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プッチーニ 「西部の娘」 マゼール/ミラノ・スカラ座管弦楽団(その5)

拾いGIF。これ本物?
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これまで専ら音楽の素晴らしさについてのみ書いてきました。音源の演奏ですが、これはスカラ座の1991年のライブ録音で、私はCDを買うまで知らなかったけれど舞台を記録したDVDもあるとのこと。観客の興奮は凄まじく、2つあるジョンソンのアリアの終わりは絶妙のタイミングで熱狂的な拍手が入る。決して有名とは言えないこのオペラの、このアリアというにはいささか短すぎる絶唱にこの拍手、スカラ座の観客達のレベルの高さを伺うことができます。
そのジョンソンを歌っているドミンゴ、これはもう文句の附けようがない模範的歌唱。どちらかと言えばジョンソンという役柄はプッチーニのテノール役としては感情移入しにくい人物ではあるが、ここまで完璧に歌われるともうお話の出鱈目さなど問題になりません。但し問題がない訳ではない。第2幕の愛の二重唱がついにユニゾンになるところで9小節程カットされていて、そこでジョンソンの三点ハ(ハイC)が出てくる。ドミンゴはハイCを歌う自信が無かったのだろうか?もっとも音楽的にはこのカットによって失うものは殆どないという感じがします。
ランスを歌うホアン・ポンスも素晴らしい。前にも書いた通り、このランスという人物は愛を知らぬ不幸な半生を送り、実に陰影に富んだ人物。保安官のくせに、やることなすこと無茶苦茶なのだが、何と言うか、悪人役なのにどうしても憎むことが出来ない。ポンスはこういった性格的な役柄には打ってつけの歌手だと思います。
ミニーを歌うザンピエリもなかなか良い。大体このミニーという役、純粋無垢な聖母的側面と、鉄火肌の女としての側面の二つが無理やり一つの人物像に押し込められている感じがしなくもない。従ってこの矛盾する人物像を十全に歌うには大変な歌唱力、演技力が必要となる訳ですが、ザンピエリはリリコ・スピントからドラマティコまで振幅の大きな歌唱で大変説得力があります。
そして何よりマゼールの天才的な指揮。イタリア・オペラとマゼールというのがどうしても頭の中で結び付かない御仁もおられると思いますが、この人のアゴーギグはプッチーニの音楽に向いていると思います。私もついついヘンタイ呼ばわりしてしまうけれど、知的な造りとイタリア物ならではの臭みや過剰感が絶妙なバランスを保っていて、独特なアラルガンドには冷静さを保つことが出来ません。ライブなのでマイクがやや遠い感じがして、比較的新しい録音の割には物足りなく感じる所もありますが、全体の中ではごく小さな瑕だろうと思います。私は「西部の娘」については色んな録音を聴いた訳ではありませんが、これは理想的な演奏と言っても良いのではないでしょうか。
それにしてもこの作品、ブログを書く為に随分繰り返して聴き込みましたが、何度聴いても飽きるということがない。私は、オペラは音楽が全てであってお話などどうでもよい、という立場は採りませんので、このあまりに御都合主義なストーリーの所為で「傑作」と呼ぶのには躊躇してしまうのですが、本当に一級品の音楽だと思いました。

以下は蛇足ですが、以前紹介した玉崎紀子氏の論文にはオペラの元ネタのベラスコの戯曲や、その後作られたミュージカル映画との比較など大変興味深い内容が書かれています。前にこの音楽を「ミュージカル風」と書いたけれど、1910年のアメリカ初演当時の彼の地の音楽はどんなものだったのか、大層興味をそそられます。特にミュージカルの世界はいつかどっぷりと浸かってみたいと思いながら果たせないままです。
ブロードウェイ・ミュージカルの誕生と発展を歴史的に俯瞰するというのは意外と困難なようです。そんなに昔の事でもなかろうに、クラシックとポピュラー音楽のクロスオーバーする領域で、そのどちらにも通暁している著者による体系的な記述は、少なくともネット世界の情報を渉猟しただけではまず見当たらない。
wikiのミュージカル史に少し付け加えるなら、まずこの基になった1つ目の要素はミンストレル・ショー、ヴォードヴィル、レヴュー、バーレスクといった様々な名称によって呼ばれる笑劇。何となく音楽劇というよりは「横山ホットブラザース」みたいなお笑いのイメージを持ってしまいますが、かのスティーヴン・フォスター(1826-64)などもミンストレルの為に沢山の歌を書いたらしい。
