ツイッターとか見てると米倉斉加年(よねくらまさかね)を「さかとし」と間違ってた人が意外に多くてちょっと安心。
ヒンデミットのオペラを少しずつ聴いてきましたが、今回の「画家マチス」は文字通り彼の代表作といってよいのでしょう。その割には(同じ題名のオーケストラ曲はともかく)あまり聴かれてなさそうですが、大変な傑作です。 ヒンデミット 歌劇「画家マティス」 アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク: ジェームズ・キング マティス: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ ローレンツ・フォン・ポンマースフェルデン: ゲルト・フェルトホフ ヴォルフガング・カピト: マンフレート・シュミット リーディンガー: ペーター・メーフェン ハンス・シュヴァルプ: ウィリアム・コックラン ヴァルトブルク伯: アレグザンダー・マルタ ジルヴェスター・フォン・シャウムベルク: ドナルド・グローブ ウルズラ: ローゼ・ヴァーゲマン レギーナ: ウルズラ・コシュト ヘルフェンシュタイン伯爵夫人: トゥルデリーゼ・シュミット 伯爵の笛吹き: カール・クライレ バイエルン放送合唱団(合唱指揮:ハインツ・メンデ) ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団 1977年6月&12月録音 CD:EMI50999 6 40740 2 3 このCDにはCD-ROMでドイツ語リブレットと英・仏の対訳が添付されていますが、時代背景が判らないと英語の対訳を読んだだけでは物語の理解はかなり難しいと思います。7幕からなる物語は1524年から1525年のドイツ農民戦争を背景にした一大ページェント、大河ドラマ風悲劇ともいうべきスケールの大きなもので様々な人物が現れますが、主人公としては次の5人とみてよいでしょう。 画家マティス・・・マインツの大司教に仕える教会画家であったが、戦乱の世で絵を描き続けることに疑問を持ち筆を折る。しかし農奴の悲惨な暮らしに同情しながらも貴族にリンチを加える彼らには反発を憶える。様々な艱難の後、聖アントニウスの誘惑を自らの幻覚として体験し、再び絵筆を執ることになる。イーゼンハイム祭壇画で知られるマティアス・グリューネヴァルトがモデル。 マインツ大司教アルブレヒト・・・ローマカトリックの司祭でありながら、経済的な逼迫からプロテスタントの裕福な商人リーディンガーの支援を受けている。司祭の妻帯を奨めるルター派に倣ってリーディンガーの娘ウルズラを娶ろうとするが、彼女の敬虔な心にふれて一切の財産を捨て、清貧の暮らしをすることになる。お抱え画家のマティスに対しては常に擁護者としてふるまう。史実の上では贖宥状(免罪符)の発行でカトリックの堕落の象徴とされる。ちなみにリーディンガーは史実ではフッガー家の商人ということになるだろう。 シュヴァルプ・・・農民戦争のリーダー。戦禍の中で絵を書くマティスを嘲笑い、後の物語のきっかけを作る。娘レギーナをマティスに託して戦死する。 ウルズラ・・・リーディンガーの娘。アルブレヒトと結婚することになり、慕っていたマティスのもとに奔ろうとするが、絵筆を捨てて戦乱の中に飛び込んでいこうとする彼に拒絶される。カトリックとプロテスタントの融和のための自己犠牲としてアルブレヒトと対峙し、彼の清貧への覚醒を呼び起こす。 レギーナ・・・戦禍の中シュヴァルプにつき従っていたが、マティスのもとで束の間の安らぎを得る。孤児となって身体を毀し、最後はウルズラとマティスに看取られて息を引き取る。 この5人に、ルター派とカトリックそれぞれの側の人々や、ドイツ諸侯の同盟軍の司令官らが絡む。しかしながら、物語の全体を見渡すと、数多くの登場人物を結びつける要となるのは、実はオペラには登場しないがあのマルティン・ルターではないか、という気がします。