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ブリテン 「ピーター・グライムズ」 作曲者指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団(その2)

もう今の若い子、ヘルタースケルターときいてビートルズを真っ先に思い浮かべるってなこともないのだろう。でもビートルズのヘルタースケルター、今聴いても衝撃的なくらいかっこいい。





ブリテンの音楽そっちのけで、もう少し脱線めいた話を・・・。「ピーター・グライムズ」のリブレットを読んでいて、今一つ実態の判らない言葉が頻出します。一つはapprentice、もうひとつはworkhouseという言葉。前者は「徒弟」、後者は辞書を引くと「貧民用の収容作業施設」と書いてあるが、リブレットを見る限りいわゆる孤児院のようなものか、と思われます。ピーターはこのworkhouseからapprenticeを買ってきて、自分の仕事を手伝わせているという訳です。ピーターの身を案じる心優しい寡婦エレンは、自ら新しい徒弟をピーターの為に調達しますが、村人の反応はこれから重労働に就く少年への同情ではなく、エレンが嫌われ者のピーターに過度の同情を寄せるあまり自らの評判を落とすことに対する懸念と思われます。大勢いる脇役で、ボブ・ボールズという男だけが、
Is this a Christian country?
Are pauper children so enslaved
That their bodies go for cash?
と、この人身売買めいた行いを非難しますが、ボールズ自身は”Methody wastre”(メソジストの屑)と呼ばれており、決して人々の共感を得ていません。
ご存じの方も多いと思いますが、18世紀の終わりから19世紀の初め、まさにピーター・グライムズの時代にイギリスで起こった産業革命において顕著なことは「児童労働」の存在でしょう。19世紀初頭の熟練成人労働者の平均賃金は20~25シリングであったのに対して、紡績工場の糸つなぎ工や清掃工に携わる児童労働者のそれは平均3シリングであり、これが工場労働者の実に4割を占めていたといいます。しかも彼らの相当部分は工場の正規雇用ではなくて、職工の私的な雇用、まさに徒弟として劣悪な労働条件に甘んじており、その職種は工場だけでなく炭坑作業にまで及んでいたそうです。彼らの労働実態は悲惨極まるものだったようですが、ある意味増大する貧困層の子女を社会の経済サイクルに取り込む上で、当時としては必要不可欠なものだったのでしょう。
この産業革命に遡ること一世紀、あの「ガリヴァー旅行記」のジョナサン・スウィフトが1729年に著した著作に『貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』(邦訳岩波文庫『奴婢訓』所収、深町弘三訳)というのがあり、スウィフトはその中で当時アイルランドで深刻な社会問題となっていた貧民児童の出生数を毎年12万人と試算し、その内2万は繁殖用に残しておいて、残り10万を食用として富裕層に提供するという提案を行なっている(皮肉なのか大真面目なのか判らないが)。食用としては満1歳頃が最も美味であるとして、それまでに母親が要する養育費に始まり、その調理法まで微に入り細に入り書き連ねています。1世紀後のイギリスの貧民問題は、産業革命のせいでアイルランドの比ではなかったと思いますが、児童労働はこのスウィフトの提案を多少なりとも人道的に緩和した上で、この問題を解決しようとしたものだとも言えそうです。オペラの舞台となる地方都市オールドバラで、この貧民問題がどれほど苛烈なものだったのかは判りませんでしたが、このオペラを聴いて感じる一種の違和感、少年に対する人々のシンパシーの薄さについて少し考えてみたという次第。

さていよいよブリテンの「ピーター・グライムズ」の音楽語法について感じたことを記しておこう。因みにこれまでブリテンを真剣に聴いた記憶はあまりありません。テレビで観た「戦争レクイエム」(随分前にF=ディースカウとユリア・ヴァラディが出演していたもの)と、あとは中学だか高校だかで聞かされた「青少年のための管弦楽入門」、知人のアマチュア・オケの演奏会で聴いた「シンプル・シンフォニー」くらいなものです。そのどれもが既に忘却の彼方に消えています。とてもじゃないが、ブリテンの音楽語法云々と大上段に構えて御託を並べる資格はないことをお断りしておきます。

