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ドニゼッティ 「愛の妙薬」 シモーネ指揮トリノ放送交響楽団

会社で嫌いなヤツがいて、そいつがプラスチックのことを「プラッチック」って言うのが癇に障る(関西のおばちゃんとかがプラッチック言う分にはちっとも気にならんのに)。




今月の新国立劇場「愛の妙薬」公演に先立って、随分久しぶりにこのオペラを聴いています。本当に文句なしに楽しく、しかも「これぞイタリアの歌」と言いたくなるような美しい旋律に満ち溢れた作品です。お話は他愛も無いものですが、女たらしの軍曹や詐欺師まがいの薬売りも含めて、本当の悪人が一人も登場せず、誰も傷つかずにハッピーエンドを迎えるこんなオペラもたまには良いものです。今聴いている音源は次の通り。

  アディーナ: カティア・リッチャレッリ
  ネモリーノ: ホセ・カレラス
  ベルコーレ: レオ・ヌッチ
  ドゥルカマーラ: ドメニコ・トリマルキ
  ジャンネッタ: スザンナ・リガッチ
  クラウディオ・シモーネ指揮トリノ放送交響楽団・合唱団
  1984年7月録音
  CD:DECCA480 4790

私がレコードで初めてドニゼッティを聴いたのはもう三十数年前、高校の頃に名盤の誉れ高いカラスとディ・ステファノの「ルチア」に接したのが初めてでした。最後の「狂乱の場」のみならず、第1幕のルチアのカバレッタ”Quando rapito in estasi”の天空を駆け昇り、駆け降りるようなカラスの歌に魅せられたのは言うまでもありませんが、その時私が魅了されていたのはあくまでもカラスの歌であって、ドニゼッティの音楽そのものであったかどうかは疑わしいと言わざるを得ません。カラスの演奏に限らず、その頃手に入るドニゼッティのオペラの録音といえば、プリマドンナの魅力を引き出すのが最大かつ唯一の目的であって、そのためには大幅なトラディショナル・カットや、オリジナルの旋律の原型をとどめないほどのヴァリアンテの附加や移調が当たり前、ドニゼッティの音楽というのは歌手の芸を盛り付ける器以上でも以下でもない扱いを受けていた、という事実に気がついたのはもう少し後、社会人になった昭和の終りごろ、珍しいオペラの輸入版CDが容易に入手できるようになってから、たまたま買った「ヴェルジィのジェンマ」を聴いた時でした。それは私にとっては小さな衝撃とも言うべきもので、そこで改めてドニゼッティの音楽そのものの力強さというものを発見し、それから「ポリウート」「ロベルト・デヴェリュー」「マリア・ストゥアルダ」といったセリアの数々を聴き、ようやくドニゼッティという巨人の全体像がほんの少し判ったような気になったものです。日本の音楽愛好家の中では、どうも軽量級の作曲家と捉えられている向きも多いようだが(そこにはかの吉田秀和氏の偏見に満ちた言説の悪しき影響もあるのだろう)、私はヴェルディ・プッチーニ・ロッシーニ・ベッリーニと並んで、イタリア・オペラを代表する5人の天才の一人であると思っております。

