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ツィンマーマン 「ある若き詩人のためのレクイエム」日本初演を聴く

谷中で営業中のスタッフ。
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この数ヶ月、早くこの日が来ないかなと心待ちにしていた日がついに終わってしまいました。あれだけギーレン盤で予習していたというのに、実際生で聴いた衝撃というのは喩え様もなく凄まじいものでした。

 2015年8月23日@サントリーホール(大ホール)
 B.A.ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」
  指揮:大野和士
  ナレーター:長谷川初範、塩田泰久
  ソプラノ:森川栄子
  バリトン:大沼 徹
  合唱:新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨平恭平)
  管弦楽:東京都交響楽団
  大石将紀、西本 淳(サクソフォン)、堀 雅貴(マンドリン)、大田智美(アコーディオン)、
  長尾洋史、秋山友貴(ピアノ)、大木麻理(オルガン)
  ジャズ・コンボ:スガダイロー・クインテット
   スガダイロー(ピアノ)、吉田隆一(サクソフォン)、類家心平(トランペット)、
   東保 光(ベース)、服部マサツグ(ドラム)
  エレクトロニクス:有馬純寿


あれから2日が経過したというのに、まだまだ衝撃が冷めやらぬといったところ。いつものように、音楽的な聴きどころ→演奏評→その他、といった手順でまとまった小文を書くということ自体、今の段階では不可能に思われます。なにかそれは、巨大な経験が一編の感想文に矮小化されてしまうような気がするから。
ツィンマーマンやレクイエムでツイッターをリアルタイム検索すると、おびただしい数のツイートが現れます。そういえば今回のサントリーホールの客席の主役はなんといっても若者。普段の、こちらの生気まで吸い取られそうな年寄り達がメインの客層とは随分違う。私もツイッターをやらない中年だが、今回ばかりは断片的なツイート風の記述をもって備忘に代えることにしたいと思う。
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コンサートという形態でこんな体験をしてしまうと、もう今後2年や3年はコンサートに行かなくてもいい、というか、行きたくないと思ってしまう。もちろん極論だし、一時の気の迷いだし、明日にはしれっと別のコンサートに行くかもしれないけれど、今のこの気持ちに偽りはない。だって、1969年作と少々日は経過したが、まだまだ紛れもなくコンテンポラリーな音楽でこれほど感動するというのに、100年も200年も前のクラシック音楽なんて聞いてもつまんないじゃないか。
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ギーレンのCDを聴いていたときは、最後のドナ・ノービス・パーチェム(我らに平和を与え給え)の叫びがなんとも救いがないように聞こえるなぁと思っていた。実際はそんな生易しいものでなくて、世の中にこれほどの絶望の叫びがあるだろうか、と思わせられるものだった。震撼させられるとはまさにこのこと。
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開演に先立って長木誠司さんと大野和士さんのプレトークがあったが、そのなかで、ドナ・ノービス・パーチェムの主題が(すぐにヘイ・ジュードの引用でかき消されてしまうが)ワーグナー「神々の黄昏」の愛の救済の動機だという指摘があった。CD聴いてるだけでもなんと悲痛な、と思っていた箇所だが、それが「愛の救済の動機」から来ているとは。なんだかやりきれない。
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ドナ・ノービス・パーチェムの後半の金管の咆哮に、そういえばなんどもこの愛の救済の音型が出てくる。耐え難いほどゆがめられた姿で。そしてその救済への願いはいっさい叶うことなく、対空砲とデモの騒音に流れ込んでいく。
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できればこのブログでは政治のことなど語りたくないと思ってきたが、今回ばかりはそうもいくまい。この巨大なレクイエムを体験しながら、ガザ地区の人々、シリアの人々、ウイグルやチベットの人々のことに思いを馳せないわけにはいかない。ドナ・ノービス・パーチェムとは実にアクチュアルな叫びであって、作曲家の自死後45年経った今、むしろ困難は増大している。
