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新国立劇場オペラ研修所公演 「スペインの時」&「フィレンツェの悲劇」

先日の大分合同新聞ネタで遊ぶサイトから。よくみんなこれだけ遊ぶなぁ、と感心。
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日曜日もまだ公演が残っているので、ネタばれ注意でお願いしますね。
新国立劇場のオペラ研修所公演に行って参りました。この研修生を中心としたシリーズ、珍しい曲目でしかも格安。私はいつだったか、プーランクの「カルメル派修道女の対話」を観に行って大変良かった。昨年はプッチーニの「外套」と「ジャンニ・スキッキ」の二本立てでしたがあの大震災で行けず、残念なことをしました。それにしてもこのシリーズ、いつも思うことはプロモーションが下手。もっとお客を呼ぶ方法はいくらでもあるだろう、と思いますが、新国立劇場のHP見てもあまり目立たないし。今後の公演に際しての一考をお願いしたいと思う。

2012年3月9日 @新国立劇場中劇場
ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」
   グイド: 伊藤達人
   シモーネ: 山田大智
   ビアンカ: 柴田紗貴子

ラヴェル 「スペインの時」
   コンセプシオン: 吉田和夏
   ゴンサルヴェ: 糸賀修平
   トルケマダ: 村上公太
   ラミーロ: 西村圭市
   ドン・イニーゴ: 後藤春馬

   指揮: 飯守泰次郎
   演出: 三浦安浩
   管弦楽: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

今回の公演に先立って予習しながら考えたことについては先日3回に亘って投稿しているので参照してほしい(2月22日・2月25日・3月3日)。
まずは「フィレンツェの悲劇」から。
私が聴きに行った9日は公演の初日。すこし緊張して音楽も堅くなるはずだが、飯守泰次郎の指揮が素晴らしく、ツェムリンスキーのゴブラン織りのような音楽が流れ出すと思わず陶然となってしまいます。もう70を超えているはずだけれど、甚だ失礼ながらこのご老体からこんなに官能的な音楽が溢れだすとは本当に驚きます。ドイツの歌劇場で長い間修行し、バイロイトの音楽助手も務めたとのこと、ツェムリンスキーの音楽に親和性があって当然なのでしょう。シモーネがグイドに、薔薇の刺繍の施されたダマスク織の生地を売りつける場面の文字通り大輪の花が咲いたように音楽が華やぐところ(ボーカルスコアの練習番号23)、グイドとの別れを惜しむビアンカの歌(同120)のあたり、本当に素晴らしい。でも、鳥肌が立つところまでは行かないのは、これはもう音楽そのものの持つ限界か。
歌手の中ではビアンカを歌った柴田紗貴子が良かったと思います。役柄の性格もあって、立ち姿の華はちょっと少ない感じもしましたが、先ほど挙げたグイドに語りかける歌など零れるような色気があって大変ようございました。グイド役のテノールは歌う分量が少なくて喉が暖まる前に高い音域を歌わなくてはならない難しい役だと思いますが、伊藤達人は大健闘だったのではないでしょうか。逆にシモーネ役は殆ど出ずっぱり、歌い通しで、技術的にも大変な役どころだと思うが、その割にあまり報われないというか、それこそ華の無い役柄なのですね。そのシモーネ役の山田大智には敢えて大きな拍手を送りたいと思う。歌いきるだけでも大変だと思うが、安定したテクニックと、品を失わない美しいバリトンで十分に酔わせていただきました。
演出ですが、正直なところ音楽が始まる前のお芝居の部分、何が起こっているのか、演出家が何を狙っているのか、どちらも私には良く判りませんでした。教会のような建物で登場人物がセックスするところなど、「難儀やなぁ」と思いながら見てました。いや、私は舞台上の性的な所作については、以前の新国立劇場の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などもっとあからさまでエロな演出でしたが違和感の無い納得のいくものでしたし、基本的には忌避すべき理由は何もないと思ってますが、今回のはちょっとね。数年前に二期会がこのオペラをやったときは物語全体をSMクラブの客の痴態に読み換えて大顰蹙を買ったそうですから、演出家の性的なファンタジーを引き出す作品なんでしょうが、オスカー・ワイルドの原作だからといって殊更露悪的な演出をするというのは違うような気がする。また、唐突にパルチザン風の連中が右手を真っすぐ斜め上に突き出すナチス式敬礼をしながら行進していったりするのも、権力とエロスとの相関を提示しようとする演出家の狙いは少なくとも私には不発であったとしか言いようが無い。同じことが幕切れの演出にも言えます。今回の公演では日替わりで異なった演出をするようですが、私の観た9日は最後にビアンカがピストルで自殺するというもの。まぁ、演出というのは演出家が原作やリブレット、そして音楽から読みとったことをそのまま形にすればいいのだから、私の解釈と違うからといって文句を附ける筋合いはないのだが、これではヴェリズモ・オペラになってしまって、ワイルドの原作の持つ、洗練と裏腹の晦渋さ、性的なファンタジーを芸術至上主義的な膨大な台詞に塗り込めたワイルドの狙いと魅力は失われてしまいます。もちろん、ツェムリンスキーの音楽のもつ、まるでクリムトのタペストリーのような豪奢な味わいともそぐわず、なんとも言えない違和感を残します。いずれにしても今回の演出は、性的な記号をばら撒いておけばスキャンダラスな舞台になるという安直な考え方や、音楽だけでなく歴史文学美術哲学、あらゆる人文科学に対する演出家の勉強不足が露呈しているような気がしました。

