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新国立劇場公演 ブリテン「ピーター・グライムズ」

そんなに若くもない子に「あの人のやり方は権柄尽くやからね」と言ってみたが案の定通じない。やっぱり死語でした。




新国立劇場がまたしても、とてつもなく素晴らしい舞台を見せてくれました。人間の疎外というテーマを扱って、恐らくベルクの「ヴォツェック」、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」と並んで、最も20世紀的なオペラだろうと思います。この僅か3年ほどの間にこれらの3つのオペラを高品質な舞台で観ることができたのは何と言う幸運だろうか、と思います。実は私が観た14日の公演は最終日。これが最終日ではなくて、まだ残りの公演の残席があればもう一度観ただろうと思う。それが出来なかったことが悔しく思われる程、今回の舞台に関しては音楽・演出とも言うことがない。


  2012年10月14日
    ピーター・グライムズ:スチュアート・スケルトン
    エレン・オーフォード:スーザン・グリットン
    バルストロード:ジョナサン・サマーズ
    アーンティ:キャサリン・ウィン=ロジャース
    姪1:鵜木絵里
    姪2:平井香織
    ボブ・ボウルズ:糸賀修平
    スワロー:久保和範
    セドリー夫人:加納悦子
    ホレース・アダムス:望月哲也
    ネッド・キーン:吉川健一
    ホブソン:大澤建
    指揮:リチャード・アームストロング
    演出:ウィリー・デッカー
    合唱指揮:三澤洋史
    合唱:新国立劇場合唱団
    管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

歌手の中ではタイトル・ロールを歌ったスチュアート・スケルトンがずば抜けていました。野卑な顔立ちに羆のような巨漢、まるでこの役を演じるために生れてきたみたいだ。この声は些か荒削りで、正直なところ最終日ということもあってか、ちょっと疲れが感じられたが、通常ならば瑕と感じられる声の乱れさえ役柄によく合っている。まるで粗い麻布の手触りのよう。ウィリー・デッカーの演出は第2幕第2場、ピーターが少年を虐待する場で、最初は恐怖に逃げ回っていた少年が次第にピーターに懐き、しまいには彼にまつわりつくという設定で、ピーターの異常な性格を和らげ、物語を罪なき者が共同体から疎外される悲劇へと単純化している。以前の投稿(2012.9.23.)でも書いた通り、このオペラからペデラスティの要素を取り除くのは、あまりに物語を皮相的に見過ぎることになりかねないと思うが、スケルトンの歌を聴いていると案外これでいいのかも、と思います。単純で粗野な人間がふとした偶然から、徹底的に人々から排斥されるようになる恐ろしさ、そこに照準を合わせるために敢えてピーターの性格の異常さを抑えたということなら、この演出の狙いは十分成功していたというべきだと思う。もしピーター役がもう少し神経質で性格的な側面を強調するタイプの歌手であれば、ここまでの歌手と演出の一体感というのは感じられなかったかもしれない。また、物語の単純化に物足りない思いをしたかもしれない。そういう意味で、今回の公演を成功に導いたのは一にも二にもスケルトンの声とその体躯から滲み出る人柄、ということになるだろう。
ピーター役が凄過ぎて他の歌手は少し割を食った感じですが、エレンを歌ったスーザン・グリットンはなかなか素晴らしい歌手だと思いました。落ち着きがあって暖かい声に、ふと往年の名花ヘザー・ハーパーを思いだしたほど。刺繍の歌に思わず涙がこぼれそうになりました。
バルストロードを歌うジョナサン・サマーズは悪くはないが声量が少し物足りない。これも前の投稿に書いたとおり、このバルストロードという役はジョージ・クラブの原詩の父親が投影されているのだから、やりようによってはピーターを抑圧するもの、ピーターにとって「去勢する父」となりうる役柄ですが、この歌手では(良くも悪くも)そこまでの連想は湧かない。あと脇役の中ではネッドやボブ、スワロー、ホブソンら男性陣は可も無く不可も無く、対するにアーンティ、ミセス・セドリー、2人の姪はいずれも優れた出来で、第2幕第1場の女ばかりの四重唱は素晴らしかった。この2人の姪はCDで音だけ聴いていると、どういう役柄なのかイメージが湧かなくて困るのだが、今回の演出のような蓮っ葉で、下層階級故村人からバカにされる役というのはああなるほど、と目を開かれる思いがします。
今回の公演が成功したもう一つの要因は合唱の素晴らしさ。この合唱団が凄いのはいつものことだが、今回ほどその威力を見せつけたこともないのではないか。第3幕第1場終わりの凄まじい合唱、ピーターを追い詰め、エレンを絶望の淵に追いやる村人の悪意には本当に身の毛がよだつ思いがします。合唱の動かし方はやや整然としすぎている感じもして好き嫌いが分かれるところだと思う。私はもうすこし無秩序感があったほうが良いと思ったが、今回の演出の眼目は先程も書いたとおり、ピーターを徹底的に疎外し、苛め抜く群衆という構図に重きを置いていて、エレンやバルストロードですら一歩間違えばこの群衆の敵意の的になってしまうところが何とも恐ろしいと思わせる。そういう意味では、この非人間的ともいえる群衆の動かし方はそれなりに筋が通っていると言えます。
舞台の装置は斜めに傾いだ舞台に、教会やパブを表す二枚の巨大な壁、それに必要最小限の机や椅子といった小道具。高度に抽象化されているが、よそよそしさはなく、悲劇が心に沁み入る邪魔立てをしない。素晴らしい舞台だと思います。舞台も衣裳も黒を基調にしているが、第3幕第1場のダンスパーティーの場面のみ、娼婦らと思しき女達が真っ赤なドレスを着て猥雑さを振りまく。思うにピーターの粗暴さと異常な性癖は、この演出ではピーターをとりまく群衆のいかがわしさに転換されているようだ。本当のところは、ピーターの悲しみの背後にはブリテンその人の性的マイノリティ故の悲しみが横たわっていて、その両者を繋ぐものとしてピーターのペデラスティ(それは決して単純な同情に値するものではなくて、むしろ忌まわしく目を背けるべきものとして描かれる)があったはずだが、今回の演出は良くも悪くもその忌まわしさはピーターから群衆のほうにシフトされていて、偶々人々の敵意の対象となったピーターとエレンの悲劇に収斂され、単純化されている。しかし繰り返しになるが、それが物足りなさにつながるのではなく、スケルトンという稀有な歌手の存在によって、本当に心を揺さぶられる悲劇に昇華していたように思う。おそらくこのオペラに馴染みのない聴衆からすれば、まるで昨今のイジメ問題にも低通するような今回の演出は初めて接するには良かったのだと思う。しかし、もしピーターが劇中で徹底的に少年を虐めぬいたとしたら?第2幕第1場で(ト書きに忠実に)もしピーターがエレンを平手打ちにしていたとしたら?観客の印象はかなり変わったはずだ。今回のピーターの悲しみに私自身も深く同情し、感動したけれど、それだけがこのオペラの十全な姿ではないことを知っているのと知らないのとでは大違いだろう。だからこそ、そんなにしょっちゅう取り上げられる演目ではないが、何時の日か、異なった演出でもう一度見てみたいと強く思わずにはいられない。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-10-17 00:22 | 演奏会レビュー
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