人気ブログランキング |
<< 今更ながらドヴォルザーク(その3) 今更ながらドヴォルザーク(その2) >>

大阪交響楽団 第185回定期演奏会 オール・ドヴォルザーク・プロ

某交響楽団(お察しください)のファゴット吹きのおじさん、年々ゴマフアザラシの赤ちゃん化してる。もふもふ。





大阪交響楽団の定期、オール・ドヴォルザーク・プロを聴いてきました。

  2014年4月24日 ザ・シンフォニーホール
   三部作「自然と人生と愛」
     序曲「自然の中で」Op.91
     序曲「謝肉祭」Op.92
     序曲「オセロー」Op.93
   (休憩)
   交響曲第7番ニ短調Op.70
   寺岡清高指揮大阪交響楽団

作品そのものについては、当初の予定ではこのコンサートの備忘を記す前に記事をアップするつもりでしたが、ちょっと時間かかりそうなので今回は演奏について簡単に記すだけにしておきます。
私はこの楽団が大阪シンフォニカーと名乗っていた頃から何度も聴いてきてますが、このオーケストラの特色は弦のテンションが非常に高いことだと思います。もう何年前になるか、ショスタコーヴィチの交響曲第10番を聴いたときの、こめかみに青筋たててメーター振り切れそうな演奏に心底恐怖を感じたことがありました。その統率力たるや大したものだと思いますが、その一方で、もう少し力を抜くところは抜いたほうが音楽が膨らむのではと思ったことも度々。このテンションの高さは思うにコンマスの方の志向するものが団員全体に及んだ結果ではないかと勝手に想像しています。今回のドヴォルザークでも、高カロリー音楽の「謝肉祭」のみならず、すべての曲目で彼らの特色が遺憾なく発揮されていましたが、「ドヴォルザークってこんなに疲れる音楽だったっけ?」と多少の違和感を持ったのも事実。
指揮者の寺岡清高はオーケストラをドライブするというよりは、その自発性に任せるタイプと見ましたが、この楽団の志向で殊更煽らずとも音楽が異様に、野放図なほどに熱を帯びてしまう。私自身が年齢の所為で少し耳が保守化しているのかも知れませんが、その結果はドヴォルザークとしてはやや「やり過ぎ」という思いを禁じ得ない。それに、今回1階の前の方で聴いたからかも知れませんが、弦と管が融け合わず、よく言えば立体的、悪く言えばバランス感に乏しい異形の音響塊として耳を撃つ。これは貶しているのではなくて、ドヴォルザークの音楽について回る形容詞、ボヘミア的な、朴訥な、親しみやすい、泥臭い、民族主義的な、といった側面には何の興味も覚えない私にはむしろ好ましく思われる面もあるのだが、それにしてもドヴォルザークの音楽は本来もう少し多面的なものであって、今回の演奏で切り捨てられたものは多いと言わざるを得ません。その切り捨てられたものは何かを言葉にするのは難しいけれど、ドヴォルザークの音楽に通底しているリスト=ワーグナー的なるものとブラームスの影響との相克といった側面は今回の演奏からはあまり聞こえてきませんでした。ただし、それでも「オセロ-」や交響曲が実に面白く聴けたのはドヴォルザークの高度な作曲技法(私は最近までそれに気付かなかった)、具体的には弦の内声の充実であるとか強迫的なくらい執拗な動機展開とかいった要素によって、今回のような音響の塊を突きつけられるような演奏にも耐える音楽であったということだと思います。その意味で、今回8番でも9番でもなく、7番をメインに持ってきたのは正解だと思うが、聴衆の反応は今ひとつ、といった感じ。何となく気のない拍手のせいでもないでしょうがアンコールもなく、大半のお客さんは残尿感みたいなモヤモヤを抱えて家路に就いたのではないでしょうか。まぁそういった人たちはどうぞチェロコンか新世界でも聴いといてね、という感じだけど(笑)。
ちなみに今年の1月に下野竜也がシェーンベルクとスッペを振ったときは同じ楽団とは思えないほど緩急自在、いい具合に力の抜けた演奏で、こちらは辛口の十二音音楽と甘いオペレッタを繋ぐウィーンというコノテーションが見事に表れていたと思います。上体を大きく動かしてフレージングを大掴みになぞっているだけみたいな指揮なのにこれは不思議なこと。今回の、ある意味自己完結しているような音楽も面白いけれど、これは指揮者の格の違いなのだろうか。
あと、これは蛇足ですが、「オセロ」の畳み掛けるような最後の一音、ごくわずかながら「ため」が入ったのは趣味に合わない。あそこはアッチェレランドで突っ込んでほしかったなぁ。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2014-04-26 00:14 | 演奏会レビュー
<< 今更ながらドヴォルザーク(その3) 今更ながらドヴォルザーク(その2) >>