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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その4)

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シリーズ4回目は再びシューマンのディスクを取り上げます。

  CD11
  シューマン
    トッカータ ハ長調Op.7 [1952.12.録音]
    幻想小曲集 Op.12 [1955.10.録音]
    ノヴェレッテン Op.21 [1950.12.22以前の録音]

以前の投稿で、シューマンの初期ピアノ曲に見られる構成原理を「形式の頸木を強く求める傾向と、形式をはみ出してどこまでも飛翔するファンタジーの相克」と書きました。トッカータOp.7は、そのソナタ形式だけ見ればまさに前者の代表例と考えられるけれども、一方でピアノの技巧の追求(その実、それは記譜上の新奇なエクリチュールの追求でもあった)に託けたファンタジーの噴出でもある。その両者がせめぎ合っているのだと思います。演奏技巧の見せびらかしのように軽く思われがちですが、私はとても重要な作品だと考えているし、昔から大好きな曲の一つです。
最近のピアニスト事情はよく知らないのですが、youtubeでシューマンのトッカータを検索するとあるわあるわ、昔も今も爆演系ピアニストに大人気の演目なのですね。ホロヴィッツやリヒテルからポゴレリチにルガンスキー、古いのから新しい活きがいいのまで様々な演奏が楽しめますが、これという決定打がないという感じがします。作品そのものにメカニックの追求という要素があるのでつい早いテンポを設定してしまうピアニストが多いのですが、そうなると第2主題が殺伐としてしまうか、それを歌わせるために不自然にテンポが揺れるか、いずれにしても問題が残ります。その少し後に出てくる次の箇所の、右手の内声の連桁が窮屈そうに記されている部分、
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右手の内声がきれいに聞えて、かつ歌になっていなければ、と思います。メカニックの凄さという点ではポゴレリチが最右翼という感じがしましたが、この内声部はまるで砂を噛むみたい(それも奏者の狙いだと思うからこれは非難というのとは少し違う)。ルガンスキーの内声はすごくきれいに聞えるがちょっと表情に乏しい。ホロヴィッツはさすが。基本的には出来の良くないやりたい放題の演奏なのだが、ここの内声は(ことさら強調していないにも関らず)猫がすり寄ってくるみたいに聴き手の耳に媚びる。他にもいろいろ聴いたが体育会系弾き飛ばしか、そもそも弾けてないか、のどちらか。例えば冒頭から22小節目のオクターブの3和音で右手がガガガガと上昇するところ、アマチュアのピアノ弾きがまず絶望してしまう箇所ですが、プロと言われる人だって、わざとらしくテンポを落としたり、酷いのになると真ん中の音を抜かしていたり(こういうの許せない。フランソワ、お前だよ・・・w)、弾けていない人多いです。いやはや難曲です。

ナットの演奏はかなり遅めのテンポだが、このテンポだと第2主題が実に美しく、これぞシューマン、と言いたくなる。それに先程述べた内声部が本当に意義深く聞こえるのが素晴らしい。以前の投稿でナットの演奏に関して、テクニックに少し難があるように書いたので、コルトーやフランソワみたいな演奏を想像されているのなら全く違う。メカニックという点についても驚くほどよく弾けています。ナットのどの演奏にも感じられることですが、ミスタッチを恐れて音楽の流れがもたついたり不自然になったりすることが一切ない。だから、次のような大きな跳躍を伴う箇所、
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で左手のミスタッチが目出つということはあるが、それは弾けていない、というのとは全く違います。剛直でごまかしがなく、直球勝負。そのくせ、シューマンのあの、野辺に咲く花を思わせるような一種独特の歌も忘れられていない。いろいろと思い入れのある曲なのでこれを聴いても、やはりこの作品の決定打、とは思わなかったものの、なかなか優れた演奏だと思いました。

幻想小曲集Op.12をシューマンの最高傑作とする人はあまりいないと思いますが、それでもシューマンを特徴づけるファンタジーの飛翔を代表する作品ではあるでしょう。連作の体裁を採るシューマンの作品の中では比較的一曲一曲の独立性が高いと思われますが、全8曲の調性やテンポの配置、あるいは終曲のコーダが、第8曲目の、というよりは全曲の結びとしての位置づけとして置かれているように思われるところなど、やはり8曲通して弾かれるべきものだと思います。調性の配置ですが、変二長調-ヘ短調-変二長調-変二長調-ヘ短調-ハ長調-へ長調-へ長調、という並びは、ほの暗く夢見がちな前半から明朗で穏やかな目覚めへと大きなアーチを描くよう、周到に計算されたもののように思いますが、こんなところにもシューマンの形式希求性を感じます。

