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ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」 コンロン指揮ケルン・ギュルツェニッヒPO

2ちゃんまとめサイトで見つけたもこみち(MOCO'Sキッチン)ネタ。
 ・弁当のおかずのリクエストに、まさかのパンプキンスープ
 ・大人数でワイワイ食べられる物のリクエストに、一人鍋すき焼きうどん
 ・余ったお餅で変わった料理のリクエストに、揚げた餅に砂糖醤油かけるだけ
 ・シャキシャキした山芋料理を作ると言い、食後の感想がホックホク
 ・斬新なチキンライスを作ると言い、チキンの照り焼きを白ご飯の上にそのままドーン!
 ・牡蠣の苦手な旦那でも食べられる物と言われ、がっつり牡蠣の土手鍋
 ・白菜が安く買えたから何かいいレシピと言われ、高級食材干し貝柱などを惜しげもなく使う中華





オペラ観劇予習シリーズ(笑)。今回は御存じツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」(誰も知らないって)。
こういった一幕物の短いオペラの公演の場合、何と組み合わせるか、というのが主催者のセンスを問われるところ。今月の新国立劇場オペラ研修所公演では、ラヴェルの「スペインの時」との組合せということですが、どういった目論見が隠れているのか、そんなことも考えながら音源を聴いてみます。

  「フィレンツェの悲劇」Op.16
    グイド・バルディ: デイヴィッド・キューブラー
    シモーネ: ドニー・レイ・アルバート
    ビアンカ: デボラ・ヴォイト
    ジェームズ・コンロン指揮ケルン・ギュルツェニッヒ・フィルハーモニー管弦楽団
    1997.3.16-18録音
    CD:EMI7243 5 56472 21

この作品、私も聴くのは初めて。ツェムリンスキーと言えば大昔に「叙情交響曲」や「人魚姫」という長大な交響詩(確かリッカルド・シャイーの指揮だったと思う)をレコードで聴いたが、その時は面白さが判らずそれっきりになっていました。ツェムリンスキーを真面目に聴くのはほぼ30年ぶりじゃないですかね。
この音楽の特色を一言でいうなら「過剰」。典型的なユーゲントシュティルの人だと思いますがとにかく音がぎっしりびっしりという感じ。その過剰さは、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」やR.シュトラウスのオペラの幾つかに似ていながらも、それぞれ少しずつ違う。和声の複雑さはむしろ「ばらの騎士」以降のR.シュトラウスを凌ぐ位だけれど、対位法的に処理された唐草模様みたいな旋律の息の長さ、という点では二人に比べて少し小振り感が漂う。フランツ・シュレーカーと同じく、マーラーとシェーンベルクを繋ぐ、歴史的には非常に重要な人で、このオペラが初演された1917年と言えばマーラーは既に亡く、R.シュトラウスは「ナクソスのアリアドネ」を書いたばかり、シェーンベルクは十二音技法の確立には未だ至らず試行錯誤していた頃。このオペラへのR.シュトラウスからの影響は顕著ですが、その影響は一方的なものではなく、「フィレンツェの悲劇」の少し後に初演されたR.シュトラウスの「影のない女」などには逆にツェムリンスキーからの影響が流れ込んでいる感じもします。

