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ストラヴィンスキー自作自演集WORKS OF STRAVINSKY (その18)

さすがにケンタ食い放題(45分1200円)でモト取る気はないなぁ。




久しぶりのストラヴィンスキー自作自演集の感想シリーズ、CD18枚目は”Oratorio-Melodrama Vol.1”と題されています。

オペラ=オラトリオ「エディプス王」(1926~27/1927.5.30演奏会形式初演/1948改訂) [1961.1.20録音]
  エディプス: ジョージ・シャーリー(T)
  ヨカスタ: シャーリー・ヴァーレット(Ms)
  クレオン: ドナルド・グラム(Bs)
  ティレシアス: チェスター・ワトソン(Bs)
  伝令: ジョン・リアドン(Bs)
  羊飼: ローレン・ドリスコル(T)
  語り手: ジョン・ウェストブルック
  作曲者指揮ワシントン・オペラ・ソサエティ管弦楽団&合唱団

音楽劇「洪水」(1961~62/1962TV初演) [1962.3.28-31録音]
  語り手: ローレンス・ハーヴェイ
  ノア: セバスチャン・カボット
  ノアの妻: エルザ・ランチェスター
  神の声: ジョン・リアドン&ロバート・オリヴァー(Bs)
  ルシファー: リチャード・ロビンソン(T)
  呼びかける声: ポール・トリップ
  作曲者監修の下にロバート・クラフト指揮コロンビア交響楽団、グレッグ・スミス・シンガーズ

私にとって「エディプス王」と言えば何といっても1992年のサイトウ・キネン・フェスティヴァル松本におけるオペラ仕立ての公演。といっても生の舞台を観たのではないがBSで放送されたのが強烈に印象に残っているという訳。小澤征爾の指揮もジュリー・テイモワの演出も素晴らしく、ジェシー・ノーマンのヨカスタはこれ以上の歌唱があり得るとは思えないほど。冒頭の白石加代子の語りからしておどろおどろしく、暗黒舞踏のような演出が重厚なギリシャ悲劇の世界を描き出す。これは恐らく作品の本来の姿以上のものを現出させることが出来た、類稀な名演だと思います。
これを念頭に置いて自作自演盤を聴くと、最初は薄くて乾いたオーケストラの音響にちょっと拍子抜けしそうになります。ところがよくよく聴くと、この地中海的というか、明るいといってもよい音響によって人類の根源的悲劇が語られるのが何とも恐るべき効果をもたらしているように思う。ストラヴィンスキーの頭の中にある、本来の音(理想像)が見事に現実のものとなっていると思うのですが、その理想像とは1920年代のパリで、コクトーやクローデル達と、いわゆる6人組の連中のコラボが目指していた新しい芸術、すなわちサティの「ソクラテス」や「パラード」の世界から出発し、オネゲルの「アンティゴーヌ」やミヨーの「クリストフ・コロンブ」といった舞台作品に結実した芸術的潮流と関連があると見るべきでしょう。この辺りの音楽については私はあまり詳しくないので、これから色々と音源を集めたいと思っています。それにしても先ほど述べたような潮流を何と呼べばいいのか、新古典主義というのでは不十分、私が知らないだけかもしれませんが、適当な言葉がないですね。
この自作自演盤、歌手はやはりシャーリー・ヴァーレットのヨカスタが大変優れています。アリアの凛とした佇まいに時折狂気が閃くのが怖い。伝令のジョン・リアドンも素晴らしい。彼は先日紹介した「レイクス・プログレス」でニックを歌っていた歌手。突き刺すようなトランペットのファンファーレに続いて伝令がヨカスタの縊死を告げる場面は、まさに根源的悲劇と呼ぶに相応しく、アルカイックで格調の高い音楽に心が揺さぶられる思いがします。その他、エディプス役が少し弱い感じがしなくもないが、クレオン、ティレシアス等いずれも過不足ない歌唱だと思います。
この乾燥した響きとアルカイックな旋律によって生み出される表出力の強さというのは只事ではないのですが、どこかしら聴き手を選ぶというか、聴き手を突き放すような傾向があるのは否定できないと思います。脱線めきますが、これを聴いていて思い出したのが、(またかと言われそうですが)ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の1967年公開の映画「アポロンの地獄」(原題は”EDIPO RE”、すなわちエディプス王)。いや、題材が一緒だから、というのもあるけれど、からからに乾燥したギリシャの風景とか、一見舌足らずなほど簡潔な台詞、暗い情念のようなものを注意深く取り除いた表現、しかもなお立ちのぼる悲劇的なる何物か、こんなところが両者を結び合わせるような気がするのです。「アポロンの地獄」と「エディプス王」。ソポクレスの悲劇による、20世紀が生んだ偉大な2つの芸術作品。

