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ブリテン 「ビリー・バッド」 ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団

ハンドルネーム「ドリー」さんの村上春樹新作amazonレビューが面白過ぎると話題に。こういう文才のある毒舌家が書いた佐村河内守評を読んでみたいなぁ。




ブリテンの1951年に初演されたオペラ「ビリー・バッド」を聴いています。

  ブリテン「ビリー・バッド」Op.50(1951年オリジナル版)
  ビリー・バッド: トーマス・ハンプソン(Br)
  エドワード・フェアファックス・ヴィア: アンソニー・ロルフ・ジョンソン(T)
  ジョン・クラッガート: エリック・ハーフヴァーソン(Bs)
  レッドバーン: ラッセル・スミズ(Br)
  フリント: ギドン・ザックス(Br)
  ラトクリフ: サイモン・ワイルディング(Br)
  赤髭: マーティン・ヒル(T)
  ドナルド: クリストファー・マルトマン(Br)
  ダンスカー: リヒャルト・ヴァン・アラン(Bs)
  新米: アンドリュー・バーデン(T)
  新米の友人: ウィリアム・デイズリー(Br)
  スクウィーク(チュウチュウ): クリストファー・ジレット(T)
  マンチェスター少年合唱団
  ハレ合唱団・ノーザン・ヴォイシズ(キース・オーレル指揮)
  ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団
  1997年5月25~31日録音
  CD:WARNER CLASSICS2564 67266-0

昨年、新国立劇場で「ピーター・グライムズ」を観て以来、ブリテンの音楽がとても気になっています。思いあまって"BENJAMIN BRITTEN THE COLLECTOR'S EDITION"というEMIから出ているCD37枚組を買い、今年の初めから聴きはじめて今ようやく10枚ほど聴いたところ。管弦楽曲をあれこれ聴きましたがいずれもピンときません。物凄く良い部分もあるのだが、全体として聴くと私にはとても遠く、よくわからない音楽。なんとなく想像していた通りなのですが、やはりテキストのある音楽のほうが(私にとっては)より魅力的な作曲家、ということだろうか。
それとは別に、「ピーター・グライムズ」以外のオペラも聴きたいと思って買ったこのCD、これは本当に素晴らしい作品でした。Wikipediaでも出てこないオペラ故、すこしだけ粗筋を紹介しておきましょう。

英仏戦争最中の1797年、すなわちイギリス海軍兵による「スピットヘッドとノアの反乱」の起こった年のこと。日本人にはよく判らない背景だが、トラファルガーの海戦の8年前と言えばなんとなくわかるだろうか。イギリスの軍艦「不屈号”Indomitable”」は船乗りの不足を解消すべく、近くを航行していた商船「人権号”Rights-o’-Man”」から数名を強制徴用する。その中の一人、ビリー・バッドは性格も見た目もよく、すぐに皆に好かれるが、緊張したり逆上すると激しい吃りの発作を起こすことがあった。兵曹長クラッガートはそんなビリーに眼をつけ、憎しみを募らせる。ついに彼は艦長ヴィアに、ビリーが反乱を企てていると讒言する。ヴィアはビリーをキャビンに呼び、クラッガートも同席する中、直接ことの真偽を尋ねる。ビリーは発作を起こし、腕を振り上げたところ傍にいたクラッガートの眉間に命中、図らずも彼を撲殺してしまう。目の前で起こった殺人について、ビリーの人となりをよく知るヴィアは苦悩しながらも、軍紀を保つため、ビリーを絞首刑とする・・・

ハーマン・メルヴィルの原作と筋立てはほぼ一緒(『ビリー・バッド』岩波文庫、坂下昇訳)。物語としては短編向きのものだが、原作は長編といってもよい長さがある。生前、小説家としては全く認められなかったメルヴィルが、発表のあてもなく、死の直前まで思索を刻みつけるかのように書かれた原作は時として晦渋を極める筆致となる。

