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ロッシーニのファルサを聴く(その2)~「なりゆき泥棒」

西島秀俊が結婚相手に求める条件のなかに、「映画鑑賞に着いてこないこと」というのがあったらしいが、うちの場合、新婚当初に妻とコーエン兄弟の「バートン・フィンク」、D.クローネンバーグの「裸のランチ」を立て続けに観たら「もうあんたとは一生一緒に映画いかへん」と宣言されました(笑)。結果オーライってやつですね。





ロッシーニの初期ファルサを聴くシリーズ、二回目は「なりゆき泥棒」。

 ロッシーニ なりゆき泥棒 L'Occasione fa il ladro

  ベレニーチェ: マリア・バーヨ(Sp)
  ドン・パルメニオーネ: ナターレ・デ・カロリス(Bs)
  アルベルト伯爵: イオリオ・ゼンナーロ(T)
  エルネスティーナ: フランチェスカ・プロッヴィジョナート(MS)
  マルティーノ: ファビオ・プレヴィアーティ(Bs)
  ドン・エウゼービオ: フルヴィオ・マッサ(T)
  マルチェッロ・ヴィオッティ指揮イギリス室内管弦楽団
  1992年2月18-24日録音
  CD:BRILLIANT CLASSICS92399/5-6


この1幕のオペラ、タイトルにBurletta per musicaとあるものの、実際にはFarsaと見做されているということは前回書いた通り。作曲の経緯や全体の構成についてはロッシーニ協会のHPに詳しいので参照されたい。

http://societarossiniana.jp/ladro.pdf

この解説で特に目を惹くのは、1幕仕立てとは云え90分近いオペラをロッシーニがわずか11日で作曲したということ。当時(19世紀初頭)としては珍しくもなかったのでしょうが、それにしても凄まじいスピードには違いありません。
ロッシーニやドニゼッティがわずか××日でオペラを書いた云々というのはよくある伝説ですが、実際にその手稿を見ると、猛烈なスピードで書き飛ばしたという事よりも、その筆致の迷いの無さと自らの美意識へのこだわりに驚きを禁じ得ません。
IMSLPで「なりゆき泥棒」を検索すると1812年の手稿というのが出てきます。なにも解説がないのでどこまでが真正なロッシーニの自筆なのか、複数の筆跡によるといわれる補筆がどの部分か詳細は判りませんが、全体にスピード感溢れる筆致にもかかわらず訂正の跡が殆ど無く、まさに創作力の爆発といった感じを受けます。
この300頁近いパルティトゥール(総譜)だが、第1曲(序曲と導入)~第8曲(ベレニーチェのレチタティーヴォとアリア)~第5曲(アルベルト伯爵のアリア)~第4曲(五重唱)~第6曲(パルメニオーネとベレニーチェの二重唱)~第7曲(マルティーノのアリア)の順に書かれており、他の部分は欠洛しています。またレチタティーヴォ・セッコはまったく書かれていません。頻出するロッシーニ・クレッシェンドの管弦楽の繰り返しは徹底して記譜が省略されていますが、写譜屋が迷う余地を残さない程度にはきっちりと書き込まれています。多分、パルティトゥールが書かれるそばからパート譜に写譜され、ロッシーニ以外の人間がレチタティーヴォ・セッコを(おそらくは始まりと終わりの調性の指示だけを受けて)作っていったのだと思われます。わずか20歳かそこらの青年ロッシーニにアシスタントがいたのかどうか、あるいは劇場付きの写譜屋がセッコも書いたのでしょうか。しかし単に猛烈なスピードで書き飛ばしたというのでなく、ここぞというところでびっしりと殆ど修正の跡もなく膨大な音符が記譜されているのを見ていると、これでこそ11日で書いたというのも信じられそうだという気になります。例えば第4曲の五重唱(譜例1)、先ほど私は「迷いの無さ」と書いたが、この調子で延々と何ページも書かれているのは本当に壮観という他ありません。そしてもう一つは自らの美意識への強固なこだわり。例えば第6曲(譜例2)のベレニーチェのカンティレーナ、当時の慣例であれば歌の記譜などもっと歌手の裁量に任せて簡略に書くのが普通だとも聞くけれど、ロッシーニはアジリタの一音一音を克明に記譜しています。元の旋律が歌手の我儘によって原形を留めないほどに改変されるような時代にあって、自分の音楽、美意識というものにこだわったロッシーニの心意気が伝わるような気がします。200年も前に書かれた手稿譜を、こうして想像力を逞しくしながら眺めるのも楽しいものです。
(譜例1)
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(譜例2)
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音楽については、上に掲げた論文の中で水谷彰良氏が「(略)本作に続く半年間に生み出される《ブルスキーノ氏》《タンクレーディ》《アルジェのイタリア女》の音楽的充実と天才の発露を思うと、《なりゆき泥棒》はまだ佳作の域を出ない、と言っても許されるだろう」云々と書かれているのは、まぁその通りには違いないとしても、実際に優れた演奏を耳にするとブッファとして十分完成されたものとして楽しく聴くことが出来ます。
わずか9つのナンバーしか含まれていませんが、その中ではヒロインのベレニーチェの比重が非常に重く、高度なコロラトゥーラの技術の駆使によって、後のベッリーニやドニゼッティのプリマドンナ偏重のオペラの先駆にもなっているようです。実際、このファルサを聴く楽しみとは、いかにもブッファ的な哄笑のエネルギーの炸裂とともに、ヒロインの呆れるほどに高度なアジリタやコロラトゥーラを聴く快楽を抜きにしては語れません。
ハイドンやモーツァルトの頃なら、セリアほどの高度な歌唱技術はブッファには求められていなかったのでしょう(セリアの歌唱技術がもっぱらカストラートによって究極まで磨き上げられたのに対し、ブッファはもう少し日常的なレベルでバスやソプラノ歌手によって発展したという違いがあるのかもしれません)。が、ロッシーニの音楽においてはセリア並みのテクニックがブッファにも必要(時代的にもオペラ・セリアとカストラートの凋落と重なっている)。こうして次第にソプラノのヒロインの歌唱技術が高度化し、オペラ全体におけるソプラノの比重が増していった、その行きつく先にいわゆる「狂乱の場」をもつプリマドンナ・オペラが誕生していく、というのは図式的すぎる見方かもしれませんが、あながち間違ってはいないと思います。

歌手のなかではベレニーチェ役のマリア・バーヨが、コロラトゥーラの技術がしっかりしていてたいへん優れています。ディスコグラフィーを見てみると、ファリャやヴィラ=ロボスといったラテンものと、ヘンデルなどバロック・オペラがレパートリーの中心の模様。もうすこし享楽的ではめを外した歌い方もあると思うが、まずは至難な音形がきっちり歌えていないことには話にならない役柄ですから、私は大いに満足しました。アルベルト伯爵も第5曲に派手なブラヴーラアリアがあり、テノールにとっては至難な役どころですが、イオリオ・ゼンナーロの歌唱は及第点、いや非常に素晴らしいと言ってよいでしょう。バーヨにしてもゼンナーロにしても、アリアの繰り返しにはより技巧的なヴァリアンテを置いていますが、知的で様式感を壊さないものでした。脇役達も穴がない。ヴィオッティの指揮も溌剌としています。特段変わったこともしていませんが、勢いがあるのと歌手陣の素晴らしさで文句なしの名演になっていると思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2015-02-05 23:30 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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