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イーヴ・ナット Yves Nat Ses Enregistrements 1930-1956 (その2)

永久機関(「アンサイクロペディア」より)。
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イーヴ・ナットを聴くシリーズ。第2回目はシューマンを取り上げてみます。

  CD12
  シューマン
  幻想曲ハ長調Op.17 [1952.6.6以前の録音] 
  フモレスケ変ロ長調Op.20 [1955.10または11月の録音]
  交響的練習曲Op.13 [1953.1.28録音]

シューマンの1830年から1839年に掛けての、すなわち1840年にシューマンがクララと結婚して狂ったように膨大な歌曲を書きだす以前の作品、Op.1の「アベッグ変奏曲」からOp.32の「4つの小品」までずらっと並んだピアノ曲に見られるのは、形式の頸木を強く求める傾向と、形式をはみ出してどこまでも飛翔するファンタジーの相克であり、それはまるでシューマンが自分自身をなぞらえたオイゼビウスとフロレスタンのように互いに拮抗しながら、シューマンの分裂症気質を助長していったのは間違いない所でしょう。幻想曲と銘打ちながら、実質的には3楽章のソナタであるOp.17、形式と表題の間の分裂はその相克の現れの一つですが、個々の楽章は、極めて自由な楽想ながらソナタ形式が支配する第1楽章、単純なコーダ付三部形式の第2楽章、これぞ幻想曲、といった自由な第3楽章といったように、かなり意識的な配列が伺われます。そういった点からも、Op.17は(そのタイトルにも関らず)形式の頸木への強い欲求が勝った作品であり、その方向の作品の中では最高傑作のひとつだと思います。

ナットの演奏は殊更晩年の録音という訳でもなかろうに、技巧の面の瑕が多く最初はそれが気になりました。しかし何度か聴き込むうちに、耳が慣れてくる所為もあるが、ナットが表現しようとしたこと、ナットの頭の中に鳴っていたであろう理想像が(現実とは若干乖離があるとしても)ありありと分かって来るような気がしてきて、最初何度か聴いた時には思いもよらなかったような感銘を受けました。その理想像は、意外に近代的なところが20世紀初頭のロマンティックな巨匠たちとは一線を画し、またその燃焼度の高さ故ドイツ流のノイエ・ザッハリヒカイトとも異なるもののような気がします。「構築的」という言葉を使いたいところだが、私はこの言葉を(「深い精神性」といった言葉と同じく)出来ることなら使いたくないのです。一見もっともらしいこういった言葉を使った瞬間に、なにか分かったような気がして思考停止に陥るような気がするから・・・。しかし今回はとりあえず(面倒な定義は抜きで)構築的なシューマン、と言っておきたいと思う。おそらく70年代から80年代前半のポリーニはドイツものの作品を勉強するにあたってこのナットの演奏を聴いたはずです。この時期のポリーニの演奏に通じるものがある、と言えば、この「構築的」という言葉で私が言わんとするところが少し分かって頂けるでしょうか。

Op.17が形式希求傾向の極めて強い作品だとすれば、次の「フモレスケ」こそ、その半面のファンタジーの病的なまでの伸張というべき作品でしょう。私見ですが、こちらの傾向の作品群にこそシューマンの天才が最高度に発揮されており、私が愛して已まない作品たちということになります。こちらのカテゴリーの代表作はなんといっても「クライスレリアーナ」と「ダヴィッド同盟舞曲集」ということになるかと思いますが、どちらも溢れ出るファンタジーの暴走に歯止めを掛ける如く、連続して演奏される部分部分に番号が振られ、あたかも非連続な小品集といった趣になっていて、文字通り内的衝動と外的形式とが分裂しています(分裂というのは、これらの作品の任意の何曲目かを抜き出して弾くことが殆どナンセンスだということ)。一方、この「フモレスケ」ではついに連作の体裁は捨てられ、最初のうちこそ「クライスレリアーナ」風に三部形式なりロンド形式のまとまりのある部分が続くものの、後半は最早なんの形式原理もなく、次々とまるでうわごとのように異なった楽想があらわれては消えて行きます。最後の唐突な、殆ど何の脈絡もないまま現れるコーダに至っては、もうこれは狂気の音楽というべきではないでしょうか。狂気といえば、Hastigの部分、弾かれない内声Innere Stimmeが楽譜に書かれているところがよくシューマンの狂気の例証として挙げられるが、それどころではなくこの作品全体が精神病理学的産物だと言っても過言ではないでしょう。この「フモレスケ」、私の知る限り、シューマンの作品の中では知名度、人気、いずれも低いのがまったく理解できません。私は「フモレスケ」を、「クライスレリアーナ」や「ダヴィッド同盟舞曲集」とならんで、いやむしろそれ以上に愛しているので残念でなりません。

ナットの演奏は大変な名演だと思います。Op.17と比べると技巧の瑕も少ない(変ロ長調のIntermezzoの右手の急速なオクターヴの下降など、技術的には猛烈に困難な部分も含めてよく弾ききっている)。それよりも、ナットの構築性、対象の構造を抉りだし、形式の箍を嵌めずにはおられない性向と、作品自体の持つ、常に形式から逸脱していく力とが拮抗し、危ういバランスの上に類まれな美的構築物が生まれたように思われます。ほらね、「構築性」という言葉を使うと、こんな風に分かった風な文章になるでしょ(笑)。こんな言葉ではなく、演奏というのは音と時間による物理的現象なのだから、もう少しその現象を構成するパラメーターの選択基準あるいは偏向の具合に則して書くことが出来ればよいのですが・・・。少し思いつくことは、ナットの演奏は次々目まぐるしく現れる部分部分のテンポや表情の対比が絶妙なのだと思う。この対比が少なければ凡庸で体感時間が物凄く長い演奏(申し訳ないがアシュケナージの「フモレスケ」の録音がそうだったように思う)になるし、対比がきつければ、一瞬一瞬のイベントの生成に眼を瞠っている内に終わってしまって、体感時間は短いものの、なんだかよく分からない捉えどころのない演奏になります。そのどちらでもなく、的確な対比によって、この形式原理が壊れかけた作品の部分部分を弾き分けた時に初めて、この作品の形式ではなくその構造が顕わになり、同時に作品の真の魅力が現れるのでしょう。ナットの「フモレスケ」のどこがどう名演なのか、言葉にするのは難しいけれど、およそこんなところがカギだと思う。

「交響的練習曲」は、いうまでもなく「形式希求派」の作品。ここに収められているのは遺作を含まない短い版なので特にその傾向を強く感じますが、5つの遺作を含めて弾くと、途端にファンタジーの翼が拡がっていくような気がします。そういう意味で、この遺作抜きの版は物足りないところがあるものの、その分フィナーレの前に置かれた嬰ト短調の部分の魅力がクローズアップされてくるのが面白い。この部分は全曲の白眉であるに留まらず、シューマンの書いたあらゆる頁の中でも特にロマンティックなものだと思う。

ナットの演奏はこれまた立派なものです。左手の小さな奏者には特に終曲の10度の連続など苛酷すぎるところがあって、ナットの演奏もかなり怪しい音が鳴っているが、何度か聴くと瑣末な瑕と言う風に思われてきます。ただこの作品自体が、がちがちの形式の中に押し込められたものであるせいか、ナットならでは、といった部分があまり感じられないのも事実。その中ではやはり嬰ト短調のところが燃焼度が高く、素晴らしいと思いました。
(この項続く)
by nekomatalistener | 2012-07-20 01:15 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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