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大阪交響楽団 第189回定期演奏会 ”ロマンティック・ロシア”

某交響楽団(お察しください)のアザラシ、ファゴット奏者Fさん、なんか一段と育ってらっしゃるような気が。これはあれやな、多分一日にイワシ20kgぐらい食べてはるわ。




大阪交響楽団の定期。今回もっとも興味を引かれたのは田村響がソリストを務めるショスタコーヴィチのコンチェルトでした。

  2014年10月16日@ザ・シンフォニーホール
  チャイコフスキー 幻想的序曲「ロメオとジュリエット」
  ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第2番ヘ長調Op.102
  (アンコール)
  メンデルスゾーン 無言歌「甘い思い出」Op.19-1
  (休憩)
  ラフマニノフ 交響曲第2番ホ短調Op.27

  川瀬賢太郎指揮 大阪交響楽団
  田村響(Pf)

ショスタコーヴィチの2番コンチェルト、なんといっても第2楽章が聴きもの。ショスタコーヴィチの音楽で、これほど素直で美しい音楽も珍しいような気がします。Youtubeならアンドレイ・コロベイニコフの演奏が優れていると思いますが、彼自身がこのようなコメントを寄せています。
main thing one can clearly feel (if open-minded) the Soviet absurd and the 'mask' life in the 1st and 3rd movement. and rare Shostakovich's self-portrait without the mask - in the 2nd movement..

https://www.youtube.com/watch?v=lNC9ct_kN2U

実にこのコメントの通りであると思いますが、実はショスタコーヴィチの音楽における仮面と素顔の違いというのはなかなか複雑なものを秘めているように思います。
たとえば「森の歌」をショスタコーヴィチの仮面である(故に今となっては真面目に聴くに値しない)と見做す言説は世に溢れていると思いますが、ではこれに対する素顔は、といえば交響曲第9番ということになるのだろうか。あるいは「ムツェンスクのマクベス夫人」が素顔なら交響曲第5番は仮面なのか。多分そうなのだろうと思いながら、どうにも釈然としないものが残ります。確かに「森の歌」の臆面もない平易さは仮面と呼ぶに相応しいと思いますが、おなじくこの上なく平易な「祖国は聞いている」(ドルマトフスキーによる歌曲Op.86より)を仮面と呼べるのか。この素直で美しい旋律を聴くと、こちらこそ彼の素顔なのでは、という思いを禁じ得ません。
ショスタコーヴィチが終生、政治との緊張関係の中で仮面をかぶり続けてきた作曲家であるのは事実としても、ではその素顔がいかなるものであったかは、なかなか答えるのが困難な問いであると思います。今回のピアノ協奏曲第2番の第2楽章も然り。少なくともこれが書かれた頃は既にスターリンは死んでいて、これからいよいよ11番以降の交響曲や、7番以降の弦楽四重奏曲のシリーズが書かれ始める頃。もうこのころになると、いったい何がこの人の仮面で、何が素顔なのか判然としなくなります。この第2楽章、もしかしたら素顔と思われている顔の更に下に隠し持っていた、ショスタコーヴィチの音楽のもっとも根幹の部分という気もします。

田村響については今年の7月にリサイタルを聴き、その音の美しさに惹かれました。今回はその美音に加え、リズム感の良さも存分に味わえました。両端の楽章はかなり速めのテンポで、弦の裏打ちのリズムが必死に追いすがるところなどスリリングでしたが、それでも曲芸にならないところが好ましいと思います。もともと超絶技巧を売りにしている作品ではないが、このテンポでクリアな音色のまま弾ききるのは大変な困難に違いありません。注目の第2楽章はどこまでも澄み切ったピアノが美しく、川瀬賢太郎の指揮ともども控え目なルバートが曲想にぴたりと寄り添い、ため息がでるほど。もっと濃厚な演奏も可能でしょうし、この作曲者が50歳ごろの作品にしては清楚すぎるかも知れませんが、これはこれで名演であったと思います。

アンコールは7月のリサイタルのアンコールでも弾いたメンデルスゾーン。前に聴いたときより心持ち表情が濃く、やや崩して弾くところもありましたが、大きなホールで派手にコンチェルトを締めくくった後にはこれぐらいの味付けの濃さが必要なのでしょう。7月が茶懐石のあとの上品な和菓子なら、今回はフレンチのあとの生クリームを用いたデゼールといったところ。大変美味しゅうございました。

順番は前後しますが、「ロメオとジュリエット」、弦と管のバランスにやや問題があったように思います。最初は座席の聞こえ方の問題かと思いましたが、あとのショスタコーヴィチやラフマニノフでは良いバランスでオーケストラが鳴っていたので、1曲目に限っての問題か。管に対して弦がややくぐもった響きで、プルト数の問題というよりチャイコフスキーの書法の問題のような気もしましたが、スコアを調べた訳ではないので確信があってのことではありません。川瀬は見た目は華奢というか、ちょっとやせ過ぎなくらいで、指揮の姿も貧粗といってもよいぐらいなのに、出てくる音楽は意外に粘り腰で、「ロマンティック・ロシア」というコンサートの外題に恥じない力演。それでも真の感動に至らなかったのは、部分部分のまとまりはあっても、息の長い音楽の持続という点で今ひとつなところがあると思われたこと、あとは私が個人的にチャイコフスキーの音楽に心からのシンパシーというものを感じないことに因るのだと思います。

後半のラフマニノフは非常によい演奏でした。名演であったと思います。ここでも、川瀬の指揮姿は巨匠風とは正反対なものであるのに、ラフマニノフに不可欠な粘りと溜めがあって、音そのものにも十分な厚みが感じられるのが不思議です。決して老獪という訳でもなく、どちらかといえば若く素直な指揮だと思いますが、曲を深く把握していることははっきりと伺われます。その結果、ハリウッド風の第3楽章やにぎやかなフィナーレは、時に臆面もなくオケを煽りながらも少しも気恥ずかしくならず、決して皮相的に流れない優れた演奏になっていたと思います。人によってはもうすこし泥臭くても、とか、もっと甘くと仰る向きもあるかも知れませんが、私にはちょうど良い加減の演奏でした。この指揮者、きけば再来週には東京で細川俊夫のモノドラマ「大鴉」を指揮するとのこと、今回のラフマニノフの意外なほど面白い演奏が因って来るところを示唆しているようにも思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-18 00:21 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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