原作はオスカー・ワイルドの未完の戯曲。邦訳は『フロレンスの悲劇』というタイトルです。ワイルドと言えば、R.シュトラウスの「サロメ」が真っ先に思い出されますが、当然ツェムリンスキーの頭の中にもそれがあったと思われます。すなわち、ツェムリンスキーはオペラの題材として、
 ①原作自体が短く凝縮されていて、オペラ化に際してあまり削除や圧縮をしなくても良いこと、
 ②それでいて登場人物の台詞は過剰なまでに装飾的かつ耽美的であること、
 ③異常な性愛が題材となっていること、
このような要件を満たす題材をさがしもとめていたと思われます。その点、①については、このオペラの原作の戯曲は登場人物わずか3人、未完ということを措いても、とにかく短い。②は、と言えば、特に主人公の商人シモーネの台詞が圧倒的な過剰さ。リブレットは若干のカットがありますが、原作はこんな調子(シモーネがグイドに高価な衣装を売りつける場面)。
「ヴェニスの者が仕立てました、見事な盛装でございます。切り込んだピロード地には、柘榴の模様が、その柘榴の実一つ一つには真珠があてられ、襟にも全て真珠が縫い込められております。おびただしい真珠の数は、夏の夜の往来に群がる蛾さながら、それはまた、気狂いどもが、牢獄の窓から眺める、あの夜明けの月よりも更に白いと申せましょう。留め金の雄々しいルビーは、火のように赤く燃えております、ローマ教皇といえども、これ程の宝石はお持ちではありますまい、インド諸国にすら、これに似た宝石は見つからない。そのブローチひとつとってみても、比類なき不思議な芸術品、巨匠チェリーニすらも、ロレンゾー公爵を喜ばせるのに、これ以上見事な品は作らなかった。王子様、これこそ王子様の御召しもの、これ以上価値あるものは、この町にはございますまい(後略)」(島川聖一郎訳)。
こういった過剰な修飾が繰り返されるのは、「サロメ」でヨカナーンの髪の毛や唇を愛でるサロメの台詞、あるいはヘロデがサロメを翻心させるために、自分が所有する宝石や孔雀の素晴らしさを次々と述べるところと実に良く似ていますが、この唯美主義的な装飾の過剰さが正に作曲家を惹きつけたところでしょう。ちなみにどうでも良いことですが、グイドがシモーネに言う台詞「穢れを知らぬ、彼女の耳に、お前の下卑た音楽は、まことにふさわしくない。」がカットされているのは御愛嬌(豆知識w)。
③については、「サロメ」ほど病的でも退廃的でもありませんが、妻ビアンカとフィレンツェの富豪の王子グイドとの浮気に苦しむ商人シモーネが王子を殺害するというストーリーは、当時はこれでも十分スキャンダラスだったのかも知れません。ただし、この戯曲をリアリズムの観点から見てはいけない。商人が王子を殺した後、更には妻をも殺そうとするが、妻は「何故、あなたは言って下さらなかったの、こんなにも、あなたがお強い人だということを。」と言って夫である商人に縋りつき、キスをして幕。演劇にリアリズムを求めようとするとあまりの唐突さに呆然としてしまいますので、これは寓意劇として観なければなりません。商人は既に若くはなく、富も権力も持たないが腕力だけはある。王子は有り余るほどの富と権力、そして若さを所有しているが、腕力では商人に負けてしまう。なるほど、「スペインの時」との二本立て、ということは、騾馬曳きラミーロと商人シモーネが腕力の象徴という点で一致し、学生ゴンサルヴェ(若さ)と銀行家ドン・イニーゴ(権力)が王子(その両方)と照応しているということか。で、最後はどちらも腕っ節の強いほうが(性愛においては)勝利を得る、ということ?これでは身も蓋もない感じがしますね。まぁあまり図式的に考えるのではなく、二つの作品を舞台で観ることでどのような共通点と相違点が浮かび上がって来るか楽しみにしましょう。

このCDのキャストは、珍しいオペラの音源としては必要かつ十分な演奏ですが、シモーネ役のドニー・レイ・アルバートはやや一本調子で抑揚に乏しいのが物足りない。妻ビアンカ役のデボラ・ヴォイトはかつて太り過ぎで舞台を降ろされた経歴の持ち主。デボラ、愛称デブ(嘘)。で、ダイエットが祟った訳でもあるまいが、ちょっとギスギスした歌唱。王子グイド役のキューブラーはそつなく歌いました、というところ。J.コンロンの指揮は様式感のツボを押さえた非常に優れたものと思います。
今回久しぶりにツェムリンスキーを聴いた訳ですが、この先つぎつぎと聴いてみたいか、と言われると何とも微妙なところ。時代的には多少被っている超甘口のコルンゴルトなんかがすっかり復活している昨今なので、それよりはずっと苦味走ったツェムリンスキーを持ち上げたいという気持ちはあるんですが、積極的に踏み込むには何かが不足している感じ。例えば、ウニヴェルザール社のボーカルスコア(IMSLPでダウンロード可能)の練習番号116の手前から126aの手前までの部分、本来ならば最大の聴かせどころであるべきグイドとビアンカが愛を語り合う部分、蜜が滴るような豊麗な音楽なんだけれども感動には至らない。官能的というのとも少し違う。終幕の決闘の場の凄まじいばかりの音楽を聴くと、物凄くもったいない、と思ってしまう。こういった作品と比べると、R.シュトラウスとかシェーンベルク、あるいはベルクなんかは本当に凄い作曲家なんだと改めて実感します。才能の質が、優等生と天才くらい違う。
(この項終わり)
by nekomatalistener | 2012-03-03 18:00 | CD・DVD試聴記
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