従って、このオペラを深く理解するにはルターと1517年に始まる宗教改革に関する最低限の知識が必要だと思われます。歌詞だけを追っていたのでは、特に聖職者の結婚に関するルター派とローマカトリックの対立がテーマとなっている第3幕など、いったい何が歌われているのか全く理解できないと思います。これに関しては、『ドイツ宗教改革』(R.W.スクリブナー、C.スコット・ディクスン/森田安一訳、岩波書店)という本にかなり詳しく書かれていて、オペラの理解に非常に役立ちましたが、元々神学のテキストとして書かれたものなのでやや専門的なのと翻訳が生硬で読みにくいのが難点。より一般向けの著書として『世界史リブレット27 宗教改革とその時代』(小泉徹、山川出版社)がページ数も少なく安価な割に内容が充実しているので、是非とも一読の上リブレットを読まれることをお勧めします。 ところでこの作品のリブレットはヒンデミット自身の作のようですが、彼はこの物語に何を託そうとしたのだろうか。以前、ヒンデミットのオペラ「カルディヤック」について「芸術家とその作品との関係性の一つの在り方について書かれた作品」と書きました。 http://nekolisten.exblog.jp/17351525/ ならばこの「画家マティス」が取り上げているのは、「芸術家とその生に対する態度」ということになるかも知れません。 画家であるマティスは、「行動の人」シュヴァルプに触発されて絵筆を捨て、戦いの世界に飛び込んでいきますが、思索と創造の世界に生きてきた彼は結局のところ「実世界」には馴染まない。特に農民たちが元の領主であるヘルフェンシュタイン伯爵をリンチに掛けて殺害し、その夫人を凌辱しようとするのを見て完全にこちらの世界から離反してしまいます。さりとて同盟軍の立場に与することも出来ず、結局は戦争の傍観者としての立場から脱却できない。その後、マティスは夢の中で聖アントニウスに変身し、数々のサタンの誘惑に打ち勝ったのち、アルブレヒト扮する聖パオロから再び生きる目的を与えられて画家として再生します。 シュヴァルプは恐らく人生というものを挟んで、芸術家マティスと対極的な位置にいます。彼は正義の実現のために単純だがまばゆいばかりに光り輝く行動の世界で生き、あっというまに死んでしまいます。マティスは彼の生き方に憧れ、その死を悼み、愛娘のレギーナを引き取ります。 大司教アルブレヒトの描かれ方は皮肉に満ちています。ルター派とローマカトリックそれぞれの取巻きに囲まれ、ルターの著書の焚書については優柔不断な態度をとり、司祭の結婚に関しても同様に周囲の工作にひたすら流されていきます。最後は美化されて清貧の道を選びますが、それも見ようによってはウルズラの訴えに流されたという見方もできます。史実の上での彼の姿と相俟って、曖昧な人物像しか結びません。しかし、かれこそはこの物語の狂言回しであって、鏡のように登場人物の主張を映し出す存在とも言えます。 この大河小説のような壮大な物語を読み解くには、政治・宗教・芸術さまざまな切り口があると思いますが、私は例えばトーマス・マンの作品のような、芸術家が人生の苦難を経て成長していく物語、マティスを主人公とした教養小説Bildungsromanという捉え方をしました(それにヒンデミットほどのインテリならトーマス・マンを間違いなく読んでいるだろうと思います)。おそらく1910年代の終わりから1920年代の半ばにかけて、表現主義の旗手として、性や宗教のタブーに挑むようなオペラや、極端に無調的で先鋭的な音楽を書いてきたヒンデミットは、なんらかの葛藤、精神的な危機を経て「画家マティス」に聞く晴朗な新古典主義の音楽家に姿を変えたと思われますが、その過程における「治癒と再生」こそ、このオペラの真の主題であるという気がします。 ところで、ちょっと脱線しますが、芸術家の治癒と再生というなら、トーマス・マンよりもっと現代に近い作品があります。もちろんヒンデミットは知る由もないことですが、いずれも画家が主人公というところが面白いと思います。