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フォーレのピアノ五重奏曲を聴く

「良識派」の方々からはろくでもないと思われがちな2ちゃんねらーだが、例の号泣県議をたった一言、「47歳児」と言い表す言語感覚ってのは凄いと思う。





久しぶりのブログ更新。京都のカフェ・モンタージュでフォーレの室内楽を聴いてきました。

  2014年7月15日@カフェ・モンタージュ
  フォーレ
    ピアノ五重奏曲第1番ニ短調Op.89
    ピアノ五重奏曲第2番ハ短調Op.115
  (アンコール)
  ショーソン
    ピアノ、ヴァイオリンと弦楽四重奏のためのコンセールより第2楽章(ピアノ五重奏版)

  vn:長原幸太、佐久間聡一
  va:中島悦子
  vc:上森祥平
  pf:大井浩明

大井浩明についてはこのブログでも度々取り上げてきましたが、弦の各奏者はいずれも在阪オケの首席奏者を務めている(もしくは務めていた)方々ということで、私は疎い分野だけれど関西のオーケストラを足繁く聴いてきた人には馴染みの面々なのでしょう。
弦楽四重奏団、もしくはピアノ入りユニットとして長く演奏してきた訳ではないでしょうから、当然のことながらそこには練れた表現というよりは一回性というものを強く感じさせる演奏、ややもすれば茫漠となりがちなフォーレの楽曲を力と若さと技巧でねじ伏せたといった感じがしましたが、概ねそれは成功していたと思います。
私は実のところ、フォーレのピアノ五重奏曲については第2番が圧倒的に傑作であって、第1番のほうはどうも捉えどころがないような気がしていたのですが、今回の張りつめた、やや線のきつい演奏を聴いて、はじめて第1番の素晴らしさを認識し、完全に腹に入ったような気がしました。
今回の第1番を聴きながらもっとも印象深かったことは、各楽章のここぞというところで現れる弦のユニゾン。弱い熾火かと思われた炎がゆっくり静かに白熱していくその頂点で突如ユニゾンになるのは、この1番に限らずフォーレの室内楽のあれこれに共通する特質なのでしょうが、この作品におけるユニゾンほど意義深いものはないのではないか。各奏者の音程の確かさ、その前後の身振りの大きさによって、この特質が強く浮き彫りにされていたように思います。大井浩明のピアノは、第1楽章こそ若干控え目でしたが、つぎのアダージョの、滴るような美音の点綴される中に所々思わぬほどきつい表現の混じるのが不思議とうるさく感じられないのも良かったと思います。また、フィナーレの冒頭の鼻濁音のような音色はまさにフォーレ好みのメゾピアノ。以前、この人がシュトックハウゼンの「自然の持続時間」を弾いた時にも、指回りだけでない音色に関するパレットの多さについて言及しましたが、今回の演奏も大変優れたものであったと思います。

短い休憩を挿んで第2番。この曲の冒頭の、破局めいた何か見えざるものがひたひたと押し迫るようないわく言い難い雰囲気、しかとは判らないがただならぬ気配のようなもの(それに近いものを敢えて他に探せば、ヤナーチェクの「1.X.1905」くらいしか思い浮かばない)、それはやはり弦楽四重奏団として長く演奏してきた人たちの表現に勝るものはないというべきか、今回の演奏では意外にもさらさらと耳を通り過ぎて行ったような感じがします。だが、後半に現れる弦のユニゾンはやはり素晴らしく、胸に迫るものがありました。第2楽章の猛烈なテンポも圧巻ですが、第3楽章の冒頭のヴィオラの旋律に他の弦が濃密にまとわりつくところ、これはフォーレが時間をかけて咀嚼し、完全に自家薬籠中のものとしたトリスタン和音の変形なのだと思わせられました。フィナーレの解放感、作品が良いのか、演奏が良いのか、もはや判別できないほどなのは、やはり良い演奏だったのでしょう。しかしながら、この第2番のフィナーレは単なる精神的な解放感だけでなく、とてつもなく瞑く晦渋なものを秘めているように思われます。その晦渋さは後の弦楽四重奏曲Op.121で頂点に達するものと思いますが、私はいまだにこれらの音楽がよく判っていないと言わざるを得ません。

アンコールはショーソンのコンセールを大井さん曰く「むりやりこの編成にした(笑)」ものだとか。フォーレの大曲のあとにアンコールは無くもがなという気もしましたが、この大して霊感に満ちているようにも思えないのに、不思議と熱量が高く途中から急激に発熱するような小品がなかなかしっくり来たのは事実。いろいろ考えた末の選曲なのでしょう。

最後に少し脱線。先日来、『ピアニストが語る!現代の世界的ピアニストたちとの対話』(焦元溥著、森岡葉訳、アルファベータ刊)という本を読んでいるのだが、この中で少し引っかかっていることばがあります。ドミトリー・バシキーロフというグルジャ生まれのピアニストがインタビューの中でフォーレについて語っていることば、
「・・・でも、私はフォーレを弾きません。私に言わせると、フォーレは二流の作曲家だからです。彼の作品には欠陥が多く、ドビュッシーやラヴェルとは比べものになりません。」・・・どうでしょうね。確かに、残された作品のすべてがあまりにも完璧で、そこに人間的な成長とか円熟といったものが容易には読みとれないラヴェルや、ラヴェルと比べると若干作品の完成度にムラがあるものの、「12のエチュード」や「遊戯」のような天才的な作品が突然変異的に時折現れるドビュッシーと比べると、フォーレの場合実に人間的というか、前期よりは中期、中期よりは後期と成長の跡が良くも悪くもはっきりと判る作風ではあるでしょう。しかし、少なくとも私には後期の(第9番以降の)「夜想曲」とか件の五重奏第2番、あるいはピアノ三重奏曲Op.120といった作品はどう考えても「二流」とは思えません。バシキーロフのいう「欠陥」が何を指しているのか、あるいはフォーレの作風にロシアとその周辺の人には理解しがたい何かがあるのか、とても気になっています。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-07-16 23:20 | 演奏会レビュー
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