<< ヴェルディ 「シチリア島の夕べ... 【ネタバレ注意】新国立劇場公演... >>

新国立劇場公演 モーツァルト 「コジ・ファン・トゥッテ」

視力検査キット(ランドルト環視力表付き)、amazonで940円。こういう絶対要らないものって、なんか欲しくなるよね。で、カスタマーレビューが笑える。いわく、
「値段の割には付属品もしっかりしててお勧めです!
ただ視力表が1枚だけだと、頻繁に検査をすると覚えてしまうので
少し割高でも同じ製品の3枚セット¥ 1,440- の方をお勧めします。」
憶えるほど検査すな。





新国立劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」を観てきました。ミキエレットの、現代のキャンプ場に舞台を移した演出で観るのは一昨年に続いて二回目です。前回に比べて目が慣れているせいか、あまり舞台に煩わされずにモーツァルトの音楽を聴きましたが、やはりこの演出、私にはしっくりこない。いろいろ考えさせてくれるという点では貴重ではあるのだが・・・。

  2013年6月15日
  フィオルディリージ: ミア・パーション
  ドラベッラ: ジェニファー・ホロウェイ
  デスピーナ: 天羽明惠
  フェルランド: パオロ・ファナーレ
  グリエルモ: ドミニク・ケーニンガー
  ドン・アルフォンソ: マウリツィオ・ムラーロ
  指揮: イヴ・アベル 
  演出: ダミアーノ・ミキエレット
  合唱: 新国立劇場合唱団(冨平恭平指揮)
  管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団

「コジ」でいつも問題になること、しばしば観る者、聴く者が躓く原因となるもの、このオペラを好きになるか嫌いになるか、必ずや人に踏絵を踏ませるもの、それはこの物語の荒唐無稽さ、あるいは不道徳性、人によってはそのあからさまな女性蔑視だろうか。だが、19世紀のワーグナーじゃあるまいし、現代人がこのお話について不道徳を云々するのはあまりにもナイーヴに過ぎると言わざるを得ない。その一方で、ダ・ポンテがこの台本を書いた1789年、もちろんそれはフランス革命の年、アンシャン・レジームの崩壊の年であるのだが、だからといってこのお話を政治的に読み解く、というのも無理があるように思われます。では我々はこの物語をどう受け止めればよいのか。
コジには6人の男女が登場します。二組の恋人達と、彼らを教え導く立場の哲学者、そして小間使い。男女3人づつ、幾何学的にソロから二重唱、三重唱、四重唱、五重唱、六重唱が散りばめられており、あるいは愛しあい、あるいは憎しみ合うテキストが周到に組み立てられている。試しに全31曲の歌い手を整理してみよう。
a0240098_17163142.png

多種多様なアンサンブルの連続する二つのフィナーレを一曲と数えるとやや雑駁になってしまうのだが、そこは目をつぶって、この対称と非対称の交錯する表を見ていると、いくつも興味深い事柄が判ります。もっとも面白いのは、偽の恋人達の二重唱(第23曲、第29曲)はあっても、本来の恋人達、つまりフェルランドとドラベッラ、グリエルモとフィオルディリージの二重唱がないこと。フィナーレの中においても、本来の恋人達は決して二重唱を歌わず、専ら男同士の二重唱と姉妹の二重唱が交替するのみ。また、男同士の三重唱はあっても、女の三重唱はない、つまり小間使いは決して姉妹達と一緒に歌わない、ということ(アンシャン・レジームの崩壊と関連付けるのが無理というのがこのことからも判ります)。フェルランドとグリエルモの二重唱(第7曲、第21曲)、姉妹の二重唱(第4曲、第20曲)は仲良く2曲ずつあるのに、ドン・アルフォンソとデスピーナの二重唱はない、というのも同様。ではデスピーナは疎外された存在かと言えばそうではなく、ドン・アルフォンソと共に恋人達を翻弄する立場にいる。
ダ・ポンテの台本を荒唐無稽と見る見方は、登場人物の感情が僅かな時間でマイナス(無関心あるいは憎しみ)からプラス(愛)へと振れるところが人間の感情としてあり得ないという点にあるが、これを馬鹿馬鹿しいと考えるのではなく、ある種の思考ゲームのために敢えて人間性を捨象したと考えたらどうなるだろうか。本来の恋人達の二重唱がないことが、これは通常の物語とは違うのだと表明してはいないだろうか。

