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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956(その6)

以前いた職場で、若い子数人連れて京都のすっぽんの老舗「大市」に行った時のこと。若い男子がすっぽんのえんぺら(甲羅のまわりの黒いとこ)食いながら「美味いっすねーこれ。ナスですか?」とのたまった。ニ度と連れてくるか(怒)と思いました。




久しぶりに19世紀の音楽を聴く(笑)。CD10枚目、ブラームスとシューマンの傑作を収めたものを聴いていきます。

 
 CD10
 ブラームス
   ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp.24 [1955年10月あるいは11月録音]
   3つの間奏曲Op.117 [1955.12.5.録音]
 シューマン
   クライスレリアーナOp.16 [1951年11月以前の録音]
   3つのロマンスOp.28 [1952年12月録音]

順不同で「クライスレリアーナ」から。私も含めて、シューマンの最高傑作は「クレイスレリアーナ」であると信じて疑わない人は大勢おられると思います。およそ19世紀に書かれたピアノ曲で、これほど「ロマン派」と呼ぶに相応しい作品もないのではないでしょうか。言葉にしてしまうと皮相的になってしまうが、ここには「苦悩」とか「憧憬」とか、それより何より個人的な恋愛に纏わる感情の全てが音になって盛り込まれている。しかしシューマンが凡百の同時代のマイナーな作曲家達と違ったのは、その極私的世界を突き詰めた果てに、物凄い回り道をして普遍的なるものにまで至った点だろうと思います。では前者と後者を隔てるものは何か、と問われれば、これは大変難しい問題だと言えます。これは例えば「自己愛の強い人間」と「自己信頼性の高い人間」の違いは何か、という問いにも似て、両者とも基本的に自己に向かうエロスの力を拠り所にしていながらその現われ方が微妙に異なる。そこに働いている力の一つは論理というものだろうと思います。つまりシューマンの音楽は、極私的でありながらも極めて論理的である、と言うには更に数百語数千語を費やさねばならないのだが、それはまぁ追々書く機会もあるでしょう。
ところで以前シューマンの「ノヴェレッテン」について書きましたが、「クラスレリアーナ」と並べてみるとまさに同じもののポジとネガのように見えてくることに気が附きました。同じ8曲構成で、前者は前にも書いたとおりへ長調-二長調-二長調-二長調-二長調-イ長調-ホ長調-嬰ヘ短調という(第1曲を除いて)基本的にシャープ系の調性配列、その音楽の特質は全能感と殆ど狂騒と見紛うばかりの多幸感でした。それに対して「クレイスレリアーナ」はニ短調-変ロ長調-ト短調-変ロ長調-ト短調-変ロ長調-ハ短調-二短調、という徹底的にフラット系の配列。そこにあるのは激情と憂鬱の交替。この出来の悪いポジ(ノヴェレッテン)と出来の良いネガ(クライスレリアーナ)を重ね合わせるとシューマンの本質がより明確になると思います。また両者ともファンタジーの飛翔を形式の頸木で押さえつけようとする傾向が強いのですが、前者が(特に第8曲において)目を覆いたくなるほどの破綻を来しているのに対し、後者はより単純な構造を採っているという対比も面白い(但し第7曲目のコーダだけは異質で、それがシューマンらしいとも言える)。
さてこの「クライスレリアーナ」の演奏ということになると、これはもうホロヴィッツの名演を超えるものは無いのではないかと思います。それは上手いとか下手といったレベルを遥かに超えて、シューマンの狂気にまで肉薄する演奏となると、これ以上のものは想像もつかないといったレベルでの話。それと比べると、ナットの演奏は悪くは無いのだが何とも物足りない。ナットのシューマン演奏について今迄「剛直」とか「構築的」といった言葉を使ってきて、今回のクライスレリアーナにしても微温的なものが微塵もないのはとても好ましいのだが、いつにもまして小さな瑕が目について耳が素直に入っていかない。いや、瑕というのもどうかと思うが、例えば第8曲中間部、ナットは恐らくパデレフスキー版の明らかに誤りと思われる箇所をそのままGで弾いている(譜例1の3小節目左手の低音)。
(譜例1)
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ここは当然譜例2のようにBでなければならない箇所だが、弾いていて気にならないのだろうか?
(譜例2 ブライトコップ・ウント・ヘルテル社のクララ・シューマン校訂版)
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あるいは第2曲のインテルメッツォⅡの後の箇所、譜例3の1小節目の右手のAに附けられたナチュラル。ここは初版もナチュラルになっていて多少の議論があるかも知れませんが、おそらく草稿のフラットの読み間違いで、ブライトコップの最近の版はもちろんフラット(As)になっています。ここをナットはAsではなくAで弾いていてちょっと耳に引っ掛かります(最近のブライトコップ版はなぜかコピーガードされていたので譜例は載せられませんでした)。
(譜例3 パデレフスキー版)
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もうひとつ。第8曲目の譜例4の2小節目と3小節目をまたいで左手のGに附けられているタイをなぜかナットは無視して3小節目のGを叩きなおしているが実にオマヌケ。前後の脈絡から言ってもありえない箇所だが、大げさに言えばこういった些細なことで奏者の論理性を疑ってしまうのです。
(譜例4 パデレフスキー版)
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しつこいようだがもう一か所。第1曲目中間部、譜例5の2段目1小節目の左手Asと3段目1小節目の左手Gesにアクセントが附いていて、これは実に意義深いアクセントなのだがナットは全く無視。薄いテクスチュアから対位旋律が浮かび上がってくる素晴らしい仕掛けなのに、この無頓着ぶりをどう考えたらいいのか。
(譜例5 ブライトコップ版)
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繰り返しの有無についてはやや恣意的。それはいいとしても第7曲のフガート前半の繰り返しをしないのはちょっと困る。やはりこのあたりも重箱の隅をつつくつもりはないが論理性の欠如のようなものを感じてしかたがない。それに、これはナットの所為ではないが、マスターテープの保存が悪かったようで所々聞き苦しいところがある。第2曲や第6曲の終わりがブチッと切れるのはもう許し難い。
まぁこんな類のことは可愛い子の鼻毛みたいなもんで、気にしなければいいのに、という声もあろうかと思うが、鼻毛を見ても可愛いと思えるか、見た瞬間に百年の恋も醒めるか、の違いは大きい(笑)。なぜナットの鼻毛は許せないのか、ま、そこまで分析して書くつもりはないけど・・・。

