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ブリテン 「カーリュー・リヴァー」 ピーター・ピアーズ他

私が中学の時の理科の先生、化学物質をへんなイントネーションで発音するので気持ち悪かった。たとえば「イソプロピルアルコール」を「あの子らにもゆうたって」のイントネーションで発音するとか。パラジクロロベンゼンを「あら、激辛タンメン」のイントネーションでってのもあった(ほら、チキチキバンバン、ではない)。





ザ・カレッジ・オペラハウスの「カーリュー・リヴァー」公演の予習中。音源は次のもの。
ブリテン 「カーリュー・リヴァー」 ピーター・ピアーズ他_a0240098_1529386.jpg


  ブリテン 教会寓話劇「カーリュー・リヴァー」 

    狂女: ピーター・ピアーズ
    渡し守: ジョン・シャーリー=カーク
    僧院長: ハロルド・ブラックバーン
    旅人: ブライアン・ドレイク
    亡霊の声: ブルース・ウェッブ

    リチャード・アドニー(fl)、ニール・サンダース(hrn)
    セシル・アロノウィッツ(va)、スチュアート・ナッセン(cb)
    オシアン・エリス(hrp)、ジェームズ・ブレイズ(perc.)
    フィリップ・レッジャー(org)
    監修: ベンジャミン・ブリテン&ヴァイオラ・タナード
    1965年6月録音
    CD:LONDON421 858-2

このオペラ(というか、教会寓話劇)が能の「隅田川」を下敷きにしていることはよく知られていると思います。ブリテンは1956年にパートナーのピーター・ピアーズとの旅行中に東京を訪れ、「隅田川」を二度観て感銘を受けたらしい(その割には劇中でオルガンが模倣しているのは雅楽の笙の音色であって、能の囃子とは似ても似つかないのがご愛嬌)。劇の主たる部分はほぼ「隅田川」の物語を踏襲していて、その前後を僧院長の口上と修道士らの合唱が取り囲む構成となっています。
「隅田川」も「カーリュー・リヴァー」も、wikipedia等にあらすじが出ていますので詳述は避けますが、「カーリュー・リヴァー」の物語は「隅田川」の物語をほぼなぞりながら、いくつかの点で相違が見られます。トリヴィアルな事柄から言うと、例えば「隅田川」のかもめと都鳥の件は、gullとcurlew(ダイシャクシギ)に置き換えられていたり、能の亡き少年の墓標に植えられた柳が、オペラではyew tree(イチイ)になっていたり。しかしもっとも大きな変更点は、「隅田川」の少年の亡霊がかき消えた後は「草茫々」とした無常感が残されるのに対して、オペラの方では神の恩寵によって狂女は息子の亡霊にまみえて救済を得るというところでしょう。このあたり、両方のテクストを比べると大変面白いのですが、既にネットでこういった分析をいくつか見かけましたので一例を挙げておきます。
石川伊織「オペラ『Curlew River』における能『隅田川』の変容」(1999/03・『県立新潟女子短期大学研究紀要』第36集所収)
http://www.unii.ac.jp/~iori/aufsaetze/20_010CurlewRiver.html

ここでは先の論文と内容がかぶらないよう、能の特徴的なテクストがどのように「英訳」されているのかを何箇所か具体的に見ておきたいと思います(謡曲のテキストは網本尚子編『謡曲・狂言』角川ソフィア文庫から引用、英文の対訳は拙作)。一言で言うと、能のさまざまなレトリックを駆使した華やかなテクストを英文に置き換えるにあたって、脚本家は能の逐語訳にとどまらず、能には現れない別の比喩を用い、極めて平易な文体でありながら饒舌でもある翻案を行なっています。脚本を書いたウィリアム・プルーマーWilliam Plomerは本国では名の通った詩人のようですが、アルカイックな神秘劇としての味わいを狙った種々の技巧が読みとれるように思われます。
まず、能の冒頭近く、旅人の名ノリ(自己紹介)の後、旅の苦労を語る上歌(あげうた)、

ワキツレ「雲霞、あと遠山に越えなして、あと遠山に越えなして、幾関々の道すがら、国々過ぎて行く程に、此処ぞ名に負ふ墨田川、渡りに早く着きにけり、渡りに早く着きにけり」

オペラではこのような翻案となっています。

Behind me,under clouds and mist,
Heaths and pastures I have crossed;
Woods and moorlands I have passed,
Many a peril I have faced;
May God preserve wayfaring men!
Here is the bank of the Curlew River,
And now I have reached the ferry.

(雲と霧の下、
ヒースの丘や草地を背にして通り過ぎ、
森と荒野を越え、
私は数々の危難を見てきました。
神よ、旅人を守らせたまえ。
ここはカーリュー川の岸辺、
こうして船着き場にたどり着いたのです)

「雲霞」のみ一致していますが、英文のほうが視覚的により具体的に描かれています。また日本語の反復法は対句表現に置き換えられています。

つぎに女物狂(ものぐるひ・狂女)登場最初のセリフ。

シテ「げにや人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、今こそ思ひ白雪の、道行人に言伝てて、行方を何と尋ぬらん。聞くや如何に、うはの空なる風だにも」地歌「松に音する習ひあり」

Clear as a sky without a cloud
May be a mother's mind,
But darker than a starless night
With not one gleam,not one,
No gleam to show the way.