休憩を挟んで「スペインの時」。
こちらも飯守泰次郎の指揮が素晴らしい。ツェムリンスキーの官能とラヴェルのそれとの違いが鮮やかに示されています。とくにゴンサルヴェのモチーフであるハバネラが、異国情緒がむせかえるような表現。最後のヴォードヴィル風の五重唱もハバネラのリズムですが、自在なリズムが素晴らしくて胸が熱くなります(お馬鹿なお話なのに)。東京シティ・フィルのソリスティックな名人芸がいっぱいの演奏も楽しかった。ただ欲を言えば、ラミーロが時計に囲まれて歌う2か所ある幻想的な場面で、さっと空気が変わるようなオケの音色の変化が欲しいところ。ものすごく高望みですが。
歌手ではコンセプシオン役の吉田和夏が、このツンデレ系キャラにぴったりで、お色気も十分あって大変よろしい(笑)。ただしフランス語がイマイチで、ラミーロを寝室に誘う時のSans horloge・・・と上気して歌うエロい場面がちょっと台無し。でもこれも高望み。全体としてはとても良い。ゴンサルヴェ役の糸賀修平は声の明るさが素敵なテノール。ネモリーノなんか合ってそうで、これからの活躍が楽しみ。ラミーロの西村圭市は声良し芝居良しで華も実もある逸材ですね。もっともラヴェルの御好みはもう少しマッチョな男でしょうが(笑)。ドン・イニーゴの後藤春馬は西村に比べるとちょっと粗い所があって表現が練れていない感じ。尊大で慇懃無礼で、お茶目なボクを見て、というボケも痛いだけなんだが、それでも大人の諦念に一抹の色気を漂わせなければならない、という役どころはもっともっと歌い込まなければ、と思います。トルケマダ役の村上公太は出番が少なくて気の毒ですが、過不足なくいい感じ。
演出は、やはり音楽に先立つ小芝居は何がしたいのかよく判らなくて困惑しました。とにかくお馬鹿でエッチで楽しいお話なのだから余計なことしなくていいのに、と思います。音楽が始まってからは、いくつか面白いこともやってましたよ。ラミーロが巨大な時計を斜めに持ち上げるとまるでビアズレーの猥画じゃないが、自らの巨大なペニスを抱え上げるような格好になる。するとあろうことかコンセプシオンは椅子の上に膝をついて後ろ向きにお尻を突き出す格好をしたり、時計の先っぽの文字盤を撫でさすったり・・・どんだけの観客が気付いたか知らないが随分とエロチックな演出で、しかもあからさまではあるが悪趣味ではなくて、こういうのは悪くない。但し、ラミーロの発情ぶりを強調しすぎるのがちょっと違うんじゃないのか、と思う。ラミーロはもちろん寝室での性豪ぶりはコンセプシオンもぐったりしちゃうほどなんだが(まぁお下劣!)、普段の彼は「気は優しくて力持ち」を絵に描いたような人畜無害な男。演出家にはこの「ギャップ萌え」が判らないようだ。コンセプシオンのスカーフかなんかをスーハーしたりしたら唯の変態じゃん、とその演出のはずれっぷりにがっかり。でもまぁ楽しかったからいいけど。

それにしてもラヴェルの音楽は素晴らしい。珍しいことに、次の5月に今度は二期会が「スペインの時」を取り上げるとのこと(同じラヴェルの「子供と魔法」との組合せ)。こちらも行くことにしました。
by nekomatalistener | 2012-03-11 00:28 | 演奏会レビュー | Comments(0)
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