ところで、原作とオペラはほぼ同じお話ながら、ビリーの人物造形に看過できない変更が見られます。原作のビリーはこんな風に描かれている。
「彼は若かった。それに、体軀でこそ、いっぱしの大人に発育してはいたけれども、見栄えでは年齢よりもずっと若やいで見えた。それというのも、まだ残る、つぶらな顔は、思春期の面影がほのかにただようているせいで、自然のままの色艶の清らかさは女性的としかいいようがなかった。」
あるいはこんな描写。
「とりわけ、人目を惹いたのは、豊かに動く表情にも、ふとした身ごなしにも、運動のはしはしにも、なにかのはずみで現われるなにものかだった。そして、このなにものかこそ、彼の母なる女性が、愛と恵みの手によって、
ひときわ優れた恩寵を授けられて、この世に生を享けてきた人間なのではなかったかを窺わせるのだった。」
ビリーが童貞ではないことは、次の箇所から知られます。
「しかし、船乗りが『酒と女と唄』の宿の常連だというのなら、それでは、船乗りに悪徳はなかったか?もちろん、そうではない。だが、陸人種の悪徳が―とまあいわせてもらうならば―心情のネジケをおびているのに対して、船乗りの心には、それほどの度合いはなかったし、それすらも、淫欲に根差すというよりは、長いあいだの抑制ののちの、生命力の奔騰であるかに見えた。つまりは自然の法則に従った、素直な流露だったのだ。」
この「美少年」といってもよいビリーの造形に対し、ブリテンはバリトンの役を与えている。
以前「ピーター・グライムズ」について書いた際にも、最初に聴いたとき、ピーターがテノール役であることに違和感を覚え、ジョージ・クラブの原作を読んで、なぜピーター役がテノールで書かれねばならなかったのかについて考察しました。その時はバルストロード=去勢する父=バス、ピーター=怒れる息子=テノール、という構図が見て取れた訳ですが、「ビリー・バッド」において、原作の美少年がバリトンで書かれていることにはもちろん理由があるはずだ。
まず一つ目の仮説は、このオペラの主役はテノール役のヴィアその人であり、その半面ビリーは脇役としてバリトンとなったというもの。テノールは主人公の記号であるとするなら、ブリテンの盟友であり、生活上のパートナーでもあったテノール歌手のピアーズに主役を歌わせたいと作曲者が思うのも当然。ならばヴィアこそこの劇の主人公だという考えは成り立ちそうだが、もう少し別の観点から考えてみよう。
二つ目の仮説は、ビリーはキリストのメタファーであるというもの。原作は至るところに聖書の引用が散りばめられており、容易にビリーがキリストのメタファーであることが判る(絞首刑の判決を受けて、二つのカノン砲の間に縛り付けられたビリーは、まさに二人の囚人の間で磔刑となったイエスそのものだ)。ならば、クラッガートはキリストを裏切ったユダでもあろう。古今の受難曲を思い浮かべれば判るとおり、ヨーロッパの音楽的な伝統は、キリストをバス、もしくはバリトンが歌うというものであり、ならばこそビリーをバリトンとしたという訳。それならテノールのヴィアは福音書を歌うエヴァンゲリストとしての役割か。
しかし、もっともありうべき仮説は、ビリーの性的魅力を表現するため、バリトンの役をあてがったというものだろう。私としては一つ目の仮説も二つ目の仮説も在り得るとしたうえで、真実は性的に成熟した男の表象としてバリトンを採用したのではないかと思っています。ブリテンは原作のビリーのイメージを曲げてまで、彼をバリトンに歌わせたかったのだろうと思います。

ビリーはある種の男達の欲望をそそるのだが、中でもクラッガートという男の場合、その欲望はサディスティックな欲望と表裏一体であり、端的にビリーを殺したいという欲望に駆られている。しかし、男としてのビリーの美しさ、魅力をもっとも正しく理解しているのもクラッガートである。彼は原作でこのように書かれている。
「おそらくこの船上で、ビリー・バッドの内なるところに具現されていた道徳的特異現象を最も知的に理解する力があったのは、この武器係り兵曹長ただひとりだったのではあるまいか?」
あるいはもっと端的な、あからさまな描写。
「ビリーが黄昏の折半直の余暇のおり、上部砲列甲板をぶらつきながら、人ごみに混じった若い散歩者の誰かれに向かって、冗談の一斉射撃を換わしながら進んでいるときなぞ、クラッガートの人目をはばかる流眄(ながしめ)が、きりっと結んだ彼の腰帯あたりにピタリと停まると、この天性の陽気を輝かしている『日輪の子』をつけてゆくうちに、次第に物思いに沈んだ、憂鬱そうな表情に居直ってゆくことがある。」(この箇所は訳注においても「エロスの表白」と書かれている)
このクラッガートという男の人物造型はオペラのリブレットでも実に精緻に描かれているが、それもそのはず、台詞はE.M.フォースターとエリック・クロズィアの共同制作。フォースターといえば「眺めのいい部屋」や「モーリス」であまりにも有名な作家ですが、余談ながらコクトー、オーデン、フォースターといった大作家たちが競ってオペラのリブレットに手を染めたのが20世紀のオペラの特色といも言えるのではないでしょうか。
第2幕、ビリーを殺そうと決意する長いモノローグでクラッガートは次のように歌います。
O beauty, o handsomeness, goodness!
Would that I never encountered you!
(おお、美しく、男らしく、善良なビリー、
お前に出会わなければよかった)
クラッガートの性的対象としてのビリーにはやはりバリトンが相応しいという訳だ。