2つ目の要素は世紀の替わり目頃にアメリカに移住したヨーロッパの、それもなぜか辺境の音楽家達の影響。例えばヴィクター・ハーバート(1859-1924)。ダブリン出身、1892年よりアメリカで活動、オペレッタから初期のミュージカルの創設へ貢献したと言います。ルドルフ・フリムル(1879-1972)。プラハ出身、あの「蒲田行進曲」はオペレッタ「放浪の王者」の中の「放浪者の歌」の翻案。1906年にアメリカに移住、初期のミュージカルの創設に与った。あるいは、シグマンド・ロンバーグ(1887-1951)。ハンガリー出身、1909年渡米、1920年代にオペレッタ、初期のミュージカルを作曲。この人達が創生期のミュージカルの骨格を形作ったと言えそうです。
3つ目の源流は何と言ってもジャズの要素。ご存知ジョージ・ガーシュウィン(1898-1937)。ユダヤ系ロシア移民の子、その作品リストには驚くことに1916年から1936年にかけて、50作ものミュージカルと称する作品が並んでいます。歌入りの芝居、くらいのイメージなのかなと思いますが、何せ聴いた事がないので何とも言いようがありませんが、ひょっとするとこれは宝の山かも知れないという予感がします・・・・。他には「キス・ミー・ケイト」のコール・ポーター(1891-1964)や「二人でお茶を」のヴィンセント・ユーマンス(1898-1946)らによってジャズやブルースの要素がもたらされたとのこと。
4つ目の要素はヨーロッパで、またアメリカでも大流行したオペレッタ。オペレッタといえば何といってもレハール。ナチスと上手く折り合いをつけられたレハールはヨーロッパに留まったが、その作品はアメリカでも知られていました。だが、ミュージカルの関係で行けば影響が大きそうなのは「チャルダーシュの女王」のエメリヒ・カールマン(1882-1953、1942アメリカに帰化)、ユダヤ系ハンガリー人。アメリカ時代の作品はよほどの好事家にしか知られていないであろう。
5つ目は1930年代後半にナチスやムッソリーニ政権を逃れてアメリカに亡命したユダヤ人作曲家達の筋金入りのクラシカルな音楽。エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957)、モラヴィア生まれのユダヤ人、1938年亡命。マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968)、ユダヤ系イタリア人、1939年亡命。この2人はミュージカルこそ書かなかったが映画音楽で大きな影響をもたらしたのではないか。あるいはクルト・ワイル(1900-1950)、デッサウ生まれのユダヤ人。1935年アメリカ亡命後に多くのミュージカルを書いたと言いますが、これらの人々の影響は大きいだろう。「西部の娘」は彼らの亡命より30年近くも前にヨーロッパからもたらされた最新のクラシカルな音楽、ということだったのでしょうが、上の記述から考えると初演の1910年当時はオペレッタとは明らかに異なるミュージカルというジャンルはまだ確立されていなかったと言えそうです。それを思うと、この「まるでミュージカルみたいな」オペラが当時如何に斬新なものであったか想像に難くありません。また、このオペラの影響というものが後のミュージカルに何らかの形でもたらされたことも、その後何度も舞台にかけられ、映画化もされていたということから明らかであると思います。
最後にロンドン発のコミカルな舞台音楽の影響があるようですが、これは調べてもよく判りませんでした。お詳しい方のご教示をお願いします。
これらの先人達の築いた土台がまずあって、その後オスカー・ハマースタイン2世(1895-1960)というユダヤ系アメリカ人の作詞家によってミュージカルは映画と手を携えながら完成の域に達します。「ショー・ボート」1927、「オクラホマ」1943、「南太平洋」1949、「王様と私」1951、「サウンド・オブ・ミュージック」1958etc、これらの作品の内一つも聞いたことがないという人は多分いないのではないか。音楽を書いたのはリチャード・ロジャース(1902-1979)というユダヤ系アメリカ人(オクラホマ、南太平洋、王様と私、サウンド・オブ・ミュージック)やジェローム・カーン(1885-1945)というドイツ系ユダヤ人。彼の「ショー・ボート」1927を以って最初のアメリカのミュージカルの確立とする意見があるようです。
以上は私の見解ではなくて、これから少しずつ観たり聞いたりするにあたっての、聞きかじりによる備忘のようなものです。音源の入手がけっこう大変そうですが・・・。またいつか当ブログで紹介する機会があるかも知れません。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-04-19 00:00 | CD・DVD試聴記
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