「洪水」はストラヴィンスキーが珍しくテレビのために書いた作品。そのときの録画は残っていないようですが、ジョージ・バランシンの振り付けによるバレエが附いていたそうです。実にテレビ的というか、オペラでもオラトリオでもない不思議な作品ですが、結果としては単発の試みに終わった孤立的な作品という感じがします。このシリーズで何度か引用してきたJoseph N. Strausの”Stravinsky's Late Music”でもかなりの頁を割いて、この作品で用いられている音列操作の分析が挙げられていますが、より簡単にアクセスできる資料として、次のサイトを紹介しておきます。
http://home.earthlink.net/~akuster/music/stravinsky/objects/04-flood.htm
大変興味深い(人によっては大変辛気臭い・・・)論文ですが、実際に「洪水」を耳で聴いて感じるある種の平易さ、親しみ易さの原因としては、音列の操作の結果というよりは冒頭のヴァイオリンのトレモロによる5度の音形だとか、合唱によるTe Deumの、cis-disの繰返しが醸し出す一種の擬調性感によるところが大きいのではないかと思います。因みにこの合唱は基本音列(cis-h-c-fis-es-f-e-d-b-a-g-as)の反行形(cis-es-d-as-h-a-b-c-e-f-g-fis)の最初の6音から出来ていますが、cis-disが何度か繰り返された後の-d-gis-h-aの音形が、前半で生み出された調性感を歪める結果となっています。この図式は以前に取り上げた「兵士の物語」の冒頭4小節の分析(2011.10.27投稿)、仮にpseudo-tonalと述べたあの旋律と同様の構造ですね。こんなところに聴き易さ(というのが言い過ぎなら既聴感と言ってもいい)の一端が現れているのだと思います。
ストラヴィンスキー晩年の十二音技法による作曲手法、それは単純にシェーンベルクやウェーベルンから学んだというのではなくて、あくまでもストラヴィンスキーの眼鏡にかなった、彼自身のフィルターをくぐり抜けたものというべきであって、その導き手として彼が私淑し、採用したものはおそらくエルンスト・クシェネック、あるいはミルトン・バビットらのスタイルだと思われます。実際には当時の最先端の音楽というのはウェーベルンの後継と目されるような人達、ダルムシュタットでデビューしたような人達、ブーレーズやノーノもそうでしょうが、彼らこそが新しい音楽の旗手だったわけで、ストラヴィンスキーにしてもクシェネックにしても前衛の本流からは少し離れたところにいたのではと想像します。ただしこれは私の耳学問であって、私自身が彼ら(クシェネックやバビット)の作品を殆ど知らないので断言は出来ません。まだまだ自分自身の経験の裾野を拡げて行かねば、と痛感します。
お話は聖書のアダムとイヴの話からノアの方舟の話に至る自由な、というか他愛ないテキスト。晩年になって宗教的な作品が目立って多くなるストラヴィンスキーですが、この「洪水」をもって彼の信仰の拠って立つ所を云々するのは無理という他ない。聖書に題材を借りたテレビ向けエンタテインメント、というのが実態に近いような気がします。しかし音楽の方は本気も本気、特に洪水のスペクタクルな描写はなかなかのもの。
先程のサイトの音列分析は読むのにかなり骨が折れるが、登場人物毎に割り当てられた音列をトポロジカルに配列すると、そこに天上の世界と地の世界の位相が現れるというのはかなり魅力的な説であると思います。いや、そんなことは音楽の出来とか音楽的感動とは何の関係もないだろう、と憤激する向きもあろうかと思いますが、なに、バッハのスコアだってそんなトリヴィアだらけなのですよ。だからどうだ、と言うつもりもないが、ことさらむきになってこういったアナリーゼ、ひいてはその音楽自体を否定しようとする(世間によくある)言説には非常に幼稚な思考回路を感じます。いや、人様のことはとやかく言うまい。これはあくまでも私が猫またぎの名に懸けて一つの作品を味わいつくそうという過程の、その一端の紹介に過ぎない訳ですから。
by nekomatalistener | 2012-06-26 23:52 | CD・DVD試聴記 | Comments(0)
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