前から顔面めがけてゴキブリが飛んできた時と、後ろから後頭部めがけてカマキリが飛んできた時はアドレナリンの出過ぎで死ぬかと思った。
CD9枚目は大変な力作3点。 3楽章の交響曲(1945/1946初演) [1961.2.1録音] コロンビア交響楽団 交響曲ハ調(1940/1940初演) [1962.12.2-3録音] CBC交響楽団 詩篇交響曲(1930/1930初演/1948改訂/1960初演) [1963.3.30録音] CBC交響楽団、Festival Singers of Tronto どうも、こう毎回ストラヴィンスキーの指揮を褒めちぎっていると、これはいわゆる贔屓の引き倒しという奴で、このCDの素晴らしさを世間に訴えたい余りに、ちょっと眼が曇っているのではないか、もう少し冷静に長所だけでなく欠点も指摘すべきではないかと少々不安になりました。では一度、一流どころの演奏との聴き比べをしてみようと思い、かなり時間を掛けてじっくりと他の演奏も聴いてみました。 「3楽章の交響曲」は1945年の作、凡人であればそろそろ老境に差し掛かる年代に作曲されたにも拘わらず、生気漲る入魂の作です。5年ほど前に書かれた「交響曲ハ調」の第4楽章、フガートの前に一瞬現れる動機の萌芽を発展させた第1楽章に始まり、急緩急の伝統的な楽章配置ながら、いつもながらのシニフィアンの連鎖といった様相(詳しく分析すればなんらかの形式に依っているのかも知れませんが)の音楽。「オルフェウス」や「アゴン」の紹介の際にも述べましたが、私はこういった作品を聴くとつい、70年代以降のサスペンス映画の音楽を連想します。現代的で、ある種実用的というのか、晦渋なところが一つもないのに洗練の極みを行くような作風は、これといった後継者もいない代わりに、現代のあらゆる音楽にその水脈が流れていることを感じさせます。因みにwikipediaには第二次世界大戦の映画を見てインスピレーションを得たなどと書いてありますが、あまり額面通りに受け取らない方がいいと思います。ストラヴィンスキーがそう言っていたとしても、それは自己韜晦の一種のような気がします。 聴き比べの対象はピエール・ブーレーズがベルリン・フィルを振った演奏(1996年2月録音)と、ミヒャエル・ギーレンが南西ドイツ放送交響楽団を振ったもの(2003.3.25-26録音)です。まずは各楽章の演奏時間を比べてみると、自作自演はそれぞれ9:27、5:59、6:00、ブーレーズは9:56、6:37、6:06、ギーレンは10:33、6:27、6:13となっています。第3楽章は余白の取り方の違いもあるのでほぼ誤差の範囲内だと思いますが、第1楽章はブーレーズは自作自演よりほぼ30秒長くギーレンは1分あまりも長い時間を掛けています。たかだか10分ほどの曲で1分の差は相当のものと思われます。第2楽章もブーレーズとギーレンは30秒乃至40秒近くも違います。実際に聴いてみると、自作自演盤は実に明快、颯爽としたテンポでドライなのに無味乾燥なところは一つもなく、時折ひんやりとした抒情が心に沁みる。金管や打楽器は幾分オンに録られていて、エッジの立った音像が何とも快感です。無調ではないものの近代以前の調性感とは全く異なる作風ですが、これなら多くの聴き手が抵抗感を感じず聴くことができるのではないか。それは一つには変リズムの扱いが完全に手の内に入っているため、下手をすればぎくしゃくしたものになりがちなフレーズが肉体の運動を感じさせる、人間の生理に則したものとなっている所為ではないかと思います。交響曲を書く、という気負いが幾分感じられるものの、基本的には彼が得意としたバレエ音楽とそんなに異なるものではなく、こういったアプローチは自作自演という以上にオーセンティックなものに思われます。ブーレーズは、演奏時間だけ見ると第1楽章は自作自演とギーレンの中間、第2楽章はギーレンより10秒ほど長いだけですが、聴いた感じは3種類の演奏の中で最も鈍重な感じがします。ブーレーズに関してよく言われる「分析的」という形容は、一つ間違うと音楽の推進力を弱める方向に向かうのではないか。「分析的な」音楽表現、というのもよく判りませんが、思うに横の流れについてはフレーズの一つ一つを矯めつ眇めつ、縦方向には響きの一つ一つに淫するような姿勢が確かに感じられます。ベルリン・フィルのメロウなサウンドと、金管や打楽器が心持オフに録られた録音が、鈍重感に拍車を掛けているように思いますが、当然録音のスタイルも含めて指揮者が最終的に責任を負うものでしょう。ブーレーズのストラヴィンスキーについては、様々な作品の録音を、学生時代から今に至るまで随分いろいろ聴いてきましたが、自作自演盤を聴いた後では、本当に世間で言われているほどストラヴィンスキーの音楽と親和性がある演奏スタイルなのかどうか、正直判らなくなっています。そういえば1995年の「ブーレーズ・フェスティヴァル」で来日した時だったと記憶していますが、サントリーホールで演った「春の祭典」も妙に垢抜けないものだったように思います(当時関西に住んでいた私は、無理やり東京での出張を作って聴きに行ったものです)。