①節約された、または禁欲的な管弦楽法
歌手が歌うところはとにかくオーケストラが薄く書かれているようだ。これは一つは英語が客席にきちんと届くように、という配慮でしょう。イタリアやドイツの、大音響をバックに太ったプリマドンナが吼えまくるタイプの音楽とは全く異なった世界という感じがしますが、それだけではない。通常ならばここぞとばかりにオーケストラを鳴らし、観客の感動を煽るべきところで、オケが完全に沈黙してしまう。例えばプロローグ後半、ピーターとエレンの二重唱。あるいは第3幕第2場、ピーターのモノローグからバルストロードによる自殺の勧告に至る長い場面。特に後者の最後、
Balstrode (goes up to Peter and speaks)
Come on, I’ll help you with the boat.
Ellen
No!
Balstrode (speaking)
Sail out till you lose sight of land, then sink the boat.
D’you hear? Sink her.
Goodbye Peter.
の部分は歌うことすら止めて話すだけ。芝居のクライマックスなのに。こんなオペラ、ちょっと他に思いつきません。これは作曲者の含羞と野心の綯い交ぜになった心理だろうか。よりによってこんなところでお涙頂戴の音楽を書きたくないという気持ちと、それでいて観客を最大限に感動させようという野心。ともかく後者は大成功していて、CDで聴いていても恐ろしさに身も凍り、緊張が極限にまで高まった後に、おずおずとオーケストラが海辺の夜明の音楽を鳴らし出すと深い感動に襲われます。天才的、と言っていいのかどうか判りませんが、とにかくえらいものを聴いてしまった、と率直に思います。

②雄弁極まりない間奏曲
ブリテンのオーケストラ書法の確かさは6曲ある間奏曲で遺憾なく発揮されます。そのいずれも極めて優れた音楽ですが、そこに濃厚に漂う海の気配が本当に素晴らしいと思います。特段描写的という訳でもないのに、潮騒や風の音、光の濃淡まで感じさせる。オーケストラによる海の気配の表現というと、いつも私はヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」第1幕のアメーリアのアリア、あるいはベルリオーズの「トロイの人々」のディドーとエネアスの二重唱を思い出すのですが、この間奏曲は二人の天才の作品の系列に附け加えてもいいと思います。

③ピーターとエレンの歌の抒情性
オペラは基本的にアリアやレチタティーヴォといった区分なく進行し、このオペラがベルクの「ヴォツェック」に深くインスパイアされたという事情を物語っています(その意味で、ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」とも近い位置に立っています)。しかし、主役の二人については、まるでプッチーニのオペラのように、独立させて歌える体裁をとった歌が随所に散りばめられています。それはいずれも抒情性の勝ったもので、アリアというよりはSongと呼ぶに相応しいものです。例えば第1幕第1場のエレンの歌うLet her among you without fault(あなた方の中で罪のない者だけが)や、第2場でピーターの歌うNow the great Bear and Pleiades(おおぐま座とプレアデスが)、第2幕第1場のエレンのGlitter of waves(波のきらめきは)、同第2場のピーターのIn dreams I’ve built myself some kindlier home(夢のなかで俺は家を建てた)、第3幕エレンEmbroidery in childhood was(子供のころ刺繍は)等々、メロディーメーカーとしての類まれな才能を示して余りあるものがあります。別にブリテンがイギリス人だから、というのでなく、(歌詞が英語だからというのはあるが)、アンドリュー・ロイド・ウェッバーに真っすぐ通じているような、そういった才能を感じます。

ここでちょっと脱線。エレンの歌の、
Let her among you without fault
Cast the first stone
という台詞はもちろんヨハネの福音書第8章の引用で、自分をキリストになぞらえている訳ですが、彼女がいかに心のきれいな女性であろうとも、ピーターを男として愛するのではなく、キリスト教徒としての憐れみから愛そうとしたことが最初の大きな躓きであったように思います。皮肉にもピーターは、バルストロードから金や財産など無くてもエレンはお前を受け入れるだろう、と言われて、逆に「憐れみからじゃ嫌だ」と叫びます。
Balstrode
Man – go and ask her
Without your booty.
She’ll have you now.
Peter
No – not for pity!...
このリブレット、私は文字通り猫またぎの名に恥じないくらいには読みこんだつもりですが、本当に良く出来た文学的価値の高いものだと思います。

