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コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場o.(その2)

「ポン・デ・ライオンは昼は寡黙でおとなしいが、夜になると「ポン!」「ポポポン!」「ポポポポ~ン!」などと絶叫する。特に繁殖期は一晩中ずっと絶叫している」(アンサイクロペディアより)。
知らんかったわ。




「死の都」予習の続きです。
もう少し詳細を見ていく前にこのオペラが初演された1920年頃の音楽状況をざっと見ておくと、この頃の独墺音楽の親玉みたいなR.シュトラウスは1916年「ナクソスのアリアドネ」改訂版、1917年に「影のない女」を初演、この二つのオペラが「死の都」にも色濃く影響を与えているのは一目瞭然。シュトラウスより少し弟格のツェムリンスキーはこの頃、「フィレンツェの悲劇」(1915-16)「こびと」(1919-20)「抒情交響曲」(1922)を作曲、同じくシュレーカーは「烙印を押された人々」(1918)「宝探し」(1920)と創作の絶頂期。このいわばR.シュトラウス・ファミリーのような人々はいずれも充実した時代だったようです。そのシュトラウス・ファミリーと近いところにいた新ウィーン楽派はどうか。シュトラウスより10歳ほど年少のシェーンベルクはこの頃、無調から十二音技法への過渡期で苦しんでいたころ。1921年から翌年にかけて「ピアノ組曲Op25」が書かれていますが全般的に作品も少ない時期にあたります。弟子のウェーベルンも作品14あるいは15の歌曲集で師匠の模索をなぞっています。もう一人の弟子ベルクはちょうど「ヴォツェック」を書いている頃で、こちらは実際には創作の絶頂期なのだが傍目には雌伏の時であったのでしょう。もう少し軟派な音楽では、カールマンがこの頃ウィーンで大当たりをとっています(「チャルダーシュの女王」(1915)「伯爵令嬢マリツァ」(1924))。レハールも「パガニーニ」(1925)などをウィーンで発表。こうしてみると1920年の前後というのは後期ロマン派の絶頂期であるとともに現代に続く音楽の胎動期という時代であったことが判ります。
こうして同時代の音楽をざっと見渡してみると、「死の都」にはR.シュトラウスの露骨な影響はあっても、新ウィーン楽派の影響は殆ど見られないこと、そして「影のない女」風の生地にオペレッタ風の甘く、人の心を蕩けさせる音楽が器用に継ぎはぎされていることの必然性のようなものが何となく理解できます。それにしても、以前にツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」について書いた時にも触れましたが、R.シュトラウスの「影のない女」の同時代人への影響というのは絶大であり、一見したところより無調的な「エレクトラ」なんかは系統樹でいうなら途中で途切れた枝であって、現代まで細く長く影響を伝えているのは「影のない女」のほうなのだろうという思いに駆られます。新ウィーン楽派との関係については、「死の都」を聴く限りさほど影響が見えません。全音音階や増三度の積み重ねによって調性がぼかされているところが随所に出てくるものの、実際のところは無調とは何の関係もないとみたほうが正しいと思います。一方オペレッタの影響は、有名な「マリエッタの歌」と「ピエロの歌」に顕著。「マリエッタの歌」(譜例1)を耳で聞いているとその蕩けるような甘さに陶然としてしまいますが、スコアを見るとけっこうはげしく拍子が変わっていて驚きます。プッチーニばりのテヌートやフェルマータをデフォルメしつつ律儀に楽譜にした結果のようにも見えますが、どう書けば観客聴衆が泣くかを熟知しているような、この一種の職人技=劇場的センスというのは素晴らしいと思います。
(譜例1)
コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場o.(その2)_a0240098_22484082.png

もうひとつの「ピエロの歌」(譜例2)のほうは伝統的な3拍子で書かれていて、これも「ばらの騎士」のオックス男爵のワルツと同じくオペレッタへのオマージュだと思います。こういった音楽はいずれも今現在から振り返ってみると、滅びつつある古き良き文化への惜別の歌と聞こえ、ここ数年の驚くべきリバイバルの一つの理由となっているに違いありません。
(譜例2)
コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮フランクフルト歌劇場o.(その2)_a0240098_2250156.png