ではヴィアはどうだろうか。船乗り皆の敬愛の的。軍艦の艦長ともなれば父も同然、しかしオペラでは甲高い
テノールの役となっています。ヴィアは原作ではビリーの処刑後ほどなくして、敵艦の攻撃により落命するが、オペラでは生きながらえて老人としての姿を晒す。ヴィアはビリーを救うことが出来なかった。これが一生彼の負い目となるが、最後のエピローグではビリーによって許され、救われたと感じている。1797年という特異な年、ヴィアならずともビリーを救うことは難しかったろうとは思うが、ヴィアは本当に許されたのだろうか。作曲者のヴィアの造形は実に複雑。船乗りとしては知的である彼は、平穏な航海の折はプルタークなどを読んでいる。オペラのリブレットではヴィアがクラッガートを評してギリシャ神話のアルゴスみたいだというと、他の士官たちが「は?」と訊き返すところがある。これだけで船乗りにあるまじきインテリ、という人物が立ち現われる。原作でも、ヴィアはこのように描かれている。
「同じ階級にも、彼ほどの造詣はなく、まじめさにも劣る士官たちもいて、彼も仕事の必要上つき合っていたものだが、こうした人間のあいだでは、ヴィアという男は愉快な仲間になるための特性を欠いた、無味乾燥で、本臭い紳士だというのが評判だった。」
どうもブリテンの筆致はこのヴィアという男に対しては一筋縄ではいかない。
神経質な旋律を歌うハイテノールの人物は、どうみてもブリテンのシンパシーが注がれているとは思えない。
クラッガートの造形は原作もオペラも大差はないが、彼の造形が確かなので、この物語のテーマが男の嫉妬であること、また男の嫉妬の背後には紛うかたなき同性愛の存在が見られること、一目瞭然である。オペラの中でのクラッガートの扱いは大変おおきくて、「オテロ」のヤーゴのクレドにも匹敵する大アリアが与えられている。
ビリーとヴィアとクラッガート。ブリテンが本当に主人公としたかったのはこの3人のうち誰だろう。原作とは異なって、成熟した雄の性的魅力を無邪気に、無防備に振りまくバリトンのビリー。神経質なインテリで、最後までビリーによる許しを希うヴィア。ビリーを誰よりも愛し、それゆえ罠にはめて殺そうと目論むクラッガート。ブリテンというゲイの作曲家がクラッガードに素晴らしい悪のモノローグを書かざるを得なかったその心境を思うと、なんというか暗澹たる気分になってしまいます。

ブリテンの音楽は本当に優れたものですが、とくに第3幕の最後、死刑判決のあと、ビリーが拘禁されている小部屋にヴィアが入って行った後の音楽が天才的。このあと、ヴィアとビリーの間で如何なる会話が交わされたのか、オペラは何も伝えないが、音楽が雄弁に二人の心情を語ります。突き刺すような金管の咆哮に背筋も凍る思いがします。そして、ビリーの絞首ののち、船乗りたちの言葉にならない憤懣の合唱が、士官たちの合唱(”Down all hands!”やめろ、お前ら!)によって次第に力をなくしていく場面も素晴らしい。ブリテンという人は本当に合唱の扱いが巧いと思います。
それにしてもなんという救いのない音楽。最後のエピローグはヴィアに救いがもたらされたと考える向きもあろうかと思うが、先程も書いたとおり、どうも単純な救済の音楽をブリテンが書いたとは思えない。そうなると、「ピーター・グライムズ」同様、やりきれないほど救いのない音楽ということになる。

演奏に関して一言。ケント・ナガノの指揮が素晴らしい。歌手達もそれぞれ所を得た歌いぶりです。とくに主役級の3人の歌唱は素晴らしく、おおらかなビリー、神経質なヴィア、そして輝ける悪役のクラッガート、それぞれに相応しい歌唱です。
CDにはリブレットは添付されていませんが、ネットで入手することができました。ただ、この英語のリブレットはなかなか読解が難しい。難しい理由はいろいろありますが、まず海軍用語。例えば航海士が水兵を怒鳴りつけるこんな台詞。
Here is the spot, men! Look at the main deck!
Stains on the deck of seventy-four.
Get' em off, you idle brutes!
この”seventy-four”というのが”a type of two-decked sailing ship of the line nominally carrying 74 guns. ”という事がわからないと意味が通じない。
それに、pressとかimpressがいずれも「強制的に徴用する」という意味で使われているのも馴染みが薄い。さらには俗語、とくに罵倒語の類が頻出するが、これも辞書を引いても載ってなくて閉口。
それと、軍艦の中は艦長を頂点とするヒエラルキーが支配しているのだが、登場人物の上下関係がとても判りにくい。中尉と航海長とはどっちが上か、とか。おまけにmidshipmanという幹部候補生みたいなのが出てくるが、こいつが黄色い声のガキのくせにえらく威張っている。で、航海士らがこいつらにいやらしいおべっかを使う。そんなわけで、相当辞書をひかないと理解できませんが、こうして時間をかけてリブレットを読み込むのは作品の理解にとっては非常に良い側面もあって、なかなか得難い経験ではあります。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-05-13 00:46 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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