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いずみシンフォニエッタ定期~リゲティのピアノ協奏曲他

ACのCMで、ファミレスかなんかで年配のウエイトレスが、テーブルを拭いている若いバイトのお姉さんに「いつも丁寧ね~」と言うと若いのが嬉しそうに「あっ・・・ありがとうございます」って返事するのあるよね。関西(とくに京都)ではあんなデタラメなCMはあり得ない。「いつも丁寧ね~(=ほんまに仕事がとろい子やねぇ、もっとちゃっちゃとせんと)」に対する正しい返事は「すんません、すぐ終わりますから(=うるさいんじゃババァ)」です。





大阪を拠点に20世紀以降のコンテンポラリー音楽にこだわるいずみシンフォニエッタの演奏会に行ってきました。今回の目当てはなんといってもリゲティの協奏曲でしたが、他の曲目も大変面白いものでした。


  2015年1月24日@いずみホール
  いずみシンフォニエッタ大阪 第34回定期演奏会
   コープランド アパラチアの春
   ディアナ・ロタル シャクティ~サクソフォンと室内オーケストラのための協奏曲(2004)
   (休憩)
   リゲティ ピアノ協奏曲(1985-88)
   ミヨー 世界の創造Op.81

  板倉康明指揮いずみシンフォニエッタ大阪
  西本淳(sax)、福間洸太朗(pf)


私がリゲティと聞いていつも思い出すのは、岩城宏之さんがご存命の頃にいずみホールで主催された「アヴァンチュール&ヌーヴェル・アヴァンチュール」を中心とした演奏会。少し記憶もあやふやになってきたので調べてみると、1998年6月12日、「音楽の未来への旅シリーズ’98 Ⅰ声の冒険」と題されたコンサートでした。曲目は
ベリオ セクエンツィアⅢ (1965/66)
  声: 野々下由香里

リゲティ 死者の謎 (1988)
  声: 森川栄子、 Pf: 野平一郎

黛敏郎 スフェノグラム<楔形文字> (1950)
  指揮:岩城宏之、声: 野々下由香里、fl: 小泉浩、sax:福本信太郎
  perc: 松倉利之、Vn: 松原勝也、Vc: 刈田雅治、pf: 野平一郎、長尾洋史

リゲティ アヴァンチュール (1962)
リゲティ ヌーヴェル・アヴァンチュール (1962-65)
  指揮:本多優之、Sp: 森川栄子、A: 加藤千鶴、Br: 黒田博
  fl: 小泉浩、hrn: 南浩之、pf: 長尾洋史、cemb: 野平一郎、
  perc: 松倉利之、Vc: 刈田雅治、cb: 猪股研介

というもので、こんなプログラムの演奏会が常時とは言わないが時折開かれるいずみホールというのは、本当に大阪に生まれ育った者として誇りに思います。 この時は確か岩城宏之と武田倫明の両氏によるプレトークがあり、お二人が前衛華やかなりし頃の話をしながら「こんなにガラガラの演奏会というのも久しぶりだね(笑)」などと愉快そうに仰っていたのが印象的でした。実際、前半が終わるなり近くの席にいた学生風の女子二人組が「なにこれ~気持ち悪~」「あたし途中で出よか思たわ」と話すのが聞こえ、ただでさえガラガラのホールが、休憩後さらに客が減ってしまったことも忘れられません。それはともかく、この日の演奏のレベルは今思い出しても大したもので、ブルーノ・マデルナの指揮したリゲティの録音を相当聴き込んで出かけた私は大変な感銘を受けました。