同じ演奏会で彼が振ったメシアンの「クロノクロミー」は言葉も出ないほどの鮮烈な演奏で、細部に至るまで鮮明に記憶していますが、休憩後の「春の祭典」はところどころ忘却の彼方に沈んでしまっています。こんなことも、自作自演を聴いてから改めて気付いたことの一つです。ギーレン盤の第1楽章は一番時間が長い割には鈍重さは感じません。自作自演がスポーツカーならこちらは大型トラック、演奏の重量感と演奏時間がマッチしているせいでしょう。エッジの効いた音像は自作自演に近いですが、時代が新しい分、分離がよくブラスと重ねられたピアノも抜けがよく聞こえてきます。但し第2楽章は幾分胃にもたれそうなところも・・・。変リズムの処理はぎくしゃく感を排除しない、いかにもドイツ現代音楽の作曲家と思わせるもので、これと比べると自作自演はいささかエンターテイメントに寄り過ぎているような感じがしてきます。換言すると、自作自演はそのままバレエ音楽として踊れそうなのに対して、ギーレン盤はあくまでも耳で聴くための音楽といったところ。結論というほどのものではないですが、やはりストラヴィンスキーの演奏は大したもの、耳の愉しみとして聴くならこれ以上の演奏は考えられないほどです。で、たまにちょっと神妙な顔をして「現代音楽」を聴きたくなる夜はギーレン盤を。ブーレーズ盤はかつて私にとってはスタンダードと言うべき存在でしたが、今はちょっと距離を置きたくなっています。 「交響曲ハ調」は楽章の構成だけ見ると緩いソナタ形式が伺える第1楽章、歌謡的な緩徐楽章(第2楽章)、アレグレットのスケルツォ(第3楽章)、ラルゴの序奏つきのアラ・ブレーヴェ(第4楽章)と極めて古典的。プロコフィエフの「古典交響曲」が念頭にあったのかも知れません。両端楽章は箍(たが)が外れたベートーヴェンといった趣ですが、ここに聴かれるのはベートーヴェンのパロディというよりは、ベートーヴェンに代表されるようないわゆる動機労作(Thematisch-motivische Arbeit)の手法そのものに対するパロディであると思います。しかも、「ヴァイオリン協奏曲」に出てくるシェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番のパロディを聴いた時に感じるかすかな悪意のようなものが、ここでも感じられます。もちろん基本的な構成原理は例のシニフィアンの連鎖構造に依っており、つくづくストラヴィンスキーという人はドイツ的、弁証法的構成原理とは折り合いの悪い人であると思います。そんな訳で、この作品は、確かに交響曲というタイトルに相応しい力作ではあるけれども、どこか手癖で書き進めているような部分もあり、評価が難しいところです。第4楽章の中盤のフガート、フーガを書くということは数百年来の伝統に繋がろうとすることですから気合いが入って当然ですが、この出だしの「気合い」のフレーズが後の「3楽章の交響曲」の萌芽となっているのが面白いと思います。かと思えば、この楽章の終盤は1920年の「管楽器のためのサンフォニー」の終わりの部分の回想になっていたり、と自己引用の網目も興味深いところ。因みにwikipediaによれば作曲当時アメリカへの移住、娘・妻・母を立て続けに亡くした云々とありますが、そういった背景を微塵も感じさせないのもストラヴィンスキーらしいと思います。 聴き比べはギーレン+南西ドイツ放送交響楽団との録音(2006.5.2-4)。楽章ごとの時間は自作自演が9:24、5:43、4:36、7:22なのに対して、10:42、7:45、5:15、7:38とかなり遅め。第2楽章は実に2分も違います。ドライな自作自演に対して重量級のギーレン。演奏の本質とテンポがぴったりと合致しているので、前者がせかせかしている訳でもなく、後者が殊更遅く感じられるということもありません。録音も、前者は各楽器を分離よくフィーチャーしているのに対して、後者はホールトーン豊かな響きを再現しています。特に第2楽章の木管のカンティレーナはとても美しい。概して自作自演盤はサービス精神というのかエンタメ性というのか、まるでディヴェルティメントを聴いているような気がするのに対して、ギーレン盤はいかにも現代の音楽と聞こえるところが面白く、この勝負どちらも名演ということで引き分け。 「詩篇交響曲」をこのブログを書くために何度も聴いて、改めてこの作品の偉大さ、真価というものを感じています。ストラヴィンスキーが一連の宗教的な作品を書くようになるのはもう少し後のことですので、1930年に委嘱によるとはいえ、どういった理由でこの作品を書いたのか私は知りません。またストラヴィンスキーという人がどの程度宗教というものに対して敬虔な人物であったかも判りません。しかし、ここに聴く、特に第2楽章の真摯な祈りは古今の宗教作品の中でも一際高く聳え立つ最高峰の一つであろうと思います。