それに結局マティスは何故絵筆を一旦折り、どうして再び筆を取ったのかという謎は意外に深くて、これら他の分野の作品がその理解に資することもあるだろうと思います。 まず一つ目、三島由紀夫の『鏡子の家』。主人公の一人、画家の夏雄は世界の崩壊の幻想に囚われて突然絵が描けなくなるが、やがて世界と和解して再び絵筆を取ることになる。夏雄とは対照的に、ボクサーの峻吉はプロデビュー後すぐにチンピラと喧嘩して拳を潰され右翼団体に入るが、夏雄は終始峻吉には寛容で親しみを感じている。その他、売れない役者で最後自死する収、優秀な商社マンだがニヒリストの清一郎が登場する。この4人の男が集うサロンの女主人鏡子は、まさに鏡のように4人の姿を映し出して狂言回しの役割に徹する。読んでおられない方からはきっと「いくらなんでもヒンデミットと三島との比較は無理だろう」と嗤われそうですが、画家マティスを画家夏雄に、シュヴァルプを峻吉に、アルブレヒトを鏡子になぞらえることで、少なくとも私にはオペラの読解のための有力な補助線となりました。 もう一つは、ソ連の映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーの1967年の映画「アンドレイ・ルブリョフ」。タルコフスキーはそこそこビッグネームであるし、日本にもファンが多いと思いますが、私は「アンドレイ・ルブリョフ」とその次の「惑星ソラリス」(1972)の2作が最高傑作だろうと思っています(1975年以降の「鏡」「ストーカー」「ノスタルジア」「サクリファイス」は私には難解に過ぎるような気がする)。なんと「アンドレイ・ルブリョフ」も画家が主人公。15世紀初頭のイコン画家ルブリョフは宗教の退廃やタタール人との戦争の中、自分自身も兵士を殺したことをきっかけに絵筆を折る。それ以来ルブリョフは沈黙の行を貫くが、ある日鋳物屋の少年が苦労の末に教会の鐘の鋳造に成功するのを見て感動し、少年を祝福して再び絵筆をとるという物語。お話の外形はこちらのほうがより「画家マティス」に近い感じがしますが、ソヴィエトで活動していたタルコフスキーがヒンデミットを知っていたかどうかはまったく判りません。もっとも、反体制的というより、あまりにも中世ロシア史を暗く描いている廉でソ連でしばらく発禁扱いとなっていた「アンドレイ・ルブリョフ」に対し、「画家マティス」のほうは、少なくともドイツ国内に向けた政治的なメッセージは私にはあまり感じられませんでした。それよりもドイツ農民戦争を一種の人民革命と見做す見解もある中での、暴力的な農民の描き方には驚くべきものがあり、1930年代のドイツでどのように受け止められたかはよく分りませんが、もしスターリン時代のソヴィエトで上演されていたなら(実際にはヒンデミットに関するあらゆる情報が遮断されていたのかも知れませんが)パステルナークどころじゃない衝撃だったに違いありません。そういった意味で、ナチスがヒンデミットを目の敵にして、「画家マティス」をどんな音楽なのかもわからずに「退廃音楽」として弾圧したのは、ある意味見当違いも甚だしいことではなかったかと思います。そこにあるのはむしろ反体制的な人民革命の萌芽を思わせる農民戦争への嫌悪であり、最初農民に同情的な立場をとっていたのに後に彼らを見はなすルターその人の態度へのインテリらしい解釈であり、皮肉な言い方をすれば体制の内側で芸術家としての悩みに耽る作曲家の姿である。まったくナチスはこのような無害な音楽は放っておけばよかったのに違いない。 まぁ、私の個人的なこじつけの是非はさておき、少なくとも政治的なものではなくて、芸術家の生Das Lebenに対する態度そのものがこのオペラの主題であると見做すことで、「画家マティス」は「カルディヤック」の続編ともいうべき位置を占めるように思われます。そしてそのことはこのオペラの歴史的な価値を些かも貶めることにはならないと考えます。 音楽に対する考察が後回しになってしまいましたが、本当に素晴らしい音楽でした。 