ナットの演奏は大変すぐれたもので、全体としてはいつもながらの剛直な演奏ですが、例えば第5曲「夜に」のへ長調の中間部Etwas langsamerが素晴らしくて胸を締め付けるような思いがしました。それは溢れ出る思いを身も世もなく吐き出すのではなく、抑えに抑えた感情がつい漏れ出てしまうような切なさに満ちています。無愛想で強面の男が子犬を可愛がるところを盗み見たような気分(笑)。

ノヴェレッテンOp.21は明らかに「クライスレリアーナ」や「フモレスケ」の系譜に連なる作品ですが、その病んでる度合いはシューマンの作品の中でも随一でしょう。私はこの作品をシューマンの中でも非常に重要な作品だと考えていますが、にもかかわらずそんなにしょっちゅう聴きたいとも思わないし、「フモレスケ」と違って世間の人気がないのを残念に思うこともない。いや、むしろ人気がないのは当然、というか、これが人気曲になるようでは世も末だと思う。
全体を支配するのは「多幸感」と「全能感」。それは明らかに病的な躁状態に由来するものと思われ、多かれ少なかれ他の多くのシューマンの作品にも感じられるものですが、この作品が異常なのは、それがほぼ45分にも亘って延々と続くこと。まず「多幸感」から言うと、全8曲の調性はへ長調-二長調-二長調-二長調-二長調-イ長調-ホ長調-嬰ヘ短調となっていて、ロマン派のピアノ連作集で二長調が4曲続くことなど稀でしょう。唯一の短調である終曲はすぐに狂騒的な二つのトリオが続き、長いコーダの末に二長調に終止します。しかも緩急については全8曲とも急で始まり、各曲とも中間部に緩やかな曲想は出てくるものの些かおざなり、全曲を聴いた感じは「交響的練習曲」や「ダヴィット同盟舞曲集」のフィナーレを延々と45分聴かされたようなものとなる。次に「全能感」ですが、これは主に2つの現われ方をしています。一つは豪壮で分厚い和音の多用。特に第5曲など、ほとんどラフマニノフばりの音の厚さ。もうひとつは強引な、あるいは無茶な転調。属調や下属調ではなく遠く離れた調への転調はロマン派の作曲家にとっては腕の見せ所でしょうが、ここにはこれみよがしに意外な調に着地する転調が随所に見られ、シューマンの躁的な昂りが感じられます。これを2ちゃん風に言うと「【転調注意】シューマンのドヤ顔がイタ杉ワロタwwww」。例えば第1曲の中間部の次の箇所。
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あるいは第6曲の次の箇所。
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だが部分部分の調性の配列については第6曲全体が無茶な転調の連続である。
しかし、それらにもましてこの作品の病的な傾向を強く感じさせるのは、終曲のコーダの次の箇所。
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ここには何か感情の決壊のようなものが現われていて、まるでさっきまで上機嫌でべらべらと喋りまくっていた人が急に号泣するのを目にするような感じがします。精神の破局。この部分があるので、いままで延々と聴いてきた多幸感も全能感も、一皮剥けばそこには深淵があるように思われて来ます。大体、この第8曲自体、形式的にも異常で、嬰ヘ短調の主部にトリオⅠ、主部の再現、トリオⅡと続くのでロンド形式かなと思いきや、突然Stimme aus der Ferne(遠くから聞こえる声)と記された部分、すとんと夢の中に落ち込んでしまったかのような感じで一旦終止してしまう。それから長大なコーダ、鬱がぶり返したようなロ短調に始まり、トリオⅡが一瞬再現して、全く別の上機嫌な二長調の主題、これが発展して狂騒の極みに先程譜例で挙げた破局が現われ、再び狂騒状態から二長調に戻って終止します。何と言ったらいいか、上機嫌ではあるが目が血走ってる人みたいで怖い。

ナットの演奏、これだけの長大な作品をよくぞ弾ききったという感じがするけれど、反面おそろしく疲労感を伴う演奏でもある。生真面目すぎると言ってもいい。録音の状態は余り良くなく、ナットの演奏もすこし荒んだところがあるが、作品の性格にはよく合っている感じがします。最後の譜例にあげた箇所のキレ方はちょっと空恐ろしいくらい。この作品、競合盤が殆どないので、これでもう少し録音が良くて精緻な演奏なら断トツの名盤となったところだ。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-08-01 18:09 | CD・DVD試聴記
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