あとは簡単に。ブラームスの「ヘンデル・ヴァリエーション」、ブラームス作品の中でも傑作だと思います。「パガニーニ・ヴァリエーション」ほどの難技巧ではないにしても、恐るべき難所が至る所にあって、しかもその克服は並大抵でないのにそれが(良い演奏であればあるほど)聴き手には難所と映らなくて、努力が報われないこと甚だしい。そこがまたピアノ弾きには燃える(萌える)ところなんだが。
ナットの演奏は実に立派で、聴いていて熱い感動を禁じえない。ブラームスとの相性の良さはあまり世間で喧伝されていないのではなかろうか。出来ることならピアノ協奏曲なんかも録音しておいてほしかったものです。

「間奏曲」はブラームス晩年の傑作。私、先日とうとう50の大台に乗ってしまったのだが、こういう作品を聴いていると歳をとるのも悪くないと思います。若い時には味わえない良さというものが確かにある。第3曲目は昔は私、良く分からなかった曲なのですが、最初から最後までアウフタクト附き5小節でワン・フレーズという書法が、まさに後悔の多い人生を振り返ってうじうじと思い悩む初老の男に相応しいではないか。まどろむような中間部までこの5小節構造が支配していて、これがブラームスの構築力、論理の力なのだと思う。
ナットの演奏は言うことなし。秋の夜長の愛惜措くあたわざる名演だと思う。

「3つのロマンス」は、シューマンの初期作品の中では目立たないし傑作だとも思わないけれど、なかなか捨てがたい魅力があるのも確か。「クライスレリアーナ」や「フモレスケ」のような作品を目指しながらも最終的にそこまでファンタジーが膨らまず、さりとて捨てるには惜しい、といった断片がこのような曲集になったのだろうか。特に第3曲は「ノヴェレッテン」との共通点が多く、おそらく平行して書かれながら選に漏れた断片だろうと思います。
ナットは剛直なばかりでなくて、こういった小品をいつくしむように弾いているのが実に好ましいと思います。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-10-13 23:32 | CD・DVD試聴記 | Comments(3)
Commented by schumania at 2012-10-15 12:19 x
いつもながらの興味深い考察、今回は、私が偏愛するクライスレリアーナについてなので特に興味深く拝読しました。ノヴェレッテとの対比とは私には思いもつかない着想です。
とことろで、決してすっぽんのえんぺらをナスと間違ったりしませんから、大市へ連れてって下さい。
Commented by nekomatalistener at 2012-10-16 19:41
シューマンについて書くのは実は少し怖いのですよ。なかなかうるさい諸兄が読者にいると思うとうかつなことは書けませんからね。大市・・・やはりそこに食いついてきましたね(笑)。どうぞポケットマネーで行ってくださいね。
Commented by schumania at 2012-10-16 20:58 x
> どうぞポケットマネーで行ってくださいね。
え〜、つまらないの。
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