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ジョン・ケージ フリーマン・エチュード

聞いた話だけど(ネタかも知らんけど)、会社のワタナベさんという方が片岡鶴太郎に似ているというので、上司とかが「つるちゃん」と呼んでいたのだが、ある日うんと年下の女性が彼に書類を渡すときに「はい、つるちゃん」と言った瞬間、ワタナベさんの顔色が変わって、「ぼくはつるちゃんじゃありません(怒)」と言った。あわててその女性が謝って曰く「あ、ごめんなさい、片岡さん・・・」。




ジョン・ケージの「フリーマン・エチュード」の第3・4巻を聴きました。

 2015年7月7日@京都カフェ・モンタージュ
 ジョン・ケージ
 「フリーマン・エチュード」第3巻・第4巻
 
  vn:辺見康孝


同じ奏者による第1・2巻の演奏は今年の2月15日だったのだが用事で行けず。今回ようやく後半だけとはいえ、生で聴くことができて実に面白い体験をしました。
ケージの「フリーマン・エチュード」、昔は知る人ぞ知るといった曲だったのが、最近はポピュラーとは言えないにしても随分と(名前だけは)知られるようになってきたのではと思います。曲名の由来は、ポール・ズーコフスキーの演奏を想定してベティ・フリーマンから委嘱されたことによるそうだが、前半の2巻を書いて、あまりにも複雑・難技巧になったために長い中断を余儀なくされ、その後アーヴィン・アルディッティの勧めによって作曲を再開したとあります。その間の演奏技術の進歩により、ようやく全曲が完成したという訳だ。
「昔は知る人ぞ知る」云々と書いたけれども、ケージの作品の中で同じ傾向の作品、すなわち音高やテンポ、強弱といったパラメーターが星図やコイン投げの結果のような偶然の産物に拠っており、作品の構成原理もまた易のような偶然性の高いものであるといった共通点をもつもの、ピアノのための「易の音楽」とか「南天のエチュード」なんかも同様だろう。試しにこれらの作品を時系列に並べてみると、「易の音楽」1951年、「南天のエチュード」1974~75年、「フリーマン・エチュード第1~2巻」1977年、「北天のエチュード」1978年、「フリーマン・エチュード第3~4巻」1990年となり、ケージのキャリアの中で意外なほど長い年代にわたって書かれていることがわかります。これらの作品に共通する極端な複雑さや難技巧は、「易の音楽」あたりではコイン投げの結果たまたま音符が密集した結果そうなった、という側面があるのに対し、それ以降の作品は最初から難技巧、ある種の名人芸の披露を狙って作曲されており、その分「わかりやすい」と言えなくもない。また、このような傾向(複雑さや難技巧への偏愛)が70年代の半ばから顕著になるのは、ブライアン・ファーニホウの出現とも関係しているのだろうと思います。ケージといえば、音符が確定的に書かれているか否かに関わらず、なんとなく音が少なく、通常の意味でのヴィルトゥオジティとはかけ離れたイメージを抱きがちだと思うのだが、それは偏に、ケージの中で別の系列をなすこれらの作品群の実演が少なかったということによるのだと思います。だが、大井浩明や辺見康孝のおかげで、こうして高いレベルの実演を聴く機会が増え、当然のこととしてケージの全体像も見直しを迫られるということなのでしょう。もっとも実際の演奏を耳にすると、奏者も大変だろうが聴く方だってほとんど苦行に近い体験をすることになります。もちろん音楽としてとても面白いのだが、どうしても一挺のバイオリンで1時間ちかい演奏を、終始同じテンションを保ったまま聴くというのは想像以上に困難で、ところどころ意識が飛びそうになったりもする。まぁ思いのほかあっというまの1時間で、面白かったのは確かだけれど、正直なところ「易の音楽」の実演を聴いた時ほどの興奮や感激はありませんでした。私自身が弦楽器をやる人間ならもう少し違った感想を持ったかも知れません。

辺見康孝の演奏について、私には巧いだの下手だの言えるだけの見識はないのだが、それにしても若い演奏家がこういったレパートリーに果敢に挑戦するというのは素晴らしいことだと思います。彼の演奏は昨年next mushroom promotionのメンバーとして聞いておりました。その時も感じたことですが、激烈な表現、それは正に苦行のはずなのだが、それを冷静に、むしろ楽しげに演奏していたように思います。演奏会終了後に、あっけらかんと、何ヶ所か緊張の糸が切れて、あまり正確に弾けなかったといった自己批判を云々したと思えば、アルディッティの録音は揺れてはいけないはずのテンポがかなり揺れている、といった演奏者ならではの演奏評が飛び出すのも実に愉快。スコアの特殊な表記の説明も興味深く、サロンならではのインティメイトな一夜でした。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-07-13 23:40 | 演奏会レビュー | Comments(2)
Commented by Eno at 2015-07-14 12:17 x
「奏者も大変だろうが、聴く方だって苦行に近い」というご意見に思わず笑ってしまいました。本当にそうです。アルディッティの演奏を聴いたことがありますが、最初は本当に苦行でした(笑い)。でも、段々慣れてきたのは、苦行も快感になるということでしょうか(笑い)。
Commented by nekomatalistener at 2015-07-14 22:53
慣れもありますが、苦行そのものが好きなんですかね(M?)。コンテンポラリー音楽のうち、とにかく長いもの(フェルドマンの「フィリップ・ガストンのために」とか)、ガシャンガシャンやかましいもの(クセナキスの「ジョンシェ」とか)、擦過音がキーキーなるもの(シュトックハウゼンの「ミクロフォニーⅠ」とか)、あたりが苦行ポイント高いんですが、「苦行もまた楽しからずや」でどれも大好きな作品です。フリーマン・エチュードはこの3つの苦行要素が全部入ってます(笑)。

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