話を表題の録音に戻しましょう。このCD、数ある「妙薬」の中では決して目立つものではないと思いますが、音楽にこびりついた様々な手垢を洗い落とすという意味ではとても意義のある録音だと思います。シモーネの指揮は、ことさら策を弄さず、ドニゼッティの書いた音符をありのままに音にしたという感じが大変好ましい。但し、リコルディ社のヴォーカル・スコアを見ながら聴いていると、第1幕は繰り返しも全て行なっておりほぼカットなしなのに対して、第2幕になると幾つかカバレッタのコーダがほんの少しカットされていたり、「人知れぬ涙」に続くレチタティーヴォ・セッコの一部がカットされている。やや冗長なのは判るが、聴衆が退屈しないように配慮する必要のあるライブと異なって、資料としての意味を持つCD録音でこのようなカットが必要とは思えませんが、モーツァルトのオペラ録音ですらトラディショナル・カットが当然のように行われていることに比べれば、この程度のカットで済んでいることは喜ぶべきことかも知れません。また、歌い手の恣意的なヴァリアンテもほとんど行なっておらず、あくまでもオーセンティックな演奏を狙ったことが明白です。正確に言えば、ネモリーノが兵役志願する場面後半のカバレッタ、”Qua la mano, giovinotto”のコーダでカレラスが原譜にはないお約束のハイCを歌っているのと、「人知れぬ涙」のカデンツァにほんの少し控えめな加音をしているくらいなものだと思います。ベルカント・オペラで歌手にヴァリアンテを許さない、といえばムーティを思い出す訳だが、ムーティがその分指揮者としての個性を強烈に発揮するのに対してシモーネのほうは良くも悪くも中庸を得た指揮。ただし、この「妙薬」の音楽には、それはそれで相応しいといった感じがします。ほんの少し出てくるレチタティーヴォ・セッコの伴奏には古雅な音色のフォルテピアノが使われており、これもたいへん結構。それはさておき、こうして現れた「妙薬」を聴くと、改めてドニゼッティの音楽が如何に優れたものか、よく判ります。

このオーセンティックなアプローチは、歌手の選定にも現れていて、カレラスのネモリーノを聴いていると、そんなに頭が悪くなさそうな、ごく普通の青年に聞こえるのが面白い。ネモリーノといえば第2幕のロマンツァ「人知れぬ涙」”Una furtiva lacrima”が有名だが、本当にこれはイタリアオペラ屈指の名旋律でしょうね。こういった旋律を一つの様式美にまで高めたドニゼッティとベッリーニの影に、どれほどの名も無い作曲家たちがいたか知りませんが、この様式は20世紀のニーノ・ロータやエンニオ・モリコーネの映画音楽にまでまっすぐ続いているのでしょう。カレラスのあざとさの無い端正な歌い方はとても好ましいと思いますが、むしろ彼には第1幕冒頭の雲ひとつ無い青空のようにのびやかな”Quanto è bella, quanto è cara!”のほうがより適しているようにも思います。
リッチャレッリのアディーナは多少好き嫌いが分かれるところかも知れません。私がリッチャレッリの声をどんなに愛しているかは、以前コリン・デイヴィス指揮の「ラ・ボエーム」を取り上げた際に書いたことがありますが、その少し憂いを帯びたほの暗い声質がアディーナに合っているかは確かに微妙なところではあります。が、アディーナは農村の村娘たちとは一線を画した存在であり、ろくに字も読めない登場人物のなかにあって、「トリスターノとイゾッタ(トリスタンとイゾルデ)の物語」を皆に読んで聞かせるという、ある意味周りから浮いたお嬢様の役柄。コケットよりアンニュイを感じさせる違和感は認めつつ、これはこれで「あり」だと思う。リッチャレッリの声質を未だにリリコ・スピントだと言う人たちがいるのは私には不思議で、彼女こそ真正リリコというべきだと思います。その分、ベルカント・オペラに必要なアジリタは苦手そう。ロッシーニなどを聴くとたとえ録音であっても、いつもちゃんと歌えるかハラハラしてしまうのですが、アディーナもご多聞にもれず、けっこう至難なフィオリトゥーラを歌わなければならない。たとえば第1幕の”Della crudele Isotta”のコーダ(譜例)。
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「あばたもえくぼ」か、と言われるのを承知で言えば、リッチャレッリのいかにも頼りなさそうな、音程もわずかに揺れるこの箇所は、実はとても素敵な聴きどころの一つ。わずかにネジがゆるんだようなところのあるアディーナという役柄には、あまり完璧なコロラトゥーラ歌手は却って合わないかも、と思ってしまうのはリッチャレッリの贔屓の引き倒しでしょう。しかし、アディーナの最後のアリア”Prendi; per me sei libero”はこの役の最大の聴かせどころなのに、ここ一番というところで音があがりきらずとても残念(譜例の高いC)。
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花の命は短くてとは云うものの、もうこの録音の頃はかなり衰えが出てきているのだろうか。その後のコーダのフィオリトゥーラは意外とよく歌えているので本当に残念。
ヌッチのベルコーレ、一昔前のロッシーニやベルカントもののバリトン役を一手に引き受けていた感のあるヌッチですが、今ならこういった役柄はより精密に歌われるべきものでしょう。次のような箇所を誤魔化して歌っているのがどうしても私には許しがたいものに思えます(譜例)。
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ドゥルカマーロのトリマルキは歌手陣の中ではもっともトラディショナルなブッファの歌い方。さすがにシモーネも彼には楽譜通り歌え、とは言わなかった模様(笑)。たしかにこの歌を楽譜通りうたっても面白くもなんとも無いと思います。