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このコンサートで得た唯一の希望は、これほど前衛的な演目であるにもかかわらずほぼ満員御礼であったらしいということ、そしてなによりその大半が若い人たちであったことだ。いくら客席の一部を合唱団やサウンド・エンジニアリングのために潰していたとは云えこの盛況は驚異的だし、それは単にサントリー芸術財団のプロモーションが巧みであったという理由だけでは説明がつかないと思う。その真の理由は知る由もないが、なんとなく私は彼ら若い人たちをみて、大げさにいえば未来へのかすかな希望を感じたというのは事実だ。普段は政治的に保守寄りの中年男として、若い世代の浅はかな政治参加に鼻白む思いをしたりするくせに、だ。
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プロローグが終わってレクイエムⅠが始まるところと、レクイエムⅡの冒頭、そして最後の「我らに平和を与え給え」の叫び。新国立劇場合唱団の輝かしい成果の中でもこの日のパフォーマンスは図抜けていたと思う。普通に考えて、この作品でもっとも困難を極めるのは合唱のパートに違いない。合唱を指揮した冨平恭平氏が拍手にこたえて舞台に上がったときの、いつも初台でみるのとは全く違ったある種の昂揚感、泣きそうになるのを我慢しているようなすこし強張った表情が忘れられない。
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全体の中では地味な役回りだが、ソプラノとバリトンのソロは本当に素晴らしい。開いた口がふさがらないといったところ。とくに森川栄子の歌唱は凄まじい。私はかれこれ17年も前の1998年に彼女の歌い、演じるリゲティの「死者の謎」や「アヴァンチュール」「ヌーヴェル・アヴァンチュール」を聴いているから、前衛音楽の大ベテランといってよいのだろう。
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音響の有馬さんもすばらしい仕事をされていた。ギーレン盤を聴いてきたものとしては、ドナ・ノービス・パーチェムの後半、もうすこし混沌と明晰さとの折り合いの附け方があるような気もしたが。だがそれも、例の愛の救済の動機がはっきりと聞こえるのを聴けば小さな不満でしかない。
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スガダイロー・クインテットがアンコールに応えて繰り広げたジャズ演奏にはいろんな意見もあるみたいだが、あれがあったから途中で変な気もおこさず無事家に帰れたという人がいてもおかしくない。だがそれよりもっと重要なことは、ツィンマーマンが作品の最後に書き記した絶望の叫びは、あの明るいジャズの一節ごときではびくともしないということ。
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あの、全部読まれることを端から想定していない膨大な日本語字幕は、今回の公演の成功のおおきな要素だと思う。ジョイスのユリシーズ(ペネロペイア)の訳がすごいスピードで縦書きのニコ動みたいに出てきた瞬間にそのことを確信した。でも、フィネガンズ・ウェイクの引用部分がどんなだったか見落としたことがとても残念。
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鳴り止まない拍手に応えて何度も舞台に出てきた大野和士だが、最後の最後に、黄色い表紙のショット社の巨大スコアを、これこそ今日の主役だといわんばかりに誇らしく掲げた。本当に指揮者冥利に尽きるといった思いだろうと思う。そういえば数年前に彼が「トリスタンとイゾルデ」を振り(新国立劇場)、「ユビュ王の晩餐の音楽」を振ったとき(新日本フィル定期)から、この日のことは想定していたのに違いない。
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最後にもう一度悪態をつくが、こんな体験をしてしまうと、陰気くさいホールで年寄りの咳払いや飴の包み紙を剥く音に耐えながら、古典やロマン派のシンフォニーを聴き、誰それの演奏にくらべてここがどうしたあそこがどうこう、などといったディスクールを垂れ流す行為が本当に愚劣なものに思えてしまう。そろそろ目を覚まして日常に戻らなければならないのだけれど。
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翌24日は休暇を取っていたので別の用事で上京していた家人と靖国神社を参拝、久しぶりに遊就館を見学した。しかし前日の公演で心が感じやすくなっていたのか、特攻隊員達のおびただしい遺書や遺影をまともに見ることが出来ない。今回のツィンマーマン体験の後遺症はずいぶん長引きそうな予感がする。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-08-25 23:22 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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