(雲ひとつない空のごとく
母の心は曇りなくあるべきところ、
星なき夜よりも我が心は暗く、
たった一すじの光もなく、
道を照らす僅かな光も私にはありませぬ)

ここでは謡曲独特の掛け言葉や和歌の引用は断念されているようです。しかし最も大きな違いは、英文のほうではこのセリフの前に、下に掲げたような長々としたうわ言のようなセリフが置かれていて、「狂」のイメージが強調されています。また子供の喩えとして使われているlambという言葉はいやでもキリストそのものを連想させるに違いありません。

You mock me,you ask me
Whither I go,
How should I know?
Where the nest of the curlew
Is not filled with snow,
Where the eyes of the lamb
Are untorn by the crow,
The carrion crow -
There let me go!

(お前達は私をあざけり、私に尋ねる。
そなたはどこへ行くのか、と。
だがどうして私がそれを知っていようか。
鴫の塒が
雪で覆われることなく、
子羊の両目が
からすに、あの死肉を漁る
からすに抉られることもない、
そのようなところに行かせておくれ)

次に、舟に乗りたければ面白う狂うてみせよという渡し守を女が非難していうセリフ。
シテ「うたてやな隅田川の渡守ならば、日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ、形の如くも都の者を、舟に乗るなと承るは、隅田川の渡守とも、覚えぬ事な宣ひそよ」

英文
Ignorant man!
You refuse a passage
To me,a noblewoman!
It ill becomes you
Curlew ferryman,
Such incivility.

(無礼な者よ!
お前は私を舟に乗せぬというのか、
この貴顕なるわたくしを。
カーリューの渡し守よ、
このような非礼は
お前のような卑しいものにはさぞ似合いであろう)

ここは「伊勢物語」の業平と渡守の会話を下敷きにしていて、英文はそのあたりの翻案は断念しているようです。そのため後に続くかもめと都鳥のくだりは英文(gullとcurlew)ではなかなか意味の取りにくいやり取りになっています。

最後に、子供の亡霊が消えたのちの結びの場面。
地謡「互に手に手を取り交はせば、また消え消えとなり行けば、いよいよ思ひは真澄鏡、面影も幻も、見えつ隠れつする程に、東雲の空もほのぼのと、明け行けば跡絶えて、我が子と見えしは塚の上の、草茫々としてただ、標ばかりの浅茅が原と、なるこそ哀れなりけれ、なるこそ哀れなりけれ」

英文ではこの地謡に相当する訳文はなく、かわりに僧院長の次のようなセリフが置かれていて、合唱がこれに答えます。教会寓話劇としては当然の終わり方ではありますが、日本の能の無常感は彼の地ではなかなか理解されないのでしょうか。

A vision was seen,
A miracle and a mystery,
At our Curlew River here.
A woman was healed by prayer and grace,
A woman with grief distraught.

(このカーリューの岸辺にて、
この世のものとも思えぬ幻を、
神の秘蹟を私たちは目にしました。
悲しみに気のふれていた女は、
祈りと神の恩寵により救われました)

台本を読むだけでも、元の能とは相当異なった世界観が描かれているのが判ります。これぐらいにしておきますが、こんな調子で全文対比してみたらいろいろな発見があると思います。

肝心の音楽について。ブリテンの音楽についてはごく最近、「ピーター・グライムズ」の舞台をきっかけに親しむようになった為、まだまだ判っていないのですが、それにしても「カーリュー・リヴァー」の音楽は狷介で、人が容易に近づくことを拒むかのようです。およそ70分ほどの演奏時間のうち、最初一時間は極めてストイックな音楽が続きます。始めに少し触れたように、オルガンのパートは笙の和音を模していますが、他の楽器は独特な音の選び方に拠っていて、決して聴き手に媚びません。ところが物語も終盤のThe moon has risen(月は昇りぬ)以降の数分間、ようやく音楽が大きく動き出します。ここは教会旋法による感動的な音楽。物語も母が息子の亡霊によって慰められるクライマックスとなりますが、今度は一気に情緒に訴えかける音楽の運びとなって、本当に素晴らしいと思いながらも若干の戸惑いがなくもありません。思うに、この最後の部分のもたらす感動は真正なものだとしても、それに至る一時間がひたすら苦行になるような聴き方は作品にとっても聴き手にとっても不幸なことだろうという思いがします。大半を占めるストイックな音楽がこちらの心の奥深く染み込むまで、何度も何度もひたすら繰り返して聴くしかないのでしょう。すくなくともそれに値する音楽であるのは間違いないと思います。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-10-05 23:10 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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