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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その15)

犬 の オ メ ェ レ ス ン





長々と書いてきたイーヴ・ナットの連載も今回が最後。ベートーヴェンの後期ソナタ4曲を聴きます。

  CD8
  ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第28番イ長調Op.101 [1954.6.14.録音]
  ピアノ・ソナタ第30番ホ長調Op.109 [1954.2.17.録音]
  ピアノ・ソナタ第31番変イ長調Op.110 [1954.2.17.録音]
  ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op.111 [1954.2.17.録音]

ベートーヴェンの32のピアノソナタといえば『音楽の新約聖書』とまで呼ばれる重要な作品群であることは言を俟たない訳ですが、もし28番以降の作品が無かったとしたら、そこまでの値打ちがあっただろうか、と思います。それほどまでに、いわゆる後期ソナタというのは以前の作品と隔絶した唯一無二のものだろうと思います。
そんなソナタに対して、一体何を書いたらよいのか、このところずっと思い悩んできました(別に悩む必要もないのだけれど)。素人のお遊びブログですが、これでも一応、何かしら自分自身のオリジナルな見解を書きたいと思い、wikipediaに載っていることは書くまい、単なる印象批評みたいな文章も極力書くまい、という姿勢でこれまでやってきました。しかし、これら後期の作品群に対しては、恐らくこれまで夥しい論評、分析、賛辞が書かれてきたはずであり、今更何を書く必要があろうかと思います。
そうはいっても何か書かずにいられないのは業みたいなものでして、既に言い尽くされていることは百も承知で少しだけ、気になっていることを書き留めておきたい。
このシリーズの初回にOp.106の「ハンマークラヴィア・ソナタ」を取り上げた際に、いわゆる「後期様式」の特色を「①フーガの活用②装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル③ソナタ形式の再現部等における単純な繰り返しの回避④緩徐楽章における果てしない沈滞⑤形式上の、あるいは規模的な肥大」であると書きました。このCDに収められた4曲は⑤の規模的肥大は当てはまりませんが、その他の4点についてはあまり異論はなかろうと思います。しかし、②の「装飾音としての機能を著しく逸脱した長大なトリル」については若干の補足が必要かもしれません。
ベートーヴェンの後期ソナタや、同じく後期の「11のバガテルOp.119」、「ディアベリ変奏曲Op.120」に出てくる特徴あるトリルについて、トリルがこれほど重要な役割をするのはスクリャービンの後期ソナタとブーレーズの第2ソナタくらいなものだと書かれていたのは諸井誠だったか(記憶が定かではありませんが)、確かに晩年のベートーヴェンのピアノ曲に現れるトリルは一種独特なものがあります。だが、単に長大なトリルというのであれば、初期の第3番(譜例1)や中期の第21番(譜例2)にも出てきます。

(譜例1)
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(譜例2)
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そもそもトリルとはなにか。当たり前のようだが、一つは修飾の為。もう一つは現代のピアノに比べて音の減耗が激しい古い鍵盤楽器で、ある音を持続保持させる為。バロックから古典にかけてのトリルの用法はほぼこのいずれかと言ってよいと思います。たとえば上の譜例で挙げた用法は装飾的な意味合いもあるけれども、専ら音の持続保持の役割が大きいような気がします。
しかし、例えばOp109に現れる長大なトリル(譜例3)やOp111の三重トリル(譜例4)はそのいずれとも意味合いが異なるような気がします。

(譜例3)
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(譜例4)
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それは敢えて言えば天上の音楽としての表現、あらゆるものを浄化し、昇華させる魔法の言語としての機能を担っているのだろうと思います。これらを聴くときの、あの意識が遠のいていくような感覚は、確かにスクリャービンの用法に近いものかも知れません。
「ハンマークラヴィア」のフーガに頻出するトリルはまた少し意味合いが異なっており、一見バロック音楽の装飾的用法に近くも見えますが、こちらは弾き手に対して技術的な負荷を要求し、それを克服する者にのみ近づくことを許すようなもの、眠れるブリュンヒルデを守る炎のようなものの性格を担っています。例えば次のような箇所。
(譜例5)
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現代のピアノの書法としては難技巧というほどのものではありませんが、初演当時の聴衆はさぞ驚いたことだと思います。これはただでさえ峻嶮な峰々のあちこちに散在するクレヴァスや切り立った崖のようなもので、これを乗り越えて初めて遥かな高みに至るといったものなのでしょう。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタの特色で、あまり語られないような気がするのがヴィルトゥオジテの追求ということ。そのヴィルトゥオジテというのはロマン派のそれとは随分異なるけれど、ベートーヴェンの場合、ピアノという楽器そのものの改良に併せて、新しい楽器のアクションの追求がそのまま新しいピアノ技法の開発に繋がっていったということなのでしょう。ここに挙げたトリルの用法も、そういったレベルでのヴィルトゥオジテの一種と見ることが出来るような気がします。そして、後期ソナタが通常の意味で「難曲揃い」であることの理由もそんなところにあるのでしょう。

ナットの演奏に関して、これまでの私の記述を読んだ人は「テクニックに相当の難があるようだが、難曲で知られる後期ソナタをちゃんと弾けているのだろうか」と危惧の念を持たれるかも知れませんが心配ご無用。このCDのセットの中でも最も技術的な破綻がないものだと思います。いや、それどころか数あるベートーヴェンのソナタの演奏の中でも最も優れたものの一つだと思います。私はけっして多くの録音を聴いてきたわけではありませんが、少なくとも後期ソナタに関してはソロモンとポリーニに匹敵するものだろうと思います。ポリーニの後期ソナタの録音は今もって不朽の名盤であると信じて疑いませんが、彼はある時期ナットの演奏を勉強したに違いありません(根拠はないですが)。それぞれ個性的な演奏家をゲルマン系とかラテン系などと大雑把に分けるつもりはありませんが、ナットの演奏というのはバックハウスやケンプなどとは全く異なる性格のもので、ポリーニやソロモンと並べるとやはり明らかに非ゲルマン系と呼びたくなるような共通するものが見つかります。それは明晰さであったり構築性といった言葉で表されるものですが、逆にゲルマン系(そんなカテゴリーが実在するとして)のピアニストに共通するものは(恐らく世評とは反対に)ファンタジーとか、それと裏腹の曖昧さのようなものかも知れません。どちらが上とか下という話ではありませんが、少なくとも私にはこのナットのベートーヴェン演奏は思いもかけないほどの大きな収穫であったことは確かです。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2013-11-24 16:55 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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