昔話はこれぐらいにして、ほんの十数年前の一般のリスナーにおけるリゲティの認知度というものを考えた時、昨今のリゲティ・ブーム、腕も人気もあるピアニストがこぞって彼のエチュードを取り上げる風潮というのは隔世の感がありますし、実に喜ばしいことだとは思いますが、その人気というのが決してエチュード集の外に向かっていかないところが若干気に食わないところです。今回福間洸太朗が弾いた「ピアノ協奏曲」は、1985年から88年、エチュード集の第1巻とほぼ同時期に書かれ、同種の語法が使われているどころか、部分的にはエチュード第1曲「無秩序」とか第6曲「ワルシャワの秋」の自己引用に近いものまで含まれていて、これらの音楽に多少馴染んでいる方ならすぐに親しめるものとなっています。今回の演奏を機に、協奏曲もいろんなピアニストが取り上げるようになれば、と夢想しますが、縦を合わせるだけでも大変そうなオーケストラを見ているとなかなか困難という気もします。さらに言えば、エチュードや協奏曲がいくら人気が出たところで、60年代の傑作群(だいたい61年の「アトモスフェール」から67年「ロンターノ」ぐらいまでの諸作)が同様のポピュラリティを持つことは決して無いだろう、というのが少々寂しいところではあります。
福間のピアノはやや線が細く、音色のパレットという点でもちょっと物足りない感じもしますが、これだけの難曲を実に楽しげに弾くというのは凄いことだと思います。オリンピックなんかと一緒で、人間というのはどこまで進化するんだろう、と思ったほど。ピアノ・パートが技巧的に煩雑になればなるほどオーケストラに掻き消されて聞こえなくなるのはピアニストの所為ではなくて作曲家の悪意のなせる業でしょう。オーケストラは大健闘じゃないでしょうか。興奮するところまではいかないが満足しました。

他の曲目は簡単に。
コープランドは、単に古き良きアメリカを描く牧歌的な作品というイメージがありますが、板倉氏の神経質なほど細かくリズムを刻む指揮によって、1920年代のストラヴィンスキーを思わせるような鋭角的な側面が明らかになったのはとても面白い体験でした。私は知りませんでしたが、プログラムによればコープランドは1921年に渡仏してナディア・ブーランジェに師事し、当時パリにいたストラヴィンスキーやミヨーから多大な刺激を受けたらしい。それもなるほど、と思わせる演奏であったと思います。
ディアナ・ロタルの「シャクティ」はサキソフォンの特殊奏法と超絶技巧を駆使した作品。冒頭の尺八のムラ息を思わせるような部分はよくあるパターンという気もしましたが、それに続く部分、カウベルを始めとする打楽器群とバリトン・サックスの激烈な衝突など凄まじいばかり。耳で聴くだけでは、どの楽器がなにをすればこんな音が鳴るのかさっぱり判らない、といった奇天烈な音響に満ちていて刺激的でした。新調性主義などどこ吹く風といった作風で、これを取り上げただけでもいずみシンフォニエッタの「本気度」が伺われます。
最後に演奏されたミヨーは大傑作の大名演だと思いました。指揮はやはりリズムを随分細かく刻んでいるようでしたが、このような指揮がどんな具合にシンフォニエッタのメンバーと反応するのか、ジャズのスイング感と先鋭なモダニスムが並び立っている演奏でした。このテの作品というのは、ストラヴィンスキーの「エボニー・コンチェルト」なんかもそうだが、演奏者のセンスの良し悪しがまともに現れるような気がします(たとえば「エボニー」のストラヴィンスキー自身によるノリノリの演奏とブーレーズの死ぬほど詰らない演奏など)。その点で今回のミヨーは本当に良い演奏でした。

備忘としてあと二点。
その1。最初に西村朗氏と板倉氏のプレトークがあり、オヤジギャグの緩い応酬にちょっと辟易。ま、それもこれも、コンテンポラリーの敷居を少しでも下げる努力といったところか。
その2。開演30分前からロビーにてミニコンサートあり。二人のヴァイオリニスト(佐藤一紀、高木和弘)によるミヨーの二重奏曲(たぶんOp.258)、モーツァルトのシュピーゲルカノンの第1曲(K.Anh C10.16というやつ、偽作とも)、それにトルコマーチの二つのヴァイオリンによる編曲の3曲。モーツァルトは、私はあってもなくても、という感じがしましたが、ミヨーの小品は洒落たアペリティフになっていたと思います。

あ、そうそう。先ほど岩城宏之とリゲティの思い出話をしましたが、実はこの二人、亡くなった日が一日違い。岩城宏之が2006年6月13日で、リゲティが同年同月の12日に亡くなったとのこと。なにか不思議な縁があったのでしょう。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2015-01-26 23:45 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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