こういった部分部分、過去への郷愁を誘う甘い音楽については、これがオペレッタであったならば若書きにも関わらず完璧なプロの仕事であるという評価になるだろうと思います。しかし、オペラとして全体を聴いた印象は、極めて精緻に書かれたR.シュトラウス風継ぎはぎによるミニチュア、一種の聴覚ジオラマといった様相を呈しています。お気に入りのおもちゃを並べて見せられているという感じ。マイアベーアの「悪魔のロベール」の引用(リストが引用した旋律ではなくて死んだ破戒尼僧達の招魂の場というのもスノッブな感じ)もそのおもちゃの一つなのでしょう。前回の投稿で私は自己愛の垂れ流しという表現でこの音楽を批判的に書いたけれども、他者の圧倒的な影響からの脱却は、より大きな世界との関わりのなかで自己愛を克服し、社会的な自己を確立していくという過程なしにはありえないのだろう。こんな記述で前回うまく言語化できなかった自己愛というものを記述できたとは到底思いませんが、私が考えていたことを漠然とでもお伝えできればと思います。
たぶん私のコルンゴルト評というのは不当に辛すぎるのでしょう。もし必要があって私がチャイコフスキー評を書けば同様に辛口になるかも知れません。まぁ彼らの音楽がお好きな方は読み飛ばしていただくのがよろしいかと存じます。

取り上げた音源の感想ですが、パウル役のフォークトはミスキャストなんじゃないだろうか。パウルは原作でもオペラでも年齢不詳だが、妻の死後、住み慣れた町をすててブルージュに移り住み、男やもめが長くなった、どこかやさぐれた感じのする中年といった役どころ。これをフォークトが歌うと、なんだか子供がぶかぶかの背広を着てチョビ髭を張り付けたみたいで、失笑しないまでも落ち着かないこと甚だしい。それに、ここでのフォークトは声質はともかく、その表現がのっぺりしていて極めて皮相的なものに感じられます。高い声のテノールとして貴重な歌手だが、得意な役柄というのは非常に狭い歌手かもしれません。
マリエッタ役のパヴロフスカヤはすぐれたドラマティック・ソプラノだと思いますが、ところどころ吼えるようなところがあって少し耳につきます。「マリエッタの歌」を蕩けるような甘さで歌ったと思えば、蓮っ葉な表現も必要、なにより演劇的な表現力の必要な難しい役だとおもいますが、もう少し若さがあれば良かったのに、と思いました。
この録音で最も存在感のあるのは友人フランクとピエロのフリッツの二役を歌うミヒャエル・ナジ。美声のバリトンで、この役にはぴったり。家政婦ブリギッタやバレエの踊り子などその他大勢も不満なし。ヴァイグレの指揮、フランクフルトのオケについても手堅くそつなく、という以上のものではないかも知れませんが、曲を知るという意味では全く問題ないと思います。
蛇足ながら、OEHMSレーベルの常で、立派なブックレットが添付されているのにリブレットはドイツ語のみという不親切さ。新国立劇場に申し込むと送料込僅か700円ほどで対訳を送ってくれたので助かりました。
by nekomatalistener | 2014-02-26 23:11 | CD・DVD試聴記 | Comments(2)
Commented by schumania at 2014-02-27 08:40 x
続編のアップをありがとうございます。周辺的な事ですが、フォークトが得意な役柄は非常に狭いというのは、なんとなく、私もそういう気がします。DVD購入しましたので、びわ湖までに時間を見つけて、視聴してみます。

ついでにさらに脇道にそれますが、猫又さんがチャイコフスキー評を書くとどうなるのでしょうか? 自己愛の強い作曲家ですか??
Commented by nekomatalistener at 2014-02-27 12:32
ちょっと筆がすべりました。実はチャイコフスキーは大した作曲家だと思っています。特にオネーギンとバレエ作品は傑作ですね。ただ彼のシンフォニックな作品にはあまり興味を持てないのは事実。チャイコフスキーに言及したのは自己愛つながりではなくて「(私の評価が)不当に辛すぎる」のところでリンクしていると解釈なさってください。
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