④俗物たちの俗っぽい音楽と群衆の威圧感
バルストロードを除いて大勢の脇役は多かれ少なかれ、専ら好奇心からピーターを疑い、追い詰める俗物たち。彼らの歌に附けられた音楽は概ね諧謔的であったり通俗的であったりする。例えば冒頭の判事スワローのスケルツォ風の審問の場や、第3幕冒頭、スワローと二人の姪のフォックストロットなど。これが図らずも全体的な観点からは音楽が深刻になり過ぎるのを防ぎ、ピーターとエレンの悲劇を浮き立たせているとも言えます。
それとは別に名前も与えられていない村人、群衆の合唱がオペラでは極めて重要な役割をしています。その集団の性格は一言で言うなら付和雷同。彼らは無邪気にピーターを追い詰め、結果的に徒弟の事故死を招く結果となりますが、そのマッシヴな合唱の威圧感は凄まじく、特に第3幕第1場終盤の合唱はそれまでのジャズ風のフォックストロットと不気味な半音階進行が合わさって圧倒的威力を発揮し、聴いていて鳥肌が立つほど。その劇場的効果は目覚ましく、舞台を観たらどう思うのか、とても楽しみ。

またまた脱線ながら、登場人物の中に「二人の姪」というのが出てきて、セドリー夫人と並んで俗物代表とでもいうべき歌を二重唱で歌う。双子なのかどうかも判らない二人ですが、いつも寄り添って二人で歌う姿はどう見ても双子。双子といえばギリシャ・ローマの昔から神話には夥しい双子が登場して、神秘や超自然的世界を体現するのだが、こちらの双子は完全に神秘性が剥奪されている。にもかかわらず、なぜかこの二人が出てくるとざわざわと妙に落ち着かない。何と言えばいいか、イメージとしてはあのダイアン・アーバスの代表作の双子の姉妹の写真、というより、それを引用したキューブリックの映画「シャイニング」の双子の映像をいやでも思い出します。この姪たちの位置づけというのは正直よく判らないのですが、一抹の禍々しさを醸し出しているのは確か。

通俗的、と言うことに関してもう一点。第2幕第1場、ピーターが自分を責めるエレンに激昂し、平手打ちを喰らわせて歌う、So be it! – And God have mercy upon me!に附けられた音楽、これが続く村人たちの合唱、ピーターとエレンの痴話喧嘩かと喜びはしゃぎまくる下衆な群衆の歌の旋律にモディファイされますが、同じ旋律がその後の間奏曲Ⅳ「パッサカリア」の沈鬱な音楽となり、さらに第2幕の幕切れ、少年が事故死した後の張りつめた音楽の終結部となります。このあたりのブリテンの手腕は並々ならぬものがあって、本当に感服します。汲めども尽きぬ、とはこのこと。

以上、脱線だらけでさぞ読み難かったと思いますが、4つの切り口で「ピーター・グライムズ」の音楽を分析してみました。初演の1945年という時代を考えると、語法としては些か保守的に過ぎる感じもしますが、かといって判りやすい、とか、親しみやすい、という印象はそれ程ありません。むしろ、今回の駄文を書くにあたっては結構な回数繰り返して聴いて、ようやくここまでイメージを固めたようなところがあります。おそらく歴史に残る傑作というのは、そんなに容易く手の内に入るようなものではないと、改めて音楽の難しさと、それを乗り越えて核心に近附いていく楽しさを同時に味わいました。これから暫らく初台での公演の日まで、この音楽から遠ざかって何かが熟成するのを待とうと思います。

演奏について少しだけ。比較の対象も知らないのにこんなことを言ってはいけないが、本当にこれは唯一無二の演奏ではないでしょうか。歌手も脇役の一人一人に至るまで真実に満ち溢れた歌唱。本当はこんな陰惨なオペラ、あまり繰り返して聴きたくもないのだが、聴き始めるともう止めることができません。参りました。
(この項終り)
by nekomatalistener | 2012-09-25 23:12 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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