この物語の構造を改めて考察すると、悪意ある権力者と淫蕩な小間使いに翻弄される犠牲者達という図式化が出来るのだが、これと奇妙な一致を見せる物語がある。ダ・ポンテがこの台本を書いた1789年に少し先だつ1785年、バスチーユの牢獄でマルキ・ド・サドが書いた『ソドム百二十日、あるいは淫蕩の学校』(ちなみにコジの正式名称は「女はみんなこうしたもの、あるいは恋人達の学校」)。4人の絶大な権力を持つ悪徳の権化のような男達、淫蕩極まりない4人の語り女と4人の召使女に8人の馬蔵、そして彼らのありとあらゆる想像の実践のための犠牲となる4人の貞淑な妻達、8人の少女と8人の少年が繰り広げる地獄絵図は、まさに人間性を捨象した思考ゲームであり、未完に終わったものの、もし完成していたならば権力者と召使と犠牲者の幾何学的組合せによる、ありとあらゆる性倒錯のリストが出来上がったはずだ。ここでは善意や美徳を極端なまでに排斥し、責め苛む者と手伝う者と犠牲者の男女さまざまな組合せそのものが興味の対象となっています。
コジの物語は私にはサドの簡略な、縮小版のように感じられるのだが、もちろんダ・ポンテがサドを知っていたというつもりはありません。そうではなくて、ミシェル・フーコーが『言葉と物』の中で分析していたように、同じエピステーメー(その時代の思考の枠組み)の中で同時代的、同時多発的に同じ構造をもつ精神的所産が生まれる、ということ。その意味で、ダ・ポンテの台本とサドの著作に奇妙な類似点があっても不思議でも何でもない。ダ・ポンテとモーツァルトは、そういった意味で実は革新的なオペラを書いていたと言えるのではないか。恋人達の二重唱のない恋愛劇。美徳の欠片もない権力者と小間使いの協働、犠牲者達の人間的感情の捨象。
私にとって今回の公演の演出が駄目だと思うのは、現代のキャンプ場という舞台の情報力の多さが抽象的な思考ゲームという物語の本質にそぐわないことが一つ。その点、オリジナルのロココ風の庭園のほうがよほど適しているだろう(アラン・レネの映画「去年マリエンバードで」みたいな舞台だったら尚良し)。それと、人間的感情を敢えて捨象しているのだとすれば、ドン・アルフォンソ以外の全員が怒り(人間的感情)を露わにして幕が閉じるのは容認できないことになります。モーツァルトの音楽が本来「許し」の音楽だからと言って、この演出(許しのない、殺伐とした終わり方)を非難する向きもあろうかと思うが、私はもうすこしひねくれているので、ここはオリジナルどおり、人間的感情としてありえない和解(結果として「許し」になるのだが)がやはり正しい結論だと思う。さらに、小間使いまで憤然とその場を立ち去るというのは、このオペラにおける彼女の役割と根本的に相容れないと思います。いずれにしろ、若者がすこしふしだらになるからキャンプ場、というのも、とても幼稚な読み換えに思われます。また、良くできたセットではあるが、どうも私には視覚的な美しさもあまり感じられませんでした(同じような設定の変更でありながら先日の「ナブッコ」の演出が私の気に入ったのは、つまるところ人工美の極致のようなセットの美しさの所為もあったのでしょう)。

演出についてはこれぐらいにして、音楽そのものについて。全体に一昨年の出演者たちよりも音楽的な満足度は高かったように思います。
歌手についてだが、まず感心したのがデスピーナの天羽明惠。最初、ミニスカ眼鏡っ娘(萌)みたいな格好で出てきて、これは人によってはキュンキュンしちゃうだろう(笑)。いや、そんなことはどうでもいいが、歌がとても上手い。私は以前「アラベラ」のフィアカミッリ役で彼女を聴いたことがあるが、その時よりもハマり役だと思いました。ちょっと小悪魔してました。
男声3人も一昨年より良い。特にフェルランドのパオロ・ファナーレの真面目さとグリエルモのドミニク・ケーニンガーの不真面目さのバランスがとても良いと思います。マウリツィオ・ムラーロ(ドン・アルフォンソ)のエロ親父みたいな歌い方はモーツァルト的ではないかもしれないが私はとても気に入りました。
フィオルディリージのミア・パーションは冒頭に「体調不良の申し出があったが出演します」云々という、意味不明なアナウンスがあって心配したが、不安気は感じられませんでした。第2幕の至難なロンドも素晴らしかった。ただ、テクニックはしっかりしているがやや精彩に欠けるように思われた点、やはり体調万全ではなかったのだろうか。ドラベッラのジェニファー・ホロウェイも悪くは無いが、姉妹の声がとてもよく似ていて、あまりキャラが立っていなかったことがちょっと困ったと思いました。アンサンブルが多いだけに、お堅いお姉さんと、色んな意味で色んなところがユルい妹が声だけでそれと判らないとどちらが歌ってるのか判りにくく、面白さも半減していまう。
イヴ・アベル指揮の東京フィルはとても良かったと思うが、先日のナブッコのような演奏を聴いてしまうと、生気にみちてはいるが、どこか安全運転のきらいがなくもないと思いました。もっと上を狙えるオーケストラのはずです。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-06-16 18:56 | 演奏会レビュー | Comments(2)
Commented by tomokovsky at 2013-06-22 23:17 x
さすが、猫又さんらしい深いコメントですね。ダ・ボンテはボーマルシェのフィガロをイタリア語のリブレットにしていますので、サド公爵はわかりませんが当然フランス文学は読んで革命前夜の気分は持っていたでしょうね。学校はモリエールの「女の学校」つながりじゃないでしょうか。新国立劇場のコジ、私も前回より楽しかったしいろんなことに気がつきました。恋しみの姉妹が喪服のような地味めドレスを着ているのだが、妹の方からきれい色のドレスに着替えていたのとか、今回やっとわかりました(苦笑)。
Commented by nekomatalistener at 2013-06-22 23:44
tomokovskyさんこんにちは。「××あるいは△△の学校」というのは常套的なタイトルと思ってましたが、確かにモリエールがその起源なのでしょうね。ラシーヌにしろモリエールにしろ、ヨーロッパのインテリなら当然知っていて当たり前なんでしょうが私は不案内でして、もっと勉強せんとあきませんわ(苦笑)。演出の、ドレスの色も、言われてみればなるほどですね。
<< ヴェルディ 「シチリア島の夕べ... 【ネタバレ注意】新国立劇場公演... >>