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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その9)

ある日のyoutubeサーフィン。まず、あるツイッターで知ったモングンオール・オンダールのホーメイを聴いたら、投稿者が巻上公一なのを知ってヒカシューのあれこれを聴き、思えば70年代の終りから80年代の初め頃ってヘンな時代だよなぁと戸川純をひとしきり、ついでにゲルニカの動力の姫。ヒカシューといえば、ということでクラフトワークの動画を探したら一杯ある。ひさびさにロボットとか聴いてスゲー!私の中高生の頃って凄いのね。



イーヴ・ナットのシリーズ、今回はベートーヴェン。

  CD3
  ベートーヴェン
    ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13「悲愴」 [1951年録音]
    ピアノ・ソナタ第9番ホ長調Op.14-1 [1953年6月録音]
    ピアノ・ソナタ第10番ト長調Op.14-2 [1953年6月録音]
    ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調Op.22 [1955.9.20以前の録音]

まずは「悲愴」から。
一昔前は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタといえば「悲愴」「月光」「熱情」のセットがその代名詞のように言われていたものです(いや、現代でもそうなのでしょう)。「ワルトシュタイン」「テンペスト」「告別」のセットを挙げる人もいるかも知れないが、世間一般における知名度ではまず比較にならないだろう。ただ、20世紀の終りの頃には既に一夜のリサイタルをこれら表題附きのソナタで埋めるようなピアニストは流行遅れと見做されるようになり、多少とも音楽を判っているつもりの人なら、ベートーヴェンの真価はこれらのソナタではなく、28番から32番のいわゆる後期ソナタにこそ存していることを疑わないという事態が出来しました。1970年代半ばにポリーニが、初期や中期ではなくいきなり後期ソナタの録音を世に問うたのは、その時代の変化の象徴的な出来事であったと思います。爾来、腕自慢のピアニスト達は、リサイタルで弾くなら後期あるいはそれに作風の近い26番や27番であり、それ以外のソナタを避けるか、あるいはプログラムの最初のほうに、小手調べのように初期や中期の表題のない比較的目立たない作品を置くか、といった風に変化してきたように思われます。もはや現代において、悲愴や月光を殊更リサイタルで弾くのは相当の勇気が要ることは間違いないところでしょう。
私はこういった潮流の変化について、例えば「悲愴」「月光」「熱情」の組合せがレコード会社の販売戦略(ちょうどLP1枚に収まって都合がよい云々)として無理やり3大名曲としてでっちあげられたものであって、作品自体の価値の多寡とは何の関係もないといったシニカルな見方に与するつもりはないが、それでも、そのおかげでこの3曲に対してかなり食傷気味になったのは事実。正直なところ、そんじょそこらのピアニストがこれらの作品をプログラムに組んでいたらそれだけで聴く意欲が幾分失せるだろうし、あるいはもし知り合いが「ベートーヴェンだったら悲愴が一番好き」などと言おうものなら、(馬鹿にするつもりはないにしても)勘弁してくれ、と思うだろう。こういった告白はある種の人達の反感を買うのは判っているが、私のこのソナタに対するスタンスというものを明らかにしておくのは無意味ではないと思います。
実際のところ、この作品の意義については、直前のOp10のソナタでハイドンの世界から完全に自立した世界を確立したのに続いて、はやくもロマン派と見紛うばかりの表出力が得られたと言う側面と、ムツィオ・クレメンティの顕著な影響という両方を冷静に分析する必要があるだろう。その仕事は私の手には余るけれど、要するに私は手放しで傑作というつもりもなければ、所詮は初期ソナタの一つと切り捨てるつもりもない、ということ。
もうひとつ、極私的な話をしておくと、私は中学一年生の時、いわゆるピアノのお稽古の発表会でこのソナタの第1楽章を弾いたのだが、それからしばらくしてピアノに対する熱が少しばかり醒めてしまい、レッスンも止めてしまった。というか、その頃の無邪気な私は、プロとして食っていけるようなピアニストは、12歳かそこらの歳にはすでにショパンのエチュードに取り組んでいるものだということを知ってある種の衝撃を受け、明けても暮れてもベートーヴェンのソナタを弾かされていた自分に嫌気がさしたのだろう。少なくともその頃レッスンでやった初期から中期に掛けてのソナタに感じるなにがしかのアンビヴァレントな感覚は、この体験抜きには私には説明がつかない。今、こうして50歳を超えてようやく、単なる音楽愛好家としていろいろと音楽を聴いたり、それについて考えたりするバックボーンとして、この頃のベートーヴェン体験がどれほど自分の血や骨となって役だっているかをひしひしと感じ、当時就いていた先生に対しても感謝の念を感じているのだが、ベートーヴェンにまつわるこの苦いような甘いような記憶は、多分死ぬまで私につきまとうのでしょう。
肝心のナットの演奏だが、そんな背景のある作品故どうしても粗が目立ち、可もなく不可もない演奏として聞えてしまいます。これはナットが悪いのではなくて、私の受け止め方の問題。多分誰が弾いても満足することはないでしょう。それでも第2楽章の主題の控えめな歌わせ方には好ましいものを感じるし、第1楽章の奇を衒わない序奏にしても悪くはない。第3楽章のコーダあたりの強弱の付け方はやや作為的、音像が揺れたりわざとらしく奥に引っ込んだりするEMIの悪名高い録音(エンジニアの癖というか)もその印象に一役買っていそうだ。

9番ソナタは、再びハイドン的な世界に戻って、いささか饒舌な音楽が書き連ねられている印象があります。そこにはソナチネ的平明さがあって、技巧的にも比較的平易な部類だと思います。
ナットの演奏はけだし名演である。どこといって突出したものはないが自発性溢れる音楽に身を任せられる感じがします。

10番は、優美な1楽章、古典的な変奏曲にスケルツォと題された終楽章(実質的にはロンド)が続く構成のソナタ。9番と同じくソナチネ風、技巧的には9番より少し難しいがそれでも平易な部類でしょう。やはりハイドン的な機知に溢れていて、第1楽章にはハイドンの好んだ疑似再現部が展開部の中に現われる。
ナットの演奏は最初の二つの楽章はとても良いが、スケルツォの駆け上がる音形が些かテンポが前のめり過ぎて、ヘミオラの特徴のあるリズムが活かせていないのが残念。

11番は7番以来の堂々たる4楽章ソナタ。典型的なcon brioの第1楽章に、内実のしっかり詰った長い第2楽章、第3楽章はスケルツォではなくメヌエットが置かれているが、トリオは疾風怒濤のト短調、フィナーレはこれも実にベートーヴェンらしいグラツィオーゾなロンド。しかもこのロンドの短調のクープレは対位法を駆使した展開部となっています。この11番は地味な存在ながら初期ソナタの完成形といえます。ナットの演奏は各々の楽章の特徴をよくとらえた優れた演奏だと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2013-08-01 20:16 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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