この楽章を聴きながら、未曾有の困難に満ちたこの一年を振り返り、この年末に偶々この作品をこうして聴くことになったのも故なきことではないような気がしています。 余談ですが、第2楽章のテキストは詩篇40の第1節から第3節、 Expectans expectavi Dominum, et intendit mihi. Et exaudivit preces meas; et eduxit me de lacu miseriae, et de luto fæcis. Et statuit super petram pedes meos: et direxit gressus meos. Et immisit in os meum canticum novum, carmen Deo nostro. Videbunt multi, videbunt et timebunt: et sperabunt in Domino. 我たへしのびてヱホバを俟望みたり ヱホバ我にむかひてわが號呼をききたまへり また我をほろびの阱(おとしあな)より泥のなかよりとりいだしてわが足を磐のうへにおき わが歩をかたくしたまへり ヱホバはあたらしき歌をわが口にいれたまへり此はわれらの神にささぐる讃美なり おほくの人はこれを見ておそれ かつヱホバによりたのまん をテキストとしていますが、wikipediaやいくつかのCDのブックレットに詩篇39の第2~4節と書いてあり、そういう版もあるのかどうか、御存じの方がおられましたらご教示願いたいと思います。こちらは「われ默して啞となり善言すらことばにいださず わが憂なほおこれり。わが心わがうちに熱し おもひつづくるほどに火もえぬればわれ舌をもていへらく。ヱホバよ願くはわが終とわが日の數のいくばくなるとを知しめたまへ わが無常をしらしめたまへ」という内容で、曲の雰囲気からすればこちらのほうが相応しいようにも思えます。因みに第1楽章は詩篇39第12-13節ですが、こちらを第38篇と書いてあるデータもあり、随分混乱しております。wikipediaを信用してはいけない、とは申しませんが、誰かが間違うと延々とそれが転記されていく、なんてことでなければ良いのですが。 聴き比べの対象はブーレーズのベルリン・フィル盤(合唱はベルリン放送合唱団、1996年2月録音)と、ギーレン&南西ドイツ放送交響楽団(合唱はケルン放送合唱団、2005.12.7-8録音)。曲が曲だけにいずれ劣らぬ気合いの入った演奏です。各章ごとの時間は、自作自演3:23、6:17、11:56、ブーレーズは3:12、6:08、10:50、ギーレン3:15、7:08、12:36となっており、第1楽章はほぼ誤差の範囲内ですが、2楽章はブーレーズが幾分早め、ギーレンはかなり遅め。第3楽章はブーレーズは自作自演より1分近く早く、ギーレンは相当遅いテンポとなっています。合唱団は自作自演盤はいかにも臨時編成といった名称の合唱団で、決して上手くはないですが、一種熱に浮かされたように高揚した、ただならぬ気配が感じられます。ストラヴィンスキーは各パートの入りに軽いアタックを付けさせているので、特に終楽章など音程が若干歪む箇所もあるけれど、ひたむきさは良く伝わってきます。そのために第2楽章は聴き手も冷静ではいられなくなるほど。今までこのシリーズで紹介してきた演奏は、本当に自作を客観的に捉え得る者のみに可能な、サービス精神に溢れた演奏が多かったのですが、この第2楽章(及び後日登場する幾つかの晩年の作品)については、ストラヴィンスキーのペシミズムのようなものが伺われます。もちろんそれは続く第3楽章の、安息とも諦念とも受け取れる静けさのなかに溶けていくのですが。ブーレーズはこれまた極限まで磨き上げたような美しさ、ベルリン・フィルもさることながら、ベルリン放送合唱団の巧さはさすがですが、これを自作自演盤と比べると巧さが必ずしも音楽的感動に直結しないところが音楽の難しいところです。音楽が爆発するところは十分に熱くもなるのですが、全体としては紗の向こう側で執り行われている儀式を眺めているようなもどかしさを感じます。ギーレンは例によって重量級の楷書の演奏、現代ものに強いケルン放送合唱団も巧いのですが、これも第2楽章は音楽的感動とは別の、特殊な編成やフーガによる書法への作曲家としての興味が先行している感なきにしもあらず。第3楽章は緩急の差が激しく、後半は少し胃にもたれる感じです。私はこの聴き比べで、自作自演必ずしも正解とは限らないよなぁ、と思いながら他の演奏を聴こうとした訳ですが、この自演盤「詩篇交響曲」の感動は圧倒的でした。残念ながら本作についてはブーレーズもギーレンも勝負にならないというか、上手い下手を超越した表現というものが確かに存在すると思い知りました。 (この項続く)
by nekomatalistener
| 2011-12-27 21:26
| CD・DVD試聴記
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