初期の表現主義的な作品を除くと、ヒンデミットの音楽には「新古典主義」というレッテルが張られて、特に両大戦間の代表的な作品例として「画家マティス」がストラヴィンスキーの「プルチネッラ」と並び称される、というのが教科書的な書き方になるのでしょう。だいたい「新古典主義」という言葉も曖昧ですが、敢えて言えば表現主義と無調様式へのアンチテーゼという風にまとめることが出来そうです。 このオペラに関して言えば、物語は大変悲惨なものだが、音楽はどこまでも晴朗で格調が高い。第4幕の伯爵の私刑の場面や第6幕の聖アントニウスの誘惑の場面など、もっとおどろどろしく表現主義的、無調的な音楽を書くことも出来たはずですが、実際にヒンデミットが書いたのは非常に抑制が効いた音楽であり、それでいて少しも退屈にならず、聴くうちに静かな感動に襲われます。これこそが新古典主義と呼ばれる真の所以でしょう。オペラ全体に亘って明瞭な調性が支配していますが、そのシステムは伝統的なそれとは少しばかり異なっています。通常なら倚音として扱われる音がここではもう少し上位の扱いを受けていて、耳が慣れるに従って非常に美しく旋法的に聞こえます。その調性のシステムはヴォーカルスコアが手元にあればきれいに分析・整理できそうな気もするが今はもちろんそこまでは出来ません。このおそらく非常に意図的に、知的に組み立てられた調性システムは、後期ロマン派のデュオニュオス的な爛熟に代わるアポロン的な知的構造物の構成原理そのものであろうと思います。そこから、「新古典主義」に対して「アポロン的な世界の20世紀における復権」という意味合いを附加することも可能でしょう。 結局私はこういった知的な音楽というものが心底大好きなのだろうと思います。このブログで多分一番多く取り上げたのはストラヴィンスキーだと思いますが、今後ヒンデミットはそれに次ぐポジションを私の嗜好の中で占めるに違いありません。 ストラヴィンスキーとの一番の違いは、その手堅いかっちりとした書法。ストラヴィンスキーのほうは良くも悪くももっと風通しのよい音楽で、あまり形式というものに対する偏愛は感じられません。ところがヒンデミットの場合、以前取り上げた「聖女スザンナ」や「ヌシュ=ヌシ」でも作品の相当長い部分で変奏曲形式が使われていたり、対位法的な書法が顕著であった訳ですが、「マティス」でも第2幕の後半が変奏曲形式で書かれていたり、また対位法的な書法も多い。いかにもドイツの作曲家という感じ。反面、オペラの題材から致し方ないとは思いますがユーモアの要素はほぼ皆無。また、これは今のところ若干印象論的な言い方になりますが、伝統的な調性の体系からの逸脱という点については、ヒンデミットのほうがやや理論的(後の「ルードゥス・トナリス」を見れば明らかでしょう)なのに対して、ストラヴィンスキーのほうはもっと直観的・感覚的な感じがします。もちろんどっちが上とかいう問題ではありません。 クーベリックの指揮、フィッシャー=ディースカウらの歌手、比較の対象を知りませんがいずれも文句なしの名演だと思います。特にフィッシャー=ディースカウの知的な歌の表情は、行動の世界に憧れながらついに傍観者でしかありなかったインテリの悲しみまでも感じさせて秀逸。ジェームス・キングが大司教というのは最初のうち違和感がありましたが、この優柔不断で流されやすい、しかし人は決して悪くない司教には実はぴったりな歌唱だと思うようになりました。シュヴァルプを歌うウィリアム・コックランと、敵対する連合軍の士官ジルヴェスターを歌うドナルド・グローブ、立場は違えども共に行動の人ということでなんとなく似ているのも配役の妙という感じがします。女声の三人、いずれも有名どころではありませんが真摯な歌いぶりで好感を持ちました。 (この項終り)
by nekomatalistener
| 2014-09-07 01:10
| CD・DVD試聴記
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