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藤木大地 カウンターテナー・リサイタル

新大阪の近くの「西中島南方(にしなかじまみなみかた)」という駅名が、関東の方にはけっこうインパクトがある、というのが関西人には分からない。地味だけど東京の「西葛西」のほうがよっぽどびっくりするわ。





知人のお誘いで藤木大地のリサイタルに行ってきました。

 2015年11月7日@青山音楽記念館バロックザール
  藤木大地(カウンターテナー)
  中村圭介(ピアノ)

  ヴォーン=ウィリアムズ
   ・リュートを弾くオルフェウス
   ・美しいひとよ目覚めよ
   ・屋根の上の空
   ・静かな真昼
 
  アーン  クロリスに
  プーランク  美しき青春
 
  ベートーヴェン  連作歌曲集「遥かなる恋人に」

   (休憩)

  新作歌曲の世界初演によせるプレトーク(増田真結&清水慶彦)
 
  山頭火による挽歌《白い凾》
   1.白い凾(増田真結 作曲)
   2.12:00(増田真結 作曲)
   3.14:46(清水慶彦 作曲)
   4.白い凾(清水慶彦 作曲)

  弘田龍太郎   叱られて
  梁田貞   城ヶ島の雨
  橋本國彦   お菓子と娘

  ヘンデル  歌劇「アルチーナ」より〈緑の牧場よ〉
  グルック  歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」より〈エウリディーチェを失って〉

   (アンコール)
  
  ヘンデル オンブラ・マイ・フ
  ゴンドラの唄
  ロンドンデリーの歌


この公演、まったくノーマークだったところに、知人から一緒に行くはずだったお連れさんの都合が悪くなったということでお誘いいただいたのですが、行ってよかった。素晴らしいリサイタルでした。
藤木大地については、一昨年のライマン「リア王」のエドガーを舞台で聴いており、そのときにも絶賛していましたが、2年ぶりに聴いて、改めてその凄さに驚きました。一昔前のカウンターテナーにありがちなある種の非力さや声域によるむら、不連続な声質の変化といったものを完全に克服した新たな世代の誕生という感じがする。息をのむようなソットヴォーチェからホールを満たすフォルテッシモまで自在に出せるだけでなく、歌詞に寄り添った表現の振幅の大きさこそがこの人の本領だろう。また、カウンターテナーから連想しがちな性差の混乱の感覚が、この人を聴いているとあまりなくて、まぁ視覚情報からそう思うのかも知れないけれどやはり男声=男性だなと思います。その意味で、「アルチーナ」のルッジェーロのアリアや、就中「オルフェオ」のアリアは現在の彼の声に最も相応しいものだったような気がします。
基本的にはリサイタルよりオペラに向いている人だと思うけれど、一方でプログラム前半のヴォーン=ウィリアムスやベートーヴェンの歌曲も素晴らしく、大きな音楽的身振りが知的なコントロールと生真面目で真正な歌詞の解釈に裏打ちされ、もしかしたら従来これらの作品の器と考えられていたものよりも大きな世界を提示しえていたのではないか、と思いました。
また、日本語のデクラメーションが非常によいこと、一昨年の「リア王」もそうだが、同時代の音楽を献身的に紹介しようとする姿勢等、この人の美点はまだまだありそう。アンコールの心憎い選曲には身悶えしそうになりました。

それと是非書き留めておきたいことだが、伴奏を務めた中村圭介のピアノが素晴らしかったと思います。音色とニュアンスの多彩さ、デュナミークの幅の広さは並みの伴奏ピアニストのレベルを遥かに超えていました。息をひそめるようなピアニッシモのその先に、もっとひそかな、しかも痩せないピアニッシシモが続くといった具合。それでいてあくまでも歌に寄り添う伴奏としての立ち位置を守った演奏。グルックのアコンパニャートの呼吸なども見事。一般論として、伴奏は「ピアノ演奏」として見ると技巧や表現の点で物足らなかったり、ピアニストが巧けりゃ巧いで自分を弁えないパフォーマンスになったり、と難しいものだと思いますが、この日の組み合わせは理想的だったのじゃないかな、とおもいます。

それぞれの曲目について若干備忘がてら書いておきます。
最初のヴォーン=ウィリアムス、年代の割に保守的な作風だが、私は他の作品をほとんど聴いたことがないので、これだけであれこれ判断するつもりはありません。が、この日歌われた歌曲は虚飾とか衒いとかいったものが一切ない、素直な感情の発露という感じがします。そのために却って藤木がこれをリサイタルのトップに持ってきたことに自信のあらわれを感じました。
レイナルド・アーンは、フランス歌曲の愛好家にはよく知られているらしいが私は多分初めて聴いたのではと思います。プルーストに(いろんな意味で)可愛がられた人のようですが、確かに高貴な香りのただようサロン風の音楽。次のプーランクともども、佳品というべき作品。
ベートーヴェンの「遥かなる恋人に」も愛すべき作品。ビーダーマイヤー風と言ってしまえばそれまでだが、こういった作品があってこそベートーヴェンの世界の奥行というものがあるのだろうと思います。
リサイタルの後半の最初に、作曲者である増田真結と清水慶彦の両氏によるプレトークがありました。藤木大地の京都におけるモノオペラ「人でなしの恋」(増田真結)の公演を機に連作歌曲の創作の話がでたこと、山頭火をテキストにすると決めて改めて彼の俳句を精査すると、意外なほど死にまつわるものが多く見つかり、タイトルを「挽歌」としたこと、中でも第3曲のテキストとなった「流れて水が街にあふるるや春」は、山頭火自身にはなんの関係もないとは言え、現代の我々が読むといやでも3.11のイメージを持たざるを得ないことなどが話されました。作品自体は無調をベースにした表現主義的といってもよさそうなもので、この日の良質な聴衆にも恵まれて息をすることさえ憚られるほどの緊張感でした。
当日のパンフレットには解説や歌詞が一切書かれていないのですが、やはりこういった作品はテキストを記載してほしいと思います。この作品に用いられた俳句は私の耳に残ったのは以下の3つ(他にもあるのかも知れませんが)。表記は「青空文庫」所収のものに従っています。

 さくらさくらさくさくらちるさくら (「行乞記(二)四月十五日)

 骨(こつ)となつてかへつたかサクラさく(佐世保駅凱旋日) (「行乞記(ニ)」三月廿三日)

 流れて水が街にあふるるや春 (「旅日記」昭和十四年五月六日)

プログラムの最後はヘンデルとグルック。バロックや古典のオペラ・セリアが、極度に様式的であるにも関わらず、なにかしら人間の「真実」とでもいったものの表現に至ることがある、というのは、このブログでもあちこちで書いてきたような気がしますが、この2作はさしずめその典型。短いアリアの抜粋ですが、格調高いセリアの世界が味わえました。
アンコールについては何も説明の要は無いでしょう。美しい旋律に、隣に知人がいなければ私、多分泣いたと思います。

最後に蛇足。リサイタルが行われたバロックザールだが、客席の奥行があまりない割に天井がとても高く、何度も通った知人によると音響という点でなかなかプロ泣かせらしい。これだけのたっぱがあるなら2階3階席も作ればいいのにそれもなし。音が上方に散ってしまうかなと心配でしたが、結果は全くの杞憂に終わりました。それもまた、この日の歌手と伴奏の素晴らしさを物語ることであると思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-11-10 21:43 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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