭の「コア・デ・バセット」はホルンのCorとフランス語のCoeurを掛けた言葉、また「バセット・テーゼ」はBASSETTINENあるいはBASSET-TEASESと標記されていて、どちらも言葉遊びらしく訳しようがないようです。それはともかく、第2幕の後半はバセットホルンと少年の歌が大活躍します。サウンドプロジェクションでサーカスの音楽のような断片が背景に散りばめれ、休日の公園みたいな喧噪が聞こえてきます。私はふとビートルズの「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」を連想しましたが、牽強附会の誹りを免れないだろうか。この曲が収められた1967年のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットにはシュトックハウゼンの顔も描かれていたが、このサーカスの音楽はそれへの20年後の返礼であってもおかしくないのだが。

物語としての展開が希薄な分、舞台上でのアクションが重要になるものと思いますが、CDで音を聴くだけでは正直なところ想像もつきません。これが通常のオペラであれば、台本作家や作曲家の手を離れて繰り返し上演され、良くも悪くも変質していくものと思われますが、「リヒト」の場合今後どのように推移していくのだろうか。舞台上のパフォーマーたちの所作についても詳細な指示をだしたシュトックハウゼンの場合、本人が死去して後の上演というのはなかなか困難を伴うものだろうと想像します。
先日、タデウシュ・カントールにまつわる展覧会を観て、このブログにも感想を書きましたが、カントールは舞台上に自ら立ち、指揮者のように役者に指示をだしたり、睨みを効かせたりしていました。このようなケースであれば、カントール死後の上演というものに、どのようにオーセンティシティを与えるのか、というのは難しい問題だと想像しますが、シュトックハウゼンの場合にも同じ問題があるのではないでしょうか(その意味でもオペラより演劇により近い感じがします)。
こんな例は演劇ではいくらでもあって、例えば白石加代子、鈴木忠志と早稲田小劇場による「劇的なるものをめぐってⅡ」、それが如何に伝説的な舞台であろうと、また当事者の幾人かが生きていようと、1970年の上演の姿を目の当たりにすることは誰にも出来ません。特に、白石加代子以外の女優による再演ないし再現など、オーセンティシティー以前にもやは意味をなさないと言わざるを得ません。
もちろんシュトックハウゼンの場合、昨年の東京における「歴年」のように、まずは初演時のコピーで構わないから、とにもかくにも舞台で観ることに意義があるとも言えます(因みにこの時は、「月曜日」の録音にも参加しているカティンカ・パスフェーアが「監修」という形で参加していた)。だが二度目三度目のプロダクションとなるとどうだろうか。いつまでもコピーという訳にもいかないだろうが、勝手な改変は何かと問題がありそうですね。ヨーロッパでの上演の状況など、詳しい方のご教示をお願いします。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-12-29 00:22 | CD・DVD試聴記
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