話は戻りますが、「妙薬」におけるドニゼッティの音楽の魅力の本質とはなんだろうか。まず一つ目は、もちろん流麗極まりない旋律の魅力。まぁ確かにどのひとふしを取っても、安直といえば安直、脳天気な旋律とステロタイプな伴奏、こまかい工夫はいろいろあれど、基本的には因習そのものの形式。劇場の都合でわずか2週間でこのオペラを作曲したという逸話も、さもありなんと思う。だが、この悲しみも喜びも南欧の日差しのようにくっきりとして、抜けるような青空を思わせる歌の魅力をどう言葉にしたらよいのか。
二つ目は、意外に言及されないことだと思うが、ドニゼッティの音楽というのは単に流麗であるだけでなく、アリアの後半で時にヴェルディを先取りしているかのような白熱のカバレッタが現われること。それは特にセリアで顕著なのだが、この喜劇においても、例えば第1幕ベルコーレ登場のアリアの後半、”Più tempo, oh Dio, non perdere: ”はアディーナやネモリーノ、合唱も入って白熱のカバレッタとなる。この血沸き肉躍るカバレッタがあってこそ、と思います。他にも、悦びが湧きたつネモリーノとドゥルカマーラの二重唱”Obbligato, ah! sì, obbligato! ”、酔っぱらったネモリーノとアディーナの二重唱の後半、”Esulti pur la barbara ”、第2幕アディーナとドゥルカマーラの二重唱の後半”Una tenera occhiatina”も燃えるようなカバレッタ。
三つめの要素は、壮大なコンチェルタート様式によるアンサンブルの素晴らしさ。この種の作品ではルチアの六重唱が何と言っても有名だが、この「妙薬」にも素晴らしいアンサンブルが出てくる。この作品で一番の聴きどころは実はこの第1幕終盤のアンサンブル。登場人物たちの四重唱がヘ短調、Larghettoになってから”Adina, credimi, te ne scongiuro”の部分、独立して歌える体裁を取っていないのであまり注目されないが本当に天才が溢れていると思う。ひとしきりカルテットが歌われた後、合唱も入って壮大なコンチェルタートとなる。粗製乱造、などという先入観を捨てて虚心坦懐に聴いてみてほしい。
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以上、ドニゼッティの音楽の魅力の源泉を分析してみましたが、それを更に圧縮して言うならば「享楽」と言えるような気がします。すべての音楽ではないにせよ、ある種の音楽の本質と隣り合わせの「享楽」が、これほどシンプルな形をとって現れていることに、大げさでなく感動を覚えます。そして、ある種の音楽愛好家がドニゼッティを蔑ろにしがちであることの理由もそのあたりにあることは容易に想像がつきますが、逆に私には享楽と無縁な音楽というものが想像もつかない。新国立劇場の公演が楽しみですが、享楽といえるほどの愉楽に満ちた世界というものは(昨年の「セビリア」公演でも感じたことだが)生半可なレベルの演奏からは決して得られないものであるので、ちょっと不安も感じるところだ。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2013-02-03 00:56 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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